第9話 不穏な影
夜の図書院は、昼とはまるで別の顔をしていた。
昼間は人の声や紙をめくる音が絶えなかったが、今はただ、蝋燭の揺らぎと遠くの風の音だけ。
静けさの奥に、冷たい気配が潜んでいる。
机に広げた記録帳を前に、わたしは首を傾げていた。
「やはり……この数値は合わない」
領軍補給費の支出。数年前の判決で「証拠不十分」とされたもの。
だが、計算を重ねるほどに、不正の痕跡は濃くなる。
ページを指で押さえたその時だった。
――かすかな物音。
耳を澄ますと、書架の影に気配がある。
誰かがこちらを窺っている。
「誰ですか」
声を上げると、すぐに沈黙が返る。
だが、次の瞬間――。
風が走った。
刃が、光を反射する。
咄嗟に椅子を倒し、身を伏せた。
刃は机をかすめ、帳簿に深い切り傷を刻んだ。
「帳簿を狙って……!」
影は再び襲いかかってくる。
蝋燭の火が揺れ、鋭い短剣の光が踊る。
わたしは必死に帳簿を抱きかかえ、走り出した。
しかし長いスカートが足に絡み、転びそうになる。
その瞬間――。
「そこまでだ!」
鋭い声とともに、重い剣が影の刃を弾いた。
エドワード殿下。
彼は衛兵を連れて駆けつけ、影を壁際へ追い詰める。
「捕らえろ!」
衛兵が動くが、影は煙のように逃げ去った。
残されたのは、傷ついた帳簿と、わたしの荒い呼吸だけ。
「大丈夫か、エリス!」
殿下が駆け寄り、肩を抱き寄せる。
張り詰めていた心が、その瞬間にほどけた。
「だ……大丈夫です、でも……」
声が震えていた。帳簿を守れたことが、唯一の救いだった。
殿下の手が、わたしの背に強く回される。
「無茶をするな。命より大事な帳簿はない」
「でも、これは……真実を残す唯一の……」
「分かっている。だからこそ、あなたを守るんだ」
低く、熱を帯びた声。
「記録を守るために、まずあなたが生きなければならない」
胸が熱くなる。
怖さで震える体を、殿下の腕がしっかりと支えていた。
「殿下……」
「約束する。二度とあなたに刃を向けさせはしない」
彼の瞳は真剣で、迷いがなかった。
その強さに、わたしは心を預けそうになる。
けれど、恐怖の中でも思い出していた。
――影は帳簿を狙った。つまり、まだ裏に黒幕がいる。
わたしは強く帳簿を抱きしめた。
「殿下……これはきっと、まだ終わっていません」
「ああ」
殿下も頷く。
「敵は記録そのものを消そうとしている。つまり、ここにはまだ暴かれていない“大きな罪”が眠っている」
窓の外で風が唸った。
闇は深く、冷たい。
だが、その闇の中で殿下の瞳だけが確かな光を宿していた。
「エリス。今夜はもう休め」
「ですが……」
「私がいる。あなたは眠っていい」
殿下の言葉に逆らえなかった。
体はまだ震えていて、涙さえ滲んでいた。
けれど――殿下の腕の中にいると、不思議と眠りへと引き込まれていく。
最後に抱いたのは、帳簿の重みと、彼の温もり。
それは確かに、わたしの新しい盾になり始めていた。




