第10話 黒幕の影
翌朝。
王城はざわついていた。
図書院への襲撃はただの賊ではない。
あの場所を狙える者は、王城の内部事情に通じている者に限られる。
殿下は衛兵を集め、厳しい声を響かせていた。
「昨夜の襲撃は、城内の者の協力なくして不可能だ。裏切り者がいる。――必ず見つけ出せ」
鋭い眼差しに、兵たちが一斉に頭を垂れる。
その場に立つわたしは、まだ緊張の余韻を引きずっていた。
帳簿を抱えて眠った夜の感覚が、まだ手に残っている。
「エリス」
殿下がこちらへ振り返る。
「本当に無事でよかった。……しかし、君を危険に晒した」
「わたしは大丈夫です。帳簿も守れました」
「君の命の方が大事だ」
その声は低く、揺るぎなかった。
「だから、決断した。今日から君には護衛をつける」
「護衛……?」
「私の近衛を二人、常に同行させる。拒否は認めない」
強い言葉に、胸が熱くなる。
けれど同時に、重みも感じた。
庇護されることは安心を与えるが、自由を奪うことでもある。
「……殿下。わたしは戦いたいのです。記録を武器に」
「戦わせる。だが、一人ではさせない」
わたしは言葉を失った。
彼の真剣さに抗うことはできなかった。
その時、廷吏が駆け込んできた。
「報告! 昨夜の侵入者が落とした短剣に、“王城警備隊の紋章”が刻まれていました!」
広間がざわめく。
「まさか……内部の兵が?」
「信じられん……!」
殿下の瞳が鋭さを増す。
「やはり内部に裏切り者がいる。だが、誰かはまだ分からない」
空気が凍る。
城の守りそのものが信じられなくなったのだ。
わたしは帳簿を抱きしめた。
「殿下……もし記録を消そうとする者がいるのなら、それは“自分の罪”を隠したいからです」
「その通りだ」
殿下が頷く。
「だから、君には調べてもらいたい。図書院の記録から“不自然な改ざん”を探し出してくれ」
「わたしに……?」
「君ほど記録に強い者はいない。私の騎士たちでは、数字も文字もただの模様にしか見えん」
胸の奥に熱が広がった。
自分の力を必要としてくれる人がいる――それだけで、どれほど救われることか。
「……承知しました」
深く頷く。
「わたしにできる限りのことをいたします」
「ありがとう、エリス」
殿下が微かに笑みを浮かべる。
その笑顔は、冷たい空気をわずかに和らげた。
しかし同時に、別の不安が広がっていく。
内部の裏切り者。
それはつまり――この城のどこにいても、安全ではないということだ。
その夜。
図書院に戻り、再び帳簿を開いた。
蝋燭の灯りに浮かぶ文字の中に、確かに“抜け”があった。
五年前の判決記録。
アーネストの父が裁かれた案件。
本来なら領軍費の横領が記されているはずなのに――判決文が不自然に空白になっている。
「……これだ」
その瞬間、背後で気配が動いた。
振り返ると、護衛の騎士が剣を抜いていた。
「夫人、下がってください!」
書架の影から、黒ずくめの影が飛び出してきた。
再び短剣が閃く。
「また……!」
騎士が受け止め、刃が火花を散らす。
混乱の中、わたしは帳簿を必死に抱きしめた。
殿下の声が響く。
「捕らえろ!」
数人の衛兵が駆け込み、影を取り押さえた。
だがその顔を見た瞬間、広間に衝撃が走った。
「まさか……!」
捕らえられたのは、王城の警備隊長。
常に殿下の側に控えていた、忠誠心厚いと評判の人物だった。
「なぜ……あなたが」
わたしの声は震えた。
男は歯を食いしばり、呻くように答えた。
「記録は……邪魔だ……。あれを残せば……俺たちの“主”が……」
「主?」殿下が鋭く問いただす。
「誰に命じられた!」
しかし男はそれ以上語らなかった。
口元から血が溢れ、崩れるように沈んでいった。
「毒……!」騎士が叫ぶ。
殿下の顔が険しくなる。
「やはり背後に黒幕がいる。アーネストとメリアはただの駒に過ぎなかった」
静寂が広間を覆う。
帳簿を抱える手が震えていた。
けれど――その震えは恐怖だけではなかった。
「殿下……わたしは必ず、この記録の改ざんを暴きます」
「危険だ」
「危険でも、わたしにしかできないことです」
殿下は一瞬沈黙し、やがて深く頷いた。
「ならば私も共に戦おう。――誓う。この国の記録を、必ず守る」
その言葉が、わたしの胸に深く刻まれた。
闇はまだ深い。
けれど、殿下と共になら進める。
――黒幕を暴く、その日まで。