第九話 命をつなぐ死
薄い雲が尾を引く晴れ空を、大柄の鳥が甲高い声を出しながら、高空を飛ぶ姿が見える。
大河沿いに歩いていく馬の蹄が定期的なリズムを刻んでいき、
そのリズムに乗るように三頭の一番前をいく馬からは、歌声が流れては後方へ過ぎていった。
三番目を行く馬からはリュートを弾く音、二番目からは笛の音が歌についていく。
馬の背に揺られてリュートを弾く黒髪の青年。
視線は左を流れる大河へとやりながら、右へと動かしていけば、
そこでは地面から生える草などを食べている最中の牛や馬の群れがいた。
群れの近くには武装した人間が幾人かおり、周囲に警戒した動きをとっている。
(この世界でも放牧だっけ、そいうことしてるんだな)
リュートをかき鳴らす手を上下させながら目線は牛たちに合わせるアルト。
そのまま進んでいると、こちらの音に気づいて手を振ってくる人物が数人。
馬に乗っている三人はそれぞれ手を振り返して進んで行く。
大河の水面には赤茶色した先端がとがった形の小舟が何隻か浮かんでいる。
そのうちの二隻は互いの間にある水面へ向かって網を投げ飛ばす。
船から腰を乗り出して水面を眺めていた人物は、少々時間が経過した頃、
互いの船に乗っている人物へ合図を送り網を引き上げて行く。
(こっちでは魚をとってる最中か。そういやお腹空いてきた)
船に乗っている釣り人や漁師たちもこちらの音に気づき手を振る。
手を振り返した左手はそのまま青年の腹に当てられ、
もうすぐ昼時か、との思いを得たころ前を進んでいた笛の音が止む。
● ● ●
小高い丘にて敷かれた布の上では思い思いに昼食を摂る三人。
橙髪の少女は黄色く細長い果物の皮をめくって中身にかぶりつき、
若草色髪の男と黒髪の青年は焼かれたばかりの塩をふった魚にかぶりついている。
一通り食べ終えた青年が口を開く。
「運が良かったなあ。漁師さんたちに魚わけてもらえるなんて」
「んぐんぐ、ほぉひぃんとだねー」
「……いまはめんどうだ」
言葉は少なくも魚が美味いのか男は勢いよく食べ続けており、二匹目に手が届いた。
はやいな、と言った青年の言葉も構わずに食べ続ける男。
「そんなに昨日食べた保存食が不味かったのか」
「たまたま、エオリアが食べたのが痛んでただけじゃなーい?」
「知らん。どうでもいい。いまは魚が美味い」
「朝飯も食べてないんだから、そりゃ美味いって」
苦笑しつつ、三匹目を食べ始めたエオリアを見るアルト。
セリアは近くへ寄ってきた小鳥たちに果物を小分けにして配り、
二匹目を手に取った青年は、厚い雲が流れる空を眺める。
革張りの出納を取り、蓋を開けて中身を男は飲み出したところで、
空を二筋の細長い雲が、小さく輝く物体を先頭に走っていく。
(……? 飛行機? なわけじゃないよな、なんだあれ)
アルトの視線と空を走る音に気づいた男と少女は同じ方向を見る。
「あれは……龍翼人だな」
「龍翼人ってあんな高く早く飛べるんだ」
「そだよーむかし背中に乗せてもらったけど楽しかったなー」
「……自分は腕に掴まれて怖い思いしかなかったぞ」
「はは。エオリアはそんなのばかりだな」
「セリアに振り回されてどれだけのことがあっただろうな……」
遠い眼をしだす男に、苦笑だけを送った青年は、もういちど空を見る。
「でも、あんなに早く空を飛べたら、気持ちいいだろうな」
いつかは空を飛んでみたい、そのことを一つの夢としてアルトは胸にしまった。
● ● ●
太陽は山の合間に半身を隠し、夕日が空を染め出す頃。
「ふむ、湖が見えてきたな」
若草色髪の男から聞こえた声に前を見れば、アルトの視界に眼の端から端まで埋まる湖。
そのまま蹄鉄の音は湖まで音を止めることなく進み、湖が目の前となったところで三人は馬から降りる。
「今日はここらで野営だねー」
「ああ、セリアはここで馬を見ていてくれ。アルト、薪をさがしにいくぞ」
頷いた青年は樹々がまばらにたつ湖そばへ男とともに歩み進んだ。
● ● ●
薪となった木が小さく爆ぜる音を出す焚火を前に座る青年。
空には満天の星空が詰めており、青年は湯気を出す杯を手に空を眺めていた。
青年が座る近くには、それぞれ毛布を被って寝ている少女と男。
耳に聞こえるのは遠くに流れる大河の音と、樹々からときおり聞こえる鳥の低い鳴き声。
「綺麗な星空……こんなに見えるんだな星って」
思い起こされるのは元の世界での星空。
(あっちだと星なんてあんまり見えなかったもんな)
胸に覚えた感動をしまいこみながら、かつての夜空を思う。
そうだ、と何かに気づいた風に青年は口にして、馬に吊るしてある革袋をあさる。
取り出して手に持つのは黒色のインク壷と灰色の羽根ペン、そして日記帳。
焚火の前へともどり、地面へとインク壷を置いて書き始める。
「あっちとは星の位置が違うだろうけど……」
そう言いながら青年は日記帳の頁へところどころ点を描き、線でつないでいく。
自身の記憶にある星座をたぐりよせつつ日記帳へと書いていく。
ときに星空を見上げ、ときに日記帳へ頭を下げ、手を進めていき、
手元の頁には幾つもの動物や人の姿が点と線で描かれ、下には名前が書かれる。
「思い出せるのはこれぐらいかな」
手が止まったところでつぶやく青年。
点を星と見立てて描かれた星座はいくつものの数となっていた。
「あとはここ数日のことも書いておくか」
手負いの凶獣に遭遇して全力で逃げ出したこと。
結局、エオリアの強い要望で怖々と退治しに向かったこと。
神殿に務める騎士には安息を守る義務があると知ったこと。
セリアの持っていた保存食を食べてエオアリが即刻吐き出したこと。
そのことを警戒して翌日の朝食を抜いてエオリアが我慢していたこと。
空を飛び交う龍翼人は街や村の郵便や配達を担っていること。
練習したおかげでリュートの新しい楽曲が何曲か覚えられたこと。
思わず歌わされそうになって無理矢理ことわったこと。
セリアに煽られてエオリアと馬で勝負したこと。
何行も書き進めていく手。その手をふいに止めて、
青年は止めた手をじっと見つめる。
「精霊……やっぱ感じとれないな」
日記帳を閉じ、羽根ペンからインクを拭き取って壷とともに革袋へと戻す。
目線を焚火へとやり、膝を立てて腕組みをして頭を腕にうずめる。
(精霊術の使えない俺に、リラの世界は、見れるのかな)
勉強と特訓をしていた一ヶ月、アルトには精霊術が使えないことが分かった。
焚火のなかで燃えてる薪が、音をたてて爆ぜる。
座っている地面の横に置いてある薪を手に取り、焚火へと放り込む。
精霊術が使えないのは、術を使う前提である、精霊が感じ取れないからだった。
頭のなかをかすめるのはいつかの勉強風景。
話を聞いていなかった罰としてセリアの術を受けたあと、
セリアがやっていたように精霊を感じ取ろうとしたがまるでできなかった。
「俺が……やっぱりこの世界の人間、じゃないからかな」
沈む口調で言葉が漏れる。
言い伝えでは過去の奏者はだれもが精霊術を使えなかったと聞いた。
それでも使ってみたい、と青年は思いひとりで鍛錬に励んでいた。
夜、少女と男が寝静まったのを頃合いに、ひとりきりで術の鍛錬をしていたが、
一ヶ月以上が過ぎたいまでも変化はなく、精霊は感じ取れない。
「……使えなくても不便は、ない。けど」
焚火の輝きを受ける顔は憂いを映す。目線が右手の地面へと動く。
そこには神殿出発前に用意された、鞘におさめられたアルトの剣。
既に何日も会っていない大神官ブッファの柔和な顔を思い浮かぶ。
彼から渡された剣を見て、記憶を掘り起こしていく。
——アルト君、旅への餞別として僕からこちらをどうぞ。
——ありがとうございますブッファさん。
——そうそう、その剣。風の精霊がともにある剣ですので、仲良くしてあげてくださいね。
——え……仲良くって言われても、どうしたらいいんですか?
——む、そういえばアルト君は精霊術が……まあ、大切にしてもらえれば良いのです。
ブッファの言葉を思う。
「仲良くしてあげて……精霊が感じ取れないんじゃあ無理だよな……」
はあ、と深いため息を吐き出して、さらに記憶を掘り起こす。
手負いの凶獣と戦ったとき、エオリアは炎に包まれた大剣をふりかざし、
セリアは水を矢として打ち出す弓を持って挑んでいた。
アルトに出来たことと言えば、二人の後ろで臆病腰で剣を持って震えていること。
交差した手の平が強く、強く腕を掴む。
胸を、心の内を、占めるのは恐怖と情けなさ。
大きな身体には傷を負い、足などから血を流し、それでも生きようと必死だった凶獣。
相対したとき、命の危険、そのことをはっきりと感じた。
剣術の特訓はしていたものの、心までもが鍛えられたわけではなかった。
「なんにも……できない、ままじゃ、いやだ……」
組んだ腕の中へ顔をうずめて青年は声をしぼりだす。
夜は静かに更けていき、星空はなにも言わず地面へと輝きをおろす。
● ● ●
船が数十隻と並ぶ湖の淵。
それぞれの船縁には木で組まれた足場があり、船の上に立つ人々と足場に立つ人々の間にて、
盛んに商売などが行われている様子が見受けられた。
湖に作られた港の近くにある街では、よく日に焼けた肌をあらわにした人々が多く行き交う。
人々のなかを馬を引いて歩く青年と男。
「パストラの人々よりもごつい人が多いなあ」
「ここらでは漁師などをしている者が多いからな」
「そんなことよーりー早く宿へいこーよー」
少女が馬上から疲れた声を出している。
二頭の馬の手綱を引く男が振り返る。
「まだ昼過ぎだというのに、だらしがないぞセリア」
「だーって、アルトの特訓につきあったから疲れたあー」
「あーうん、ごめん」
「いいよいいよ、ちょっと心配だったしー」
「そうだな。凶獣と戦ってからか、少し落ち込んでいたからな」
「え、うそ。そんな顔に出てた?」
焦った顔つきで二人を見た青年に対して、頷きを返す男と少女。
うわーっと言いながら前を向いた青年は顔に手をあてる。
「恥ずかしい……」
「気にしないのーいきなりあんなのと向かい合ったら腰抜かすのがふつうだってー」
「自分らは小さい頃から凶獣退治などしていたから平気だが、
アルトのいた世界ではそんな危険なことはしないのが当たり前みたいだな」
「うん……俺の世界だと、ほんと危険らしい危険なんて滅多になかったよ。
人が人を襲うこともほとんど無ければ、動物が人を襲うなんてそれこそ……」
だんだんと声のトーンを落としていく青年、石畳の上を蹄が音をたてていく。
「想像、つかなかったわけじゃないんだよ。
神殿にいたとき、時々騎士団が凶獣退治に出発するのを見たりしてたし、
ほかにも神官の人たちにどんな凶獣がいたりしたか聞いてた」
たださ、と言葉を加える横、少女と男は黙って聞きながら馬を進める。
「それが、自分の目の前にやってくるなんて、思ってもいなかった」
青年は胸に思う、どっか他人事にしか思ってなかったんだよな、と。
元の世界でもテレビから伝えられる紛争など気にもしていなかった。
自分には関係のないこと、危険など自分にはありはしない。
そう思い込んで、信じ込んで生きていた。
「けど、いまは違う。目の前に危険はあって、いつでも危ないんだって」
船の出発を知らせる叫び声が港から聞こえてくる。
青年の引いている馬は、アルトの顔をときどき舐めようとする。
少し笑った困り顔で馬をなだめて舐めるのを止めた青年は、
「ここは俺の知ってる世界じゃない、異世界なんだって」
もう何度思ったかわからない言葉を口にしたとき、木造の宿屋へとたどり着いた。
● ● ●
「うーん、いいお湯だったあー」
頭上から湯気をただよわせ厚手の布を肩にはおる橙髪の少女。
木造の通路を歩いて泊まっている部屋へと向かう。
目的の部屋へとつながる扉を開ければ、そこは灯りが点いた無人の部屋。
「あれ? 二人ともいない?」
後ろ手に扉を閉めて左右を見渡す少女。
四人部屋の広さを持った室内に置かれた寝台へと腰をおろして、湿った髪を布で拭う。
髪を拭いながら、それぞれの荷物が置かれた空きの寝台へと眼を向ける。
「……アルトとエオリアの剣、なくなってる」
人々の喧噪が聞こえる木枠の窓からのぞいて見えるのは、濃くなった夕闇。
夕闇に混じるは風を切る音と地面を蹴る音。
● ● ●
真っ正面から振り下ろされる大剣。
身体を左へと動かし足先で強く地面を蹴る。
青年が飛び避けたとき、地面へ剣先が大きくめりこむ。
めりこんだ剣を支点に青年へと向かう蹴り。
着地するまえの不安定な姿勢で蹴りを受けたため、後ろへと倒れ込む青年。
男は蹴り足を地面に置いてから、勢いよく大剣を地面から引き抜き、
引き抜いた勢いそのまま叩き付けるように大剣は青年へと振り込まれる。
右へと身体を転がして青年は回避。
立ち上がり、剣の峰で男の手元を狙って振る。
地面へと振り込まれた大剣が下手から上へ跳ね上げられ、
大剣が下から、剣が上からぶつかり合う。
重量差から剣は上へと跳ね飛んで青年の手から離れ、地面へと落ちる。
男は大剣を横へと放り投げて、無手で構える。
衝撃に痛む手をおさえていた青年は、構えた姿を見て同じく構えをとる。
にらみ合いが数秒。
左足のふくらはぎ付近を狙って男の右蹴りが放たれる。
背後へと飛んで避ける青年。
着地して即座に前方へと左足から飛び込み、右腕をふりかぶれば、
足を戻した男は両手を胸程に開いて青年を見据える。
空中の姿勢から男の顔面へと右腕が飛ぶ。
顔面へと迫る拳を右足を軸にして、左後ろへと回ってかわす。
かわすと同時に左の手の平で相手の右腕を掴み、右の手の平は相手の左肩を掴む。
そのまま青年の飛びかかった勢いを殺さず、左後方へ回転しつつ男は投げ落とすと、
右肩から地面へと投げ落とされる青年。
しかし後ろの両足を背中の方へと投げ出して青年は身体を一回転させて落ちるのを回避。
両足から地面へと着地して、男の手を身体捻って振り切り、互いが相対する形となった。
● ● ●
「……ここまでにしようアルト」
「はっはっ、ああ、わかった」
息づかい荒く答える青年に近寄る男。
通りとは反対側である、宿屋の芝の生えた裏庭。
ふたりのそばには馬が入られた納屋があり、三頭の馬が桶に入れられた草を食べている。
地面へと倒れ込むアルトの横に、二つの剣を拾って座り込むエオリア。
「つっかれたあ〜それと、こわかったあ〜」
「そんなに怖かったか?」
「あんな、恐い顔と、大剣が勢いよく、飛んでくるんだぞ!」
疲れと息切れでうまく言葉にならない青年。
「前は、模造剣だったから、そんな怖くもなかったけど。
それは当たっても平気だから、だったから」
「模造剣でも十分特訓にはなるさ」
「それでもさ、危険を感じられないんだ。それじゃ、駄目なんだ」
「……」
わずかに震える身体を抱きかかえる青年を、複雑な表情で男は見ていた。
「アルトは……危険に慣れたいのか?」
「慣れたい、のとは違う。いや慣れたいわけじゃない」
荒くなっていた息を整えるよう顔を上げてアルトは息を吸い込む。
「向き合いたいんだ、危険……恐れや不安なんかと」
胸に思い起こされるのは、元の世界へ帰れるのかどうかの不安。
旅を始めて好奇心に刺激される日々だとは言え、夜になれば、ひとりになれば、心を占める。
その不安とは付き合っていくしかないが、向き合う意志も必要だとブッファに教えられたものの、
アルトは、思っていた。
(自分は弱い、心が意志が)
自分よりも身体が弱くても生きている人々はいる。
旅の道中すれちがった人々のなかには手や足が欠けた人がいた。
だが、彼らは明るい顔をしていまを生きようと一生懸命だった。
誰も彼もが弱くなど、なかった。
「そうか……よし! ならば今夜は徹夜でやるか!」
「おいおいおいおい! そんな意気込まなくても——」
「アルト」
きつく強く名を呼ばれた。
びくっと震えて青年は男を見る。
「命を賭けろなどという安っぽいことは言わん、その代わり……」
「そ、その代わり?」
「自分に十連敗したらリラへ送る手紙の文面、こっちで考えさせろ!」
「なに言ってんだおまえはー!」
「馬鹿な! 自分の気遣いがわからんのかアルト!」
「思いっきり悪い顔して言いやがって! 誰が負けるか!」
「ふははは! それでこそ真剣勝負の甲斐がある!」
青年は白く羽飾りの模様が刻まれた剣を手に取り、
男は赤く猛々しい炎の刻印がなされた大剣を手に取り、向き合った。
● ● ●
「もーどこ行ったかと思ったら二人で馬鹿やっちゃってー」
木枠の窓から裏庭を見下ろしている橙髪の少女は、再び剣で打ち合う二人を見ている。
椅子にすわりながら木枠に左肘をのせ、右手には赤い液体の入った杯。
すぐそばにある四角い机の上には、底に黒い石が入った赤い液体の硝子瓶。
「んーそれにしてもこれおいしいー」
杯を傾けて流し飲むと、瞼と口を閉じて味を楽しむ。
地面から剣同士がぶつかる甲高い音、ときに肉を打つ鈍い音。
ときに叫び声や怒号が飛び交っていくのを、橙髪の少女は二人のやりとりを微笑で見つめる。
(あの馬鹿、すっごい楽しそう)
視線が向かう先、若草色髪の男は鋭い目つきでありながら口角を上げた笑顔。
神殿で青年の訓練に当たっていたときの彼は見ていて退屈そうだった。
事実退屈だったのだろうな、とセリアは思う。
(だからこないだの凶獣退治も、自分がやりたくて言い出したんだろうねー)
昔から血気盛んで勝負事になると馬鹿みたいに楽しい表情で挑みはじめる。
そんな彼を見ているのが楽しくて無理矢理振り回したものだった。
でも、と橙髪の少女は一色、表情を落とす。
(リラのことやボクとの約束とかもあって……)
エオリアは一歩引いた姿勢をとることが多くなった。
周りの人々は落ち着いたと彼のことを言う。
それは違う、少女は胸に思う。
(誰かを巻き込んだりしないため、なんだよね)
一緒に過ごして、勉強して、訓練していたからこそ解る。
どこか抑えているのが見え隠れしていた。
いまの彼はどうなのだろうかと思う。
「……あんな笑顔でいるなら心配、いらないよねー」
アルトとの関わり合いで彼にも小さくはあるが変化があった。
眼に見えて解ったことは、遠慮がなくなったこと。
そして、一歩引いていた姿勢から僅かではあるが前に進もうとしているのが解る。
(リラのこと、アルトに任せようと思ってるんだよねエオリアも)
三杯目を注ぎ込んで中身を口元へ傾けると、
喉元を上がってくる熱を口内に留めるように口を閉じて軽く唸る。
木枠の下からは金属が地面に落ちる音がふたつと猛り声。
何度か肉を打つ音が響いたあと、鈍い音がふたつ同時に聞こえて人が倒れる音。
数分後には再度立ち上がって剣を取り合い、斬り結びだす影ふたつ。
「いまのところ、引き分けばっかだねー」
酔いのまわってきた頭を軽くふらつかせて杯に口づけする少女。
外からは室内の灯りに誘われて、羽虫が窓から入ってくる。
少女が見上げる先は、黄金色の真円を主役に星々が瞬く夜の空だった。
● ● ●
時間は過ぎ行き、陽光が照りつける日中。
港近くには船や桟橋の先で座ったり立って湖を眺める人々の姿。
視線の向かう先には数隻の船が湖面に浮かび、そのうちの一隻から音が奏でられていた。
音を出す船とは別の船に船頭ひとりと、三人の人物。
「すごい……船が揺れてるのに音の乱れがまるでないや」
「ここ、ルスティカではさ、みながみんな漁師やって船乗ってますんで」
黒髪の青年がつぶやいた言葉に、近くの船頭が答えた。
「え、じゃあいま楽器を弾いてる人たちもですか?」
「そのとおりでさ。うちの息子や娘たちも演奏会で歌ってますさ」
歯を剥き黒く日に焼けた笑顔の船頭がかぶる、
植物の蔓で織り込まれて作られた日除け帽子は色褪せており、漁師の長さを感じさせる。
聞こえてくる歌声と音色へと青年が眼を向ければそこには、
船の上で露出の大きく白い服装で浅黒い肌を見せる体格のよい男性と太めの女性。
低く力強い声でありながら遠くまでよく通る歌。
隣の女性は、なめされて伸ばされた獣皮が丸い切り口に張られ、
先端がすぼまった形状の木製の楽器をふたつ、首後ろから前面へ回した紐で身につけ叩き鳴らす。
叩く拍子は速く強く、心臓の鼓動を、打ち表すかのよう。
見れば歌と音を出す船の周囲では、大小様々な魚たちが飛び跳ねていて、
船の上空では同じく大小様々な鳥たちが鳴きながら旋回している。
「豊漁を願う音楽でさ。人も魚も水も楽しんでのさ」
「人だけでなく……魚も水も楽しむ音楽……」
「わしらが生きていけるのは、腹を満たしてくれる魚やパンだけじゃなくさ、
精霊様たちの恵みがあってこそだからでさ」
船頭が語っていくとともに音の激しさは増し、
大きな声で歌う男性は顔と喉を震わしながら口を縦に開き伸ばす。
青年は眼を離すことなく男性らを見つめる。
「そんでわしらはさ、いつかは死んじまう。骨となって土や水、風や火に還るのさ。
そしてまた、どっかの生き物となって生まれんだよ」
年老いた船頭は情熱的な音楽に乗せられたのか饒舌に語り出す。
船頭の向こうにいる橙髪の少女と若草色髪の男は手拍子を取っている。
「んで生まれた生き物を食って、またわしらは生きるのさ」
「命が……つながってるんですね」
「んだ。生きてるってのはそいうことでさ。恵みに感謝することで、わしらは毎日食っていけるんさ」
老人の言葉に青年は深く頷き、言葉を噛み締める。
男性の歌と女性の演奏が終わり、港からは拍手と歓声。
船頭は舵をとり、三人を乗せた船を人々の前へと移動させる。
青年たちの歌と演奏が、湖面に波紋を生み出した。
● ● ●
太陽と月が数度天を横切ったころ、旅装束を着た影が森の入口に立つ。
森には人ひとりが通れるかどうかの小道が奥へと続いていた。
森を構成している樹々は高く、入口に立つ人物の三倍以上はある。
樹々の頂点を見るように顔を見上げている黒髪の青年は、
「でかい……噂には聞いていたけど、こんなにでかいんだ」
高さのある樹々の葉からこぼれる日差しを手で遮り言う。
「初めてここへ来たときは、森そのものが生き物に見えたな」
「だねーもうなにがなんだかって感じだねー」
「ああ、どこを向いても樹だらけで案内役がいなければ危ないとこだった」
「そうそう、そういえばあの子元気にしてるかなー」
隣にいたエオリアとセリアは互いに頷きあっている。
「あの子? というか二人は来たことがあったの?」
「そうだよーボクとエオリア、それぞれ修行としてねー」
「自分達以外にも何人か一緒にいて、各地を巡っていたのだ」
そうだったのかと言葉を口にして森の奥へと目線を移すアルト。
すると森の奥で動くひとつの影。
影は樹々の根っこをよじのぼりながら、こっちへと近づいてくる。
(なんだろあれ……森に住む動物かな?)
青年が疑問を得て眼をこらしていると、影の動きが止まる。
影は翠色に輝くふたつの眼をアルトたちへ向けていた。
風に揺れながら高くそびえる樹々からの木漏れ日が影に当たる。
そこには青年の腰ほどもない高さを持った小さな子供の姿。
肌は茶褐色、髪は濃く深い緑色をたたえており、
頭部と髪の境目には文様の入った緑色の布を巻いていた。
青年は神殿で知り得た知識と、目の前にいる小人を照らし合わす。
(あの髪色と肌の色……! そうか、木霊族か!)
胸には恐怖と好奇心がないまぜになった感情が渦巻き出す。
小人はアルト達三人の前まで、短い手足を動かしながら歩いてくると、頭を下げて一礼した。
「ようこそ、そうしゃさま、たち。おまち、して、ました」
たどたどしい口調とともに迎えの言葉が述べられた。