第二十一話 傷負いし者達
火の方角より流れて来た厚い雲の群れは、大地へとそそがれる日差しを遮り、
通り過ぎる影とともに暖かな雨を地面へともたらしていく。
乾いた地面へとすぐに吸い込まれる雨の粒が降り注ぐ空間を、
ひとつの影が火の方角から地の方角へと向かって飛んでいく。
独りの龍翼人。
翼をはためかせ、わざと雨に打たれるようにして飛ぶ彼は、
雨で身体の汚れを落とすかのように身体を左右に旋回させながら、地の方角へと飛んでいく。
雨の雫を顔から長く伸びる群青色した一対のあご髭に垂らしつつ、気持ち良さそうに眼を細めている。
気分が良くなったのか、龍翼人は強く翼をはためかせると速度を跳ね上げて雨の空間から抜け出す。
日差しがさす空間へと出た龍翼人の身体は、光沢をその身にまとい、
気持ちが良さそうに鼻歌をうたいながら高度を上げて空を飛んでいく。
高度を上げるとともに暖かくなっていく日差しによって、
龍翼人の肌に付いていた水滴は熱と速度によって消え去り、あとには汚れのない鱗肌となった龍翼人。
そのまま高度と速度を維持したまま飛行を続けていた龍翼人は、
目当てとする街の姿を確認して高度と速度を落としていった。
街の出入口に焚かれた篝火前に降り立った龍翼人は、腰裏に身につけた革の鞄から、
四つの封筒を取り出して宛名を口に出して確認、街へと入っていった。
● ● ●
大通りの傍らにある花屋の前にて、鉢植えの様子を見ていた軽く波がかった金髪の女性は、
遠く火の方角から迫りつつある厚雲と、鼻に漂ってくる雨のにおいから、
今日は店仕舞いとするかね、とつぶやく。
時刻は昼を大きく過ぎて夕刻を告げる鐘が鳴る頃。
雨の気配を察したのか、通りを歩く人々がじょじょに少なくなっていく。
ふう、と息をついた金髪の女性は、ひとりで店前におかれた鉢植えを店内へと運び入れる。
何度目かの運び入れを終えて店内から外へと振り返った女性は、
そこで鉢植えを持つ焦げ茶色の坊主頭を見つける。
鉢植えを地面へと下ろす姿勢から立ち上がった女性は呆れた顔。
女性の視線を受けた坊主頭は、
「よぅ」
「よぅ、じゃないよフラン。何の用だい、それからその鉢植えはこっち、奥まで持っていっておくれ」
「つれねえ言い方じゃねえかよエラ。っとどうせだからもう一個運んでやらぁ」
「やめな。アンタの乱暴な持ち方は見てて怖くなるから」
「わーあったよ」
しぶしぶ右腕に抱くように鉢植えをかかえたまま、
左手で他の鉢植えを持とうとして諦めた坊主頭は、
店内奥へと歩きながら二階へとつながる階段へ視線を向ける。
金髪の女性もつられて階段へと視線を向けて、小さなため息。
「……まだ、リラちゃん顔出さねえんだな」
「……アンタには別に見せなくてもいいんだけどね」
「おっめえ! 人が心配してんのにそう言うかぁ!」
「あーうっさいうっさい。ここで大声出すなって何回言わせるんだい」
しかめっ面をして黙り込んだ坊主頭は、その顔のまま鉢植えをおろし、
「……だけどよぉ、リラちゃんを店先で見なくなったって数日前からーー」
「酒場で噂になってるって言うのかい?」
「ん、ああそうだ。知ってたのか」
鉢植えを持ったことで手についた泥を、衣服を叩いて手から落とす坊主頭。
落とした腰を持ち上げてもういちど金髪の女性とともに店先へと出て、
それぞれ鉢植えを持って店内へと運び入れていく。
「いや、知ってたわけじゃないさ」
広げた手の平よりも少し大きめの幅を持つ鉢植えを、持ち上げて女性は言葉をつなぐ。
「あの子もここ最近は、新しくやってきた客にもちょっとは恐がりつつも応対してるみたいでさ」
坊主頭は自身の身長と同じぐらいの茎を生やす鉢植えを、腰を入れて抱え込む。
「けっこう、いろんな人があの子はどうしたの、最近見ないね、ってよく言われるんだよ」
「……いいことじゃねえか。あんなに恐がりだったリラちゃんがよぉ」
「……いいこと、ねえ」
腰を入れて鉢植えを抱え上げた坊主頭は、足取り重く歩きだす。
「いまでは、いろいろな、奴らから、心配される、ぐらいは、周りと関わって、るわけだ」
奥まで一歩一歩重く歩いた坊主頭は、額に汗を垂らしながら鉢植えを地面へとおろす。
「……フラン、その鉢植えは運ばなくてもいいやつなんだよ」
「それは運ぶ前に言えよ!」
「アンタが勝手に運んだんだろうがっ!」
「ぐっ……わ、わるかったよ」
しょぼくれた顔となる坊主頭にやれやれとつぶやいた金髪の女性は、
小雨が降り出した外を見て、二階を見てもういちどため息をつく。
「……あの子が、外と関わろうと一生懸命なのは分かるさ。
でもねえフラン、それはあの子なりに無理をしてやってることなんだよ」
「無理でも無茶でもいいじゃねえか。リラちゃんは変えたいと思ってんだろ、自分を」
「そうかもしれないね、でもさアンタ。変えようとして自分を変えれたことなんてあったかい?」
「い、いや、あ、あるぞぉ!? 油もの食い過ぎて腹が出るから食べるの少なくしたり」
「阿呆か」
言葉とともに呆れた顔となった女性は、雨の降り出した外を見ながら、近くの丸い椅子に座る。
坊主頭も外へと視線を向けて壁に立ったままもたれかけた。
「食うものや仕事を変えたりすることとは違うんだよ」
机に右の肘をたてて、手の平に頬と顎をのせながら女性は話す。
「ずっと、ずっと気も小さく、人も怖がっていた子が」
雨音が天井を打つ。
「知らない人間とたくさん関わって、気も小さいのを抑え込んで外に出たりする」
坊主頭は黙って唇を強く結んでいる。
「ひとつだけを変えようとしてるんじゃない、あの子は全部、自分の全部を変えようとしてる」
雨雲によって日差しが薄くなっていき、天井にあるランタンの明かりが店内を照らす。
「……そんなことをやってたら、どうなると思う?」
「……たおれちまう、よなぁ」
女性はまぶたを薄く閉じて、言葉への反応とした。
「……倒れるだけならいいさ。心が倒れてしまうことの方が問題さ」
その言葉に坊主頭は訝しげな顔をして女性へと振り向く。
「……アル坊からもらった花の種、枯らしちまったのさ」
女性が言葉を言い終えるとともに、開いた扉を叩く龍翼人の姿があった。
● ● ●
天井からは雨が木材を打つ音が不規則に響く。
明かりもない室内は暗く、黒い雨雲が見える窓硝子は雨の雫で景色を歪ませる。
窓硝子とは反対の壁にある机の上、そこには封筒が置かれたまま。
開いてもいない封筒の横には小さな鉢植えがあったが、
鉢植えに入れられた土の中央には双葉も開かぬまま枯れてしまった夜露草。
赤茶色くなった芽を横に倒して干涸びていた。
机の右側に設えられた寝台では苦しそうな吐息が漏れる。
包帯を目元に巻いた少女が頬に朱を浮かべ、荒い息をしながら横たわっていた。
額には水を絞って丸く巻かれた布が置かれており、少女が熱に苦しんでいることが分かる。
包帯の少女は熱にうなされながらも思考だけをおこなう。
(……なんで、なんで……どうして)
頭のなかに出てくる言葉とともに胸のうちに広がるのは焦りと不安と恐れ。
濁った色をした感情はゆっくりとゆっくりと濃く胸の奥へと流れ込む。
溢れようとする感情が、少女が嫌う景色を見せる。
(……嫌! いやぁ! やめて! おねがい、やめて!)
身体に掛けられた毛布を掴む手に力がこもる。
朦朧とした意識によってまともな思考ができない少女に、感情に逆らう術はなく、
ただただ、自身がかつて経験した過去が意識にとめどなく繰り返される。
涙が、流れた。
室内には苦しそうな吐息だけでなく、嗚咽も混じりだす。
雨音は吐息と嗚咽をかき消すかのごとく、その雨音を強めていく。
夜は雨とともに更けていき、同時にひとりの少女を苦しめていった。
● ● ●
土の壁に囲まれた街から駆け出す馬車が一台。
二頭の馬に引かれながら地の方角へと馬車は駆けていく。
台座には頭に大きな帽子を被った橙髪の少女が手綱を握る。
楽しそうな声を上げて手綱を持ち、歌声を流れ過ぎる風景へと溶かしていった。
「ちょっと意外だ」
「ん? なにがだ?」
荷台から、壁にもたれて台座で歌う少女を見ながら黒髪の青年はつぶやき、
鎧と剣の手入れをしていた若草色髪の男は、そのつぶやきに言葉を返す。
「んーセリアってのんびりしてるから、なんか、うん早さを求めてるのが意外」
手入れをしながら男は、青年と同じ方向に視線を向ける。
そこでは台座にて、早い拍子で歌う少女の姿。
そういえば妙に馬の脚が早いな、そう男は感じた。
「……たまに鬱憤を晴らすようなことをすることはあるが、どうだろうな」
「……ディオソでまた、コルさんにお尻さわられたから、内心怒りがたまってそうだなあ」
「む。たしかに、そうだな。自分が先に腕を取って締め上げることが多かったからな」
「あはは、は。あれはエオリア、やりすぎだと思うよ」
手を止めて真剣に悩んだ顔となる男に、青年は苦笑顔を投げる。
そのまま視線を流れすぎていく背後へと向けた。
視線の先に浮かぶのは、ディオソで出会った三人やセンブリの里へ一緒だった砂の隊商、
里で話を聞いた岩石人の親子に、火の大精霊。
(いまだに分からないなあ……大精霊は俺になにを……だめだ、言葉にならない)
思い出されるのは火の大精霊に見せられた風景の数々。
見せられてから暇さえあれば考えてはいたが、一向に青年には理解が得られなかった。
姿のない家族、誰もいない校庭、眼が黒くくぼんだ藍色髪の少女。
最後のことを思い出したとき、胸が淡く疼いた。
(なんというか、嫌な風景だった、どれもこれも)
淡く疼く横、沸いてくるのは怒りにも似た感情。
続いて意識に浮かび上がってくるのは、若草色髪の男に似た姿で挑んで来た大精霊。
(あれは一体だれだったのだろう。エオリアにすごく似てたけど)
ちらりと横目で再び手入れを始めた男を見る。
目つきや、体格、身体の動かし方などが違うが、顔の形は一緒だった。
青年は思う、なによりも髪の色が同じだった、と。
(あれは……もしかして過去のエオリア、なんだろうか)
本人には問いかけず、自身の胸のなかに向かって青年は問いかける。
青年の視線に気づかず若草色髪の男は黙々と手入れを続けていた。
「エオリアッ!」
馬が走っている方向から、焦りを含んだ声色で男の名が大きく飛んで来た。
手入れで下へと向いていた視線を少女が座る台座へと向けつつ、
若草色髪の男は傍らに置いておいた赤い大剣を左手に掴み台座へと駆け寄る。
青年は突然の声と男の動きに戸惑い、もたついた動作で立ち上がり男と同じ様に台座へと近寄った。
「な、なに!? セリア、どうしたの!?」
台座の後ろに立った青年は戸惑い声のまま、緊張した表情をして手綱を握る少女に問う。
その問いに答えたのは青年の隣に立つ男が指し示した指。
馬が駆けている右側、いくらか距離の離れたところに数頭の馬と、
馬よりも大きな一匹の人が背に乗った蜥蜴がいた。
● ● ●
「あ、あの蜥蜴はっ!?」
馬車内とは違い不安定に揺れる台座裏に立ちながら青年は、
馬の駆ける音と馬車が出す音に消されないよう大声を出して二人に聞く。
青年の視界には数頭の馬が蜥蜴に追われている絵が映っていた。
蜥蜴に乗った男は厚手の布らしきもので口元以外を覆っており、容姿は伺い知れない。
「この辺りで出没するという盗賊が用いる土蜥蜴だ!」
「とべないけれど肉食で脚がはやいからけっこう危険!」
男の言葉に続いて少女の言葉が続く。
「けれど卵から育てることで脚として使われてもいるの!」
「砂漠なら馬よりも早いが、気性が荒いため使われにくい!」
二人からの言葉に緊張感を高める青年。
「……じゃあ、襲ってくるかもしれないのか!?」
「かもしれないではなく、襲ってくる! 背に乗ってる奴はこっちを見ている!」
男の言葉を聞いて青年が蜥蜴の方向へ振り向けば、背に乗った人物が口端を汚く歪めた。
青年は思わず後ずさり、悪寒と気味の悪さを覚える。
「エ、エオリア……ど、どうするんだ!?」
「……安心しろ! 自分が相手をする!」
えっ? と青年が思った瞬間。
馬を追いかけるのをやめて馬車の背後へと着いた蜥蜴へ向かって、
男は台座裏から馬車内を走り、馬車の後部縁へ足裏を着けて跳んだ。
「エ、エオーー」
「アルトッ! お願い代わりに手綱を握って!」
叫ぼうとして、近くからの少女の声に阻まれる。
見れば少女は手綱を台座に引っ掛けて身を台座裏へとひるがえす。
そのまま少女も馬車内に立てかけてあった弓を手にとり、男と同じように跳ぶ。
少女と台座を交互に慌てて見やった青年は、急いで台座へと飛び乗って手綱を握り、
背後へと叫ぶ。
「う、馬を止めたらすぐ行くからっ!」
● ● ●
馬車から跳んだ男は、脚に体重をかけないよう膝をゆっくりと曲げて着地する。
背後に男と同じように着地して立ち上がる橙髪の少女。
少女は矢筒から矢を弓につがえ、男は鞘を横へと放り投げて赤い大剣を正面に構えた。
男と少女の目の前では速度を落として止まる土蜥蜴。
土蜥蜴に乗った人物は手綱を引っ張った姿勢のまま、無言で笑みを浮かべる
「……何の用だ」
若草色髪の男は低い声で言葉を投げた。
男から十歩程度先にいる土蜥蜴は大口を開いて赤く染まった牙を見せつける。
「用? おめぇはあほかぁ?」
土蜥蜴の背に乗った人物は前に乗り出して、馬鹿にするようにして言った。
その言い方に反応せず男は無言。
「俺様はよぉ、噂の奏者さまってやつをみにきただけだぁ」
布をまとった人物は懐をまさぐると、縦に短く幅のある瓶を取り出し、蓋をとって口をつける。
「んっんっぷはぁ。けどよぉ、ただの餓鬼だなぁありゃあ」
酒臭い空気とともに下品な笑いが言葉に続いた。
男の背後で弓を構える少女は、弓をきしらせて身体に力を込める。
「……観に来ただけなら、もういいだろう」
「あぁ? おめぇなにほざいてんだ? あぁ?」
土蜥蜴は我慢できないのか口を開いたまま頭を激しくふる。
布をまとった人物は土蜥蜴の頭をなでて、口を開く。
「奏者さまってのはい〜〜〜っぱいおくりもん、もらってんだろ?
ならよぉ、ちっとはよぉ。わけてくれたっていんじゃねえの?」
若草色髪の男が構える剣から熱気が立ち上る。
「……神殿騎士として貴様をアルトのもとへは行かさん」
「おなじく神殿の巫女として悪行は許しません」
低く威圧するように言葉を発した男は反対に、
背後で弓を構える少女は凛とした声で丁寧な物言い。
二人の言葉に、布をまとった人物はふたたび下品な笑い声をあげる。
笑い声をあげながら、布をまとう人物は付近に火の玉を生み出し、土蜥蜴が威嚇するように咆哮した。
● ● ●
土蜥蜴の咆哮とともに手の平ほどの火の玉数発が、騎士に向かって飛ぶ。
騎士は縦に構えた赤い大剣を横にして巫女の名を叫ぶ。
応えるように矢が放たれ、水を絡ませて飛ぶ矢が火の玉をかき消す。
土蜥蜴の背に乗る人物は腰横から曲剣をとりだして矢をはじく。
そのまま片手で手綱をあやつって土蜥蜴を騎士に向かって突進させた。
十歩程度の距離が数秒で埋まる。
赤い大剣を横に構える騎士は、腰と顔を僅かに下げ、股を広げてその場に留まった。
目前から迫る自身の顔よりも大きな土蜥蜴の口から一切視線をずらさない。
その視線をさえぎるようにして、横にした赤い大剣で土蜥蜴の牙を受け止め、
落とした腰と広げた脚に力を込めて突進を受ける。
突進の線上から巫女は左へと矢をつがえながら動く。
騎士は腰を落として牙を受け止めた姿勢のまま、数十歩の距離を押される。
布をまとった男は蜥蜴の背に立ち、騎士へと先ほどよりも大きな火の玉をぶつようとする。
ぶつけようと手をあげたとき、突然頭をあげて咆哮した土蜥蜴に男は姿勢を崩す。
悪態をつきながら地面へと着地した男が見たのは、
土蜥蜴の右後ろ足へと深く突き刺さった二発の矢。
風切り音とともに男へ矢が飛ぶ。
素早く跳びよけた男は、曲剣を構えて巫女へと駆け出す。
焦った顔となる巫女へ、口端を歪める男。
男が駆け出した背後で、騎士は足にささった矢の痛みで暴れる土蜥蜴から一歩引き、
赤い大剣に炎をまとわりつかせる。
騎士の視界に巫女へと向かう男の姿、しかし騎士は目の前に集中。
騎士の背後から巫女へと向かって風が走って行った。
ちらりと騎士が眼をやったとき、見えたのは黒い風。
視線を土蜥蜴へと戻した騎士は暴れる相手を見据える。
下品な笑い声とともに迫る男に向かって巫女が矢を放つが、矢はよけられ弾かれる。
水の球を生み出して打ち出すも、同じように火の玉を打ち出されて相殺。
あと一歩の距離にまで近づかれ、曲剣が巫女へと振り下ろされた。
だが、曲剣の動きは途中で止められる。
黒髪の奏者が白き剣を構えて曲剣を受け止めていた。
舌打ちが男の口から漏れる。
男は自身の背後へと二度飛び退き、両手でもっていた曲剣から左手を離し、
顔ほどの大きさをした火の玉数個生み出す。
口端を歪めて黒髪の奏者へと火の玉を数個、同時に放った。
男と奏者の距離は四歩、男は思った、避けられないだろう、と。
事実、奏者は避けれなかった。
避ければ後ろにいる巫女に火の玉は当たる、そう思考が走っていた。
結果、奏者が取った行動に男は呆気に取られる。
奏者の間近に迫っていた火の玉全てが叩き弾かれた。
数えるほどもない僅かな間に。
放たれていた火の玉は地面へ、左右の空間へ、上空へと飛んでいった。
白き剣の腹で火の玉を叩き弾いた奏者は、剣を男へと構える。
地面へと弾かれた火の玉がはじけて火の粉と熱気をまき散らす。
黒髪の奏者は熱風を浴びつつも構えをとかない。
背後へ下がって熱風をやりすごした男は、奏者の様子に呻く。
瞬間、矢が、男が右手に持っていた曲剣を撃つ。
鈍い音とともに曲剣があらぬ方向へと吹っ飛ばされた。
奏者の後ろで弓を構えた巫女が、丁寧な物言いで降伏するよう呼びかける。
男は呼びかけへ罵声を返し、土蜥蜴がいた方向へ振り向く。
振り向いたと同時に男の視界には、全身を炎に包まれる土蜥蜴の姿があった。
肉が焼けるにおいをかぎながら見れば、土蜥蜴の前には赤い大剣から炎を噴かせた騎士の姿。
炎をまとったまま土蜥蜴は地面へと力なく倒れ込む。
炎を剣先から噴かせたまま、騎士は赤い大剣を引っさげて男へと歩み出した。
あとずさりつつ、呻き声が男の口元から漏れ続ける。
懐に手を入れた男は先ほど飲んでいた酒の瓶を取り出し、騎士へと投げつけ、奏者へと振り向く。
奏者へと振り向いた男の耳には、瓶が地面へ落ちて、駆け出す騎士の足音。
焦りと怯えを持った表情となった男は、腰裏に身につけてあった短剣を逆手に持ち、
奏者へと跳びかかる。
土蜥蜴の倒れる様子を見て油断していた奏者は、
男の必死な眼に動けなくなっていた。
奏者の顔横を風切り音がひとつ。
男が逆手に持った短剣は、再び巫女の矢によって手元から弾かれた。
それでも男は動きを止めず、空となった右手を奏者へと伸ばす。
奏者は動けない。
奏者の視界が、赤い炎と黒い影、だけとなった。
一瞬ののち、視界がもとに戻る。
動きが止まった男は、右手を伸ばした姿勢のまま前へと倒れた。
血のにおいをかぎながら、奏者は倒れた男を見る。
そこには右肩から左の腰へと向かって深く切り裂いて焼かれた背中。
地面へと倒れた男から視線を上げれば、赤い大剣を振り下ろした姿勢の騎士。
信じられないものを見たかのように驚いた顔となる奏者。
騎士は一度赤い大剣を振って血を地面へと飛ばし、
無言のまま歩いて、倒れている男へと近づく。
奏者は驚いた顔のまま動けない。
騎士は歩みを止めると、赤い大剣を両手で逆手に持ち、構える。
奏者は、驚きから表情をもどし、騎士へ呼びかけるが騎士は応えず。
もう一度呼びかけようとして奏者は腕を掴まれる。
掴まれた方へ振り向けば、巫女が顔を左右に振り、もう助からないと言葉をこぼす。
その言葉を聞いて奏者はふたたび騎士へと振り向く。
騎士は、ひとこと詫びるようにつぶやき、赤い大剣をおろした。
● ● ●
翌日、馬車の手綱を握るのは堅い表情をした若草色髪の男。
男の隣では風景を見ながら小さな声で子供をあやすような声色で歌う橙髪の少女。
昨日とは違ってゆっくりとした速度で走る馬車。
乾いて荒れていた地面からじょじょに緑の多い風景へと変化していくなか、
緩やかな揺れに包まれる馬車の後部では、毛布を頭からかぶって座り込んでいる青年。
じっと膝を立てて座り、両腕で膝を抱え、頭をうつ伏せている。
火の旅は、青年に多くの出会いをもたらし、多くの出来事を経験させ、多くの傷をも、与えた。