第二十四話 磨がれる意識
金属と金属がかすり合い、ときにかち合い、ときに空を斬り合う。
歌声は、金属音と石の床を蹴る足音に合わせて、白い石造りの室内を満たす。
赤と白の線が何度も交差。
相対した黒と若草色の点は円を描くように近づき、遠ざかり、交わる。
声と点と線が作り出す舞を見守るは、室内側に開かれた大扉付近に立つ老人。
白い帽子に白い衣を来た老人は、両手を後ろに結び、ただ視線を舞へと合わせていた。
老人が見つめる先では、熱気を迸る赤、弱々しい奔流の白が映る。
橙髪の少女は両手を左右に広げ、ゆっくりと、ゆっくりと身体を回しながら歌う。
点が床を強く蹴る音と線が甲高く鳴らす金属音とはまるで異なる遅く柔らかい歌声。
しかし老人にはどちらも噛み合っているかのように感じられた。
(まるで正反対、それなのに不思議なものです)
僅かに口端を動かしつつ老人は視線を外さない。
眼を閉じて身体を回す少女は耳からの音だけで歌に拍子を刻む。
青年と男は少女を見ることなく、ただ身体だけを動かして剣舞を重ねる。
やがて橙髪の少女は歌声を弱めていった。
それに呼応するかのように青年と男は見計らったように動きを加速。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、打ち合った。
少女の声は、ひとつ、またひとつと小さく弱くなっていく。
赤と白の剣は正面から噛み合ったのち離れ、持ち手同士が身体を回転させてさらに噛み合う。
うえに、したに、みぎに、ひだりに、まっすぐに剣と剣が噛み合う。
最後のまっすぐな噛み合いとともに少女の歌声は止まる。
剣の持ち手も動きを止め、黒と若草色の両者は、噛み合った剣を解き、
互いに一歩離れて互いが剣を片手で持ち、剣先を当て合い、それを剣舞の締めとした。
● ● ●
巻き起こる拍手。
音の出元は大扉のそばに佇んでいた老人、ではなく背後にいたこどもたち。
「すんげーすごかったー! にいちゃんたちの動きすげえええ!」
「おねーちゃん、なんでなんで見ないで歌って合わせられるの!?」
「とっても優しい歌だったけど、あたしなんでだろちょっと悲しい」
まばらな拍手には様々な感想が付いた。
薄く開いた大扉のそばにいた老人も結んでいた両手を解いて拍手。
目尻をわずかに垂らして笑みとする視線の先には、
剣を鞘に納めた青年と男、ゆっくりと回転しつつ二人に近づく少女。
黒髪の青年は若草色髪の男へと向かって言葉を放つ。
男は黙って聞き、そして頷く。
青年はその頷きへ疲れの浮いた顔を笑みにして返す。
同じように疲れた顔をした男も苦笑を浮かべ、肩を揉むように片手を肩に置く。
その男の方へと回りながら近づいた少女は、そのまま男の方へと倒れ込んだ。
● ● ●
ハッとなった男は赤き大剣を床に落として少女を抱きとめる。
橙髪の少女は紅潮した顔、男は片手を少女のおでこに当てた。
「セリア!? 熱があるじゃないか!」
「えへえへへ、さすがのボクも熱にはかてないやー」
「なにを馬鹿なこと言っている!」
「そうだよセリア、なんで熱があるのを言ってくれなかったんだよ!」
「だってだってーふたりとも……すっごい心配だったんだー」
苦しそうに笑い、少女は言う。
青年と男は苦い顔となって互いに黙る。
「……すまん、セリア」
「そこは、うん、お礼が、ほしいなー」
「……あとで何回でも言ってやる、だからいまは謝らせろ」
「……うん、わかった」
様子がおかしいことを察したのか、大扉そばにいた老人が駆け寄る。
青年が老人を見れば、こどもたちも心配そうに大扉辺りからこちらを見ていた。
「どうしたのです?」
「ブッファさん、セリアが熱を……」
「ふむ、セリアどうなのです?」
「たぶんねー……昨日ずっと起きてたし外で歌ってたからだと思う。あとおなかすいたぁ」
「まったく、心配してるあなたが二人に心配されてどうするのですか」
老人は昨日自分が言った言葉を思い出して苦笑する。
「ごめんねーおとうさん……あとでちゃんとお説教受けるから……」
「わかっています、いまはゆっくり休みなさい」
「うん……」
少女は眼を閉じ、静かな寝息をたてはじめた。
男は両腕で少女を抱き上げて立ち上がるとともに、青年と老人も立ち上がる。
「ブッファさん……セリアは」
「おそらく旅の疲れと、二人を心配して無理をしたことからの熱でしょう。
……アルト君とエオリアの様子ならもう心配がないでしょうし、
ゆっくりと休めば大丈夫ですよ」
「……色々とご迷惑おかけして申し訳ありません」
「エオリア、あなたも、いえアルト君もゆっくり休みなさい。
二人ともそんなに疲れた顔をしていては、ほら」
老人はいつのまにか近くへと来ていたこどもたちの頭をなでる。
小さく寝息をたてる少女を心配そうに見つめ、青年と男を気遣うように声を掛けるこどもたち。
「セリアだけではありません、この子達も心配してくれていたのですからね」
青年はしゃがみこんでこどもたちへと口を開く。
「ありがとう、もう俺平気だから心配しなくても大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「じゃあじゃあまた旅のお話聞かせてよ!」
「あ、ずるい! ぼくアルにいちゃんと遊びたいのに!」
「こらぁ! おにいちゃんたちは疲れてるの!」
途端に騒ぎはじめたこどもたちに疲れた顔ながらも青年は嬉しそうに笑った。
● ● ●
開いた大扉から一人の白き服装の女性が駆けてくる。
「あ、神官さんだー」
「おれあの神官ねーちゃんきらい」
「さいきん振られてたって言ってたもんなー」
足音に振り向いたこどもたちの口からは小声の警戒。
「あんたたち! 全部聞こえてるからね!
それよりも勉強の時間になっても来ないかと思ったらここにいて!」
「わあーっ! にげろー!」
ひとりのこどもがあげた声に、一斉にこどもたちは神官の女性の脇を通って、
開かれた大扉へと走って行った。
あっという間にいなくなったこどもたちを見て呆気にとられる青年。
神官の女性は腰に手を当て怒り顔で大扉の方を見る。
「まったくもー! 逃げ足だけいつも速いんだから!」
「はっはっは……いつもおつかれさまです」
「いえいえ、大神官様。それよりもお手紙が届いてました」
そう言って神官の女性は一通の封筒を老人へ差し出す。
お礼を言って封筒を受け取った老人へ「それでは失礼します」と女性は去って行く。
老人のそばでは立ち上がった青年が、男の腕のなかで眠る少女を心配そうに見ていた。
男の方は心配しつつも柔らかな眼で少女を見ている。
ふむ、と声を出して老人は封筒の宛名を見た。
「おや、エラールさんからですか。そういえば……」
そこまでを口にして老人は、神殿に献花用の花が届けられていないことに気づく。
エラールの名に反応したのか青年が顔を老人に向けた。
「なにか、あったのでしょうか」
普段届くことのない花屋からの手紙。
そしていまだに届けられていない花。
老人は曇る心とともに封筒の封を破き、なかの手紙を取り出す。
取り出された手紙には横に書かれた文字。
宛先として老人の名、そして献花用の花を届けるのが遅れることを詫びる文章、
そのあとに書かれている文章に眼をやった老人は思わずつぶやく。
「リラ君が倒れた……?」
「……っ!?」
老人の背後から聞こえる青年の驚き声。
後ろに振り向けば、老人の方へと一歩踏み出した姿勢の青年。
「大神官殿、その手紙には一体なんと?」
少女を抱きかかえた男は訝しげな視線とともに言葉を投げる。
老人は、応えない。
「大神官殿……?」
視線を左から右へと動かしていた老人は、やがて手紙の右下にて視線を止めると一息。
背後へと振り向いた老人の顔は無表情。
「ブッファさん……リラに、なにがあったんですか」
酷く焦った声が青年の口から漏れた。
(……たたでさえ命のやりとりで苦しんでいるのに、ここへ来てこれは……)
老人はどう話したものか、顔には出さず内心で数秒思考する。
焦れるような視線が男と青年から届くなか、老人は口を開く。
「……疲れからか、リラ君が倒れたそうです。そして、病にもかかってしまった、と」
「なっ!」
「……」
男が声をあげる横、青年は口を半開きにして愕然とした顔。
半開きだった口が締まると同時に青年は大扉へと走りだす。
が、老人は青年の腕をとって止める。
「は、離してください! いかないと、俺、いかなきゃ!」
「……」
掴まれた腕を離そうとする青年の力は強い。
「落ち着きなさい、アルト君!」
「……っ! 落ち着けませんっ!」
怒鳴る老人の腕を振り払った青年は、激高の声を放つ。
「リラが、俺を、俺を支えにしてくれる、あの子が、俺を……!」
放たれた声は、やがて小さく涙声となり、しぼんでいった。
老人は見る、目の前の青年を。
身体を震わせ、両手は握り拳、目尻からは幾つもの涙。
「怒鳴ってしまって、悪かったですねアルト君」
「いえ、いいえ、でも俺、俺、リラに会わないと、会いたいんです。
会って、会って言いたいんです。ありがとうって、それだけを」
震える青年は、右手で涙を拭う。
「だから、だから行かせてください! リラのところへ!」
力のこもった視線が、老人の眼を捉えた。
横、男の腕のなかで瞼を閉じていた少女から声。
「おとーさん……いかせて、ほしいな。リラ、きっと、すごくさびしいと、おもうから」
「セリア……大神官殿、自分からも、お願いします。アルトを、行かせてやってください」
少女と男からの願い、それを聞いて大神官は思う。
(アルト君は……奏者。その彼を護り導く騎士と巫女は、疲労と熱で動けない……
だからと言って、アルト君ひとりを行かせるわけにも、いきませんね)
いつのまにか下を向きかけていた顔を持ち上げて大神官は言った。
「すぐに出られる準備をしなさいアルト君、僕が同行しましょう」
● ● ●
神殿外、多くの人々が二頭の馬近くに集まっている。
白い服装をした神官やこどもたちなどの声。
彼らの上空を灰色の雲が通りすぎていく。
「アルにーちゃん、ぜったいまたお話きかせてよ!」
「大神官様、念のために言っときますがお酒は駄目ですから」
「いまからだとすぐ日が暮れるから、明日の朝にでも……」
馬に跨がる旅衣装の青年、隣の馬に跨がるのは長衣と一体化した頭巾を被る老人。
二人はそれぞれ掛けられる声に応えつつ、手綱を動かし馬を歩かせ始める。
動き始めたところで青年は、神殿へと振り向く。
神殿の出入口では若草色髪の男が立っていた。
男と青年、互いに頷きを返し、青年は前へと視線を戻した。
● ● ●
神殿から地の方角へと伸びる、煉瓦で作られた街道。
街道を掛けていく馬の脚が立てる音は早く、乗り手は馬にしがみつくようにしている。
二頭の馬に乗ったそれぞれの乗り手は無言。
神殿を出る時点で山へと沈みかかっていた太陽は、いまや夕闇を空へ映す。
上空を流れていた灰色の雲は、馬へと小雨を降らしてもいた。
一定の音を立てて街道を駆けていく馬に揺られながら、
青年は包帯を巻いた少女のことを考えていた。
この世界へと来て出会ったときのこと、歓迎祭での出来事、
地の旅へと旅立つ際でのやりとり、日々送る手紙のこと。
どれもが大切で大事なこと、青年はそう思う。
そして包帯の少女から届けられた手紙。
右手で背後に身につけた鞄に触れる。
鞄にしまった少女からの手紙を思い、青年は身体に力を込めて手綱を握る。
小雨は、大粒の雨へと変わろうとしていた。
● ● ●
「……! ……!」
雨が長衣の頭巾を叩く音ともに叫び声が耳に入った。
青年は手綱を引いて馬を止め、振り向く。
やや離れた場所からカンテラを付けた馬が追いついてくる。
(あ……しまった、ブッファさんのこと忘れてた)
青年の馬に追いついたところで老人は馬上から言う。
「アルト君! もう今日は休みましょう! 雨も酷くなりそうですし!」
「はい、わかりました! でもどこで休んだら!?」
雨音に消えてしまわないよう老人は大声で言い、青年もそれに習う。
「僕に心当たりがありますから付いて来てください!」
そう言うと老人は街道を外れて右へと馬を歩かせる。
青年も黙って老人の行く方へと馬を歩かせた。
● ● ●
街道から外れ、数分して見えて来たのは雨と暗闇に覆われた家屋の群れ。
(こんなところに家が……でも、灯りがない?)
雨が降り続ける視界には暗闇に輪郭だけが浮いた家屋の姿が遠くにある。
疑問を抱いたまま青年は前を行く老人の馬を追いかけていきーー
「止まって!」
怒声が前方から青年へと飛ぶ。
声に身体が一瞬だけ震えて反応し、馬とともに青年は動きが止まる。
馬の足元で泥が跳ねた。
「ブ、ブッファさん……?」
見れば、前方を進んでいた老人は馬の背から降り、
馬に身につけさせていたランタンを持って一歩、雨の闇へと踏み込んだ。
雨や土とは違う臭いが、漂う。
「うっ……血の、におい?」
顔をしかめ、雨に濡れた腕で鼻を塞ぐようにして前を見れば、
暗闇のなかをこちらへと近づいてくる存在がある。
ランタンの灯りが反射したのか、近づく存在の眼に光が反射。
左上へとつり上がった細い動向の瞳がひとつ見えた。
「! ブッファさん!」
「じっとしてなさい!」
「なに言ってるんですか!」
青年は地上へと降り立ち、濡れた長衣の下から白き剣を抜いて老人の横に並ぶ。
両手で構えた剣はランタンの光を大きく周囲にはね返していく。
光は闇へと広がり、近づく存在を映し出す。
「……こんなときに獣と出くわすとは……」
「ブッファさん……どうするんですか?」
「逃げるには遅いですから迎え撃つしかありません」
二人に近づいてくる獣は青年の肩ほどまである体躯を備え、
冷たい空気に白くなる息を吐き出す口元には、腕ほどに太い牙。
低い唸り声、とともに黄色の瞳が青年を強く睨みつける。
(こんなときに、相手してる場合じゃないのに!)
少女のことを思い、焦りと不安が胸に生じ、白き剣を握る手は力を得る。
獣がひとつ、顎を天に向け、吼えた。
咆哮に反応して老人はランタンを頭上へと掲げれば、
「っ!」
灯りに照らされた獣は手負いの様相だった。
黄色の瞳を持った眼はひとつしかなく、右側は棒のようなものを突っ込まれて血を流しており、
右の頬付近を幾つものひっかき傷らしきものが血を流させてもいた。
しかし、獣自身が流す血とは別に、口元の牙には、地面へと垂れ落ちる赤い血。
「どうやら、ほかの獣とやりあったみたいですね」
カンテラを左手に持ち、老人は懐から黒い一本の杖を取り出す。
「アルト君、僕が相手をするので下がってなさい」
「俺だってやれます!」
「……アルト君、貴方は奏者なのです。貴方は護られなければいけないのです」
厳しい口調で放たれた言葉に青年は面食らう。
「な、なにを言ってるんですか!」
「アルト君」
獣が跳びかかる。
青年へと跳びかかった獣の前へと老人は立つ。
獣は数歩の距離を一瞬の跳躍で埋め、顎を大きく開いて獲物を噛み砕こうとする。
寸前、老人の右手が左から右へと低い風切り音とともに、長衣をひるがえして振り抜かれた。
なにかが砕けるようなにぶい音。
呆気にとられた顔で青年は老人を見る。
「アルト君、君は奏者なのです。
百年に一度、この大地へと喚ばれる大事な客人でもあるのです」
左から杖で殴られた獣は勢いを失って二人の右側へと転がる。
よろめきつつも甲高い声で鳴きわめきながら立ち上がった獣の顔は、
青年から見て左半分が言葉にできないほど血にまみれ、崩れていた。
先ほどよりも荒く短い呼吸を繰り返しながら血を垂らす獣の姿に、青年は絶句。
老人が、獣に一歩近づく。
「そして僕たち神殿に仕える者達は、客人をもてなし、護り、
無事に還すことを役目として負っているのです」
老人が右手に携えた黒い杖から炎が吹き出す。
杖が天を向いた側から吹き出す炎は、降り落ちる雨粒を蒸発させていく。
大柄な獣は怯えるようにあとずさるが、老人は追うかの如くさらに一歩を踏み出す。
「その役目を、神殿は三千年間、護り通してきたのです」
三歩目を踏み出すと同時に老人は、杖を振りかぶり、跳ぶ。
獣が意表を突かれ、老人よりも大きな身をすくませた。
上段から炎を伴った杖が、地面へと跳躍の勢いを持ったまま、振り下ろされた。
血と、肉が焦げる臭いが、強く青年の鼻を打つ。
地面へとしゃんがみこむような姿勢から立ち上がった老人は、
杖を軽く振って付いてしまった血を地面へと飛ばす。
それでも落ちなかった分は、懐から取り出した布で拭い取り、懐へと布とともに杖をしまう。
ぬかるんだ地面に立ったまま青年へと振り返る老人。
「さあ、行きましょう」
老人は普段の口調で、青年へと言葉を投げかけた。
● ● ●
雨が降り続けるなか、青年と老人は馬を引いて、
暗闇に輪郭だけを浮かべる家屋の側を歩いていく。
青年は左右を見渡しつつ暗闇に眼をこらせば、見えてくるのは所々が朽ちて壊れた家屋ばかり。
雨でぬかるんだ地面は雨を弾き、泥を跳ねさせ、歩く者を汚す。
青年の前を歩く老人は、何も言わず、歩みを進める。
少しだけ声を掛けるのをためらった青年は、しかし言葉を口にした。
「ブッファさん、ここって一体……」
一拍の間。
「……ここは、昔あった村なのです」
「どうして、いまは人が住んでいないんですか?」
「ある日、凶獣の群れが、村を襲ったからです」
「凶獣の群れが……? 一体どうして……?」
前を歩く老人は、黙って左右に顔を振る。
雨粒が地面を叩く。
時に連続して、時に間を空いて音は地面を叩き、ひとつの曲のように音は連なっていく。
沈黙は、雨の音とぬかるんだ地面を進む足音を聞く。
「僕が……まだ大神官になったばかりの頃、でした」
混じる、ひとつの声。
雨音に消されそうで、それでも聞こえてくる声。
「神殿に近かったこの村には、多くの人々が住んでいました」
地面に倒れ込んだ、家屋だったものと思われる木材をまたぐ。
「最初に異変を知らせたのは、風、でした」
意味をはかりかねたのか青年は疑問を浮かべ、
「風が……風がどうやって?」
言葉を述べる。
「神殿にいた風を扱う術者、皆が聞いたのです。 風の叫びを。
叫びを聞いた術者は、真っ青な顔になったり、倒れ込むものがいました」
雨音と足音。
「風の叫びを辿るようにして、ここへ来たときには……酷い有様でした」
言葉は、唇を噛み締めるように言い切られた。
「それでも生き残った村人もいたのですが、皆がここを離れていきました」
なにかが小刻みに揺れている音。
「そして、風の叫びを聞いた術者のなかには、術を使えなくなったり、
声を出せなくなったりする者などがいました」
その言葉に青年は、はっとするが何も言わず歩く。
「このお話は、ここで終わりです」
老人は、言葉とともに足を止めて右へと振り向き、
視線の方向にあるさほど壊れていない家屋へと近づき、馬を止めてランタンとともに室内をのぞく。
のぞいた顔をもどしてひとつ頷き、老人は青年へと振り向いた。
「主はいませんが、今夜はここをお借りしましょう」
青年は心無しか冷たくなった雨を長衣越しに感じながら、重く頷いた。
● ● ●
天井を叩く雨音を聞いて、二人は濡れた長衣を脱ぎ干し、
馬に吊るしてあった袋から取り出した布で、雨に濡れた馬の身体を拭う。
色褪せた調度品が散らかり、ほこりが積もる床には室内を照らすランタン。
「この子たちも入れる場所があったのが幸いですね」
馬の身体をふき終えた老人がつぶやく。
そうですね、と青年が返し、同じくふき終える。
一息ついた様子で老人と青年が床に腰をおろそうとして響く異音。
びくりと反応した二人は、異音が聞こえた先、光が届いていない室内の奥を見た。
青年は、腰の剣に手を置きながら暗闇に眼をこらし、見つける。
「動物? ……兎?」
暗闇に慣れた視界には、後ろをかばうように身体を広げ、
しかし身震いしながら威嚇の声を出す生き物が一体。
老人は黒い杖をしまいながら息を吐き出す。
「いえ……どうやら棘兎のようです。
折れてはいますが額に棘の根元が見えます」
老人に言われて見た先には棘を根元近くで失い、威嚇の声を出す兎。
「もしかして、さっきの獣がやりあったのは」
「この棘兎、かもしれませんね。 しかし、この棘兎怪我はしてないようですが」
「そういえばあの獣、口元から血を……」
思い出して吐き気を催すが、堪える。
歯を食いしばって棘兎を見ていると青年は気づく、背後に倒れたなにかを。
眉をひそめ、一歩踏み出す。
膝ほどもない棘兎はさらに身体を大きく見せようと毛を逆立てて威嚇。
「……ブッファさん、ここ、出ませんか?」
「アルト君? どうしたのですか?」
無言で、威嚇する棘兎のうしろを指差す青年。
床のランタンを手に取り、老人がかざせばそこには、
腹部を大きくしたもう一匹の棘兎が後ろ足を食いちぎられた形で倒れていた。
息絶えているのか、倒れた棘兎は身じろぎすらしない。
(つがい、でしょうか。 なんともやりきれない気持ちになりますね)
薄く瞼を下げて老人は棘兎たちを見る。
青年は棘兎たちを見たまま、腰を下ろし眼を威嚇し続ける棘兎と眼を合わせた。
「ごめんよ、俺たちここ出るから安心してほしい」
落ち着いた声色で語りかける青年、しかし棘兎は威嚇のまま。
それでも青年は頷いて立ち上がり、再び長衣をまとう。
老人も同じようにして長衣をまとって馬を引く。
「すみませんブッファさん、せっかく見つけてもらった場所なのに」
「いえいえ、構いませんよ。 僕としても同じ気持ちでしたからね」
二人は棘兎たちを背後に、家屋を出た。
● ● ●
数十分後、再びあまり朽ちても壊れてもいない家屋を見つけ、二人と二頭は雨風をやりすごす。
壊れていない暖炉には術で生み出された炎があり、室内を灯りと暖かみで満たす。
手近な家具に腰掛け、炎で暖めたスープをすする青年と老人。
馬は持ち運んで来た飼葉を食べている。
スープを飲み終えたところで、青年は口を開いた。
「ブッファさん……どうして、あの棘兎は襲われたんでしょうか」
老人は無言。
「どうして、生き物はほかの生き物を襲うんでしょうか」
スープを飲む音。
「どうして、殺して、殺し合ってまで生きるんでしょうか」
雨と風が家屋に音と響かせる。
「俺には、俺にはわかっていても理解できませんっ!」
老人は、何も言わずに湯気のたつスープを飲む。
「元の世界じゃ、だれも襲う必要なんてなかった。
だれも殺し合う必要なんてなかったのに」
器を持つ手に力が入る。
「みんな笑ってた、誰も欠けることなんてなく、争いも死も、新聞やTVだけの話だった」
干された長衣から水が滴り落ちた。
「なのに、どうして、どうしてこの世界は、こんなにも、こんなにも……」
言葉にならず、言葉は小さく、言葉はきえていく。
手に持ったスープが入っていた器に、涙がひとつ、ふたつとこぼれ落ちる。
「アルト君……考え過ぎは、毒になるだけですよ……」
静かにつぶやいて老人は、再びスープを飲み始めた。
雨と風は止まず、ただただ家屋に音を響かせる。
青年は疲れや寒さとは別の震えを止められず、
ひとり荒れる感情を抱えたまま涙することしかできなかった。