第17話 最後の足掻き
歓声の熱がまだ広間に残っていた。
王が「宰相の一族、その罪を暴き尽くせ」と告げた直後――ふっと、あの男が口角を持ち上げた。
「……陛下。裁きを徹底されると。まことに、ご英断でございます」
ダリウスは静かに一礼し、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には敗北の色がない。むしろ、獲物を観察する狩人の光。
「ただ一つだけ。王命に従う臣として、最後の手続きを」
宰相の指が、袖の内で何かを弾いた。微かな金属音。
次の瞬間、廷吏の一人が駆け込み、王前に膝をつく。
「急報にございます! ――王印付きの緊急文書、宰相府より!」
広間に冷たいざわめきが走った。
王が眉をひそめる。殿下の視線が鋭く宰相を射抜いた。
差し出された巻紙には、王都でただ一つの本物の金箔水印と、王家の獅子印。
司法卿が封蝋を確かめ、顔色を変える。
「……確かに、王印は正し――」
「お待ちください」
わたしは一歩、前に出た。
胸の奥で鼓動が高鳴る。ここで怯めば負ける。
「王印は“本物”でも、文書そのものが正当とは限らない。作成手続き、日付、筆致、黒インクの粒子配合――総てを確かめさせてください」
宰相の頬がわずかに動いた。
殿下が頷く。「許可する」
受け取った巻紙は、指先にわずかに煤の感触を残した。
王都の正式文書に用いられるインクは油煤ではなく**松煙**で練る。灯りが乏しい場で書けば、指に油っぽい痕がつく――それは、地下灯の“油ランプ”で急いで書いた証拠。
「……このインク、松煙ではありません。灯油の煤です。正規の執務室ではなく、地下の即席書記台で書かれた可能性が高い」
司法卿の目が細くなる。
宰相はしかし、肩を竦めてみせた。
「緊急時であれば、場所を問わず王命は下せるでしょう」
「ならば、**“時刻印”**を照合しましょう」
わたしは巻紙の末尾に刻まれた微細な刻印を示した。
王家の時計塔の歯車を模した精密刻印。日付の小窓、時刻の小窓、そして――星の位置。
「見てください。星位盤の目盛りが“第二更”を示している。夜の真ん中です。
けれど、王の侍医の診療記録では、昨夜の第二更、陛下は睡眠薬の投与下。――王は筆を持てない」
広間が揺れる。
宰相の笑みが紙一重で崩れ、すぐ取り繕われる。
「代筆を認める規定がある」
「はい。代筆は“王の直押し”が必要。押印の縁をご覧ください。乾きが不均一。本物なら押印面の外周から内周へ一様に乾くはずが、これは右下の一部だけが遅れて乾いている。――印面を“押し当てて”移した、つまり“押印の転写”です」
司法卿が身を乗り出した。
廷吏が拡大鏡を持ってくる。
縁の一ヶ所、わずかに厚い蝋がひびのような筋を作っている。
「さらに、封緘用の糸。王室文書は三撚りが規定。これは二撚り。――宰相府の予備糸」
広間のさざめきが、怒りに変わっていく。
宰相の指が再び袖の中で動いた。
次の瞬間、爆ぜるような音。
高窓の外から黒煙が立ち上がる。
「図書院が――燃えている!」
叫び。
石床の下を振動が走り、遠くで鐘が無秩序に鳴り始めた。
「兵を回せ!」殿下が叫ぶ。「保管庫を守れ、最優先は副本だ!」
宰相が低く笑う。「記録が無ければ、真実も無い」
わたしは走り出していた。
足元で裾が鳴り、石段を駆け下りる。
殿下の声が背に飛ぶ。「エリス、危険だ! 護衛を――」
「行きます。今しかありません!」
◆
王立図書院の回廊は、煙で白く染まっていた。
油の匂い。――放火。
棚から棚へ火が跳ね、巻物の背に赤い舌が走る。
司書長が咳き込みながら駆け寄った。
「副本庫はこっちだ、だが扉が内側から――!」
扉の閂は、外しても開かない。
中で何かが押しつけられている。
煙の向こうで、微かに人の影が動いた。
「だ、誰か……!」
囮か――人質か。
殿下の護衛が肩で扉を打つ。「三、二、一――押せ!」
重い音。
扉が僅かに開いた隙間から、熱と灰が噴き出す。
わたしは裾を掴んで身を伏せ、中へ滑り込んだ。
熱い。呼吸をするたび、胸が焼ける。
目の高さを下げ、床を這うように進む。
指先に触れるのは、散らばった封蝋の欠片。
そして――見覚えのある革表紙。
「……副本束!」
棚の低い段が崩れ、副本の束が一部無事で残っている。
奥では黒頭巾の影が、何かを油に浸して火に投げ込んだ。
「やめて――!」
振り向いた影が短剣を抜く。
その刃がわたしの頬を掠め、熱い線を置いた。
痛む。でも、離さない。
わたしは副本束を抱え、背を壁につけて滑るように退いた。
「後ろだ!」
殿下の声。
次の瞬間、鋼と鋼の衝突音。
黒頭巾の腕が弾かれ、短剣が床を跳ねた。
殿下の剣が光を引き、影は窓へ――。
「逃すな!」
護衛が飛び、窓桟に手が掛かる。
だが影は煙幕を投げ、視界が白く弾けた。
咳き込みながら、司書長が叫ぶ。「夫人、その束を持って避難を!」
「いえ――あれも必要です!」
指差した先、半ば炭になった小箱。
司書のみが扱える“押印原版”のケース。
これが燃やされれば、新旧の印影比較ができなくなる。
殿下が二の句を継がずに走り、上衣で炎を叩いた。
焦げる布の匂い。
彼は躊躇なく素手で箱を掴む。
「殿下、手が――!」
「構わん!」
護衛が水樽を抱えて突入し、床へぶちまけた。
蒸気が上がり、視界がいっそう白む。
生き残った副本束、押印原版、司書長――
最低限の三つが揃った。
わたしたちは煙の川を泳ぐように廊下へ転がり出た。
◆
応急の詰所。
殿下の掌には火傷。
薬師が慌ただしく軟膏を塗る間、わたしは副本束を机に広げた。
煤で黒くなったページの端に、まだ読める文字が残っている。
“資金流用先:宰相府”“中間支出:王妃付慈善会”――。
「……ここです」
「王妃付……?」殿下が眉を寄せた。
「宰相府から“王妃付慈善会”への中継。そしてそこから消える。
慈善会の会計が“別簿”だったなら、本体会計に痕跡が残らない」
司書長が青ざめる。「別簿は礼拝堂の金庫――だが、鍵が……!」
「鍵は二重。王妃と宰相が一本ずつ」
殿下の横顔が険しくなる。
「母上が――いや、利用されたのかもしれない」
その時、使者が駆けこむ。「王妃付き侍女が拘束されました! 図書院への油壺を所持!」
空気が凍った。
「連れて来い」殿下の声は鋭いが、震えはない。
引き立てられてきた侍女は、恐怖に目を見開いていた。
「わ、私は……命じられただけで……」
「誰に」
「……宰相の書記官です。慈善会の保管室を“掃除”しろと。……油で」
“掃除”。燃やせ、という婉曲表現。
殿下の拳がわずかに震え、すぐ制御された。
「礼拝堂だ」
殿下は立ち上がる。「別簿と鍵を押さえる」
◆
礼拝堂の石床は冷え、香の香りが薄く漂っていた。
金庫の前に、蒼い顔の王妃が立っている。
その目は疲れに曇っていたが、わたしたちを見るとまっすぐに細められた。
「エドワード。説明を」
「母上。宰相が“慈善会”を中継地点にして資金を抜いています。金庫の別簿を拝見したい」
王妃は静かに頷き、胸元の鎖から小さな鍵を外す。
金庫は二重錠。王妃の鍵と――わたしたちが持ち帰った押印原版の封蝋を破棄する権限証で開く。
重い扉が軋み、内側の空気が冷たく流れ出る。
そこには、薄灰色の帳簿が十数冊。
その背に、薄く**“補助簿”**の刻印。
わたしは震える指で最上段の一冊を取った。
頁の端に、同じ筆致で繰り返される走り書きがある。
“寄付金受領”“救恤支出”“礼拝堂修繕”――どれも領収書の添付が無い。
「筆致……この癖は、宰相府の書記官。図書院で**彼の“手本帳”**を見ました。同一人物」
王妃の肩が小さく震えた。「私は……知らなかった。慈善会の名に、こんな……」
「母上の名は穢れていません」
殿下は静かに告げる。「穢したのは、宰相だ」
そこへ、騎士が駆け込む。
「殿下、宰相が王に直訴を!」
――最後の足掻き。
殿下が顎を引いた。「行く」
◆
謁見の間。
ダリウスは王の前で跪き、震える声を装っていた。
「陛下、私は嵌められております。偽の副本、偽の証言……! 殿下は“権力欲”にかられ――」
「証拠を持ってきました」
わたしは礼拝堂の別簿を高く掲げた。
頁を開き、同一筆致の列を王の前に置く。
そして、その横に押印原版を。
宰相の作った緊急文書の印影を原版に重ね、微細な傷の不一致を示す。
「この緊急文書の印影は原版と違う“欠け”があります。転写の際に縁に砂が噛んだ痕。王家の印台ではありえない――宰相府の倉庫の砂です」
王が身じろぎし、宰相を見下ろした。
宰相の顔から血の気が引く。
「さらに、慈善会の別簿。ここに“修繕費”として王都南門の鋳物工房が記載。――工房の記録では“その日”閉業。受領印の書式も一年後の改定版。
――時間が逆転している。後からでっち上げたのです」
広間が爆ぜた。
嘘の帳尻。時間の矛盾。誰にでも分かる“致命傷”。
宰相は最後の力で笑みを作った。「王よ、私はあなたの柱――」
「黙れ」
王の声は低く、重い。
長い沈黙の後、ゆっくりと続ける。
「柱は腐れば、取り替える。――王国のために」
殿下が息を吐く音が聞こえた。
わたしは帳簿を抱きしめる。
長い、長い回廊の先に、灯りが見える。
だが――その瞬間、宰相の袖から銀の閃き。
細い管。**短矢**が空気を裂き、王の玉座の脇を掠めて柱に突き刺さった。
毒の匂い。
騎士たちが一斉に飛びかかる。
宰相は押さえつけられ、なお吠えた。
「記録など、燃やせば――!」
「燃やしても、残る」
殿下が静かに言う。
その手に、焼け跡の残る小箱――押印原版。
そしてわたしの前で広がる、煤にまみれた副本。
さらに礼拝堂から押さえた別簿。
三重の証拠は、もうどれも消せない。
「記録は、人の手で書き、人の手で守る。
あなたが奪ったのは金だ。だが、我々は信を奪わせない」
宰相の肩から力が抜け、糸が切れたように沈む。
騎士が縄をかけ、最後の抵抗を封じた。
王は深く目を閉じ、やがて頷く。
「司法卿。判決の準備を。明日、最終審理を開く」
最終審理――。
わたしの胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
殿下がこちらを見る。
焦げた上衣の袖口。包帯の覗く掌。
痛むはずなのに、目は穏やかだ。
「……ありがとう、エリス」
「いいえ。わたしは、記録を運んだだけです」
「それがすべてだった」
短い沈黙。
広間のざわめきが遠く、鐘の音だけが近い。
「終わらせよう」殿下が言う。「次で」
「はい」
わたしたちは、同じ方向を見ていた。
燃え残った紙の灰が光を受け、雪のように舞っていた。
それは、失われたものの輝きではない。
残すと決めたものの輝きだ。
――最終審理へ。