最高の杖と修行の目標
夕暮れの光が氷のように淡く反射し、執務机に向かうアイゼルの横顔を照らしていた。
日の名残が室内に差し込むほどに、その存在感は一層の陰影を深めていく。
最後の書類に署名を入れたその時、ふと視線が扉へ向く。
それと同時に、控えめなノック音が響いた。
「皇太子殿下。ご所望の品が届きました」
低く落ち着いた声とともに運ばれてきたのは――
黒い布に丁寧に包まれた、一本の杖だった。
「さすが、仕事が早いな」
アイゼルは杖を受け取ると、布を外し中身を確認する。
その出来栄えに満足気に微笑むと、彼は不思議そうな顔をしてこちらを眺めているノクスに向き直る。
「貴様の杖だ」
「……俺の?」
手招きされ、ノクスは立ち上がるとアイゼルの傍へと歩く。
確かに、昨日杖の話をしてはいたが、準備が早すぎる。
どんな物を用意されたのかと思ったが、手にした瞬間身体が震えた。
触れただけで、その質がわかってしまう。
あまりにも手に馴染む、そして魔力の安定感が違う。
杖に魔力を流し込むイメージが湧いてくる。壊れる想像など一切できない。
まるで、ノクスの魔力に合わせて作られているようだった。
だとしたら……彼の魔力をよく知るアイゼル自身も、この杖の制作に直接関わったのではないかと考えてしまう。
昨日遅くまで特訓していた。
その後に……まさか、この杖のために時間を使ったのでは——
「……あんた、寝てますか?」
「この私が、貴様のために徹夜でもしたと言いたいのか?寝言は寝て言え」
思わず出た疑問に、呆れた声で返された。
しかしその態度が、何故だか逆に肯定を感じさせる。
ちらりと杖を運んできた男性に視線を向けると、静かに目を伏せられた。
徹夜までしたかはともかく、関わったことは確かのようだ。
「それでは、私はこれで」
「ああ、ご苦労だった」
アイゼルの言葉に男性は深く一礼し、執務室を後にする。
扉が閉まる音を聞きながらも、ノクスはその杖から目が離せずにいた。
(試してみてぇ……)
昔、杖を持った時にはなかった高揚感。
胸の奥がわずかに熱くなる——そんな初めての感覚だった。
そんなノクスの様子を察したのか、アイゼルは言う。
「焦らずとも、片付けをしたら訓練所に向かう。そこで存分に試せ。——最初は、制御からだろうがな」
どんなに優れた道具でも、使い方を誤れば凶器になる。
そう言いたいのだろう。
彼の言葉に一度冷静さを取り戻したノクスは、書類をまとめながらふと口を開いた。
「……ひとつ、聞きたかったことがあるんですが」
「何だ?」
アイゼルが聞き返すが、ノクスは言葉を発しかけて、一度飲み込む。
強くなって、自分を追い出した奴らを見返したいと思った、あの瞬間。
どうしても知りたいことができた。
だが、それを聞いていいのかどうか、急に躊躇いが生まれる。
「言いかけて止めるな」
アイゼルの鋭い声が刺さる。
一度口に出してしまったからには、言わざるを得ない。
ノクスは小さく息を吐くと、意を決して問いかける。
「魔術師が、……一番屈辱を感じる負け方って、何だと思いますか」
「は?」
予想外の問いかけだったのか、アイゼルが僅かに目を丸くする。
しかしすぐに顎に指を当て、軽く思考した後、ノクスに視線を向けた。
「魔術師が、という意味なら貴様の方がわかる気がするが……。恐らく、魔術が使えなくなることだろうな。端的に言えば、魔力路の破壊だ」
自分の力に自信がある魔術師ほど、それが失われることは耐え難いはずだ。
そして、それが一時的なものではなく、永続的なことであれば尚更。
「魔力路を破壊?そんな事が可能なんですか?」
魔術が使えなくなることが最大の——ということには納得したが、その方法があまりにも非現実過ぎて、ノクスは眉を寄せる。
魔力路とは、体内で魔力を巡らせる血管のような器官だ。
ここに異常が生じると魔術は発動できず、魔術師にとっては正に生命線とも言える存在だろう。
そしてその構造は非常に複雑で、他者が干渉することは事実上不可能とされている。
「ああ、理論上はな。試したことはないが……やろうと思えば出来るはずだ」
アイゼルの氷のような青い瞳が、ノクスを捉える。
その視線にどこか落ち着かなさを覚えつつ目を逸らした次の瞬間、全身にゾワリとした感覚が走った。
何か異物が入り込み、身体中を動いているようだ。
「……ふむ。効果はあるようだな」
「何、を……したんですか?」
「貴様の魔力路に、私の魔力を僅かに流し入れた」
想定外の言葉に、ノクスの目が見開かれた。
「心配せずとも微量だ、すぐ消える。だが、たったそれだけでも随分違和感があるようだ」
「当たり前でしょう……。ていうか、やった事ないのにいきなり試さないでください」
「試さないと出来るかわからないだろう」
だったらせめて、一言断ってくれ。
そう思ったが、言うだけ無駄のような気がして口を紡いだ。
それにしても、不可能と言われていた干渉を、感覚だけで一度で成功させるなど、やはりこの皇太子の魔力制御とセンスは恐ろしい。
改めてそう感じた。
「貴様は魔力が視認できる分、習得は有利だ。だが扱いを誤れば自分にも反動が来かねない。実践で扱うには、かなりの修業が必要となる」
机に寄りかかったアイゼルの声が、先ほどより少しだけ低く、近く響く。
その音の距離に気づき、ノクスは無意識に呼吸を整えた。
「まずは昨日言った発動速度と精度の改善……魔術式と魔力の効率化を完璧にしろ。それが出来てからでないと危険だ」
「わかってます」
簡単にできるなんて思っていない。順序があることもわかっている。
だが、可能だとわかった以上、必ず体得してみせる。
確固たる決意が滲むその様子に、アイゼルは鋭く目を細めた。
「それほどまでに、潰したい相手がいるのか」
「……」
ノクスは黙る。
しかし、それは肯定を示していた。
推測の域は出ないが、アイゼルはその相手を察している。
ノクスの才能を秘匿し、更に国から追い出した奴のことだろう。
人生を狂わされたのだから、憎むのも無理はない。
それでノクスの気が晴れるのならば止める気はない、が……
「貴様は、それで本当に満足できるのか?」
「……?」
「復讐を果たしても、思ったほどスッキリしないこともある。それに、新たな復讐を生む種にもなりかねない。その覚悟はあるか?」
その言葉に、ノクスは考える。
報復は、したい。
自分のこともそうだが、あの男——魔術師団長は、アリウスの魔力も秘匿した可能性が高い。
"魔術の適性がない”と寂しそうに言った顔を、まだはっきりと覚えている。
己の権威のために虚偽の報告をする男を、そのままにしておきたくはなかった。
それと同時に、懸念点はひとつだけ。
業を背負うことは構わない。ただ、かつての従者仲間の顔が浮かぶ。
魔術師団長は、彼の父親だったはずだ。
冷遇を受けていたと人伝に聞いてはいるが、それでも情がないとは限らない。
(俺だったら、自分の父親がどんな目に遭っても気にしねぇけど……)
万が一にも、彼を傷つけるようなことはしたくなかった。
確認したいのは、それだけだ。
「覚悟はあります。ただ、ひとつだけ、確かめたいことはありますが」
「そうか。いずれにせよ、魔力路干渉は高度な魔力操作を要する。修行の目標としては悪くない」
習得を否定されなかったことに安堵しつつ、ノクスは書類をまとめ終えると、訓練所に行く準備をした。
握る杖が、なぜか心臓の鼓動と重なる。
ノクスは唇を引き結ぶと、ゆっくりと部屋を出た。
——この日から、ノクスの魔力は加速度的に研ぎ澄まされていくことになる。
アルナゼル王城戦でノクスが使った魔術は、この時から習得が始まっていました。




