第8話 図書院の影
翌朝。
殿下に案内され、わたしは王城の奥深くにある「王立図書院」を訪れた。
重厚な扉が開くと、冷たい空気とともに、古い羊皮紙の香りが流れ出す。
棚にはびっしりと巻物や帳簿が並び、天井まで届く書架の間に光が差し込んでいた。
「……ここが」
「王国の記憶そのものだ」殿下が答える。
「過去の契約書、裁定記録、領地の税帳。百年以上の記録が眠っている」
わたしの胸が高鳴った。
帳簿に記してきた自分の人生が、ここで広大な“歴史”の一部になるような感覚だった。
「好きに調べるといい。だが――」
殿下の目が鋭さを帯びる。
「ここを狙う者もいる。記録を消そうとする者がな」
その言葉に、背筋が震えた。
記録は真実を残す。だからこそ、権力者にとっては時に邪魔となる。
殿下は近くの司書を呼び寄せた。
「彼女に必要な資料を用意してほしい。特に、過去十年の裁判記録を」
「承知しました」司書は一礼し、奥の棚へ向かった。
殿下はわたしを振り返る。
「あなたのような人に、記録を託す価値がある。……しかし同時に危険でもある」
わたしは唇を噛む。
「わたしはもう逃げません。記録で戦ったのですから」
殿下の目がわずかに和らいだ。
「そうか。その言葉を聞いて安心した」
やがて、司書が抱えてきた数冊の帳簿が机に並べられた。
分厚い紙に、細かい字でびっしりと判決や証言が書き込まれている。
ページをめくるたび、過去の声が甦るようだった。
無実を訴える者、虚偽をでっち上げる者、真実を突きつける者。
その一つひとつが、この国を形作ってきた。
「……これは」
ある一冊に目を留め、息を呑んだ。
五年前の記録。そこには――アーネストの父が裁かれた記録が残されていた。
「アーネストの父?」
「ええ……“領軍費の不正流用”」
殿下が眉をひそめる。
「やはり血筋か」
「ですが、不思議です」
わたしは頁を指差す。
「判決は“証拠不十分”で無罪とされている。……けれど、支出の痕跡は明らかに残っています」
殿下が険しい顔になる。
「つまり、誰かが記録を“書き換えた”可能性がある」
空気が一気に重くなる。
王国の図書院の記録は絶対のはずだ。
それが改ざんされているのなら、ただの不正では済まない。――王国の根幹が揺らぐ。
その時、廊下の方から小さな物音がした。
誰かが急いで去っていく足音。
「……誰だ」
殿下が低く声を落とす。廷吏がすぐに追いかけた。
だが、影はすでに消えていた。
「エリス」殿下がわたしに近づく。
「今後は、この件に深入りするな。命を狙われる可能性がある」
「ですが……」
「約束してくれ。あなたの命は、もうあなた一人のものではない」
殿下の瞳は真剣だった。
わたしは言葉を飲み込む。
本当は、真実を暴きたい。記録の力を信じたい。
だが――殿下の心配を無視することもできない。
「……分かりました」小さく頷く。
「ですが、記録は必ず残します」
殿下はわずかに微笑んだ。
「それでいい。記録を残す者がいる限り、真実は消えない」
窓の外、秋空に鐘が鳴った。
その響きは、わたしの胸の奥に小さな決意を刻みつけた。
――審理は終わった。けれど、戦いはまだ続いている。
そして、その戦いは“記録”をめぐるものになるのだ。