第10話 相反する感情
朝登って来た道を、今度は下る。同じ道でも昼間の太陽の下なので、足を踏み外す心配もない。道幅が少し広くなってきたところで、セルフィエルはアリーシャの隣に並んだ。
「シカイノシシ、よく狩りに来るの?」
「そうですね、春の間は町の食堂のメインメニューになっていますよ。獰猛だけど脂がのっていて美味しいから人気があるんですね。だからよく頼まれます。いつもってわけではないんですが、春は繁殖期で比較的見つけやすいんです。普通は地面についた足跡を辿って探すんですけど……」
だいぶ下ってきたのだろう。遠くで正午を知らせる鐘の音が聞こえた。
アリーシャが苦笑する。
「駄目ですね、今日は。シカイノシシはここまで人里近く下りてくることは滅多にありません。今まで足跡を見つけられなかったということは、今日はこの辺りにはいないということで……」
と、突然表情をこわばらせ、地面の一点をじっと見つめた。呆然と呟く。
「まさか……」
緊張した表情を浮かべ、忙しなく周囲の気配を探り始める。アリーシャの纏う雰囲気が一変した。
「……?どうしたの?」
セルフィエルの問いに、早口で答える。
「シカイノシシです」
屈んで、地面を指差す。そこには薄らとイノシシの蹄のあとが見えた。
「こんなところまで下りてくることなんて普通はないんです。理由はわかりませんが……早く見つけないと、村人が遭遇したら大変です」
アリーシャは立ち上がると、切羽詰まった面持ちでセルフィエルを見た。
「セインさま、この道は一本道です。できるだけ急いで山を下りて、村の人たちに避難するように伝えていただけませんか?」
「アリーシャはどうするの?」
「わたしはなるべく早くシカイノシシを探し出して仕留めます。お願いします、本当に危険なんです。繁殖期のシカイノシシは、常に興奮状態にあります。人間を見つけたら、見境なく襲いかかるのです。それで毎年何人か命を落としています。お願いします、一刻を争うんです。村の人たちに、知らせてくれませんか?」
「わかった、わかったけど……一人で大丈夫なの?」
アリーシャはきょとんとして聞き返した。
「……わたしのことですか?」
「そう」
頷かれ、思わず微笑む。
「大丈夫ですよ、いつもやっていることですから。さ、行ってください」
「……わかった。気をつけてね」
セルフィエルは踵を返してアリーシャに背を向けると、小走りに道を下り始めた。走りながら考える。いくら慣れているといっても、わざわざアリーシャに依頼がくるほどだ。常人には捕獲できないほど危険なのだろう。
(…………)
アリーシャはもうシカイノシシを見つけただろうか。無事に仕留めることができただろうか。
脳裏に、さきほど間近で見た澄んだ鳶色の瞳が蘇る。
そのまま村に向かい続けるべきだとわかっていても、背後が気にかかる。
……村人に知らせた後、再び戻るべきだろうか。
そこまで考えてからふと我に返り、浮かんだ考えを打ち消す。
俺は何を考えている。彼女は父の仇だ。死んで喜びこそすれ、安否を気遣う理由はない。
(これは……あれだ、仇を討つ前に勝手に命を落とされては困るから)
だから、気になるのだ。胸のつかえに納得のいく理由を見つけられ、セルフィエルは安心する。
そうだ、万が一にも、今命を落とされては困る。まだ何も聞き出せていない。
走っている途中、何の気配も感じなかった。村はすぐそこだ。静かで、何かが起こったような騒ぎも聞こえない。
足を止める。下ってきた道を振り返る。
(今ここで、死なれるわけにはいかない)
殺すなら、自分の手で。
セルフィエルは自身に言い聞かせるように心の中で呟くと、もう一度、元来た道を戻り始めた。