第三十三話 奏者を包む白
耳元には泣き叫ぶセリアの声。
左胸からは普段以上に身体へとひびきわたる鼓動。
一対の視線はおちつきなく上下左右へと揺れる。
エオリアは、目の前で起こった出来事を、理解できないでいた。
「ア……アル、ト……?」
震えを混ぜながら漏れた声、しかし返す者はいない。
男の腕のなかにいる少女は頬を涙で濡らしながら、大声で泣く。
身体に、アルトの右腕を抱きしめながら。
エオリアの視界には、肩の部分で千切れた青年の右腕が映り、
流れ出る血と寒さに抗う体温の高さをしめす湯気も見えてはいるが、
それがなにを意味しているのかが理解できない。
(アルトが、アルトが食われた。なにに?)
繰り返す疑問を何度も何度も意識に思い浮かべながら唾を飲み込む。
ふと気づいて、少女を抱きしめる自分の手を見た、震えている。
どうして震えているんだ、若草色髪の男は自分のことすら理解できない状態となっていた。
止まない吹雪のなか、男は立ち上がり少女をその場へと座らせながら、
たどたどしく力のない歩き方で青年がいた付近へと近づく。
一歩、一歩近づいていくなかで、エオリアはじょじょに状況を理解し始める。
口元から意味のない声を漏らしながら彼は静かに涙を落としていき、
やがて青年がいた大きな穴の開いた雪面近くへ立ったあと、
エオリアは両膝をつき天を仰いだ。
「アルトオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
そして、有らん限りの声で喉を大きく震わしながら叫び続ける。
叫ぶ名前にありとあらゆる感情をのせて。
護れなかった、助けられなかった、失ってしまった、いくつもの言葉と後悔と恐怖が沸く。
叫び続けながらエオリアは天を仰いだ姿勢から、両手を雪面へと叩き付け、
何度も何度も力を込めて雪面を殴りつける、まるでだだを捏ねるこどものように。
その姿を見て、背後で泣き叫んでいた少女は、えずきながら立ち上がり男のそばへ。
少女は腹と腕の傷から垂れる血にはかまいもせず、青年の右腕をだきしめ歩く。
ふらふらと吹雪にゆられながら歩いて少女は、雪面を殴り続ける男のそばに座り、
嗚咽を発しながら彼の背中へと身体を預けた。
しばらく吹雪く音と、雪面を叩く音だけが周囲にひびいたあと、
不意に少女は泣きはらした目とともに顔を持ち上げ山頂のほうへと視線を向けた。
そこにあったのは大きな三つの影が吹雪をものともせず上空から近寄る姿だった。
「エオリア……」
呼びかけに男は反応しない。
その間にも羽ばたく音をたてながら影はエオリアとセリアに近づき、
やがて三つの影のうち一つから声が飛んだ。
「そこにおられるのは奏者様ご一行であられますかぁー!?」
人族でも岩石人でもない龍翼人のものと思わしき声が聞こえて、エオリアは接近してきた影に気づく。
セリアと同様に赤く泣きはらした目と流れる涙を隠すこともなく影へと向け、
すぐそばにいた少女を抱きしめながら立ち上がる。
吹雪をものともせずに二人の前へと現れたのは、鷲に似た巨大な鳥にまたがる龍翼人たちだった。
三つのうち先頭の鳥にいたのは全身に防寒衣装を着込んだ龍翼人だが、背中には翼がなかった。
さらに顔には片目だけの眼鏡を右にかけており、吹雪から隠すように頭巾を押さえている。
「どうしたでありますか? なぜお二人……騎士殿と巫女殿しかおられないんですか?」
片眼鏡をかけた龍翼人は、大穴の近くで支え立つ二人を見て疑問の声を掛ける。
声にエオリアはセリアとともに一歩前へ出て口を開く。
「……アルトが、奏者が何かに呑み込まれてしまった」
「なんですと!? ではこの大穴は……」
「頼む。アルトを探してくれ、お願いだ!」
礼節も挨拶もなくエオリアは懇願するかのように言葉を発する。
言葉を受けて片眼鏡の龍翼人は驚きとともに、巨大鷲の上から大穴を覗き込む動きを見せ、
眉根を詰めてうなったあと後ろへと振り返り言う。
「自警団のお二方は騎士殿と巫女殿を街へと送り届けてください!」
「了解!」
「わかりました! エアリー殿はどうされるおつもりで?」
「小生は付近を飛び回って奏者殿をさがします。お二人も彼らを送ったら手伝ってください」
最後の言葉に巨大鷲の上で槍を背負っていた龍翼人らは頷きを返し、
ともにエオリアとセリアのそばへと巨大鷲を降下させる。
そして雪面へと二人の龍翼人は降り立ち、それぞれ騎士と巫女を乗って来た巨大鷲へと乗せ、
上空へと飛び上がったのち二つの影は速度をあげて山頂へと吹雪のなかに消えていった。
飛んで行ったのを見届けてから、エアリーと呼ばれた片眼鏡の龍翼人は、
眼鏡の位置を爪で直しながらひとりつぶやく。
「さて急ぎませんと……!」
● ● ●
同じ頃、神殿の地下にある図書館。
壁に掛けられた燭台からの蝋燭の明かりが作る薄暗い空間、
いつもよりも空気が冷たくなり始め、吐き出す息も白くなってきたと、
入口近くに設けられた受付代わりの椅子に腰掛ける、司書の女性は思った。
栗色髪をゆっくりとかきあげて見れば、同じように椅子へ腰掛け机に向かって本を読む少女の姿。
図書館に立ち寄る人々の案内などをする傍ら、藍色髪の少女は時間があれば熱心に本を読んでいる。
そういえばと女性が思ったのは、ここ最近少女の読む本が変わってきたことだ。
(ここへ来たばかりの頃は植物関係の本ばかりだったけど、近頃は伝承ものが増えたわね)
ここ十数年、ずっと司書として勤めていた女性はリラを幼いころから知っていた。
両目を包帯で隠していたこと、人目を避けるようにしていたこと、ただ植物とだけ接していたこと。
そんな彼女がいつのまにか包帯を外し、大勢の人とも関わろうとし、
いまは知らない世界へと自ら歩みだそうとしている。
静かに皺が刻まれた顔を微笑へと変化させながら女性は少女を見つめる。
さらに思うのはここしばらくの間にて起こりだした少女の変化。
時々、本を広げたままぼーっとしていることが多い。
棚から本を持って来て読み出したかと思うと、突然頁をめくる手が止まり、そのまま姿勢が固まる。
何事かと思って声を掛けても反応がなく、どうしたものかと思案していると、
弾かれたようにして顔を跳ね上げたりもするのでお互いに気まずい空気になったりもする。
だが、と続けて思ったのはその後の少女の行動だ。
ぼーっとした後は必ずと言っていいほど、本の内容ではなく本の作者について聞いてくる。
それも本を管理している司書の女性が知らないような事柄まで聞いてくるのだから驚きだ。
(この子、時々ぼーっとしているのはなんなのかしら)
本を読むのに熱中していてこちらの動きに気づかない藍色髪の少女。
司書は少しだけ目を細めるようにして少女へ視線を向けた矢先、ふらりと少女の頭が揺れた。
いや、頭だけでなく全身がゆらりと動き、一度後ろへと揺れたあと、ゆっくり前へと倒れこんだ。
「!? ちょっと!」
咄嗟にとばした声に意味はなく、リラは本を触っていた両腕を下にするようにして、机の上へと上半身を倒していった。
司書の女性は椅子から立ち上がって少女へ駆け寄りながら声を掛けるが、少女は反応を返さず机に突っ伏したまま。
肩を揺すったりしながら、長い髪で隠れた顔を起こしてみれば、少女は頬を朱に染めて荒い呼吸をしていた。
「……なにこの熱、それにさっきまで苦しそうな様子はなかったのに」
おでこ付近を手で触ってみれば、体温を越える熱。
怪訝な表情のまま司書は少女を背負い、図書館入口へと向かおうとして、
上から階段を降りて来た人物と出会う。
「おや、どうしたのです」
「これは大神官様! いえ、リラヴェルさんが突然倒れてしまって……」
「それはいけません、すぐに彼女の部屋へ運びましょう。
僕がリラ君を背負いますので、貴女は薬師を呼んで来てもらえますか?」
「わかりました。では代わりにお願いいたします」
「ええ、任されましょう」
言葉とともに老人は司書から少女を譲り受け、少女を揺らさないよう静かに背負う。
そして司書とともに降りて来た階段を登りだし、石造りの通路を歩いていった先にある別れ道で、
老人は神殿で暮らしている人々の住む部屋の方へ、司書は人々が集っているであろう広間へ。
身体を揺らしてしまわないよう老人がゆっくりとしかし急ぎ足で進むなか、
背負われた少女の頭部に身につけられた四花の髪飾りからは、小さく白い光がこぼれていた。
● ● ●
高山の山頂にて樹々とともに家屋が並んで作り出された風景があった。
それは風の精地へと連なる街、ヴィーボ。
ときにゆるく、ときに険しくなる斜面へと並び立てられた家屋の群れは、
冬をしめす白い色によって飾られており、どの家屋にもある煙突からは煙が上がっている。
山頂へと至る道中よりは弱い吹雪のなか、街の上空には巨大鷲に乗った龍翼人や、
自ら飛行している龍翼人らが街を護るように上空を徘徊している。
時折、響く高音が彼らの注意をひきつけ、のちに音の源へと数名が飛んでいき、
事の解決に当たっている様子が見受けられる。
その様子をエオリアは街の入口付近に作られている詰所の窓から見上げていた。
見上げる表情に色はなく、ぼんやりとした目つきをしている。
すぐそばには怪我の手当を受け、目元には赤く泣きはらしたあとを残しながら、
セリアが寝息を立てていた。
決してその手からアルトの右腕を離さずに。
何も言えず、何もできず、何も考えれず、エオリアはただただ空を見ていた。
耳から暖炉で燃えている薪の爆ぜる音が聞こえても一切微動せず、彼は空虚な心でいた。
状況を理解はしたものの事実を受け入れるには事実は重くのしかかり、胸の内を激しく抉る。
知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ち、彼のまとう毛布に染みを作る。
時間だけが無為に過ぎていき、窓から見上げる空は普段よりも早く夕闇を映し出す。
空の色が橙色にそまっていくのを見て、不意にエオリアはセリアを見た。
そう、ただ空の色から彼女の髪を連想し、横へと視線を向けただけだった。
でなければ気づかなかったかもしれない。
少女が抱いている右腕が静かに発光していることに。
エオリアの両目が驚きに見開かれる。
彼が見ている先、厚着の旅装束と手袋につつまれた右腕は、
肩付近で破けた穴から見える四花の腕飾りに巻き付くように白い光を流しており、
装束の布地を通して白い光の粒が浮き出している。
先ほどまでなにも思考していなかった頭が回りだす、なにが起こっているのか、と。
頭の奥でエオリアは自分の声を聞く、この光に見覚えはないか。
いつどこで自分はこの白い光を見た、自問を重ねる。
そうしている間にも、白い光の粒は右腕全体を包んでいき、
宙へとひとつ飛ぶごとに青年の右腕が姿を消していきはじめた。
(なっ……!? 腕が、アルトの腕が消えている!)
見た事のない現象に戸惑いを得ながらも、気づいた。
白い光をどこで見たのかを。
表情が険しくなるのを感じながらエオリアは思う。
(確か、凶暴化した砂蛸と戦ったときの……!)
精霊の腕輪から発されていた白い光。
あの光を見たときエオリアは自分の身体から力が抜けるのを感じた。
しかもそれは彼だけでなく、あのとき周囲に駆けつけた人々も同じだった。
その結果、なにがあったか。
(アルトが人外な動きで砂蛸に向かっていった!)
思い出される記憶には、見えづらい夜の闇をものともせず動き回り、
地面に叩き付けた瞬間も見えなかった凶暴化した砂蛸の足をかわし、
そのまま足に乗り上げて頭部付近を斬りにいったアルトの姿だった。
その動きは、とても常人に真似できるようなものではない。
では、とエオリアは自問する。
目の前で発している白い光はまたも何かを起こそうとしているのか、と。
かつて脱力した経験を思いエオリアはセリアの肩を抱きながら警戒心をあらわにする。
いつでも動けるようにと身構えた視界のなかで、
白い光の粒はつぎつぎと布地を通して宙に浮いては消えていく。
やがてすべての粒が消えたとき、床から金属の落下音がした。
そちらへエオリアが眼をやれば、四花の腕飾りだけがあった。
腕を伸ばして腕飾りを拾い、もういちど視線を少女が抱きしめていたものを見れば、
そこには中身なく潰れている右腕だけの装束と手袋が残っている。
自分の身体にも視線を向けるものの、脱力した感覚や変化はない。
いまだ寝息をたてているセリアを見ても、同様に変化した様子は見受けられない。
なら先ほどの一体なんだったのか。
尽きない疑問だけが胸の内にこびりつき、同時になにが起きていると見上げた空は、暗闇だった。
● ● ●
神殿に住む人々が寝泊まりしている一室。
簡素な調度品が並べられた室内では寝台に藍色髪の少女が寝かされており、
寝台横の椅子には司書の女性が、そばには大神官の老人が立っている。
二人が心配そうに見ている寝台の上で、少女は額に水を絞った布を置かれ、荒い呼吸を繰り返す。
すでに解熱剤となる薬を飲ませてはいるものの、一向に症状が治まる気配はない。
その様子に司書の女性は水の術を用いて、少女の身体を巡る血の浄化を何度も試みる。
「……どうです?」
掛けられた老人の言葉に、司書の女性はただ頭を左右に振るだけ。
その動きを見て老人は思う。
(薬も術も効きにくい体質とは聞いていましたが……ただ見守ることしかできないのでしょうか)
歯がゆい、そんな思いを老人は抱く。
何年、何十年と多くの、出来る限りの多くの命を老人は救ってきた。
災害から救助し、襲いくる凶獣を退治し、致命傷の治癒を行ってきた。。
だが大神官の立場と長年の経験と自らの力をもってしても救えぬ命はあった。
その度に老人は悔しさと苦しさを覚え、笑顔の裏に秘めていた。
積み重ねた年齢から人はいずれ死ぬと分かっていても、
目の前から失われる命を見て黙っていることはできず、
結果失われてしまった命を見て嘆かないでいることもできない。
なんとかならないか、どうにかできないか、常に考え思い動いてはいるものの、現実はままならない。
少しばかり俯いた視界のなかで、動きがあった。
寝台に寝そべっている少女の両腕が動いたのだ。
力無く震えながら持ち上がる両手は、ゆっくりと、ゆっくりと天へと向かっていく。
「リラ君……?」
思わず漏れた声に反応することもなく、老人と女性が見つめているなかで、
荒い呼吸を繰り返す藍色髪の少女は両手を天へと広げて呻く。
青年の名前をうめき声に乗せながら。
「ア……ルト、さ……ん……いか……な、いで……」
少女の髪に飾られた四花の髪飾りは、いまだ白い光を発し続けていた。
● ● ●
見えたのは日差しを反射しながら揺れる水面。
色は真っ白に近い黄色。
言うなれば太陽の光。
瞼を閉じても届く明るい光。
視界へ飛び込んでくる光をまぶしく思いながら、揺れ続ける水面を見た。
ひとりの青年が大の字でゆらゆらと揺れながら水面に映っていたのだ。
あれは誰だ。
俺だ。
問う声と答える声。
ただ流れるなにかに乗って揺れながら、水面に映る青年は思う。
どうしてここにいるのだろう、いつからここにいるのだろう、ここはどこなのだろう、と。
全身に太陽の光を浴びながら重ねて思うのは、暖かいことだ。
まるで父や母にだきしめられているみたいだ。
そんな思いを得れば浮かんでくるのは母親と父親の姿。
眼鏡をかけた厳しい表情の父と、ゆるく波がかった髪の母が思い浮かんだ。
瞬間、二人の姿が水面に映った。
青年を中央に右へ父親、左に母親といった形で。
二人は微笑んでいる。
——父さん、母さん……
声ではなく、意識に生じる言葉。
しかし次の瞬間には崩れ失せるようにして二人の姿は消えていった。
——!?
——待って、置いていかないで!
縋るように生じた言葉とともに意識を水面へ近づけようとしたところで、
右側に圧迫感と水面とは反対側へと引っ張る力が生まれた。
意識をそちらへ向けると、見えたのは黒い靄に包まれた右腕。
蛇のように巻き付く形で右腕全体に黒い靄が覆っていた。
抗うように右腕へ力を込めようとするものの、まるで力が入らず、
逆に強い痛みが刺すように伝わって来る。
——はなせっ! はなせぇ!
右腕を動かそうと意思を込めるたびに痛みが生じ、
次第に意識の内へ黒い靄への恐怖が現れはじめる。
それは正体のわからない黒い靄に対してだけでなく、
水面とは反対にある暗い底へと連れていこうとすることへ負の感情が沸き出す。
——嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! あっちへ行け! 消えろ!
意識のなかで響き渡る絶叫。
だが叫びとは裏腹に右腕を引っ張る力は強まり、徐々に水面から遠ざかっていく。
——待って、父さん、母さん! 俺も、俺もそっちへ……
最後の言葉を意識に響かせようとしたとき、痛みの生じる右腕からではない、
反対の左側から異なる感触があった。
けれども同じように引っ張る力を感じたため、意識には更なる恐怖が沸こうとするが、違った。
水面から差し込む太陽の光にも似た、弱々しくも小さく暖かなぬくもりがそこにはあった。
戸惑いながらも意識を左へと向ければ、白い光によって輪郭を形作る透明な両腕の姿。
掴もうとする青年の左腕よりも細く小さい腕たち、しかし掴もうとする力は必死で、
決して離そうとしない意思を感じられた。
——誰? 誰なんだ?
わからない、ゆえの問いかけ。
当然答えはないものの、しばしの間右の黒に抗いつつ左の白を見ているうちに、
意識のなかに生まれていた恐怖はいつのまにか消え失せていた。
——あたたかい……それに、手放したくない……
左腕を掴んでいる片手を、こちらから握る。
すると透明な腕は安心したかのように柔らかな力で握り返してきた。
覚えのある感触。
そのことを感じて、沸いたひとつの思い。
——帰りたい。
問う声。
——だれのもとへ。
答える声。
——彼女のもとへ。
問う声。
——どうして。
答える声。
——わからない。
続く声。
——それでも、
——俺は彼女のもとにいたい!
叫ぶ青年の声があった。
——じゃあ帰ろう。
答えるように優しく言う青年の声。
同時に右から感じていた圧迫感と痛みが消え、黒い靄が霧散した。
自由になった右腕でもうひとつの透明な腕の手を握り、透明な両腕に引かれるようにして、
水面とは反対の暗い底へと青年の意識は向かいだした。
——いま、そっちへ帰るよ。リラ……
最後に藍色髪の少女の名を思い浮かべて。
● ● ●
吹雪がおさまりだしたことで、高山に生える樹々上空を飛ぶ巨大鷲は、
背にのせた片眼鏡の龍翼人、エアリーからの指示で普段以上に高い空を舞う。
片眼鏡の龍翼人は思う、空は闇へと落ち鷲の眼も効きにくい頃合いだと。
「どこかに、どこかにいないのですか!?」
飛び回ってもう数時間。
鷲を操る自分だけでなく、飛んでいる巨大鷲も体力の限界が近い。
同じように探しまわっている龍翼人たちも引き上げているかもしれない、
そう思いながら必死の思いで片眼鏡の龍翼人は眼下を見ていくなか、
しばらくして鷲がなにかを発見したのか、高い声で鳴く。
「! なにか見つけたでありますか!?」
短い鳴き声を繰り返して、鷲は主人に方向を伝える。
伝えられた方向、右手背後側へと振り向いた。
見えたのは白い光が渦巻く半球状の地面。
「……なんでしょうかあれは」
高い空から見てもはっきりと分かる地面に浮かび上がった白い半球。
近づいたならば相当の大きさではないかとの予想がエアリーには出来た。
「ともかく、行ってみないことにはわからないです」
つぶやき、鷲へと地面に近づくよう指示を出し、ゆっくりと巨大鷲は降下を始める。
そうして地面へと着地したエアリーは雪面へと足を降ろして見上げた。
「……なんです、これは」
数十歩離れた位置から見えるのは大人五人ぐらいを積んだ高さのある白い半球。
横幅も大きく、十人ぐらいが並んでようやく足りるかといった具合だ。
だが、見えているのは表面に渦巻き模様を浮かべる白い半球だけでない。
半球の近くに生えている樹々がどれもこれも枯れていた。
「どうやら、近づかない方が賢明でありますね」
足を止め、後ろに待機する巨大鷲にも動かないよう指示し、
足下の雪を手のなかで整えて雪玉にしたあと、半球の表面へと投げつけた。
とりあえず刺激してみる、エアリーの判断からの行動だ。
「!」
投げた雪玉は放物線を描いて半球の表面に当たる寸前、
壁にぶつかったような形ではじけ散った。
むう、とだけつぶやき片眼鏡の龍翼人はどうするかと思案。
「こんなもの、昨日までは見当たりませんでした。
ならば……奏者殿と関係があると見るべきでありましょう」
早計かもしれませんがね、と胸中につぶやきながらもう一度見上げた瞬間。
白い半球が突如その姿を変えた。
咄嗟に身構えたエアリーの眼前で、半球は右に回転し始めながら中央へと小さくなりだした。
「なんです!?」
疑問の声を放ちつつも身構えを解かずに見ていれば、
小さくなっていく半球はやがて人の形を取り、中央部分に雪の積もった地面へうつ伏せる姿勢で、
ひとりの人物を生み出した。
「黒い髪の青年……間違いない、奏者殿でありますな。ですが……これは一体」
肩口で装束が破れたむきだしの右腕を、前方へと突き出したまま伏している黒髪の青年を見て、
言葉を口にするエアリーは周囲を戸惑いながら見る。
白い半球の壁近くにあった樹々と同じく、半球内にあった樹々は全て枯れており、
また青年が倒れ伏しているそばには巨大な雪食魚らしきものの骨がころがっていた。
そられを自身の視界内におさめながら、エアリーは困惑顔の声で告げる。
「奏者殿……小生は貴方を歓迎すべきなのでしょうか。
それとも、この大地から排除すべきなのでしょうか」
厳しく冷たい風が地面を吹き抜けていった。