第1話 開廷
「エリス・グレイ公爵夫人。これより離婚審理を開始する」
金の鎖を胸にかけた司法卿が、槌を一度だけ鳴らした。乾いた音が王宮大広間の高い天井で砕け、列席した貴族たちの小さな息をまとめて吸い込む。
わたしは立ったまま、背筋だけをすっと伸ばした。座る必要はない。――この場で座るのは、負けを待つ人。
向かいの列で、夫のアーネストが義妹メリアの手を包み、わざとらしく庇う。薄く笑う唇の形は、結婚した日のそれに酷似していて、しかし今は別物だ。中身が空洞の器ほどよく響く。
「証人席に、メリア・グレイ嬢を」
「はいっ」
メリアは小さく震えてみせ、淑やかに裾を摘む。練習を重ねた震えは、楽器みたいに同じところで揺れる。
「姉――エリス様は……夜半に、ある男性と密会を」
「証拠の提示は後にしろ」司法卿が制す。「先に離婚請求の趣旨を確認する。アーネスト・グレイ公爵、読み上げよ」
夫は整えた書状を取り出す。
「婚姻は、夫人の不貞により破綻した。よって――」
破綻、という言葉に、列席者たちの視線がわたしに刺さる。痛みはない。わたしは革の帳簿――家政簿――にそっと指を置いた。紙の温度は低いが、数字は熱い。事実は熱を持つ。燃やされなければ、いつまでも。
司法卿がこちらを見る。
「反論はあるか、公爵夫人」
「反論ではなく、確認から始めたいのです」
わたしは一歩、前へ。声だけは柔らかく。柔らかい言葉は、よく届く。
「本審理は、『結婚契約書』の遵守状況、および『魔力供給記録』と『家政簿』――三種の公的記録をもって判断される、でよろしいですね?」
「その通りだ。王家の規定により、証拠は印影と時刻印で照合する」
「ありがとうございます」
会釈して、机上に三冊を置く。副本の封蝋は割ってある。封蝋の色は、王都で最も寒い朝の空に似ている。
「待て」アーネストが眉を顰めた。「副本は本件と無関係だ。私の元本が正だ」
「申し立てのとおり、あなたの元本が正なら、わたくしの副本は偽造でしょう」
わたしは微笑む。「そこで――先に、簡単な照合を。時刻印の“癖”を、皆様にも見ていただきたいのです」
場がわずかにざわめく。
わたしは卓上の砂時計に手を伸ばし、ひっくり返した。会場の視線を砂に引き寄せるためだけの所作。本当の狙いは、次の一手にある。
「義妹さま」
わたしはメリアに向き直る。「あなたが“密会”を目撃したという夜半――つまり二十三時頃、王都の門は閉じていましたよね?」
「え……ええ、たぶん」
「王立時計局に照会した公文書がこちらです。閉門は二十二時半。臨時開門の記録はありません。あなたが証言する“他家の紋章を付けた黒馬車”は、門を通過できていない。――王都の空を飛んだのなら別ですが」
控えの書記官に合図し、写しを司法卿へ。さらに列席の貴族側へ。ざらついた紙が空気を削る音が、確かな手応えになる。
メリアの笑顔が一枚、剥がれた。
「些末な揚げ足取りだ」アーネストが割って入る。「内門からなら、私が通せる」
「ではその内門の“時刻印”を拝見したいのです。門番の印影は日毎に微妙に摩耗します。――こちらの印影は、二日前の擦り傷が再現されていない」
わたしは印影の拡大写しを掲げる。
「王立印房の鍛冶は“傷の癖”で働きます。剣の刃こぼれで打ち手を識るように」
静まり返る。
審理の序盤で全てを暴かない。穴は一つだけ、わかりやすいものを。観客は合図を求めている。「逆転は起こる」と告げる合図を。
「さらに、魔力供給記録の照合をお願いできますか」
わたしは自分の指に嵌めた婚姻環の内側を示す。微細な魔石が薄く光る。
「この記録環は、夫婦間の供給量を時刻ごとに刻む。契約書の第六条――“供給停止は夫人の義務違反と見做す”――これが夫の主張の根拠です。ですが――」
「ですが?」司法卿が促す。
「供給停止が最初に記録された“二週間前の夜”、わたくしは王都病院におりました。証明書があります。角砂糖くらいの、小さな証明ですが」
病院印の紙片が、机にころん、と落ちる。
「原因は疲労と軽い栄養失調。家政簿によれば、その週の食費は前年同週の四分の一です。夫の許可がなければ食材は買えない。――供給停止の原因は、夫の家計配分に起因する“環境的停止”。義務違反ではありません」
空気が、のどに触れるほど冷たくなった。
「まだあるのか」
アーネストの声は低い。怒りは重いと習った。だから、いまは軽くかわす。
「最小限で結構です」
わたしは家政簿の一ページをめくり、見せる。
「“義妹の部屋飾り”項。ここに“鉄薔薇のランプ”とある。職人名は“ティムの工房”。――この工房の主は、王城納品の常連。つまり出入りの印を持つ。そこでお尋ねします、メリア様。あなたは王城の“誰”から、そのランプの型紙を受け取りましたか?」
メリアの喉が、ごくん、と鳴った。
型紙は証拠ではない。けれど、証人を“誰か”につなぐ糸にはなる。糸は目に見える方がいい。誰もが「あ」と指させる細さで。
「答える必要はない」アーネストが遮る。「私的な贈り物だ」
「王城印の型紙は私物化できません。――それが、あなたの次の違反です」
司法卿が手を挙げ、書記官が走る。
王家側の席で椅子がこつ、と鳴った。目線をやらずとも、誰が動いたかは分かる。王太子殿下だ。彼は噂に反して、冷たい目をしていない。冷たいのは周囲の空気だけだ。
「本件、供給記録と印影の再鑑定を命ずる」
司法卿が告げる。「今日ただちに行い、明日に結論を示す」
「異議あり!」アーネストが立ち上がる。「夫人の副本は信頼に値しない!」
「――信頼?」
わたしはゆっくりと夫の方を見る。
「信頼を語るなら、契約書の第五条から読みましょう。婚姻の前提は『誠実』。条項は“曖昧”に見えるけれど、曖昧な条項ほど“運用記録”が効く。わたくしは家政簿で、あなたは……なにで誠実を証明します?」
沈黙。
空っぽの器は、叩かれなければ音がしない。
「本廷は中断する。各証拠を回収の上、印影・時刻印・供給記録を照合だ」
司法卿の槌が、二度鳴った。
ざわめきが、やっと人間の温度に戻る。裾が擦れる音、香の甘い香り、遠くで誰かが小さく咳をする。
そのとき、王家席から声が落ちた。
「――グレイ夫人」
名指しに、わたしは首だけそちらへ向ける。王太子殿下。
冷たくない目。深い湖面の色。
「質問を一つ」
「はい」
「あなたは、いま、怖いか」
間を置く。嘘は、ここでは役に立たない。
「いいえ。わたしは“怖くない”を、記録で作ると決めましたから」
王太子の口元が、わずかに緩んだ。
「――頼もしい。明日、また会おう」
中断の鈴が鳴り、廷吏が人の流れを整える。
わたしは帳簿を抱えたまま、小さく息を吐いた。肩から抜ける音は、誰にも聞こえない。聞こえない方がいい。強さは、音では測れない。
横を通り過ぎざま、メリアが囁いた。
「姉様なんて、誰も愛さない」
わたしは歩みを止めなかった。
愛は主張ではない。運用だ。契約も、家も、暮らしも、そして――わたし自身も。
廊下に抜ける扉の前で、廷吏が小声で告げる。
「夫人。鑑定の手配は今すぐ。印影は印房へ、供給環は王立術院へ」
「お願いします」
わたしは頷き、帳簿の角を指で軽く叩いた。四回。これは癖。落ち着くための、わたしの“時刻印”。
外の空気は、午前より少しだけやわらいでいた。王都の秋は、鐘の音みたいに透き通る。
明日、審理は再開する。
――その時、ひとつ目の蓋が、外れる。
(つづく)