第20話 記録と誓い
春の気配が王都に降りた。
石畳の隙間にも、小さな草の芽が顔を出している。冬の名残はまだ冷たいけれど、鐘の音は柔らかく響いた。
図書院の前庭では、職人たちが新しい扉を据え付けていた。
焼け焦げた跡は、磨かれても完全には消えない。それでも、上から新しい木が重ねられ、真鍮の蝶番が光を集める。
あの日、煤まみれで守り出した副本と押印原版は、今は王宮の北棟にある「証印庫」に移され、三重の守りのもとで息をしている。
――記録は燃えない。
燃えたとしても、灰の中から何度でも立ち上がる。
王国は、動き始めていた。
宰相一族の財は没収され、兵への未払い補給は順次支払われ、飢えた村に小麦が運ばれる。
王妃付慈善会は、会計と事業を分け、すべての支出に「第三者照合」を義務づけた。
王都の役所には「公開台帳室」ができ、誰でも閲覧できるように、支出と印影が一冊ずつ並ぶ。
――そして、わたしは。
「エリス記録官、こちらです。新規の印影登録、二件」
若い書記が、まだ硬い革の簿冊を抱えて走ってくる。
呼ばれ慣れない肩書きに、頬がむず痒い。けれど、その重みは嫌いではない。
「ありがとう。印影は原版と照合、時刻印と星位盤も忘れずに」
「はい!」
机に向かい、わたしは羽根ペンを取る。
インクは松煙。指先につく匂いが、安堵に変わったのはいつからだろう。
数字を書く。名を記す。印を押す。
それは、呼吸に似ている。
生きることと、ほとんど同じ。
窓の外で、控えめなノックがした。
「入って」
扉を押し開けたのは、エドワード殿下だった。
戦場のような審理が終わったあと、彼の目元から剣呑な光はほどけ、いつしか春の色を宿すようになった。
「邪魔をしたね」
「いえ。殿下のお名前の印影は、何度でも見たいところです」
冗談を言うと、殿下は少しだけ困った顔をした。
こう言って相手の顔色を探る癖は、たぶん昔の名残だ。
でも今は、返ってくる微笑みが怖くない。
「今日は、少し歩かないか」
「はい」
わたしたちは、補修が進む図書院の回廊に出た。
香の薄い匂い。新しい木の色。壁の一角には、煤の跡が敢えて残され、銀の額縁で囲われている。
そこに小さく刻字があった。
『灰の目録室――燃えても残る記録のために』
殿下がその文字を見やり、静かに頷く。
「君が望んだ“記憶の傷”だ」
「はい。傷を隠すと、また同じ場所を切ってしまうから」
歩みを進めると、前庭から子どもたちの笑い声が聞こえた。
公開台帳室の横には、読み書き教室が併設されている。今日の題は「日付と印」。
小さな手がぎこちなくスタンプを押し、歓声を上げていた。
「殿下が設けてくださった予算のおかげです」
「君が書いた“提言書”の力だよ」
「わたしは、ただ――」
「――記録を残しただけ、か」
殿下の声はいたずらっぽい。
「それが、この国を変えた」
照れ隠しに、わたしは額縁の銀を布で磨く振りをした。
ほんの一瞬の沈黙。
けれど、その沈黙は怖くない。言葉で埋めなくても、意味が失われない沈黙だ。
「エリス」
呼ばれて、わたしは顔を上げる。
殿下の瞳は、冬の湖ではなく、融け始めた春の水面みたいに穏やかだ。
「君に頼みたいことがある」
「頼まれることなら、いつでも」
「公務の話ではない」
「……では?」
殿下は、上衣の内側から小さな革の冊子を出した。
金の細い紐で綴じられた、未使用の帳簿。
表紙の片隅に、空白のタイトル枠がある。
「新しい帳簿だ」
殿下はその枠を指先で叩いた。
「ここに、二人の運用記録を綴りたい。毎日の小さな支出と、誓いの入出金。喧嘩の記録と、仲直りの印影も。――婚姻契約の付録として」
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
指先まで熱が走り、どこに視線を置けばいいか分からなくなる。
殿下は急がない。
わたしの呼吸の速さに合わせるみたいに、静かに続けた。
「君が“愛は運用だ”と言った夜を覚えている。
ならば、私たちの愛も、記録と運用で育てたい。
約束を数字に、日々を印影に。君が一番得意な方法で、私の一番大切なものを守ってほしい」
――“愛は主張ではない。運用だ”。
燃える図書院の廊下で、震える自分に言い聞かせた言葉が、胸の奥で光を帯びた。
応えは、自然にこぼれる。
「……はい。
わたしは殿下を、毎日記録します。
怒った顔も、笑った顔も、躊躇いも、勇気も。
すべて、消せない形で」
殿下の目尻が、わずかに緩む。
彼は革の帳簿を開き、最初のページを差し出した。
そこには小さな欄が二つ――「日付」と「印」。
「本日の日付を」
「春月八日」
「印は?」
わたしは左薬指から、煤の跡の消えない婚姻環――供給環をそっと外した。
審理の始まりに縛っていた同じ環。けれど、意味はもう違う。
指輪を押し当てる。淡い魔光が紙に染み、二人の魔力の混じる色が小さな円を作った。
殿下がその上から、王太子の印を軽く重ねる。
印影の外周と内周が、美しく噛み合った。
“転写”ではない。二人で押した印だ。
「これが最初の記録だ」
「最初の、そして毎日の」
わたしたちは笑い合った。
長い戦いの果てに、ようやく笑いだけが残る時間を、手に入れた。
◆
婚姻の儀は、季節が夏へ傾く頃に行われることになった。
王は厳粛に承認を与え、王妃は静かな微笑みでわたしの手を包み、礼拝堂の金庫には「婚姻誓約副本」が納められた。
もちろん、三重の守り。押印原版の照合も済ませた。
――だが、それはまだ少し先の話。
今日、わたしたちは日常の誓いを積み重ねる。
公開台帳室で、わたしは窓口に立っていた。
老いも若きも、商人も職人も、同じ窓口で同じように帳簿を広げる。
あの時、審理の傍聴席で怒りを上げた人々が、今は静かに数字を手に取り、印影を見比べている。
「記録官殿。これで合ってるかね?」
粗い手の農夫が、ぎこちなくスタンプを押した紙を差し出す。
「はい。とても綺麗な印影です。次は日付の欄、星の位置も合わせておきましょう」
彼は照れくさそうに頭を掻き、笑った。
「難しいもんだなぁ。でも、残るんだな」
「残ります。あなたの働きが、ここに」
わたしは欄の端に小さく丸をつけた。「今日の天気:晴」
書く。残す。渡す。
その繰り返しが、誰かの生活の重さを支える。
あの日、自分を支えた帳簿が、今は誰かの支えになる。
奇跡のようで、当たり前のこと。
ふと、背中で気配が止まった。
振り向くと、殿下が控えめに手を振る。
「午後の視察に行ってくる。夕刻には戻るよ」
「お戻りになったら、“今日の欄”に印影を」
「忘れない」
扉の向こうへ消えていく背を見送り、わたしは机に戻った。
最初のページの隣に、新しい見出しを一つ増やす。
『本日の誓い』
その下に、小さな箇条書きで三つ。
――食費の配分は、二人で見直す。
――疲れている時は、言葉を短くせず、数字で伝える。
――喧嘩の時は、その日のうちに印影を一つ重ねる(仲直りの証)。
書いて、笑ってしまう。
なんて可笑しくて、愛おしい条項。
でも、こういう小ささが、あの巨大な審理と同じ重さで生活を守るのだ。
夕刻。
鈴の音がして、殿下が戻ってきた。
砂塵を纏い、髪に小さな草の実をつけている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
最初のページに、彼は静かに印を重ねた。
今日の印影は、少しだけ歪んでいる。
忙しさの跡だ。
それもまた、記録。
「……エリス」
「はい?」
殿下は少しだけ照れたように、喉を鳴らした。
「今日の誓い、三つ目。――先に押したい」
わたしたちは向かい合い、同じ欄に指で小さな円を描いた。
印影でも、署名でもない。
でも、ここに確かに残る印だ。
「仲直りの証」
「喧嘩、していませんけど」
「未来の分まで、先に押しておく」
笑い声が重なり、外の夕焼けが窓枠を黄金色に染めた。
鐘が鳴る。今日が終わり、明日が来る。
その当たり前の境目に、わたしたちの印が一つ、また一つ。
◆
夜。
図書院の前庭には、柔らかな灯がともる。
「灰の目録室」の銀の額縁は、昼よりも静かに輝いていた。
わたしたちは肩を並べ、しばらく黙ってそれを見ていた。
「怖い?」殿下が問う。
「いいえ。怖くないように、運用します」
「君は本当に、“運用”が好きだな」
「好きです。だって、主張は消えるから。運用は、残る」
殿下がふっと笑い、空を見上げた。
春の星は少し淡い。けれど、星位盤と同じ位置にいて、時刻を教えてくれる。
「エリス」
「はい」
「君が、私の記録でいてくれる限り、私は道を間違えない」
「では、殿下はわたしの時刻印でいてください。迷いそうになったら、ここに戻ればいいように」
言葉は静かで、夜に溶ける。
けれど、紙に書くより強く、胸に刻まれる。
最後に、革の帳簿を開いた。
最終頁。
そこに、小さな余白が残っている。
「最終頁……?」殿下が首を傾げる。
「いえ。最終ではありません。この余白は、“いつかの未来”のために空けておきます」
「いつか?」
「わたしたちがとても年老いて、文字が震えて、印影が少し滲む日。
その日に、ここへ“本日の誓い”をもう一つ書きます」
殿下は頷き、小さく笑った。
「長い物語だ。続きを、毎日書いていこう」
「はい。毎日」
風が、煤の欠片のような星の光を運ぶ。
わたしは殿下の腕に指を絡め、そっと寄り添った。
過去の痛みは跡になり、跡は額縁におさまって、美しい見出しへ変わる。
記録は、愛と同じ。
消されないように、毎日、運用する。
鐘が、もう一度鳴った。
春の夜が深くなる。
帳簿の頁が静かに閉じ、また明日、開かれる。
――終章ではない。
これは、ここから続く日々の第一章。
(完)