第十六話 恐れ胸に前へ
街の通りには行き交う人々の姿、その端っこでは灰色が足取り重く歩みを進める。
建物の壁に手を当て、息苦しそうに灰色の布を被った少女。
包帯を巻いた顔は僅かに俯き、布を握る手は力がこもっていた。
(やっぱり……怖い、恐い……)
耳から聞こえて来る雑踏の喧噪が、少女の胸へ不安と恐れを沸かせる。
頼れる誰かが近くにいないこと、そのことがより一層少女の意思を揺らす。
花屋を出てから少女が歩み進んだ距離はいくらも無い。
しかし、歩み遅く足取り重くあった少女には、それだけでも長く長く感じた距離。
(こんなんじゃ、夜露草のこと……調べられない……)
堪らず少女は涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢しつつ、しゃがみこむ。
胸を包む不安と自身への情けなさから唇を噛み、涙を堪える。
通りを行く人は怪訝な眼差しを灰色へと向けるものの関わりはしない。
いちどしゃがみ込んだ足は鉛のように重く感じられ、少女は動けなくなっていた。
そのことに少女は、否定の意思を胸に唱える。
(嫌……! 嫌なの! お願い動いて! 私は、私は!)
だが足は思い通りにはならない。
少女は涙をこぼす。
小さく呻くような声が閉じた唇から漏れる。
(どうして……どうして、私はこうなの……)
内心を渦巻く暗雲は、自身への嫌悪感へと変わる。
瞼裏には過去にいじめを受けた記憶が映し出され、少女の意識は外を拒絶し始めていた。
● ● ●
帽子を被った男は、拳骨で赤くなった頬を手で押さえながら、通りの向こうへと歩いて行った。
男の後ろ姿を見送る青年と黄土色髪の男。
「ったく、朝から見当たらんと思ったら……すまねえな奏者の兄ちゃん」
「いえ、やばかったから助かりました。リゾルさん」
どこか疲れた顔になった青年は、同じような顔をした黄土色髪の男に言った。
「ところでリゾルさんはどうしてここに?」
「ん、ああ、それは飛んでるコルの奴を見かけたって聞いたからな。
そんでもってどっちへ飛んだかを聞いたらここだったわけだ」
「……街中で飛べば、そりゃ目立ちますよね」
あの人ばれるって思わなかっただろうか、内心でつぶやき呆れる青年。
頭に巻いた布を指でかく男は、どうしたもんかと悩んだ顔をしてから口を開いた。
「うーむ、しかしコルの奴が言ってた案内はワシもしようと思っていたから、そうだな。
兄ちゃんさえ良ければ、街の見回りがてらワシが案内するが」
「ぜひお願いします。というかコルさんは変な案内しかしてくれなかったんで。
あ、帽子売ってるお店に案内してもらえますか。もう暑くて死にそうなんで」
互いに苦笑いとなった二人は、そのまま道を歩きだした。
● ● ●
時間にして数秒、だが少女にとっては長大にも感じられた時間。
いつのまにか俯いた顔を抱えるように、両手は灰色の布をかぶった顔の横へと伸ばされ、
地面へとしゃがみこむ姿勢となった藍色髪の少女。
そっと近づいてくる小さな影。
影は少女のそばまでくると二度、三度鼻をひくつかせ、ひと鳴きする。
少女は鳴き声に気づかない。
影はもう一度鳴き声を上げるが、動かない少女を見てさらに近づく。
背中から顔の前へと回り込んだ影は、少女の顔を見上げて鳴く。
灰色の布の上から耳を塞いでいる少女に鳴き声は届かなかった。
地面へと座り込んだ影は、じっと包帯の巻かれた少女の顔を見る。
影が鳴く。
少女は震えたまま応えない。
首をかしげた影は、そのまま少女の顔に近づきひと舐め。
「きゃっ!?」
不意の刺激に、少女は驚き、腰を地面につける。
布から手を離し、片手を地面につけて前方を見れば黒ぶち模様の猫がいた。
猫は少女がこちらに気づいたことを認めると鳴き声をあげる。
「あ……いつもうちに来る子……」
少女のつぶやきに、猫は嬉しそうに唸り声を出して、地面に着いた腕へとすり寄る。
すり寄って来た猫を恐る恐るもう片方の手で撫でているうちに、
手の平から感じる猫の体温と柔らかく刺激してくる毛並みに、
知らず知らずのうちに強ばっていた少女の顔はほぐれていった。
「そういえば……お家の外で会うの、初めてだね」
微笑を浮かべて少女は言う。
気持ち良さそうになでられている猫。
猫のあごをなでながら少女は思う。
(ん……ちょっとは楽になれたけど、まだ……)
胸元をきつく握りしめる。
少女は立ち上がり、腰の汚れを払ってかがみ込んで猫を見る。
猫は不思議そうな眼で少女を見つめる。
その顔を少女は見てくすっと笑う。
笑い顔のまま手を伸ばして、頭をなでる。
「ねえ……猫さん、私……ひとりじゃだめみたい」
暗く静かに言葉が口から出る。
だから、と続けて唇を動かす。
「猫さん、私に着いて来てくれる?」
言葉に猫は力強く鳴く。
ありがとう、と微笑んだ少女はゆっくりと立ち上がり、
重く感じる足を動かしつつ歩み始め、黒ぶち模様の猫は少女の足に寄り添って着いていく。
● ● ●
「あの、良かったんですか、お金出してもらって?」
「いいっていいって! 兄ちゃんらには砂蛸倒しに協力してもらったからな」
「そんな大したことしてないんですけど……」
苦笑しつつ答える青年に、笑い声を立てる黄土色髪の男。
青年の手には三つ分の帽子が入った布袋。
「なに言ってんだ。最後に砂蛸へとどめ刺したのは兄ちゃんじゃないか」
「いや、だってあれは、たまたま」
手を左右に激しく振っている青年に、またも笑い声をたてる男。
「はははっ兄ちゃんはなんだ、褒められんのが恥ずかしいのか?」
「え、いや……そういうわけじゃないんですけど」
ふと昔の記憶が思い起こされる。
あまり目立つこともなかった学校生活のことを。
懐かしさと寂しさを思い、声が暗くなる。
「あんまり、その……慣れてなくって」
「そっか、すまんな変なこと聞いちまって」
いえ、と返した青年を見て、頭に手を押さえながらあらぬ方向を見る。
男の顔はどこかばつの悪そうな感じをしており、しばし無言となって二人は道を歩く。
「……あーっと、そうだそうだ。悪い奏者の兄ちゃん、いっこ寄りたい場所あるんだがいいか?」
「別に構いませんけれど……」
一体どこだろうと疑問顔となった青年の手前、男は笑い顔となって先を歩み出した。
● ● ●
「あ……猫さん、待って!」
首もとで灰色の布を掴みながら包帯を巻いた少女は、先を行く猫を追いかけていた。
最初こそはゆっくりとした足取りだった猫は、同じくゆっくり歩く少女に焦れたのか。
いつのまにか駆けるように少女の前方を行く。
それを見た少女は慌てて小走りとなる。
そのまま猫を追いかけるようにして右へ曲がり、左へ曲がり、小道を行く猫と少女。
「待って……! お願い、待って、猫、さん……!」
猫につられるように走っていた少女は、息苦しそうに声を出し、同時に足が遅くなる。
声に気づいたのか猫も立ち止まり、少女の方へと振り返る。
「はぁはぁ……はぁはぁ……」
両膝に両の手の平を置いて立ち止まる少女。
口からは荒い呼吸が繰り返され、少女の左胸は身体を叩くような鼓動を打つ。
黒ぶち模様の猫は振り返りの姿勢から動き、少女の足へとすり寄って鳴く。
少女が呼吸を落ち着けるまでの数瞬、鳴き声があがり続ける。
「ごめんね……私、そんなに、走れないの……」
途切れ途切れに絞り出される言葉。
猫は心配するかのように短く連続した鳴き声を出す。
いまだ落ち着かない呼吸とともに少女はしゃがみ、猫の頭をなでる。
なでられていた猫はいちど長い鳴き声をだしたのち、少女の手から離れ駆け出す。
「あっ……」
言葉とともに手が猫の駆け出した方へと伸びるが、止まる。
少女の視線が猫でなく、猫の駆けて行った先にある建物を見ていた。
そこには少女が目指していた本屋があった。
● ● ●
「あらまあ! 貴方が旦那が話してた奏者様なんだ~!」
「あの、初めまして……ははは」
身体の各所に装飾品をちりばめ、髪を結い上げた紫髪の中年の女性に、
満面の笑顔で話しかけられた青年は曖昧な笑いで返す。
場所は外の日差しが扉以外から差し込まない薄暗い建物内。
室内の柱にはロウソクの灯りが派手な装飾とともに飾られており、
焚かれた香のにおいが青年の鼻を強く刺激していた。
青年が座る場所は扉から入ってすぐにあるカウンター。
その背後にはカウンターとは反対の向きに一列ずつ整列して並べてある椅子の群れ。
椅子の群れが向かう方向には舞台があった。
中年女性への挨拶ののち、青年は物珍しそうに室内を見やる。
「あらあら~もしかして奏者様に気に入って頂けたかしら。ワタクシの劇場"ブリランテ"」
「ベティ、ワタクシの、じゃなくてワシたちの間違いだろ」
「黙ってらっしゃい。ろくに芝居も知らない貴方に劇場なんて作れて?」
「そりゃ無理だろうけどよ。作るための金ワシだって出したろうが」
「ええ、ええ。その通りですわ。でもね、劇場を続けていられるのは誰のおかげでしょう」
「……ベティのおかげ」
「うふふふ。貴方はちゃんと分かってくれてるとワタクシ信じていますわ」
カウンター内にいる紫髪の女性と話すのは、黄土色髪の男。
「あらごめんなさい奏者様。そういえば旦那がお世話になりましたそうで」
「えっ、いえいえ、そんなことないです。むしろお世話になってるぐらいです」
「まあ礼儀正しく、謙虚なお方ですこと」
「その、そんなに褒められると困るというかなんというか……」
「ベティ、その辺は勘弁してやってくれ」
酒の入った杯を掲げて言う男に、ゆっくりと頷きを返す女性。
「でしたらお礼として我が劇場のお芝居を見ていきませんか?」
「芝居、ですか?」
「ええ、我が劇場ブリランテは、
鐘鳴る街ディオソに住まう人々の娯楽として、お芝居をふるまっておりますの」
流れるような声色で紫髪の女性は言葉を発していく。
「もともと、この街はな、火の精地で採れる鉱石なんかを運ぶために作られたんだ」
「え、そうだったんですか」
「ああ。だけど街が作られてから数年して、運んでる鉱石なんかを狙ってか、
野党やら凶獣のやつらが襲いかかってくるようになったんだ」
「だからあんなに警備をしてる人がたくさんいるんだ……」
「その通りだ。けどな、相手がワシらと同じ大きさならそこまで苦労はしねえ。
問題はあの砂蛸だ」
男は苦々しそうに顔を歪めて杯を煽る。
カウンター内で皿を布でぬぐっていた女性は言葉を引き継ぐ。
「今ではすっかりディオソの名物として語られる砂蛸。
けれども現れた当初は恐怖そのものでしかありませんでしたの」
「……一体いつから現れるようになったんですか」
「ワタクシが可愛らしい子供だった頃ですから四十も昔でしょうか」
「どうして砂蛸がこの街を襲うのかは誰にもわからん。
だが、砂蛸を止めないとこの街が危ないのは誰もが知っている」
杯を煽り呑む男を、青年は黙って見つめる。
「街から逃げる奴らもたくさんいた。その逆に砂蛸を目当てに来る奴らもいた」
「危険だというのに、むしろ危険を楽しみに来る方もいて不思議でしたわ」
「コルの奴はまさにそんなのだったな」
「彼はどちらかと言えば春の通りがお目当てだったのではなくて?」
女性は品の良さを感じさせる笑いを浮かべる。
ちがいねえ、と返しておかわりを男は頼む。
「……あの、じゃあ街を囲う土壁は砂蛸から守るために?」
「そうさ。ワシが十になるかぐらいだったか。
警備団にいたワシの爺さんが土術を使える人をたくさん集めてな。
いまでも覚えてるなあ、すごい光景だったな」
「ワタクシも覚えていますわ。旦那のおじいさまの掛け声があがったと思った瞬間、
街の周囲には高い、高い壁が現れておりましたのよ」
昔を懐かしむように二人は表情を和らげ、言葉を紡いでいく。
「それから、それからも色んなことがあって、な。
ベティと一緒になってからよ、考えたのさ」
「ワタクシたちの街を、共に生きる人のためにできることはないのかと」
「それが、この劇場、だったんですね」
青年は、背後へと振り返り舞台へと視線を合わせる。
静かに見つめる視線の元、青年は胸が熱くなっていた。
「なんだか……すごいな。俺、なんか感動してしまいました」
「おいおい、兄ちゃん。そんな感動するほどのことじゃねえよ」
頭を振る青年。
「いえ、上手く言葉にはできないんですけど、リゼルさんとベティさんが、
ああしようこうしようってずっと生きてきて、それが形となってるのが、すごくって」
舞台を見つめながら、両手で持った杯を握る手に青年は力を込めた。
「俺、元の世界では、あんまり人から褒められることがなかったんです。
なにかを成し遂げるだとか、目標を決めて動くってことが苦手で」
きっと、と唇を動かす。
「言われるまま、流されるままに生きてたんだと思います。たぶん今も……
だからお二人の生き方に、なんて言うかすごく、そう! すごく憧れたんです!」
青年の言葉に男は照れ笑いを浮かべ、女性は暖かいまなざしで微笑む。
「ありがとう奏者様。そう言って頂けることがなによりも嬉しいですわ」
「はははっ! 憧れるってかワシら!」
男は上機嫌のまま新たに酒をつがれた杯を大きく煽る。
「そうだ! ここの舞台で演奏会をやらせてもらえませんか?」
「ええっ? まさか奏者様が演奏を?」
「はいっ! と言っても俺だけじゃなく一緒にいる仲間もなんですが」
「騎士さんの笛と巫女のお嬢ちゃんの歌が聞けるってか! そりゃあいい!
ワシらとしても願っても無い話だ、決まりだなベティ!」
「勿論ですよ貴方。奏者様、是非お願いいたしますね」
「ありがとうございます!」
青年は嬉しそうに頷いて力強く答えた。
● ● ●
「ごめんよ、お嬢ちゃん。うちではそこまでの本しかないんだよね」
「いいえ、気にしないで、ください。無理、言って、ごめんなさい」
困惑した表情で頭をかく本屋の主人は、目の前の灰色の布をかぶった少女を見る。
たどたどしく言葉を語りつつ、主人を包帯で覆われた目線で見る少女。
「けど、お嬢ちゃんはたしか、エラールさんとこの子でしょ?
うちのような古書屋に来るよりも聞いた方が早いんじゃないの」
「……それ、は。できない、できないん、です」
灰色の布を被った少女は俯き加減で言葉を出していく。
「自分で、自分の手で、見つけなくちゃ、いけない、です」
「ふーん……まあ、それならしょうがないけど、さ」
台の上に置かれた幾冊かの本を片付けながら主人は言う。
置かれているのは植物に関する本ばかり。
どれもこれも光に色褪せており、端々がぼろぼろになっている。
本の様子を見た主人はひとしきり唸ったあとで口を開いた。
「……どれもこれも売れずに残ってた上、もう古くてぼろいしな。いいよ、ただであげるよ」
「えっ!? そん、な。お金、払います、から!」
「いいよ、いいよ。どうせ売れなきゃ捨てるところだったから」
苦笑まじりに主人は片手を振って答え、お金を出そうとする少女を制する。
主人の態度に困惑しつつもお礼を述べて頭を下げる少女。
「そんなに頭下げなくてもいいって、その代わりまた買いに来てくれたらいいよ」
「はいっ! また、来ます!」
喜びを含んだ声色で少女は主人に言葉を返す。
台に置かれていた本を手に取り、胸元に抱える少女。
足下からは猫の鳴き声。
「あ、待たせてごめんね」
「ん……?」
猫の声に気づいた主人は、眉をひそめながら台の下をのぞく。
「あれ、おめえさん何でここにいるんだ?」
「この子、のこと、知っているん、ですか?」
台の下をのぞきこんだ主人の顔を見て、黒ぶち模様の猫は鳴き声をあげる。
「ん、いや、こいついろんなところで見かけててさ。
けど、誰に聞いても誰かが飼ってるわけじゃないみたいで」
「そう、なんですか」
「聞いた話じゃあ、もう二十年以上も前から見かけるとか聞くけど、
そんなに猫が生きるなんて聞いたことないからなあ」
台の上へと顔を戻した主人は、上から猫を見つめる。
「どっかの詩人には、この街の守り主です、なんて言われてるらしい」
「ふふっ。おもしろい、お話、ですね」
「ときどき、街で一番高い建物の上で、ぼーっと空を見てるみたいでな。
他にも猫はいるはずなんだが、なぜかこいつだけそうしてるんだ」
主人と少女に見つめられている猫は、不思議そうに顔を傾けている。
その様子に主人も少女も笑う。
「ったく、悩みなんてなさそうな顔しやがってこいつは」
「悩み、あるかも、しれませんよ? 明日の、ご飯、とか」
「……はは、そうだとしても、そりゃ幸せな悩みだ」
ふたりの言葉に何かを感じたのか、猫が不満そうな声で鳴く。
「ごめんね、そろそろ帰ろうか」
「また来てくれよお嬢ちゃん、猫と一緒に」
笑顔の主人に会釈して、少女は本屋を後にした。
● ● ●
喧噪が聞こえて来る宿の室内。
ふたつ置かれた寝台のうち、ひとつに呻きながら寝ている男がひとり。
寝台の横には丸い椅子に座った橙髪の少女がいた。
丸く平べったいパンを手でちぎりながら口のなかへと放り込んでいく。
「ん〜おいしい! もうひとくち、もうひとくち!」
柔らかい触感に頬をゆるめながら少女は、手に持ったパンを小さくする。
少女が眉を弓なりにしている間も、寝台に眠る男は苦悶顔で横たわっている。
「……いいかげん起きないものかなーせっかくボク、おいしい蒸しパンもらってきたのに〜」
パンの名前だけを強調する少女。
名を聞いて寝ている男は呻く。
「ほぅ〜らほぅ〜ら、おいしい蒸しパンですよぉ〜蒸しパンだよぉ〜」
「や、やめろ……虫は、虫は、虫はく、くえない……」
少女は意地の悪い顔を浮かべて寝ている男にパンを近づける。
「えぇ〜? おいしい蒸しパンなのに〜?」
「だ、だから……む、虫は……だあああああああああ!?」
男が眼を覚ました。
荒い息づかいを繰り返し、胸に手を当てて落ち着こうとするが、
横に座る少女に気づいてそちらへ顔を向ける。
「ん……セリア、なぜここに?」
「もうお昼だよ〜ねぼすけ〜」
「む、そうか。なんだ……ひどい夢を見たのだが、思い出せん」
「そっかそっかーはい、目覚めの一杯」
言葉とともに上半身を起こした男へ、硝子の杯につがれた水が差し出された。
「ああ、すまないな」
「ちーがーうーでーしょー」
「ははっ、ありがとう」
「その癖、早くなおしてほしいなー」
「……治そうと思って治せるものだといいのだが」
「ボクは、お礼を言ってくれるほうが嬉しいの」
語尾を軽く尖らせて言う少女に、男は苦笑。
空いている寝台に置かれていた、布を被ったカゴから少女はパンを取り出す。
「はい、やわらかくておいしいパンだよ〜」
「……なぜだ。なぜか素直に受け取れないな」
「えーおいしいパンだよーむふふ」
どこか引きつった顔になったままパンを受け取り、パンに噛み付く男。
「さあさあ召し上がれ、む、し、ぱ、ん、を」
「ぶぇっ!? えふっ! げふっ! ぶひぇ!」
少女の言葉に、男は盛大に吹き出す。
「もーっ。きったないなーエオリアはー」
「お、おまえな! ってこれは蒸しパンじゃないか!」
「だからそう言ってるじゃないのー」
「……」
男は黙ってパンに再びかぶりついて、口に含み、数度噛んだのち、飲み込む。
「……おいしいな」
「でしょでしょーボクの選びに間違いはないでしょー」
「ああ……間違い、ないな」
少しだけ、懐かしむように口端を男はゆるませる。
「おまえの目利きは、間違いない」
「ふふーん」
つぶやかれた言葉に、少女は上機嫌に頷く。
男が手に持っていたパンの、最後のひとかけらを飲み込んだとき、部屋の扉が開く。
少女と男が同時に扉へと振り向く。
視線の向いた先には黒髪の青年と、黄土色髪の男がいた。
● ● ●
空は夕闇の朱と黒が交わり、大小様々な雲がまだらに染まる。
雲間をぬうように細く長い雲が何本も、地水火風の方角へと走ってもいた。
雲よりも低い位置を飛び交う鳥たちは、長く低い鳴き声をあげて飛んでいく。
鳥の鳴き声に誘われて、部屋の窓から空を見上げる少女。
窓の外淵には暑さを告げる虫が、伸びる音を刻みながら鳴いていた。
その音に心地よさを感じながら包帯を巻いた少女は、手に持った本をめくる。
本は端が強く色褪せており、少女の僅かな力にさえ崩れそうになる。
頁に書かれた文章はところどころがかすれ、描かれた絵も色が落ちていた。
少女は指で文字をなぞっていき、口に出して読んでいく。
そうすることで、読みづらなくなっている部分やかすれて見えない文字を、
文脈から、読むあげる勢いから想像してうめていく。
そして、ときに重要と思える部分に関しては、本の隣においた筆記帳に写し書く。
わからない表現に当たったのか、口と筆を止めて悩む姿となる少女。
小さく唸り、筆を顎に当てたり、机を指で叩いたりして考えたあと、
本を持って椅子を立ち、部屋を出る少女。
階段をおりて、一階で樹木の苗を見ていた母親に声を掛ける。
母親は少女の持っていた本の古さに驚き、苦笑を浮かべて少女の疑問に答える。
少女は本と一緒に抱えていた筆記帳を開き、母親の言葉を書き留めていく。
そこへご飯の催促がてら鳴き声をあげる猫が一階の奥から現れる。
猫に気づいたふたりは言葉のやりとりを止めて微笑む。
本と筆記帳を腕で抱えた少女は、猫へと近づきしゃがみ込んで言う。
今日は一緒にいてくれて、ありがとう、と。
● ● ●
劇場は、椅子から立ち上がった人々の熱気とともに大盛況となっていた。
椅子から立って拍手と声援を送る先には舞台。
舞台では黒髪の青年と若草色髪の男、ふたりの間で両手をひろげて観客に応えている橙髪の少女。
青年は片手にリュートを携えて空いた手を振り、
男も銀の横笛を腰へと降ろした手で握り、前方へ手を振っていた。
どちらも劇場にこもる熱気に当てられて薄く汗を流している。
長い袖の衣装をまとった少女は、なおも続く歓声と拍手に向きを変えて応える。
笑顔の浮かぶ頬にも汗が流れてはいるが、少女は気にすることもない。
青年は、手を振りつつ、胸にこれまでとは違う感覚を得ていた。
楽器を手に、ただ一生懸命弾くことにだけ考えていたいままで。
けれど、今日は違った、そう青年は感じていた。
熱い、胸が、心が熱い。
振っていた手を左胸に当てる。
熱い意思を示すかのように鼓動は強く打っている。
この感覚は、包帯を巻いた少女の前で演奏したときと同じものだった。
あのときは分からなかったが今ならわかる、と青年は歓声を耳に思う。
意識を視線の先へと向ける。
映るのは暑さを除けるためか、淡く黄色い色の布をした服で身を包んだディオソの人々。
小さなこども、皺をきざんだ老人、片目をつぶした男性、片足がなく座ったままの女性。
大勢、とても大勢の人々が劇場に集い、青年たちへと賞賛の思いを向けている。
喜んでくれている、楽しんでくれている、自分たちの演奏を。
それが、なによりも、嬉しい。
青年は、かつて得る事のなかった満ち足りた気持ちで、頭を下げた。
ありがとうございます、と言葉を添えて。
● ● ●
激音が劇場全体に響き渡る。
音は震えを伴い、劇場だけでなく内部にいる人々も震わせる。
声が上がる。
「きゃあああああ! なに、なんなの!?」
「いやじゃー! 死ぬときはおなごの腹の上と決めてんじゃー!」
「うわぁああ!? おい、おまえ抱きつくな! けつ触んな!」
「あはははは! 揺れる揺れるぅ〜!」
舞台の反対、劇場入口のカウンターに座って演奏を楽しんでいた黄土色髪の男は、
側にいた紫髪の女性とともにカウンターにしがみついて揺れをやりすごしていた。
揺れがおさまると男は険しい顔となって声を張り上げた。
「皆、静まれ! 静まってくれ! くそっ、伝令! なにがあったか聞いてこい!」
「りょ、了解しました!」
男の隣にいた少年は駆け足で劇場の扉をくぐっていった。
数拍の間をおいて、数度振動が劇場に響く。
「くっそ、なんだ、なにが起きてんだ!」
「貴方? いいのですか、伝令の子をここで待っているだけで?」
「ベティ……すまん! ここは任せる!」
「当然ですわ。だってここはワタクシの劇場ですもの」
「ワ、シ、た、ち、のだろ」
鋭い笑顔を浮かべて言う男に、微笑んで頷く女性。
ふたりがやりとりを終えた瞬間、歌声と笛の音が流れる。
男と女性がはっとなって舞台へ眼を向ければ、騎士と巫女がいた。
赤子をあやすかのように優しく穏やかに唇からつむがれていく歌声。
音色は静かな水面に波紋を広げるがごとく人々の合間を広がっていく。
ざわついていた人々は、聞こえる音に耳を傾け、静まりつつある。
席の横に設けられた通路を走る影。
「リゾルさんっ!」
カウンター横まで走って来た青年は、黄土色髪の男に声を飛ばす。
舞台袖にリュートを置き、代わりに白き剣を手に持った青年は、
「俺、外見て来ます!」
走って来た勢いのまま外へと出ていこうとする。
一瞬、呆気にとられた男は、次の瞬間大声で笑い出す。
側にいた紫髪の女性もつられて笑い出す。
「待ちな兄ちゃんワシも行く! ベティ、あと任せた!」
「ええ、任されてよ貴方」
女性が見送る先、青年と男は一緒に劇場の扉をくぐって外へと駆けて行く。
劇場は、穏やかな歌声と静かな音色からなる人々の吐息に満たされていった。
● ● ●
劇場から出て大通りを走る男と青年。
すでに闇に包まれた空の下、地上からのかがり火だけが周囲を照らす。
なにかにぶつかる振動音が街の空間を震わせていく。
「……リゾルさん、これもしかして!」
「たぶん、土壁に体当たりしてる馬鹿がいるんだろうな!」
「壊されるわけには、いきませんよね!」
「たりめーだ!」
ふたりは足の勢いを早める。
しばらく走っていると、ふたりが駆ける方向とは逆側から伝令役の少年が走ってきた。
「おおいっ! ワシだ! 止まれ!」
「あ、あわわっとっとと! リゾルさん、聞いて来ました!」
「なんだ、なにが土壁にぶつかってやがる!」
「蛸です! 砂蛸です! 昼間のよりもでかいのが!」
「なあああにいいいいいい!?」
方向を変えて青年と男に追走する少年の言葉を聞いて、男は絶叫した。
● ● ●
「わあわあわあ! だからこっち狙わないでくださいって!」
白い帽子に手を当てて左へと跳ぶ男。
反対の手にもった長大な弓を目の前で暴れる砂蛸へと合わせるが、
連続で繰り出される足を飛び避けるのが精一杯で矢をつがう暇がない。
視界に映るのは、昼間よりも大きい、背丈で言えば男の七倍以上はあった。
帽子の男近くにいる松明をもった警備員たちの灯りを下から受けて、
巨大な砂蛸は赤黒く不気味な姿を闇にさらしていた。
「うえ……なんですかこれ、もしかしてただの砂蛸じゃないんですか」
周囲で武器を携えている男達も、異様な相手の姿に腰が引けている。
体色が赤黒いだけでなく、こちらの姿を捉える眼は血走り、
土壁を叩く腕は昼間の砂蛸よりも多く、さらに太い。
頬から一筋の汗を垂れ流しつつ、薄ら笑いを浮かべて帽子の男は言う。
「もしかして、凶暴化しちゃってたり、します?」
高く、高くかざされた赤黒い砂蛸の太い足が、答えだった。
● ● ●
「まちがいねえな! そいつは凶獣となった砂蛸だろう!」
「でも、いままで出たことないんでしょ!? なんで、また!」
「さあなワシにもわからんよ! 分かってんのは街が危ねえってことだ!」
伝令役の少年に、人々への避難を呼びかけるよう頼んだ男と青年は、
土壁と空間を震わせる元凶へと近づきつつあった。
青年は走る身体に更なる力を込め、胸の奥に堅い意思を抱く。
「……リゾルさん、俺、この街いいなって思います」
「……そうかい、そりゃまたなんでだ?」
「リゾルさんたちのような憧れる人がいたからです!」
「!? ……ぶわっはっはっは!!!
なんだかなあ……兄ちゃんたちには驚かされるわ、笑わせられるわ、色々だ!」
「へへっ。言ってて俺も恥ずかしいですけどね……」
互いに照れ笑いを浮かべながらも足は止めない。
土壁の地面に近い部分には街と外をつなぐ通路が空けてあり、
ふたりは通路をそれぞれの武器を手に携え駆けゆく。
● ● ●
「おそいですよせんぱーい! って奏者君までいるじゃないですか!?」
「コル! さぼってた分まで働けてめえは!」
「コルさん! 俺も、手伝います!」
「いま頑張って働いてるんですけど!?」
外へとたどり着いたふたりは、
他の警備員たちとともに赤黒い砂蛸を足止めしている帽子の男のそばに並ぶ。
「伝令の奴に聞いてはいたが、でけえな、おい……」
「眼……血走ってますけど……」
巨体を目にした青年と黄土色髪の男は、迫力に圧倒される。
地面から生み出される地響きは間断なく、土壁を叩く砂蛸の足も動きを止める気配はなかったが、
青年たちを血走った眼で捉えた赤黒い砂蛸は、そちらへも太い足を振り上げた。
「え、なんだかこっち狙ってませんか」
「おいコル、なにやったか白状しろ」
「なにもやってないですよ! なに勝手に決めてるんですか!」
「リゾルさん、コルさん! 足きます!」
青年の叫び声と同時に、三人はその場を跳ぶ。
跳んだ瞬間、三人がいた場所を赤黒い足が鞭のようにしなって叩きつける。
一拍遅れて鈍い風切り音が辺りを飛んでいく。
(こわいこわいこわい! けど、けれど!)
右へと大きく跳んで足を避けた青年は、白き剣を構えて赤黒い砂蛸を睨みつける。
左胸は劇場で得たのとは違う荒い鼓動を繰り返す。
鼓動を感じながら青年が砂蛸を睨むなか、
青年の左手首にはめられた精霊の腕輪は、静かに力強く輝き出す。
同時に右腕へとはめられた花の腕飾りは小さな輝きをこぼす。
白き剣を左へと振り傾けた青年は、
背に帽子の男と黄土色髪の男とともに、
大きな雄叫びをあげて赤黒い砂蛸へと挑みかかった。
● ● ●
その後、合流した騎士と巫女も交えた赤黒き砂蛸との攻防戦は夜通し続き、
戦いを目撃した旅の詩人は新たなる"奏者の旅"を書いたという。
数週間後、パストラの街、酒場ガイオにて詩人が新たに書き起こした、今代の"奏者の旅"が謡われ、
母親とともに新たな"奏者の旅"を聞いた包帯の少女は、
遠く旅を続けているであろう青年たちを思い、彼らの無事を花に願った。