第七話 地へと向かう
神殿を出発してから数日後。
出発時と変わらない曇天模様の下、煉瓦が敷き詰められた街道を歩くのは三人の人影。
橙の少女が前を歩き、後ろを黒髪の青年と若草色の男が隣り合って歩いている。
少女は歌いながら歩いており、男は周囲を警戒しながら歩みを進め、
青年は街道沿いに生えている草木やたまに通りがかる動物に眼を奪われていた。
(神殿の図書館にあった図鑑で絵を見たりしていたけれど……実際に見ると違和感がすごいな)
視界に映るのは木陰にひそみながら黒い瞳で視線をよこす小動物。
視線を向けてくる瞳は、兎のような体躯でありながら頭部に一本の角をはやしている。
そのまま見つめていると、こちらに興味を失ったのか視線をそむけて走り去った。
「あ……いっちゃった」
思わず手を伸ばしかけ、触ってみたかったな、と思っていると、
「いまのは棘兎の一種だな」
「ああ。なんで角がついてるんだろうな」
隣のエオリアも兎が立ち去った方向へと眼を向けて言葉を口にする。
その言葉に対して思ったままの疑問を歩みながらアルトはつぶやく。
「学者の話では、威嚇や縄張り争いをするために得たと考えられている」
「へえ、俺の世界にいた兎と違って結構凶暴なんだな」
「いや、こちらから手出しさえしなければ大人しくて可愛いものさ」
そうなのか、と相槌を打って前を見ると、少女はこちらを気にもせず歌い続けている。
話しかけるような声量でありながら通る声は耳障り良く、気持ちが落ち着いてくるものだった。
旅を初めてから暇さえあればセリアは歌っている、それが役目だと言わんばかりに。
(神殿でもよく歌ってたもんな、仕事さぼって。それぐらい歌、好きなんだな)
そういえば、と金属がこすれる音を立てて歩く隣の鎧姿に目線をうつし、
アルトはエオリアとの模造剣などを使った訓練を思い起こす。
顔や腕などに付けられた擦り傷は訓練の結果によるものだが、
訓練の最中にセリアの歌声が聞こえて来たとき、
自身の目の前にいたエオリアの動きは眼に見えて鋭く力強いものになっていた。
ただ、近くで訓練を見ていた人々の話では、アルトも同時に手足の動きが素早くなっており、
セリアの歌声には何かしらの力があることが感じられた。
「不可思議なことだらけだ……」
もう何度目になるか分からない驚きと、わき上がってくる好奇心を隠すように、
誰にも聞こえないよう小さく小さくつぶやいた。
● ● ●
ときにエオリアと雑談を交わし、ときにセリアの歌声を聞きながら、
しばらく街道を歩いていると太陽が傾き始めたのか、曇り空は徐々に暗さを増す。
頭上で黒い体色の鳥が鳴く、暗くなった空を見上げて鎧姿が言う。
「ふむ。そろそろ街に着いても良い頃なのだが」
「神殿を出発してから三日くらいか、さすがに足が痛くなってきた」
「ボクも野宿じゃなくて柔らかい布が敷かれたところで寝たいよ~」
同じように曇り空を見上げて橙の少女の嘆き声が上がる。
ついでにお湯も浴びたい、最近の野宿生活を思い浮かべてアルトは心に思う。
身体を洗ったりするのは街道近くの小川や、セリアが出す精霊術による水でどうにかなった。
食事などは持っている保存食をエオリアの術による火であぶったりして、暖かいものが食べれた。
それでも神殿の生活を思うと不満が出ないわけではなかった。
「分かっていたつもりだったけど、やっぱ旅って不便なもんだね」
「アルトにとって初めての旅だからな。なに、そのうち慣れるさ」
神殿を出発した頃に比べて三人の歩幅と歩調は落ちており、
誰もが薄く疲れが出て来た顔ではあったが、青年は頷いて歩みを進めた。
たまに青年たちとは逆方向に歩いて通り過ぎる人々と挨拶を交わしたり、
遠くから大きく響き渡る獣の声に心をすくませ、周囲に警戒をはらいつつ三人は歩いていく。
雲が晴れて夕闇が空を占めてきたころ眼の方向に映る景色には、出発時に地図で確認した大河。
大河が見えた瞬間、橙の少女は両手を大きく広げて青年と鎧姿に振り返る。
「大河が見えたよ~! もうすぐだよ~!」
「そんな大声で言わなくても分かっている」
「セリアの元気さが羨ましいな……」
疲れが濃くなってきた顔と苦い声で答えるエオリアに続いて、
同様に疲れを顔に浮かべたアルトは苦笑声で言葉を出す。
セリアの軽装に比べ、エオリアは鎧装束、アルトは多めの荷物を抱えている。
歩き通しの三日間は男二人に、特にアルトにはきついものがあった。
「最初の街へ着くまでに心が折れそうになるとは思わなかった」
「安心しろ、パストラへ辿り着いたらそこからは馬に乗るから少しは楽になる」
「パストラか……たしか街を興した人の名前だったっけ」
「ああ、言い伝えではかなり昔の奏者とともに旅をした人物だったとのことだ」
ふたたびセリアの歌声が響いてくる、もうすぐ街に着くとあってか高めで早い拍子だ。
少しばかり身体が軽くなったのを感じて青年と鎧姿は足を早めていく。
空が闇に覆われ、星がまたたき始めた頃、三人の視界には街の出入口を示すかがり火が映る。
「あれが……パストラか」
「そうだ、あの街だ」
「やった~ふかふかで寝れる~!」
幾つものかがり火に照らされ浮かび上がる街の姿に、
小さな感動を胸に覚えたアルトだったが、喜色満面なセリアの姿に思わず苦笑。
青年は、両手を上げて喜んでる様子の少女と呆れ顔を向けてる鎧姿を見て言った。
「よーし、美味しいもんくって、熱い湯浴びて、気持ちよく寝よう」
● ● ●
数日間天を覆っていた雲は過ぎ去り、太陽が地の方角より顔をのぞかせる頃、
人気の少ない街の通りにある白い壁の建物には、様々な形と色に彩られた植木鉢などが置かれていた。
建物の一階は通りに面しており、硝子戸で通りと建物がわけられている。
その硝子戸近くにある一階と二階をつなぐ階段を降りてくる影。
眠そうに口をすこし開き、隠すように手をあてて階段を下りるのは目元に包帯を巻いた少女。
一階の床へと足を着けた少女は、所狭しと置かれている植木鉢の草花や樹を見回して、
「おはよう、みんな」
話しかけるように微笑みをもって言葉をかけると、足下から小さな鳴き声。
見れば白地に黒いまだら模様がのった尾の短い猫が、少女の足へと頭を擦り付けている。
ふふっと笑ってしゃがみ込み、すり寄ってくる猫の頭を少女は撫でる。
「またご飯もらいに来たの?」
その言葉に答えるようにひと鳴きする猫に、待っててと声をかけて建物の奥へと向かい、
猫も少女を追って奥へ床に置かれている植木鉢などを器用にさけながらついていく。
天窓からの光に照らされる建物奥に備えられた台所へ立った少女。
光がリラの髪飾りに反射する。
「お母さんが昨日、フランセおじさんからもらったものでいいかな」
色褪せた木材でできた長机の横には少女よりも背丈の高い棚があった。
棚は硝子と木材を組み合わせた戸で前面を閉めてあり、中身が外に出ないようにしてあった。
少女は戸を開くと、少しだけ背伸びした先にある棚から紙箱を取り、
手元へと持って来てから紙箱をあけてみれば中には日干しにされた魚がいくつか。
魚の匂いをかぎとったのか、猫はせわしない動きで足下をまわり鳴き声を出す。
「いまあげるから待ってて」
紙箱から魚をひとつ手にとり、しゃがみ込んで猫の顔へと差し出す。
すこしばかりくすぐったい感触を手の平から感じて少女は笑う。
「そんなにお腹へらしていたんだ、まだあるからね」
空になった手の平をひっこめて魚をのせて再び手を出せば、再度くすぐったい感触。
紙箱を木の長机へとのせ、反対の手で猫の頭を少女は撫でながら、
包帯で覆われた目線は猫の黒いまだら模様へとのびる。
色に黒髪の青年が思い浮かぶ。
「……アルトさんが喚ばれて一ヶ月、もう来てるのかな」
満足したのか猫は嬉しそうに鳴き声をあげながら、少女の手に頭をすりつける。
● ● ●
四角い窓から差す朝日がベッドに寝ている男の顔に当たる。
若草色髪の男は日差しをよけるように寝返りをうつが、日差しは追いかけるように移っていく。
身体にかかっている布を頭に被ってまで日差しを遮ろうとしたが薄い布では効果がなく、
眠そうな瞳としかめっ面で上半身を起こし、大きく口を開き息を吸い込んで吐き出す。
そのまま両腕を唸りとともに上空へと伸ばす。
伸ばしきったところで窓に眼を向けると、人々の喧噪が耳にはいってきた。
「……う、もう昼近いのか。ずいぶんと寝てしまったな」
肩に手を置いて、首を鳴らす。
寝台脇へと立ち上がり右腕の肘を下に、拳を肩に寄せ、
左肘を右肘の内側へと置いて身体を右へと捻り、今度は反対の姿勢で同じ動作。
身体を動かしながら視線を自身が寝ていたベッドとは逆へやると、
枕を抱いて身体にかけてあった布を床へと吹き飛ばして眠りこける黒髪の青年。
思わず吹き出す若草色髪の男。
「なんだその寝相の悪さは、子供じゃあるまいし」
歩きづめだったせいか、眠っている青年の顔から疲労は抜けきれていない。
旅の経験がある自分と違い、青年は初めての旅だという。
おそらく身体だけでなく気持ちも大きく疲れているだろうとエオリアは思い、
床に落ちている布を拾い青年の身体へとかける。
(それにしても、細い身体のわりにずいぶん体力があるのだな)
アルトの身体能力には訓練初日から驚かれされてはいたが、
ずっと鍛えて来た自分よりも高い運動能力と、
どうみても細身であることがエオリアの内心に疑念を抱かせる。
(神殿を出発するまでの一ヶ月、日に日に上がっていく力と技術……)
これが奏者の得ている精霊の守護なのか? 答えのない自問を胸に秘めつつ、
いまも枕を抱いて寝息をたてる黒髪の青年を見つめる。
そこへ響く木の扉を叩く音。
「どうぞ、開いている」
扉の方へと振り向き声をかけると、橙髪の少女が部屋へと入って来た。
片腕に抱えた紙袋にはパンや果物、逆には透明な液体の入った硝子瓶と二つの杯。
「おっはよ~二人とも~ご飯もってきたよ~ってまだアルト寝てるし」
セリアはそう言うと、そのまま二つのベッドの間に置かれた丸い木の机に紙袋と瓶などを置く。
礼を言ってエオリアは紙袋から三日月形のパンを取り出してかじりつく。
パンからは焼きたてを意味する香ばしいさと、甘みを感じさせるどこか油っぽい匂いが漂う。
「ふむ、このパン甘くておいしいな」
若草色の男がさらに二口、三口とパンをほおばっていく横で、
橙髪の少女は硝子瓶の栓をひらいて二つの杯へと中身を注ぎ込み、
「はい、目覚めの一杯だよ」
エオリアへと杯を手渡したあと、自身は紙袋から赤い皮の果物を取り出してかじりだす。
窓の外から聞こえる喧噪が強まり、街の中が賑やかになっていくのが伺える。
杯の中身を飲み下しながら窓を見ていた若草色の男は、
「セリア、もうトロッポ会長のところへ顔は出したのか?」
「んーん、まだだひぃてなひぃよぉ」
「口のなかをからにしてから話せ」
「……うん、まだ顔出してないけど」
「そうか、街の人々が騒がしいから気になったが……」
瞬間、なにか大きな物が落ちる衝撃と音。同時にどこか潰れた声が二人の耳に入る。
男と少女が音の出所である青年が寝ていた寝台へ振り向くと、
そこに横になっていた青年の姿はなく、寝台奥で片手を上げてうめいている姿があった。
● ● ●
「……あーくそ、まだ頭がふらふらする」
「ははは。あんなに寝相が悪いとは思わなかったぞアルト」
「ほんとほんと、ボクびっくりしちゃったよ~」
白い漆喰を塗られた建物が立ち並ぶ大通りを進む三人。
黒髪の青年を真ん中に、笑っているのは若草髪の男と橙髪の少女。
青年と男は昨日までの旅装束ではなく、少女の服装と似た服を着て歩いている。
「そんなに笑うなよ。それでどこへ向かってるんだっけ」
「すまんすまん、トロッポ会長のところだ」
「えーと、口髭のおっさんだったか」
そうだよーと言って一歩先に出てセリアは後ろ向きに歩く。
通りの建物からは威勢良く商品を売る声が響いてくる。
「トロおじさんはね、ボクらの演奏会を催してくれたり」
「自分らの旅の援助をしてくれるのだ」
二人の言葉にへえっと頷いたところで、
「え、なに。ものすっごい金持ちなわけあの人」
「その通りだ」
急に驚き顔になって尋ね返すアルト。
その横をこどもたちがはしゃぎながら通り過ぎていく。
軽く声を出して顔に手をあてだした青年を見て、
「どうしたの急に~」
「いや、俺、けっこう失礼な態度だったような気がして」
セリアの疑問声にアルトは少しばかり落ち込んだ声で答える。
思い出すのは祭りでトロッポから声をかけられたとき。
「確かリラがやばかったから、俺そっけない態度とったんだよな……」
「だ~いじょうぶだって~そんなの気にする人じゃないよー」
「セリアの言う通りだ。そこまで気にしなくていい」
そうかな、と男と少女へ言葉を返して歩くそばを、荷車を引いた馬が通っていく。
後ろ向きに歩いていた橙髪の少女が足を止める。
「さーてさて、トロおじさんの家に着いたよー」
少女が声とともに指差した方向を見れば、
石造りの壁に黒い金属で形作られた門が視界に入り、門の向こうには赤茶色の館があった。
● ● ●
「ようこそ奏者様! おまちしておりましたぞぉ!」
たっぷりとした口髭をたくわえた中年の男性は、両手を広げて三人を迎えた。
床には朱に染まった絨毯、天井には硝子で飾られ蝋燭を多くのせる照明器具、
白い壁にはどこかの風景画などがいくつも掛かっている。
(絵に描いたような金持ちの部屋だな……)
アルトが部屋の装飾に対する感想を抱く先では、
「トロッポ会長みずからのお出迎え恐縮です」
「トロおじさん、お久しぶりです」
セリアとエオリアが挨拶をのべて握手を交わし合っていた。
それを見て軽く焦った顔になったアルトは、
「ど、どうも、祭りのときは、いろいろありがとうございました」
「はっはっは! いやいやお礼などいりませんからな」
取り繕うようにこわばった笑みで挨拶をするが、
口髭をふるわせながらの笑顔で返され、右手を差し出されて握手を求められる。
一瞬、どうしたものか迷い顔だったが同じく右手を出して応じる。
「さて、挨拶はこれぐらいにして座りませんかな」
握手を終えた手で四人のそばにあった、弾力性のありそうな布で包まれた長椅子を指す。
トロッポが座った長椅子の対面にあった長椅子へ三人が腰掛けたところで、
「おーい! 四人分のお茶を頼むな!」
アルト達が入って来た扉とは違う位置にある扉へ向かって声をかけた。
数瞬してひらひら付きの上着と白い前掛けをした女性がお盆に陶器の杯と、
注ぎ口が高い位置にある薬缶を運んで来た。
女性は、二つの長椅子の間にある背の低い硝子で作られた机へ杯をならべて薬缶の中身をそそぐと、
一礼して入って来た扉からでていった。
トロッポはお茶の入った杯を手にとり、眼を閉じて匂いをかぐ。
興味をそそられアルトも同じ仕草を匂いをかいでみる。
「う~ん、相変わらずこの匂いがたまりませんな」
「これは……良い匂いですね」
「おお、奏者様に褒めて頂けるとは! これは嬉しいですな!」
そ、そうですか、とやや困り顔をした青年の横から、
「会長、それで本日お伺いしたことについてですが」
「そうですな、どこから話したもんですかな」
エオリアの尋ねる声が発せられ、口髭をつまんで中年は言葉を浮かばせる。
「順を追って話しますとな、我がトロッポ商会はご先祖様がお世話になったお礼として、
奏者様の旅の資金援助などをさせてもらっているのです」
「ご先祖様がお世話になった……?」
「ええ、十二代前ですから千二百年前ですな。当時喚ばれた奏者様とともに、
我がご先祖であるゴーン・トロッポは大地を旅し、この地で商会を興しましてな」
青年がトロッポの話を聞いているそばで、
橙髪の少女と若草色の男はどちらも音をたてずにお茶を楽しんでいる。
「商会を興すにあたっては、当時の奏者様に多大な恩を受けたようでしてな。
以後トロッポ商会は奏者様の旅を助けることを誓ったのです」
「そんなことがあったんですか。じゃあ今回の旅も」
「ええ、もちろん助けさせて頂きますが」
「が?」
いつのまにか顔を近づけて来た口髭は、左手の指を二本たてて青年の顔へと出した。
「二つほど奏者様にお願いしたことがありましてな」
「……いったいなんですか」
「いやいや、そんな険しい顔をなされずとも、何簡単なことですな」
ひとつめは、と右手で左手に立てた指を折りまげて、
「これから旅で巡る街や村などで演奏会を開いてほしいのと」
ふたつめは、と先ほどと同じ要領で指をまげ、
「旅でどんなことがあったのか聞かせてほしいのですな」
「え、それだけでいいんですか?」
意外な内容だったのか、驚き顔で中年を見るアルト。
橙髪の少女はお茶のお代わりを頼んでいた。
「お恥ずかしい話をしますとな、ワシはこの歳になっても『精地』へと赴いたことがなく、
人づてにまばら聞いた話や言い伝えでしか知っておらんのです」
豊富な口髭をいじりながら苦笑めいた顔で続ける。
「できれば一緒に行ければと思いますが、会長の立場ゆえそうもいかなくてですな」
「そうなんですか……」
「だーいじょうぶだってトロおじさん! ボクらがいっぱい土産話もってかえるよ!」
「おまえは! アルトと会長が話してるとこに割り込むんじゃない!」
「はっはっは、それは楽しみですな!」
男が少女を咎めるのも気にせず笑顔となるトロッポ。
あ、と思い出してアルトは尋ねる。
「そういえば、俺、演奏会って言われても」
「そっかそっか、アルトは楽器とか習ったことないんだっけ」
「よし、だったらこの街にいる間に練習だ」
「え、ちょ、俺もできなきゃ駄目なのか!?」
「それがワシらが旅を助けるための条件ですからな」
人の悪そうな笑みを浮かべた三人に囲まれて、青年は思わず天をあおいだ。
● ● ●
白と茶と黄土色の建物を視界におさめ、宿屋に雑貨屋に酒場の看板らなどが眺められる通り。
黒髪の男は、自身の腰ぐらいある、弦の張られた先端は細い板状で、
尾は楕円を半分にした弦楽器を、自らの身体に革のベルトを巻いて背負っていた。
通りすがる人がちらちらと背負った楽器へ目線をよこしていく。
「……なんかこれだと旅芸人って感じじゃないか?」
「いいじゃないか、似合っているぞ」
横を歩く若草髪の男はあらぬ方向を見ながら口に手を当てている。
その様子に引きつった笑みを顔に出しているアルト。
「ところでこの楽器、リュートだっけ」
「ああ、それであっている。楽器をさわったことがないアルトでもいいよう簡単なやつだ」
「弦を弾いてればそれっぽくなるってトロッポさん言ってたけど……」
旅の餞別としてトロッポに渡された楽器だが、ちらりと背を見る。
リュートの先端にはトロッポ商会の印章が押されていた。
(これを見せれば行く先々で支援が得られるって言ってたもんな)
絶対楽しんでるだろあのおっさん、と内心に口髭の笑い顔を思い浮かべる青年。
「だけどさ、これの練習ってどこでしたらいいんだ?」
「いま向かっているところでやればいいさ」
「ふーん、って。セリアはどこいったんだ」
「さあな、ちょっと行ってくるねーと消えた」
「えええええ……」
「気にするな、どうせリラのところへ行っているのだろう」
「え」
アルトの足が止まる。
青年が止まったことに気づいて振り向く男。
口を二度、三度開いて閉じて尋ねる黒髪の青年。
「リラ……この街のどこにいるんだ?」
● ● ●
「エッラおっばさぁーん! リィラァー! やっほー!」
硝子戸が勢いよく外側へと引かれて、橙髪の少女が草木や樹々の鉢植えが並ぶ建物へ入る。
桃色の花を咲かせた小さな鉢植えを移動させようとしていた藍色の長髪が振り向き、
奥にいた金髪の女性が声を片手を上げて声をかける。
「セリアさん! お久しぶりです!」
「やあ、久しぶりじゃないか。おや、あんたひとりなのかい?」
後ろ手に硝子戸を閉じながらセリアは、ちがうよーと答える。
「エオリアの馬鹿とアルトもいっしょに街にいるよー」
「あ、じゃあ皆さん旅に出られたんですね」
包帯を巻いた少女は顔をほころばせて鉢植えを抱く。
軽い足取りで足下に並べられた鉢植えをよけて奥へと歩いていくセリア。
「そうだよートロおじさんのところでアルトが楽器もらったし、
いまごろはフランセおじさんとこで練習してるんじゃないかなあ」
「へえ、アル坊楽器もらったのかい、どんなのだい?」
白い前掛けで手を拭きながらエラールは橙髪の少女へと近づく。
「リュートっていう、こうなんていうかな、まるっぽいの」
「そんなんじゃ、どういう楽器かまったくわかりゃしないよ」
「ふふ、ほんとに。でもアルトさんも楽器を習うとしたら」
そうなの、とセリアは付け加えて、
「トロおじさんから演奏会にはアルトにも出てほしいって言われたよー」
「そうなのかい、じゃあ三日後の夜が楽しみだねえ」
「お母さん、三日後になにかあるの?」
リラは金髪へと振り向き尋ねると、エラールは拭った手を二、三度手の平でこすり合わせた。
「そっか、リラにはまだ教えてなかったね。
三日後の夜にはトロッポ商会が行う演奏会があるんだよ。
場所はフランの奴がやってる酒場『ガイオ』さ」
● ● ●
木製の丸い机ひとつに、木の椅子が四つならんだ組み合わせが幾つもある室内。
床も天井も壁も木造であり、床や壁は一部分が変色している。
通りに面した出入口から大人が歩いて二十四か二十五歩歩いた先に黒塗りのカウンター。
しかし、室内には人気はなく、酒気帯びた匂いも料理の香りもない。
あるのは調子外れの弦の音と、とどろく怒声だった。
「なぁんだぁ! その気の抜けた音はぁ! 馬鹿にしてんのかてめえは!」
黒塗りのカウンターを握りこぶしで叩き付けた音が響く。
音を出した主は焦げ茶色の髪を短く刈り上げ坊主頭の人物だった。
「だぁ〜くっそ! おめえ、本当に奏者なのかぁ!?」
「そ、奏者ですよ! ……きっと、ヒーリーさん」
「きっとってなんだぁ! はっきりせんかぁ! あとおれのことはフランセって呼びやがれ!」
カウンターの内側にいる人物に怒鳴られ、外側の椅子に座っている黒髪の青年は視線を床に落とす。
その青年の肩を軽く笑いながら叩くのは、隣の椅子に座る若草髪の男。
「そう落ち込むなアルト、誰だって最初は下手に決まってる」
「甘やかすなエオリア! このガキの下手っぷりはひどすぎんだぁ!」
「フランセおじさん、そうは言うが——」
「お・じ・さ・んと呼ぶなと言ってるだろうがぁ! おれぁはこれでもまだ若いんだぞ!」
「若いと言う歳でもないと思うが」
「おめえ、年上に対する口の利き方がなってないんじゃあねえか!?」
坊主頭はエオリアへと向き直りその顔を睨む。
が、すぐにその表情を崩して片方の眉尾をあげた顔をする。
「しっかしよぉエオリア、言い伝えじゃあどの奏者も楽器を華麗に奏でたっていうじゃねえか」
その言葉に肩を小さくするリュートを持つ青年。
はあ、とひとつため息をこぼした若草色の男は、
「フランセおじーーさん」
「おめえ、わざと切って呼んだろいまの」
「どうでもいいことだ。それよりいまの話は少々おかしい」
「あん? おかしいだあ?」
へ? と青年も関心を持ったのか首を上げてとなりを見る。
「アルトは間違いなく奏者なのは自分が保証する。喚ばれた瞬間に立ち会ったからな。
そのアルトは残念なことに楽器の腕がひどい、ひどすぎる」
「エオリア……そこまで言うなよ……」
「事実だから仕方ないだろアルト、そんな死んだような顔するな、でだ。
逆に喚ばれた奏者全員が、最初っから上手く楽器を奏でたとは言い伝えにはどこにもない。
少なくとも自分が知っている限りでは、だが。」
「まあ〜おめえの言う通りではあるが、それでもなあ」
とちらりと完全に頭を床へと垂れているアルトを見るフランセ。
「三日後の演奏会までにはマシなもんしないと、まじぃだろこれ」
「まずいな、色々まずい。まず演奏会にはこの街にいる多くの人々が来るだろう。
ついでにトロッポ会長や偉い方々も来られるだろう。それに何と言っても……」
エオリアが言葉を重ねていくごとに、青年の肩がびくっと反応する。
その反応を横目に見ていた若草色の男は、最後の言葉を言うまえに、
顔をすっとアルトの横へと持っていき周囲に聞こえないよう手を当てて言う。
「……リラも来るだろう」
瞬間。
勢い良く立ち上がるアルトの姿。
細かく震える顔は、僅かに赤い。
「あーくそくそ! 練習してやるよ! 練習して少しはマシになってみせる!」
初めて辿り着いた異界の街にて、青年の奮闘が始まった。