第二十三話 生死見据えて
主のいない部屋。
扉を開き、歩いてくるのは濡れた髪で視線を下に落とした青年。
力ない足取りで歩き、そのまま寝台へと腰掛け、両手で顔を覆う。
頭のなかには大神官に言われた言葉がこだまするように繰り返される。
顔を覆う姿は部屋の灯りに照らされ、深い深い陰影をその身に宿す。
じっと動かなくなったその姿は、堅い彫刻のよう。
どうしていいかわからず動くに動けない、彫刻からはそんな雰囲気が浮かぶ。
薄く開けてあった窓からは、夜の闇を縄張りとする生物からの鳴き声。
低いもの、高いもの、長いもの、短いもの、様々な声が薄く開いた窓から入る。
彫刻は相変わらず顔を覆ったまま。
じりじりと灯りの火が揺れる。
火が揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
手が、動く。
顔を覆う両手に、力が一瞬こもり、顔を掴んだのちに離れていく。
あらわとなった彫刻の顔には、涙の筋。
だが涙は流れてはいない。
覆う前は力なく下がっていたまぶたはしっかりと開かれ、瞳には力を感じさせた。
口が動く、ちくしょう、と。
次には声も付いていた。
声は連続し、右手は握り拳を作り、大きく振り上げたあと、寝台へと向かう。
拳の衝撃に、強く軋んだ音が生まれる。
悔しさ、苛立ち、不安、言葉では言い表せないほどの感情を込め、
青年は拳を握っては寝台へと何度も振り下ろす。
寝台を殴れば殴るほど、青年の表情は苦しいものになっていく。
十を越えた辺りで、振り下ろされようとした拳に勢いはなくなり、
ゆっくりと寝台へと拳先は落とされた。
● ● ●
「くそ、くそ。ちくしょう……なにを、なにやってたんだ俺」
苦しそうな表情でつぶやかれる声には震え。
「俺は、俺は、この世界を、いったい何だと思ってたんだ」
問いかけにも似たつぶやき、しかし答えは出ていた。
「どっかのゲームや漫画、そんなふうに思ってたに決まってる!」
断言。
「馬鹿だ……俺は、馬鹿だ」
弱く掠れた声。
「リラが、あんなに人を怖がるのに、どうして俺は考えなかったんだ」
この世界は、なんら自分がいた世界と変わらないことを。
笑顔を思い出す度に胸を疼かせる少女は、かつて虐められていたと聞かされた。
だが、青年はなにも思っていなかった。
ただ、そうなのか、と。
「……!」
寝台が強く軋む。
振り下ろされた拳は、深く寝台に掛けられた布に沈む。
自身がかつて抱いていた考え方に、苛立ちと後悔が生まれる。
荒い呼吸音が部屋に響く。
この世界でも、人は死ぬ。
それは分かっていたことだ、だが自分は一番勘違いしていたことがあった、と青年は思う。
「この世界は、優しいだけなんかじゃない……優しい人だけじゃない」
記憶には手足を失いそれでも笑顔で生きる人。
人を殺めることを躊躇するどころか笑顔で殺しにかかる人。
どちらも等しく存在しているのだと青年は理解する。
青年は思う。
きっと召喚されたばかりの自分だったらもっと取り乱していただろう、と。
頭ではっきりと理解していなくても、この世界での旅はぼんやりと自分に教えてくれていた。
生死と向き合うことが必要とされるのだと。
落ち着きを取り戻す呼吸音に合わせて青年の顔からは怒りや苦しみが抜けていく。
それでも顔色は晴れず、青年は俯いた視線を漂わせるばかり。
漂う視線はやがて机の上に灯っている蝋燭台付近にひきよせられていく。
そこにあるのは薄い封筒が幾つか置かれたなかで目立つ、ひとつ厚く大きな封筒。
疑問を得た青年は寝台から立ち上がり、机へと歩みよる。
手に取った封筒からは何枚も入れられた紙の重さがあった。
「……? いったい誰からの?」
裏返しに置かれていた厚みある封筒、手首を捻って表を見れば、
書かれていたのはリラヴェル・カマックの名。
「!」
左胸が強く鼓動する。
「リラから!? でも、なんで……?」
青年は思い出す、地の旅へと出向く前にした少女とのやりとりを。
一方的な自身からの約束、しかし少女からの返信は期待していなかったことを。
だが、目の前にある封筒には包帯の少女の名がある。
椅子に座り、引き出しを引いてなかにある小さな刃物を取り出す。
封がなされている部分に刃をひっかけて一気に切り開く。
わずかに震える手元。
一度、握りこぶしを作り、数度ひらいてとじて、青年は封筒の中身を取り出す。
十数枚の紙束が入っていた。
陽に焼けたのか色褪せた紙だったものから、だんだんとそうでないものへと重ねてあり、
一番上に置いてあった紙面が最近書かれたばかりのものだと青年は気づく。
「出された日付は……火の旅でセンブリの里を出たぐらいか」
俺が帰ってくるまでずっと置いてあったんだ、青年は疼きを得る。
三つ折りにされていた紙を開き、なかに書かれた文章に眼を通せば、
ーーアルトさんへ、リラヴェル・カマックです。無事、お手紙届いていますでしょうか。
ーー無事、届いていたら幸いです。
ーーいきなり、こんなに厚い封筒送って、ごめんなさい。でも、読んで欲しいと思ったし、
ーーせっかくアルトさんが手紙をくれるのに、返せないのは悲しかったからです。
小さく、しかし丁寧に書かれた文字が青年の眼に入ってきた。
ーー私、私ずっと思っていたことがあるんです。
ーーお母さんもセリアさんも、大神官様もエオリアさんも、そしてアルトさんからも、
ーー与えられているだけでいいのだろうか、って。
ーーみんな、みんな何かを持っていて、何かに向かって生きていて、
ーーでも私は私には自分が何を持っているのかわかりません。
ーー何をしたらいいのかもわからなくて、ただお花を育てていました。
紙を握る青年の手、力がこもる。
ーーお花を育てることしか、できないんだと。
肩にも力が入る。
ーーでも、やっぱりお母さんにはかなわなくて、私、駄目だなといつも思っているんです。
ーー駄目な自分、そう思ってるのにみんな、私に優しくしてくれる。
ーーこんな眼を持ってる自分を、みんなが優しくしてくれるんです。
左胸が疼く。
ーーきっと私が駄目だから、そう思っていたんです。
ーーアルトさんは、違いました。
ーー褒めてくれました。
ーー私が、私が育てたお花を、綺麗だと言ってくれました。
大きく疼いた。
ーーそして、アルトさんは種をくれました。
ーー私なら育てられる、そう言って種をくれました。
ーー私はいま、夜露草を咲かせるために頑張ってます。
ーーうまくいくかも分かりません、駄目、かもしれません。
ーーでも、諦めたくない、そう思いました。
ーーだから、アルトさん、無事に帰ってきてください。
ーーまた、私のお花を見てください。
ーー私、綺麗なお花を咲かせてみせますから。
青年はしばらくの間、紙を握って動かない。
ーーそれと、いままでアルトさんが送ってくれた手紙を読んで思ったこと、
ーーそのときそのとき書き綴ったものを同封しました。
ーー私、アルトさんからの手紙、とても嬉しかったです。
ーーだから私からの手紙も喜んで受け取ってくれたなら私は幸いです。
リラヴェル・カマック、文章の最後は柔らかな文字で書かれた名前で締められていた。
最後まで眼を通し終えたところで青年は瞼をかるく閉じる。
そして眼を開く。
「……ありがとうリラ。ちゃんと読むよ、君からの手紙」
● ● ●
朝を告げる動物の鳴き声が近くの草原からひびく。
太陽が山間から顔を出し、暗かった空を金色に塗り替える。
金色となっていく空を見上げながら橙髪の少女が石造りの階段で歌う。
一日の始まりを祝う言葉を乗せて歌声は空のかなたへ。
翼を広げて土の方角へと飛んで行く群れ。
周囲を見渡し、俊敏な動きで草原を駆けていく小さな影たち。
さらに小さき虫は花の花弁へ留まり、蜜を探る。
少女はそれらの動きを眼で追いかけつつ歌う。
山間から大地へと日差しが照る。
まぶしそうに少女は眼をほそめ、身体に日差しを浴びる。
冷えた身体を溶かすように日差しの熱は全身を包んでいき、
気持ちまでが暖かくなっていくように少女は感じていた。
歌声も無意識に高まり、音程を上げて声を放っていく。
悲しい歌、楽しい歌、寂しい歌、強がる歌、笑顔の歌、つぎつぎと歌う。
座った石段から脚を投げ出し、ぶらぶらと左右に揺らしながら少女は歌う。
日差しであったまっていく身体を揺らす脚に合わせて左右に動かす。
両手を腿にはさんで、そこを支点としながら揺れ歌う。
歌う、少女は、歌う。
その顔からは涙が流れていようとも、歌う。
二人を想って、歌う。
● ● ●
太陽が南天付近まであがってきたところで、黒髪の青年は扉から通路へと出た。
眼の下にはうっすらと隈があるが、眼には力がある。
左手で扉を閉め、歩き出す右手には鞘に納められた白き剣。
通路ですれ違う人々にはっきりとした声で挨拶を返し、
子供達には笑顔で応対し、また歩く。
石の床を踏む脚に力はあり、響かせる足音は鋭い。
誰かを探すかのように左右へと視線を飛ばしながら青年は歩く。
やがて目当ての人物を見つけ、青年は小走りとなる。
「ブッファさん!」
目当ての人物がいたのは神殿の出入口付近。
白き帽子を被った禿頭の老人は、呼ばれた声に振り向き、
黒髪の青年を見て驚きの顔となったあと、穏和な表情となる。
「おはようございます、アルト君」
「おはようございます、ブッファさん」
足を止めた老人に合わせて青年も足を止めて挨拶を返す。
「どうしたのですか? ……まだゆっくりと休んで頂いて結構ですよ」
昨夜のことを思い、老人は青年を気遣うように言葉をつむぐ。
青年は小さく頭を振り、言う。
「いえ……昨日はいろいろとすいません」
言葉とともに青年は頭を下げる。
頭を下げた青年を老人はじっと見守る。
青年が頭を上げ、隈のある眼で老人を見た。
神殿出入口から二人を見る視線がひとつ。
「まだ、ちゃんと俺はこの世界のこと、向き合えてなかったです」
老人は口を開かずに青年の言葉を聞く。
「今も向き合えてるとは言えないんですが、それでも考えました」
剣の鞘を握った右手に力がこもる。
「逃げずに向き合っていきたい、って」
逃げずに、その部分を強調して言う青年、脳裏には元の世界でただ遊んでばかりいて、
将来のことを考えもしなかった自分が思い浮かんでいた。
「ただ、それは世界のことだけじゃなく、人にもそうでありたいんです」
一晩かけて読んだ包帯の少女からの手紙、自分が送った手紙へ欠かすことなく書かれた返礼の手紙。
ただ気になる程度でしかなった包帯の少女、しかし彼女は自分をそうと見てはいなかった。
どれだけ自分を信頼し、どれほど自分を支えとしてくれていたか、痛いほど青年は感じとっていた。
「……リラから送られていた手紙を読んで、
俺どれだけ自分のことしか考えてなかったか、気づかされました」
声のトーンが下がる。
「手紙のなかのリラは笑っていました、悲しんでいました。俺のために」
老人は眼を細め、目尻を下げて青年を見ている。
「そして、こんな駄目な俺のことを、リラは待っててくれてるんです!」
僅かに顔をあげて青年は強い口調で言う。
思わず強くなった口調を青年は慌てて誤摩化す。
遠くから走る足音が響く。
「そ、それでお願いがあるんですブッファさん。 俺、リラに会いに行きたいんです。
だからパストラへ行ってもいいでしょうか」
言い終えた青年の顔を見ていた老人は、ふうむとひとつ言って、
「……申し訳ありませんアルト君、僕としては是非行かせてあげたいのですが」
すまなさそうに言う老人に青年は、えっ、と言葉を漏らす。
「いまは……エオリアが動けません」
「エオリアが……?」
疑問の色を持った青年の眼は、老人に向けられたまま。
老人はどう言ったらいいのか迷い、しかし何も言えずにいる。
青年の背後で床を強く蹴る音。
「アルトォー! おっはよー!」
橙髪の少女が、青年の背中に勢いよく飛びついた。
おお、と声をあげた老人は身を回して、倒れこんだ青年を避ける。
悲鳴をあげるまもなく床へと倒れた青年は、勢いよく腕をあげて身体を起こし、少女へと振り向く。
「ってえええええ! なにするんだよセリア!」
床に座った姿勢の少女は、力無く笑った顔。
「んーだってーしんぱいしたんだもーん」
「えっ……あー……ごめん」
「そこはありがとうっていってくれるとボクうれしいなあ」
「そ、そうなの?」
「うん」
「そっか……ありがとう」
「うんうん」
言葉とともに頷いた少女は、立ち上がり倒れた青年に手を差し出し言う。
「ねえアルト、ちょっと着いてきてほしいの」
「へ? どこへ?」
「みはらしのいいところだよー」
少女の手を取って立ち上がる青年。
「けど俺、まだブッファさんと話が……」
「いいからいいからーねえお父さん?」
「……アルト君、またあとで話しましょう」
「よーしよーし、ほらお父さんもいいって言ったしいこー!」
「ええっ!? ちょっとブッファさーん!」
腕を少女に掴まれ青年は神殿の外へと連れて行かれる。
それを笑って見送った老人ではあったが、憂いを含んだ眼をゆっくりと大地の間へと向けた。
大地の間と通路を隔てる大扉は堅く閉じられていた。
● ● ●
左手首を掴んで走る橙髪の少女に引っ張られて青年は外へ。
出た瞬間、刺すような日差しに瞼をつむる。
「うっ……」
思わず右手に持った白き剣を掲げて日差しを遮る。
(……そういえば、日差し浴びるの、ひさしぶりな気がする)
光になれてうっすら開いた瞼からは肌を暖める日差し。
白き剣を持って掲げた手のふちは光を透かして赤い血の巡りを見せる。
その間にも左腕は引っ張られて地面を走っていく。
「あーみつけたぁ! ヒルダさぁーんやっほーい!」
少女が声を出した先、そこでは年配の女性とともに何人かが濡れた衣服を干していた。
年配の女性は少女へと手を振り、掛け声に応える。
ほかの人達も「やあセリアちゃん」「大丈夫かい?顔色悪そうだが」「あ、ねーちゃんおはよー」
口々に少女へと声を掛け、橙髪の少女もそれに応えていく。
「アルト、ちょっとここで待ってて」
「え、あ、おーい」
青年の手首から手をはなした少女は、年配の女性のもとへと駆け寄る。
そこで二言三言、少女は年配の女性へと言葉を放ち、女性は頷いて手を動かす。
少女と女性が一緒に青年の方へと近づく。
「セリア……見晴らしのいいところって?」
「んーふふんーまだだよーそれじゃあヒルダさんお願い!」
力のない笑顔で話す少女は、年配の女性へと言葉を投げ、
言葉に頷いた年配の女性は両手を静かにひろげて瞼を閉じた。
小さな風が通りすぎていく。
風が青年と少女の周りと回る。
大きな風が円柱状に地面から天へと吹き上がる。
これは、と思ったとき、浮遊感を青年は得た。
● ● ●
足裏が地面から離れ、ゆっくりと二人の身体が浮かぶ。
年配の女性は左右に広げた手と腕を、頭の上で閉じるようにゆっくりと持ち上げていく。
持ち上げられていくごとに、風に包まれ浮かぶ青年と少女は地面から遠ざかる。
青年の視線は、地面から普段は見上げる位置にある神殿の彫り模様へと移り、
頭を回して遠く広がる景色を視界に入れた。
「……うわぁ、空飛ぶの二度目だけど、やっぱり気持ちいいなあ」
「でしょでしょーヒルダさんの飛ばし方気持ちいいんだよー」
「そういや、ヒルダさん風の術使いだったんだ。初めて知った」
視線を地面へと戻せば、年配の女性がこちらへと手を振っていた。
青年と少女も手を振り返し、そのまま風の流れに乗って神殿の屋根へと乗り移る。
石造りの屋根へと乗り移ったあとも風は薄く二人を包む。
「あれ、まだ風が残ってる」
「ヒルダさんはねー術の操りかたすごいんだよー
本人が意識してない状態でも思ったままの状態をたもつよう術を操ってるんだー」
「へー美味しいご飯作ってくれるだけじゃないんだ」
「でしょでしょーボクもそのうち使えるようにしてみせるんだー」
両手を広げ、周りながら橙髪の少女は白い屋根を歩いていく。
黒髪の青年はゆっくりとその場で視界を一周。
大樹が見える土、大河が流れいく水、砂漠と火山の火、竜巻と雪がちらつく風、
それぞれの方角を視界に入れつつ眼を細める。
再度、土の方角へと視界を合わせ、すこしばかり旅の記憶に浸り、
続けざまに反対の火の方角へと振り向き、またじっと視界を向けたまま佇む。
「……いい眺め、だね」
「でしょー」
言葉がぽつりと流れ、相槌が返って来た。
まだ半年、いやもう半年経った、と意識に思う。
穏やかな旅路であった土に比べ、火の旅は巨大な生物との闘い、
わけのわからない大精霊からの試練、人間との命のやりとり、
苦しく厳しい出来事ばかりであったことを青年は省みる。
だが、と思考に槍を入れる。
苦しくあったのは自分だけではない、と。
手紙で知った包帯の少女のことを思い、青年は前を歩く橙髪の少女を見る。
(俺と一緒に旅してくれる二人も、きっと苦しかったはず)
どうして今のいままでその考えができなかったのか。
青年は胸のうちに苦い感情を得る。
(なによりエオリアは、直接人を殺めた。けど、そのあとのあいつは……)
苦しく、つらそうな顔をしていたことを、青年は思い出す。
さらに思い出されるのは昨夜の老人の言葉、盗賊は獣扱いされ、
獣を殺すことを罪に思うことなどあるのか、と。
だが、記憶のなかで若草色の男は少なくとも苦しんでいたと青年は思う。
(昨日は分からなかったけど、今ならわかる。ブッファさんもきっと……)
胸の内がさらに苦しくなる。
自分が、自分のことしか見えていなかったと。
空いた左手は胸を強く掴む。
足取りが重くなったとき、声。
いつのまにか俯いた視線を上げれば、橙髪の少女が手招きをしていた。
● ● ●
見れば橙髪の少女は座り込み、白い石作りの屋根に開けられた穴の近くにいた。
長方形に空いた穴はいくつもあった。
「セリア、この穴は?」
「この穴はねー大地の間へと日差しを入れるためのものだよー」
「そうなんだー……ってエオリア!?」
少女の言葉に相槌を返しつつ穴を覗きこんだ青年は、
大地の間中央にある黒い扉の前にて剣を振り回している若草色髪の男を発見する。
男は五歩ほど離れたところで等身大の炎と向き合っており、
剣を振り踊るように地面を蹴って身体を動かしていた。
「エオリア……いったい1人でなにを……?」
「ねーアルト」
隣に座っている少女が空を見上げながら声を掛ける。
いつもの口調、だが声に柔らかさはない。
違和感とともに青年は少女のほうへと振り向く。
「この世界は、こわい?」
「……」
翼ある獣が太陽を横切っていく。
「うん……恐い」
「そっか……じゃあさ」
屋根の上に寝転がって少女は口を開く。
「ボクたちも、こわい?」
「……セリア、それは……」
少女が何を指していまの言葉を言うのか、黒髪の青年は考える。
「ねえ、アルト。ボクはボクが恐いときがあるの」
「えっ?」
「本当のことを言うと、命を奪うようなことはいままでも何度もあったの」
腹に溜めていた息をゆっくりと吐き出しながら言葉が紡がれる。
「数年前、この神殿へ強盗が入ったときがあって、
そのときね……神殿を、みんなを守るって気持ちもあったけど」
ひといき。
「ただ、怖くて怖くて、相手を止める言葉を掛けることもしないで、
ボクは弓から矢を放ってたの」
なにに、と青年は問わない。
「気づいたら寝台で寝ててさーお父さんは気にしないでいいって言ってたけど、
たぶん……ボク以上にお父さんはつらかったんだと思う」
沈んでいく声に青年は言葉を返すこともできない。
「ボクは忘れちゃったから憶えていないけど、お父さんは……見ちゃったと思うの」
少女は両手を天へと伸ばす。
「ボクが命を奪ったところを」
空は晴れている。
「それから考えることがあるの。こんなボクでさえ、人の命が奪える。
人は、簡単に、その命を失い、そして奪う、って」
ひとつひとつ区切り、思いを込めて少女は言葉を放つ。
「ねえ、アルト。あなたは人の命を奪ったわけじゃないのに、どうして苦しそうにしてるの」
背を起こした少女は、まっすぐな瞳で青年の顔を見た。
● ● ●
過去を語った少女の瞳は橙色に澄み、迷いのなさが見てとれる。
青年は、眼をそらすことなく黙ったまま少女の眼を見返す。
数瞬後に青年は口を開く。
「……人が死んだのを間近に見たからってのと、人に殺されそうになった。
そのふたつがさ、大きかったけど何よりもエオリアが殺すのを止められなかったのが、
俺にとっては一番つらかったんだ」
小さな声は、しかし澱みなく、はっきりとした音で言葉となる。
「昨日、ブッファさんに色々言われた。最後なんか叱られたようなもんだった」
思い出す昨夜の老人が見せた態度。
「誰かに叱られたのが久しぶりで、そのうえどれだけ自分が馬鹿だったかも分かった。
それで一晩、リラからの手紙を読みながら考えてたんだ。
どうしたら俺は、エオリアに人殺しをさせないですんだのかって」
天空を一筋の白い雲が走っていく。
「でも、さ。いまのセリアの話を聞いてて思った。そうじゃないって。
エオリアは怖がった俺を、こんな俺を守るためにやむえず殺したんだと」
天を、青年は仰ぎ見る。
「そうだよな、好きで人を殺すわけなんかないよな。
エオリアは俺以上につらいはず……だからあんな苦しい顔、してたんだな。
それにセリアもさ。俺とエオリアのことでつらかったよね?」
苦笑を浮かべて青年を少女を見た。
少女は笑顔。
「心配かけて本当にごめん、それにありがとうセリア」
「どういたしましてーそれでさ、エオリアにはどうするの」
「うん、エオリアにもちゃんと言わなきゃいけないよね」
いまだ薄く風をまとう身体を起こして青年は屋根に立つ。
少女も立ち上がり、青年にと一緒に屋根の穴近くに立つ。
青年は、少女は、屋根の穴から飛び降りた。
● ● ●
若草色髪の男は、ただ無心で赤い大剣を振り回していた。
数歩離れた場所で燃える炎を相手に見立てて、剣を振り舞を踊る。
男はずっとこの行為をしてきた。
眼を包帯で覆う少女を虐めから守れなかったとき。
幼なじみの橙髪の少女がやむを得ず人を殺めたとき。
そして、自身が神殿騎士の務めとして、人を守るために人を殺めたとき。
もう何度この剣舞を繰り返してきたかは分からない。
ただただ、自分の胸から後悔や迷い、そういった感情が失せるまで、
男はひたすらに剣舞を炎とともに踊って来た。
そうすることでしか、自分を許せなくて。
● ● ●
不意に大地の間に響く着地音。
若草色髪の男は音に驚き、動きを止める。
なんだ、と心に抱いて音の方へと振り向き見れば、
そこには力無い笑みとともに片手を振る橙髪の少女と、
白き剣を右手に携えて男に歩みよる黒髪の青年がいた。
「ア、アルト、それにセリア!? ……そうか、上からか」
二人を見て、天井を見上げる男。
青年は濃い疲れを見せる男の顔を見て言う。
「エオリア……まさか、一晩中ここで?」
「……アルトには関係ないことだ」
突き放す口調。
「かんけーなくないよー」
「セリア……おまえ」
声を出した少女を見て、男はなにかに気づく。
青年は男から五歩ほど離れた位置で足を止める。
「セリアに言われちゃったけど、関係はあるよ」
「どこにだ、命を奪ったのは自分。アルトには一切の責任はない」
かたくなに拒む口調に、青年は思わず苦笑が浮かぶ。
「エオリア、ありがとう」
「……なぜ、礼を言う」
「俺を守ってくれたからだよ」
「自分は人殺しだぞ」
「でも、エオリアが俺を守ってくれたのは本当だよ。
守ってくれていなかったら……俺は、死んでいたかもしれない」
男から離れた位置に漂っていた炎が消える。
「エオリアは、命を奪ったけど、助けてもくれたんだ。
だから、俺はおまえに言う。助けてくれてありがとう。
命を、守ってくれてありがとうって」
男は、自分の身体から力が抜けるのを感じた。
「それにさ……ひとりで苦しむこと、ないだろ」
青年は白き剣を鞘から抜き、構える。
「アルト……おまえ」
「見よう見まねになると思うけどさ、半年もエオリアと旅してきたんだ」
「ボクだっていっしょだよー」
「うん、そうだね。セリアも俺もエオリアと一緒に旅して来た。
だから、これからも一緒に、背負っていこう」
男はなんと言ったらいいのか分からず、呆れた顔となっている。
「な、なんだよ、そんな顔しなくてもいいだろ!」
「いや、ならば付き合ってくれよ、友よ」
「……! おう!」
● ● ●
青年の応えた声を合図として剣舞が始まる。
大地の間、中央にある黒き扉の左に黒髪の青年、右に若草色髪の男。
橙髪の少女はひとり歩き、青年と男の真ん中、大地の間の大扉付近に立つ。
奏者は右手に白き剣を、騎士は右手に赤い大剣を掲げて打ち鳴らす。
強く打ち鳴らされた金属音を始まりの音として、巫女は歌い出す。
奏者と騎士、互いに剣を当てあっては、互いの剣をかわす。
しかして、動きは決して一瞬も止まらず、身体を回し、足裏を跳ねさせ、腕を薙ぐ。
歌声は二人の動きに流れを与え、二人の剣戟音は歌声に拍子を与える。
左から足下を薙ぎ払う騎士の一撃は、空へと跳び上がってかわされ、
ーーどれほどの悲しみ、その身にまとっていても、逃げないで、捨てないで、失わないで。
足下を剣が通りぬけようとした瞬間、奏者は両足の踵を剣の腹に落とす。
ーー青い悲しみも、赤い弱さも、黒い不安も、全て自分のいろ。
赤い大剣は踵を受け止め、しかし地にはつかない。
ーーどれだけ、どれほど眼をそむけようと、手を拭おうと、そこにある。
ふっと沈んで、騎士は剣を勢い良く持ち上げ、奏者を飛ばす。
ーーだから、だから、あなたの色で、あなたのぬくもりで、景色を描いて。
空中で身を捻らせ、騎士は腰を支点として天を向いた両足を地面へと回転して着地。
ーー強靭なあなたは大きく広げられた翼。脆い貴方は寒さに震える子鹿。
奏者が着地すると同時に両者は地を蹴る。
ーーだれもが、だれもが弱くあったこと、わすれないで。
一度、二度、三度、四度、五度、剣が交差。
ーーだれもが、だれもが温もりもとめたこと、わすれないで。
同時に剣を床へと突き刺し、剣を支点として互いに飛び蹴りを放ち合う。
ーー弱かったからこそ、強くなったこと、わすれないで。
白き剣の左側から奏者は蹴りと、赤い大剣の右側から騎士は蹴りを。
ーー強さとは、弱さをみとめて、手に入れること、あなたは知っている。
互いの右足の足裏が破裂音をたててかち合う。
ーーだから、だからその強さで、誰かの弱さも抱いてあげて。
足を戻し、二人は床から剣を引き抜き、互いに構える。
ーーあなたの色で、誰かを明るい色に咲かせてあげて。
● ● ●
若草色髪の男と剣を重ね、橙髪の少女の歌声を聞きながら、黒髪の青年は考える。
人は、人の命は、人の思いは、きっと支えあっているのだろう、と。
もうひとつは、誰かが命を奪うとき、誰かが命を守っている、と。
それでも自分はまだまだ未熟で駄目だ、と青年は思う。
未熟であることが、目の前で自分を友と呼んだ男に命を奪わせ、
共に旅をしてきた少女に大きな心配をさせてしまったのだと。
奏者である前に、自分はただの未熟な人間でしかない。
けれど、そんな自分を支えとしてくれる包帯の少女がいる。
強くなりたい、そしてこの世界とちゃんと向き合いたい。
側にいる人を悲しませないためにも、苦しませないためにも。
こんな自分を支えとしてくれる包帯の少女を、支えるために。
青年は、ひとつの強き意思を胸に刻んだ。