第三十五話 風に導かれて
耳をくすぐるような柔らかい旋律が聞こえている。
聞き覚えがある音色。
どこで聞いたのだろう、ずいぶん前の気がする。
いつか、いつどこで、どんなときであっただろうか。
まどろんでいる思考とともに瞼が開き、アルトの視界に木目の天井が映り込む。
熱を感じる右へ視線を向けると小さく連続して爆ぜる音がたつ暖炉。
音色が聞こえる左へと振り返るように見れば、若草色の髪をした男が銀の横笛を吹いていた。
古めかしい装飾を彫り込まれた、高い背もたれの椅子に腰掛けるエオリアは、
瞼を閉じたまま口元に当てた銀の横笛をやわらかな旋律とともに吹いている。
だんだんと動きはじめた意識にアルトは疑問が沸く。
(ここは、どこだろう)
エオリアの向こうにある寝台には、様々な文様が飾り衣装として縫われた厚手の布をかけられ、
ゆっくりと寝息をたてている橙髪の少女が横たわっていた。
横たわる顔には疲れだけではない泣きはらしたような跡があり、黒髪の青年は眉をひそめる。
(セリア? なにがあったんだ)
いまだこちらが起きたことに気づかず横笛吹き続ける若草髪の男を見ながら、
アルトは身を起こそうと身体に力を入れようとして気づく。
右腕になにか違和感を得たことを。
血が通っていないかのごとく、右腕が重い。
右腕全体が痺れているような感触があり、動かそうとしても手指がにぶく動くだけ。
まるで自分の腕じゃない、別人のもののような感覚があり、違和感が消えない。
違和感とともに浮かび上がった気持ちの悪さが言葉を作る。
「なんだ、これ」
決して大きくはない声が漏れたと同時に音色が止まり、
そばで椅子に座っていたエオリアが瞼をひらいてアルトを見る。
「……アルト? 眼が、覚めたのか?」
暖炉からの炎に照らされる男の顔は濃い疲れが浮いていた。
エオリアとセリアへの心配を胸におさめながら青年は頷き、
うまく動かない右腕ではなく左腕を使って上半身を起こそうとする。
アルトの身体にはセリアと同じように対照的な模様が編まれた厚手の布が被せられており、
起き上がると同時に見えた自分の服装が旅装束ではないものと気づいたとき、
すぐそばで静かな面持ちで椅子に座っているエオリアへと青年は問う。
「エオリア、俺たちは確か雪道で魚を相手にしてたはず」
問う相手は頷く。
「覚えているのは……最後、真っ暗な影のようなものに、呑まれた、気がするんだけど」
左の掌を額にあてて俯き、青年は記憶を探りながら言葉をつぶやいていく。
言葉をつぶやいている間も、青年の右腕はだらりと力無く肩から下へと伸びていた。
その様子をエオリアは静かな表情とは裏腹に胸を締め付けられるような思いを抱く。
これまでにあったことを話すべきか、否か。
青年が確認するかのようにつぶやいている間に、エオリアは我知らず噛んでいる歯に力が入る。
思い浮かぶのは正体がまるで分からない白い光がおこした二つの出来事。
光とともに消えた右腕と周囲の命を吸い取った白い半球。
「エオリア、聞いてる?」
ハッとなって男が青年を見れば、怪訝そうな表情があった。
怪訝な表情はエオリアから眠っているセリアへと移り、言葉が続く。
「あとはセリアの顔に、まるで泣いてたみたいな跡があるんだけど……なにがあったんだ?」
青年の記憶には藍色髪をしたひとりの少女が浮かんでいた。
思い出すと泣いていることが多いリラだが、そんな彼女を見て来たからか、
セリアの顔に残る跡がなんなのかを知りえていた。
銀の横笛を両手にもち、両腕の肘を左右の膝にのせるようにした姿勢でエオリアは考えたのち、
口をひらくその瞬間まで迷いを晴らせないままでいた。
そうして開かれた口からは出たのは部分部分を伏せた言葉。
「アルトを呑み込んだのは巨大な雪食魚だったそうだ。
あのあとこの街……ヴィーボの自警団に所属する龍翼人たちに探してもらったところ、
山中で雪のなかもがいてる巨大な魚を見つけ、不審に思ってしとめたらアルトが発見できたそうだ」
「うわあ……覚えてないけど丸呑みにされたんだ……ごめん、また二人に心配かけて」
丸呑みされたという事実に身震いをしているアルトに対して、
表情にはださず苦悶と呼べる感情を秘めたままエオリアは、
素直に言葉をうけとり内容を疑いなく信じて謝る姿の青年を見つめる。
「……いいんだ、あんな巨大な雪食魚がいたことなど知らなかったのだから。
それよりも、だ。身体におかしいところはないか?」
「おかしいところと言うと、右腕がうまく動かないんだ」
「みぎ、うで?」
「なんか痺れてるっていうのかな。こう腕枕してたら血が通わなくなったときみたいに」
言っている間にアルトは右腕を左手で揉んだりさすったりしている。
「ん、でも動くようになってきたから大丈夫か。たぶん呑まれたときになんかあったんだな」
何も言えないまま男は無言でしばし椅子に座っていたあと、立ち上がった。
「エオリア?」
「……アルトが、目覚めたことを医師殿に伝えてくる。ついでに朝食を持ってくる」
「ああ、わかった」
了解の言葉を受け取ったあとエオリアは扉へと向かい、出て行った。
あとには時おり薪がはぜる音と少女がたてる寝息が室内に残り、
アルトはなにをするでもなく二重の硝子戸となった窓へと眼をやれば、
そこには一面真っ白な世界が広がっていた。
絶え間なく天から降り注ぐ白い雪たちは地面も建物も人すらも白で覆い、
白以外など存在することを許さない世界があった。
その世界を人族のこどもや龍翼人のこどもらが白を蹴散らしながら駆け抜けていった。
窓の外を見とれるようにして顔を向けていれば、しだいに記憶が掘り起こされていく。
ちいさな頃、道路に積もった雪で父親とともに雪だるまを作ったことを、
そして全身雪まみれとなったのを母親に怒られたことを。
自然と笑みが浮かぶなか、わずかに寂しさの感情も青年の身には生まれる。
だが、もう寂しさに不安と涙を得ることはしなくなっていた。
なぜだろう、と自問が沸く。
支えてくれようとする人がいることを知ったから、そう答えが出た。
だけど、とも反論とも呼べない意思も生じた。
両親への寂しさがなくなった代わりに、日々強まる胸の疼き。
藍色髪の少女を思うたびに胸は疼く。
疼きの正体がなんなのか、分からない青年ではなかった。
「リラ……」
右目から一筋の涙がすっと落ちる。
もう旅は半分以上を過ぎ、数ヶ月もしたら元の世界へと戻る日がやってくる。
そのとき、この胸の疼きとともに沸く感情をどうすればいいのか、答えは出ない。
不意になにかが右耳に囁いた。
「えっ……?」
額に当てていた左手から顔を起こしてまわりを見るが、周囲にはだれもいない。
隣の寝台で寝ているセリアは目を覚ましてもいない。
眉をひそめて涙をぬぐっているとまた声。
「君は……誰?」
姿の見えない声、それが青年の右耳には聞こえていた。
● ● ●
アルトたちがいる部屋から宿屋の酒場兼食堂へと向かう若草色髪の男。
急ぐでもなくゆっくりでもない脚の運び、しかし足取りはどこか重く、
前へ進むにはどこか頼りない動きで歩いている。
脚を動かす人間、エオリアの顔は憂いに満ちており、胸のうちもまた曇っていた。
それは青年に対して嘘をついたことを思って。
憂いとともに顔をしかめて歩くエオリアは言い訳のように言葉を内心に作っていく。
言う必要などない、余計な不安を与えるだけだ、知ったところでどうなる、
次々と自分の声が意識に響いては消えていき、必死に後ろめたさを拭おうとする。
「これは騎士殿」
食堂の間へと足を踏み入れたと同時に声が掛けられた。
声の主は片眼鏡の龍翼人、エアリーだった。
まだ朝早いからか騒がしい厨房に対して、食堂にいるのは椅子に座っているエアリーのみ。
「こちらで朝食をとられていたのですか?」
「ははっ……お恥ずかしいことに小生、本を読むことぐらいしか取り柄がなく、
料理などはもっぱら作って頂いたものを食べるばかりでして」
恥ずかしそうに言うエアリーに少し意外そうな顔をするエオリア。
「エアリー様、たしか家内の方が家事をされているのでは……?」
「いや、それがですね……お恥ずかしい話なのですが」
そう言うとエアリーは近くの椅子へと座るよう促し、頷いて座ったエオリアに小声で話しだす。
「元々務めていた司書にくわえ、奏者を迎える使者としての役割も任されてしまったことで、
どうしてもやるべきことが多いため家へと帰る時間がなくなってしまいまして……」
「まさか?」
「ええ、そのまさかです。怒って家へと入れてくれなくなってしまったのです」
「それは……なんと言葉をかけたらよいのか」
いやいや、と苦笑とともに龍翼人は手の平をふる。
「実はこれが初めてではないのでお気遣いは無用です」
「……そのうち二度と家に入れなくなるのでは?」
「そうなったら図書館を寝床とするまでです」
まるでこりていない様子で龍翼人は笑い、ところで、と言葉をつなぐ。
「そのお顔から察するに、なにかありましたので?」
「……アルトが、奏者がさきほど目を覚ましたのです」
「思っていたよりも、早い目覚めですね」
「仰るとおりです」
エオリアの言葉を聞いて、エアリーはひとつ頷いて言う。
「奏者殿に白い光のことについて、話されたのですか?」
「いえ、話すべきかどうかの迷いとともに一晩笛を吹いていましたが、話せませんでした」
「そうですか。いや、そうして当然でしょう」
「当然、ですか……?」
大きく深い頷きを返すエアリー。
「自身が人間でない、そんなことを知ったとき奏者殿は平静でいられるでしょうか。
そしていつ晴れぬとも知れない不安につきまとわれるのではないでしょうか。
自分は一体何者なのか、と」
言われる言葉に、エオリアは拳を握る。
「ならば、ここは伏せておくのが賢明でしょう」
「それで、それでいいのでしょうか?」
「……わかりません。わかりませんが、すくなくとも今話すようなことではないはずです。
だから騎士殿、貴方のとられた選択は間違っておりません」
間違っておりません、その言葉に堅くなっていたエオリアの身体から力が抜ける。
「エアリー様……申し訳ない」
「いやいや、謝っていただくことはなにもありません。小生が思ったことを述べたまでです。
あまりご自分に厳しくあられすぎると毒になるだけですよ」
「そんなに厳しくは考えていなかったのですが」
ややばつが悪そうに頬をかきながらエオリアは答え、そして気づく。
「そういえば目覚めたアルトのために朝食を取りに来ていたのでした」
「そうだったのですか。でしたら小生もご一緒いたしましょう」
「まだ食べておられなかったのですか?」
「さきほど注文したところでしたので。いま頼めば奏者殿らの分も作ってもらえるでしょう」
● ● ●
アルトは部屋の外から聞こえる足音からエオリアが戻ってきたのを悟る。
そして今の状況をどう言うべきか考え、扉が開かれた瞬間に口を開こうとして、
若草色髪の男の背後にいる片眼鏡の龍翼人を見て別の言葉が出た。
「エオリア、後ろの人は?」
「ああ、こちらの方は」
「いやいや、騎士殿。小生から説明いたします」
「わかりました。ではまず料理を――」
机に置きましょう、と言おうとしたら今のいままで眠っていた橙髪の少女が起き上がった。
「ごーはーんーのーにーおーいー」
「……おまえは犬か」
「犬じゃないよー人間ですよー馬鹿ですかー」
「お・ま・え・は!」
「あ、アルトおはよー! 身体大丈夫!?」
「え、あ、うんおはよう」
鼻をくんくんとしていた少女はいきなり青年へと振り返り言葉を掛けるものの、
突然の動きと言葉にアルトは若干引きながらも答える。
「その、セリア、ごめんね。俺のせいで色々心配かけちゃって」
「いいよいいよー無事だったんだからー」
いつもと変わらない風に見えるセリアの言動に呆れながら、しかしエオリアは気づく、
どこかしら今の自分と同じような雰囲気を彼女が漂わせていることを。
だが、そのことは口にせず、エオリアはアルトが寝ている寝台の隣にある机に、
エアリーはセリアが寝ている寝台近くの机に湯気をあげる朝食を置く。
お盆にのせられていたのは、耐熱の器に煮込まれた野菜と肉が敷かれてあり、
上には焦げた乾酪が器全体を覆うようにしてかぶさっている料理だった。
料理を見てセリアは嬉しそうに声をあげる。
「わあああああ。ボクこの焦がし乾酪大好き~!」
「そういえば巫女殿は以前来られたとき、こればかり食べておられましたね」
「うん! ボクこれだけで生きていける!」
「……太ってもいいのか」
ぼそりとつぶやいたエオリアに向かって、寝台にいたアルトの眼前をなにかが横切った。
「っ!」
「ねえ、アルトも食べよ。おいしいよ!」
「う、うん。……エオリア、大丈夫?」
「さすがに寒いなか水球はすこしこたえるな」
無表情に水滴を顔から何粒もたらしながらエオリアは答え、
自身とアルトの分も机に置いて食べれるよう匙を用意していき、
終わったところで右手で顔をぬぐって床へと飛ばした。
「いろいろ騒がしくして申し訳ありません、エアリー様」
「いえ、こう賑やかな食事も久方ありませんでしたからおきになさらずに。
さて、では奏者殿自己紹介してもよろしいでしょうか?」
「は、はいお願いします」
全員が椅子へと座ったところで片眼鏡の龍翼人は説明を始めた。
「小生は風の精地へとつながる街ヴィーボにて、奏者殿をお迎えする使者の役目をおおせつかった、
エアリー・ド・トクサと申します。どうぞエアリーとお呼びください」
「俺はヤマハ・アルヒトと言います。アルトと呼んでもらってかまいません、エアリーさん」
「ありがとうございます、アルト殿」
言葉とともにアルトへ礼をするエアリーを見て青年は気づく、龍翼人の背に翼がないことを。
沸いた疑問を言うべきか言わないべきか、悩んだ瞬間にセリアの声。
「エアリーさんはねー風の図書館の司書もやってるんだよー」
「セリア、エアリー様にはもっと敬意をはらったらどうだ」
「エオリアがかたくるしすぎるだけじゃないー」
「そうです、ラルゴ殿の息子ならば小生にとっても家族同然なのですから」
「……公私は分けるようにしておりますので」
「さきほども言ったでしょう、そんなに厳しくしていては毒ですよと」
「ねーもっと信用してくれてもいいのにねー」
喋る瞬間をのがしてしまったアルトは、目の前で湯気をたてる料理へと匙をつっこみ、
角切りにされた野菜と肉を焦げた乾酪とともにすくいあげ、口へと放り込む。
むっと広がる蒸留酒で煮込まれた野菜と肉の味に、厚めにのった乾酪が歯ごたえをかえす。
「美味しい……」
思わず漏れた声に反応したのか、ふたたびアルトの右耳に囁く声。
料理の美味しさを味わっていたからか、アルトは声に普段通りの様子で答えてしまう。
「いや、食べれないんじゃない?」
周囲にはっきり聞こえる声で言ったため、向かいで食べてるエオリア、
寝台をはさんだ向こうで食べているエアリーとセリアが青年へと視線を集中する。
「アルト……誰に言ってるんだ?」
「どうしたのアルトー?」
あっ、と息をつまらせるように黙った青年は、視線をあちこちに動かして唸ったあと、
匙を持った手を机に置いて眉根を詰めたまま口を開いた。
「実は……起きてから精霊のものらしい声が、聞こえるんだ」
その言葉に一瞬止まってから、エオリアとセリアは焦った声を出す。
「ま、まさか、丸呑みされたときの影響で頭に後遺症が!?」
「だめだよアルト! そんなこと言ってるとリラに痛い人って思われるよー!?」
「二人とも酷いな! 本当に声が聞こえてるんだって!」
ひとり落ち着いた様子でいるエアリーは、興味深げにアルトをみつめたまま。
「いますぐ医師殿に診てもらうんだアルト!」
「いや、待って、待てってエオリア! 本当なんだって!」
「なにを言っている!? 幻聴があるということはだ、頭部内で出血している可能性がある!」
「幻聴かどうか分からないけどさ、怖くなるようなこと言うなよ!」
「リラ……ごめんね、アルトが頭の悪い人になっちゃって……」
「なんでそうなるんだよセリア!?」
焦りの表情で立ち上がったエオリアは詰め寄るように言葉を吐き出し、
セリアがわざとらしく泣きまねをしてつぶやいたところで、アルトから突っ込みが入った。
そこへ龍翼人が言葉をはさむ。
「騎士殿も巫女殿も安心なさってください。
おそらくアルト殿が聞いている声は幻聴ではないでしょう」
「え……? なにか知っているんですかエアリーさん」
三人の動きが止まったなか、尋ねるアルトに対してエアリーは言う。
「直接見聞きしたことではありませんが、風の図書館におさめられている書物に、
風の声を聞くものがいるという記述が残されています」
「風の声を聞くもの……それは一体?」
「主に風の術をあつかえる人間に多いそうですが、
精霊の声を聞き、精霊と話し、精霊と手を結べるものたちだと言われているそうです」
「精霊と、手を結べるものたち、ですか」
「なかなか興味深く面白い記述でして、いまでも研究している人もいます。
実は小生もその一人だったりするのですが」
口を閉じて笑みを浮かべるエアリーに、アルトはふと思い出す。
「あ……じゃあ、風の叫びのこともなにか知りませんか?」
かつて神殿近くにあった村にて起きた悲劇、そして風の術使いだけが聞いた叫び声。
アルトの言葉を聞いてエオリアとセリアは驚いた顔となる。
「アルト、どこでそのことを知ったの?」
「火の旅から帰ってきて、リラのところへ向かったときブッファさんに教えてもらったんだ。
途中で雨宿りするためにその村へ寄ったからさ」
「そうだったんだ……」
セリアがそこで言葉を止めたのを見て、エアリーは口を開く。
「伝聞といった形ではありますが、知っています。
聞けばそれまで声を聞いたことのない風の術使い、それも神殿にいた全員が声を聞いたそうです」
「俺も、ブッファさんから同じことを聞きました」
片眼鏡の龍翼人は頷く。
「ならばあとのことは知ってのとおりです。ただ、当時がどのような状況であったのか、
そのことについて記された書物がありますので、良かったら風の図書館へ行かれますか?」
「はい! お願いします!」
「わかりました、でしたらまずは朝食を冷めないうちに頂いてしまいましょう」
言い終えて龍翼人は先の割れた細長い舌を閉じた口から出し入れした。
● ● ●
赤茶色い耐熱皿に盛られた料理をたいらげて少女が叫ぶ。
「ん~~~~まっかたあああああああ!」
「大声で言うな」
「おいしかった! おいしかった! おいしかったああああ!」
「連呼するんじゃない!」
「でも本当に美味しかったこの料理」
空になった皿へ匙を置いて青年も嬉しそうに言う。
「どうやらアルト殿にも気に入って頂けたようで良かったです。
それでは食器類は小生が食堂にかえしておきましょう」
「いや、それは自分が……」
と言いかけながら立ち上がろうとした瞬間、エオリアは立ちくらみを覚えてふらつく。
「エオリア!?」
「……平気だ、一晩寝ずにいたから眠気に襲われただけだ」
「一晩寝ずにって、まさかずっと笛吹いてたのか?」
顔を手で覆いながらエオリアは頷き、そこへセリアの声。
「だったらアルトの寝台で寝るといーよー」
「そうだよ、俺ならもう身体大丈夫だし、しびれてた右腕もとっくに動くようになったからさ。
エオリアはここで休んでなよ、食器は代わりに返しておくから」
「……わかった、すまん」
「いいよいいよ、俺のほうこそエオリアとセリアに心配かけたんだし」
「あ、そうだ」
なにか閃いたようにセリアが言う。
「だったらアルト着替えてからエアリーさんと食器返してきなよ~」
「え、どうして」
「さっきエアリーさん風の図書館へ案内してくれるって言ってたでしょ。
食器返すついでにちょっと行ってきなよー」
「巫女殿の言うように着替えてからでも小生かまいませんよ」
「あ、ならちょっと着替えてきます。エオリア俺の着替えどこにある?」
「隣の部屋に、置いてある。……待った、着替える前にこれを返す」
眠気に襲われつつあるのか、ややぶっきらぼうな返事とともに、
机のうえに四色の腕飾りと精霊の腕輪が置かれた。
「診察の邪魔になると思って、外しておいた」
「ありがとうエオリア、それじゃあ着替えてきますね」
● ● ●
着替えたアルトともにエアリーは空の食器をお盆にのせて部屋から出て行った。
すでに眠さの限界へと近づきつつあったエオリアは、緩慢な動きでアルトが寝ていた寝台へと転がる。
指で眉間をおさえながら小さく唸っている様子に、隣の寝台に座る少女が吹き出す。
「……笑うんじゃない」
「ごめんごめん」
そこで互いの口は閉じて、室内が暖炉からの音だけに支配される。
暖炉で燃える薪が爆ぜては割れ、また爆ぜては割れる。
静けさを埋めるように爆ぜる音ととは別に薪の燃える音が波打つように部屋へ響く。
眉間をおさえる指はそのままに、男はゆっくりと口を開いた。
「セリア、もしかして起きていたのか?」
言葉には欠けている部分がいくつもあった、それでも意味は通じていた。
「うん、起きてたよ」
物悲しさを感じさせる小さな声を少女は出す。
「そうか……すまない、おまえにも嘘をつかせてしまって」
「いいの。ボクだって貴方の立場なら話せないと思う」
気遣う言葉に、気遣う言葉が返される。
「ひとつだけ、教えてほしいの。アルトの右腕、ボクは確かに持っていた」
でも、
「目が覚めたら右腕はアルトの身体につながっていた。なにが、あったの?」
男は眉間をおさえていた指をはずし、ゆっくり両目を開いて少女を見る。
「……街の詰所で待っていたとき、突然アルトの右腕が白い光とともに消えたんだ」
そして、
「アルトが発見されたとき、右腕はすでにつながった無事な姿だったそうだ」
「また、白い光なの……?」
「ああ、まただ」
少女は包帯の巻かれた自分の傷をさすりながら、つぶやく。
「リラを治したり、取れた右腕をくっつけたり、白い光って癒しの力なのかな」
「それだけ、ではないだろうな」
「うん、ボク覚えてるよ。火の街で戦ったときのこと」
「自分もだ」
男は手の甲を額に当てる。
「もうひとつエアリー様は言っていた。アルトを見つけた周囲の樹々は枯れていて、
近くにはアルトを呑み込んだらしい巨大な魚の骨だけがあったと」
「それだとまるで近くの命を吸い取った、ように思えるね」
「自分もそう思った」
薪が爆ぜた。
「分からないことだらけだ、だからいまは自分たちのなかだけに秘めておきたい」
「うん、貴方の言う通りにするよボクは」
「すまない、セリアにも嘘をつかせてしまって」
「謝らないで、ボクは貴方の助けになると決めたのだから」
「ありが、とう……セ、リア……」
言葉が終わるとともに男は寝息を立て出す。
「お礼を言うのはボクなのに、いつも言わせてくれないのは貴方の良いところよエオリア」
だからと言うように少女は優しく歌い出す、疲労から眠りについた男が良い夢を見られるようにと。
● ● ●
厚着の装束に着替えた黒髪の青年はほころんだ顔で雪道を歩く。
雪国の街並が目の前に広がっていることに好奇心を刺激されているからだった。
「そんなに珍しいものでしょうか?」
隣を歩く片眼鏡の龍翼人は、嬉しそうに煙突のある家屋や空を飛ぶ龍翼人を見ているアルトに問う。
「珍しいというか、雪景色を見てたらいろいろと思い出しちゃって」
「思い出したというのは?」
「元の世界で生活していたときのこと、ですね」
「そうでしたか……やはり、こちらで生活していて不安にはなりますか?」
「最初はやっぱり不安でした。でも、最近はそうでもないです」
雪を強く踏んで、笑みとともに青年は言う。
「俺ひとりで生きてるんじゃない、ってことが分かってきたので」
「それは旅路にて色々と得られたことがあった、ということでしょうか」
「ですね。最近はたまに思います、なんで今まで考えなしで過ごして来たんだろうって」
笑みに苦みが加わる。
「すぐそばに大事なことはあったのに、なんで気づかなかったんだろうとも」
二人のそばを人族と龍翼人のこどもらが雪を散らして挨拶とともに駆け抜けていく。
こどもらに挨拶を返してエアリーが言う。
「後悔をすることが出来るということは、前に進めた証でしょう」
「あんまり前に進めてる実感はないんですけどね」
「自分の変化というものはなかなか気づきにくいものですよ」
それに、と言葉が続く。
「大事なことがなんであるか分かっているならば、前へ進む迷いは薄れるでしょう」
「ええ、俺もそうだと思います。……エアリーさんは大事なことやものってありますか?」
「当然あります。いまでも胸に抱き続けているものがあります」
「それは、信念と呼ぶようなもの、だったりしますか?」
「信念……そう呼んでいいのかどうかはわかりかねますが、譲れないものはあります」
「それは……」
「自分自身の意思、でしょうかね」
「意思?」
歩きながらエアリーは懐かしむように顔をゆがめて上空を見上げる。
「小生、こう見えてもけっこう頑固者でして、小さい頃はかたくなな子供でした。
付け加えて元々両親が図書館に務めていたからというのもありましたが、
小さい頃から本は小生のそばにあったものでした」
「両親も司書をされていたんですか」
「両親だけではありません、小生の一族はずっと風の図書館にて司書を務めていまして、
このヴィーボの街では一番の歴史をもつ一族でもあります」
「す、すごいですね」
「ははは、とはいっても年がら年中本を管理しているだけのようなものですから、
ときおり悪口を飛ばされることもありました」
小さくため息を吐いて龍翼人は話す。
「空を飛ばず、館にこもるしか能のない一族だ、と」
「そんな……」
「いいのです、実際事実であったでしょうから。
しかし、小生はそれで良かったのです。本を読み管理する、その生活に満足していたから」
言いながらエアリーは片手を首裏から下をさするように動かす。
その動きがさするのは翼があれば根元部分となる場所。
「アルト殿も思われているでしょう、小生になぜ翼がないのかを」
「……はい」
「さきほども言ったとおり、一族に飛ばされた悪口は事実なのです。
小生の一族は他の龍翼人たちに比べて翼が小さいものが多く、上手く飛べないものばかりでした。
そして小生も例外ではなかったのです」
アルトは黙って雪道を歩きつつ耳を傾ける。
「家や図書館にいる間は本だけが相手だったから良かったのですが、
街の子らといっしょに勉強をするようになってからは苦痛ばかりでした。
おまえは飛べない、龍翼人としての恥だ、と罵られ蔑まれる日々でもありました」
「そんな、そのままで良かったんですか!?」
わずかに怒りを込めた声を出す青年に対して、龍翼人は頭を振る。
「良くはありませんでした。だから小生は言い返しました。
自分は空を飛ぶことよりも本を読むことだけを望む、と。
それは風の図書館を管理する一族だからではない、小生自らの気持ちだと言って、
小生を非難する相手たちの前で……」
一息。
「背中に生えていた両翼を根元から引きちぎったのです」
「えっ……」
「いまにして思えばもっと他に方法があっただろうとは思うのですが、
不思議と後悔とかはないのです。なぜなら、翼は失ってしまいましたが、
自分の気持ちは失わずに済んだのですから」
「自分の、気持ちですか」
「そうです。それがアルト殿の尋ねられた信念への答えになっていればよいのですが」
「いえ、失いたくないものは俺もありますからわかります。
でも、エアリーさんのように守るためになにかを失っていいかと言われると……」
かつて自分の命を守るために、一人の男は盗賊の命を奪った。
「ならば失わせないようにしたらよいでしょう」
「え?」
「言いましたでしょう。もっと他に方法はあったのです。翼をちぎらずとも、
非難する相手を口論でねじふせたり、周囲の大人にかばってもらうなど色々と。
アルト殿、やり方は決してひとつしかないわけではないのです」
「やり方は、ひとつだけじゃない……」
そうです、と片眼鏡の龍翼人は深く頷いた。
「正解はひとつとは限りません、そのことを考えに留めておかれるとよいでしょう」
「はい、いろいろとありがとうございます」
「いやいや、八十年も昔の恥ずかしい話をしただけです」
「俺にはとても勉強になりましたって、八十年前ってエアリーさん何歳なんですか!?」
「えーと、たしか今年で……九十五になります」
「きゅ、九十五!? てっきり二十代ぐらいかと思ってました!」
大きく口を開いて驚くアルトに対して、エアリーは疑問の色を浮かべる。
「もしかして龍翼人の寿命についてご存知ないので?」
「いや、その人族とあまり変わりないものだとてっきり……」
「ははは、それは驚かれて当然でしょう。小生ら龍翼人は人族が六十から八十まで生きるのに対し、
ほぼ倍以上の百八十から二百ぐらいまで生きるものばかりなのです」
「な、長生きなんですね」
「長生きではありますが、あまり見た目も変わらないので歳もわかりづらいでしょう」
「エアリーさんの声、若くしか聞こえないので全然わかりませんでした……」
「まあこの話しはもうここまでにしておきましょう。そろそろ風の図書館が見えてきましたし」
そういってエアリーが雪景色のなか指さした方向をアルトが見れば、
平べったい半球状に石が積み上げられた大きな建物が雪をその身にのせて建っていた。
それは風の精地へとつながる街ヴィーボにおいてもっとも歴史有る建物、風の図書館だった。