第14話 優しいひと
「……ご馳走さま。美味しかったよ」
「それは良かったです。お粗末さまでした」
遅めの昼食を終えた2人は、向かい合って食後のお茶を飲んでいた。
窓から午後の穏やかな光が差し込む。
アリーシャの青い髪紐が陽の光を受け、きらきらと輝く。
それをぼんやりと見ながら、セルフィエルは口を開いた。
「その髪紐って、お祖母さんの形見なんだよね?」
「はい」
「ご両親は?」
「父親は知りません。母はわたしを産んですぐに亡くなったので、唯一の肉親の祖母のもとに預けられたんです」
「お祖母さんは、どんな人だった?」
アリーシャは懐かしそうに目を伏せた。
「……優しくて、厳しい人でした。礼儀作法や言葉遣いに厳しくて……でも祖母のおかげで文字も計算もできるようになりましたし、こうして生活ができるので、とても感謝しています」
「…………亡くなった時は、悲しかったね」
「…………そうですね。でもあの時は……涙はあまり出なくて。しばらく受け入れられなくて、呆然としている間に慌ただしく新しい生活が始まって、その中で徐々に実感が湧いてきて、それからずっと今まできたので、結局……ちゃんと悲しむ機会を逃してしまいましたね」
寂しげに微笑むアリーシャを見つめながら、セルフィエルは無意識のうちに、ぽつんと呟いた。
「……いつか、きちんと泣けるといいね」
アリーシャは少し驚いたようにセルフィエルを見つめ、わずかに微笑んだ。
「……そうですね。…………セインさまは、優しい方ですね」
「え?」
突然の言葉に、セルフィエルは面食らう。
「会ったばかりの私のことを かばってくれたり、祖母のことで慰めてくれたり」
「いや……」
何だか居心地が悪くなり、ふいと顔をそむける。
「……そんなことないよ」
かばったことも、慰めの言葉も、本心からではない。全て復讐のための計算なのだから。
優しいという形容は、自分ともっとも遠いところにあるとセルフィエルは考えていた。
今だって、自分の勝手な感情のために、母の遺言に背こうとしている。
優しい人間というのは、兄のザフィエルのような者のことをいうのだと、セルフィエルはいつも思う。
常に自分のことは二の次に、国民を、臣下を、家族を優先するような男。
今回のような事態でさえ、自分の意見は言わず、黙ってセルフィエルの好きなようにさせてくれた。
王太后の遺言は、兄にとっても、大切な母の遺した言葉に違いないのに。
そんな兄が王位についた日から、セルフィエルは彼が心配だった。
兄に、王など務まるだろうか。辛い選択を迫られたとき、どちらも選べなくて潰されてしまったりしないだろうか。そうなる前に、俺は気が付いて支えてやることができるだろうか。
兄の味方は多くない。自分と、母と、あとはわずかな側近だけ。もし母に、自分に、何かあったら。誰が、兄の本音を、弱音を、受け止めて包んでやれるのだろう。
王などという職業は、父のような人間にこそふさわしいのに。
自分に絶対の自信を持ち、権力で他人をねじ伏せられる強さと情に流されずに何かを切り捨てることができる冷酷さを持つ、父のような人間にこそ。
だから5年前、ジャクリーンが嫁いできて、彼女の顔を一目見たとき、セルフィエルは心の底から安堵した。
……この人なら大丈夫だ。兄を任せられる。
そう無条件に思わせてくれるような、強くて優しい目をしていた。
そうしてその印象通り、ジャクリーンは不器用で優しい兄に惹かれ、兄もまたジャクリーンを愛し、2人の間に娘も生まれた。
これからはもう、心配はいらない。俺がいなくても、兄の傍にはジャクリーンがいる。
セルフィエルは、自分の役目が終わったのを実感した。
そしてそう自覚することは同時に、今まで目を背けてきた自分自身と向き合う時がきたことを意味した。
自分は、兄とは正反対の人間だった。
裏表が激しく、計算高く、我儘で。
他人を信用せず、利用することだけを考えて。
おそらくそれは死ぬまで、変わることはなくて。
しかし、それでもいいと思っていた。
すぐに人を信用する純粋で温かい兄が、そのままでいられるように。
そのためなら、ずっとこのままでよかった。
だけど、兄にはもうジャクリーンがいる。
自分はもう、必要ない。
そう気づいた時、押し寄せたのは孤独だった。
虚無感と、どうしようもない焦燥感。
それらを打ち消すように毎晩部下とともに夜の町に出た。
飲んで、騒いで、女を抱けば、この感情は薄れると思ったのに。
孤独感と虚脱感は、日ごとに強くなる一方で。
心が深く、深く闇に沈んでいく。
俺は一生、このままなのか。
誰も愛せず、誰にも愛されないままで。
誰も信じられないままで。
ずっと独りで、生きていくのか。
ずっと。…………ずっと。
「いいえ」
きっぱりとした声に、セルフィエルは はっと顔を上げた。
いつの間にか、アリーシャが真剣な顔で自分を見つめている。
暗い思考から一瞬で引き戻された。
そして慌てた。……まさか、声に出していた?
「ご自分でどう思われているかは知りませんが、少なくともわたしから見たセインさまは、とってもお優しい方ですよ」
セルフィエルはほっとした。どうやら違うらしい。
そんなセルフィエルの思いには気付かず、アリーシャは目線を合わせたままゆっくりと続けた。
「……わたし、お祖母さまのこと、大好きだったんです。死んでしまって……本当に悲しかったですけど、村の人たちの前では泣けませんでした。みんな、よそ者のわたしにとてもよくしてくれましたから……心配をかけたくなかったんです。だから誰にも話さず来ましたし、それで大丈夫だと思ってました。……でも今日、セインさまに聞いていただいて、慰めていただいたら、ずいぶん気持ちが楽になりました。ちょっと大袈裟かもしれませんが、……何だか救われたような気持ちになったんですよ。だから、自信を持ってください」
アリーシャは、太陽の光を身に受けながら優しく笑った。
その笑顔に、思わず見とれる。
全てを許して包み込むような、あたたかな微笑み。
「…………」
ふいに、胸が苦しくなる。
……なぜだか、涙が出そうになった。