プロローグ
アイゼルの生い立ちについて触れます
グレイシャ帝国——世界最強の軍事国家。
その帝都にて、ひとりの男児が誕生した。
父は現皇帝、母は良家の出でありながら気品と穏やかさを備えた第一皇妃。
その子は、生まれながらにして「皇太子」として迎えられた。
兄弟はおらず、臣下の多くが皇帝の寵愛を受けた妃の子の誕生を祝い、帝は正式に跡継ぎと認めた。
その名は、アイゼル・ネイヴェル・グレイシャ。
父譲りの銀の髪と氷のように澄んだ瞳。母から受け継いだ美貌と気品は、生まれながらにして人々の目を惹いた。
やがて幼子は、常人の枠に収まらぬ才を見せ始める。
言葉を正しく話し、文字を理解したのは、わずか二歳の頃。
三歳にして「響術」の才に目覚めたとき、母と乳母は歓喜し、その才能を惜しみなく称えた。
この頃の皇帝は、まだ「暴君」ではなかった。
優しい妻の声に耳を傾け、幼い息子の目を見て、「よくやったな」と微笑んだ。
小さなアイゼルもまた、それが嬉しくて、父に誉められるたびに努力を重ねた。
四歳で剣術・魔術の才能を開花させ、認めてもらえるたびに心が満たされた。
だが、その時間はあまりに短かった。
五歳の冬、国中を襲った流行病により、母と乳母という二人の“無条件に愛してくれる存在”を失う。
父は変わった。
最愛の妻を喪った悲しみを表に出すことはなかったが、その瞳は、冷たく、厳しくなった。
「——お前は、皇太子だ」
それ以降、父はアイゼルを「息子」としてではなく、「後継」としてしか見なくなった。
アイゼルは泣かなかった。
喪失の悲しみを噛み殺し、感情を表に出すことをやめた。
ただ、期待に応えるように。
ただ、皇太子として相応しい存在であるように。
そして、誰よりも強く、賢くなった。
十歳で騎士団長を下し、十二歳には魔術師団長以上の実力を示す。
政務も完璧にこなし、臣下たちは彼を「未来の皇帝」と讃えた。
——だが、彼に寄り添える者はいなかった。
誰もが彼の才能を恐れ、あるいはその栄光に媚びた。
本心から語りかけてくる者は、ただ一人としていない。
そのような者たちに彼は、決して感情は見せず、ただ毅然とした態度を取り続けた。
それでも、アイゼルは使用人たちには優しかった。
扉を開けてくれる者に礼を言い、失敗した者に怒声を飛ばすことはない。
それは、かつて自分に微笑み、手を引いてくれた母と乳母の教えだった。
彼を慕う声は、確かにあった。
——けれど、それだけでは埋まらないものがある。
ある日、ふと窓から見下ろした帝都の景色。
壮麗な城の外には、凍えるような寒さと、不安定な暮らしの中で生きる民の姿があった。
その光景に、彼は静かな違和感を覚える。
「この国は、本当に強いのか?」
軍事力に限って言えば、間違いなく世界最高峰だ。
ここ数年で属国の数も増え、交易においても有利な条件を取り付けていると聞く。
国庫が潤っていることは確かだろう。
——それなのに、民の生活環境は決して豊かとは言えない。
民があってこその国。
母は、いつもそう言っていた。
笑い声が聞こえない帝都など、本当に“良い国”と呼べるのだろうか。
だが進言しても、却下された。
現状維持。現体制の維持。皇帝の意向は明白だった。
ならばせめて、現実を知ろうとした。
自らの目で見るために、何度も視察に赴いた。
正体を隠し忍ぶことも考えたが、その容姿と気配は、隠そうとしても隠しきれるものではない。
だから、いっそ堂々と訪れることにした。
最初は、物珍しげに遠巻きにされるばかりだった。
民の多くは、煌びやかな衣と整いすぎた容貌に気圧され、言葉をかけようとはしなかった。
だがアイゼルは臆することなく足を止め、必要があれば声をかけた。
「寒さが厳しい。屋根に隙間があるなら、修繕の申請を出せ」
「この水路、詰まりがあるな。管理所は気づいていないのか?」
「……その子、熱があるのではないか。医師を呼べ。代金はこちらで負担する」
その言葉は、決して見下したものではなかった。
誰よりもよく見ていて、必要な手を差し伸べる——それが、彼にとっては当たり前だった。
そして、そんな彼の心に最も引っかかったのは、先ほどの子供のように体調を崩している者のことだった。
——病に苦しむ者を、誰も診ていない。
彼はかつて、最愛の母と、寄り添ってくれた乳母を流行り病で失った。
感染っては困るからと、傍に寄ることすら許されなかった。
何もできなかった幼い自分の無力さは、今も深く胸に刻まれている。
だからこそ、病に侵された者を見れば放っておけなかった。
「……診療所を置こう」
集会所の一角を改装し、常駐の医師と最低限の薬品を配備する。
皇帝の許可を通すまでもない、小規模な施策。
それでも、応急の処置と定期的な診察が受けられるだけで、救える命はある。
「皇太子殿下のおかげで、子供が助かりました」
「こんな施設ができるなんて……ありがたい話です」
そうした声に、彼は静かに頷くだけだった。
見返りが欲しいわけではない。ただ——
(……もう、誰も失わなくて済むように)
その願いだけが、彼を動かしている。
結果として、民の支持は確実に高まっていった。
「綺麗なだけの御方かと思ってたけど……よく見てくださってるんだな」
「また来てくださるだろうか」
「ありがたい……本当にありがたい……」
そうした声は、次第に帝都に広がっていく。
一人ひとりの声に耳を傾け、自分の権限でできることは改善していった。
しかし、いかに聡明であろうと、皇太子の立場では限界がある。
結局何も変えられない自分に、もどかしさを募らせた。
一時凌ぎを望んでいるわけではない。
だが、先々まで見据えた改革案は、皇帝の許可なしでは実行に移せなかった。
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やがて、十四の誕生日を迎えた。
相も変わらず、取り入ろうとする臣下たちに囲まれる日々。
アイゼルは、そんな彼らの姿を見つめながら、内心で呟いた。
——くだらない。
だがそれ以上に彼の頭を悩ませていたのは、先日受けた皇帝からの"命令”だった。
「……そろそろ、側近を選べ、か」
来たる成人を前に、決めておけという。
だが、信頼に足る者も、真に有能な者も見当たらない。
この国の現状で、誰を選べと言うのか。
その時だった。
アルナゼル王国から、ある報せが届く。
“親交の証として、王弟の息子が帝に謁見する”
その名を、アイゼルはまだ知らなかった。
だが、ふと空を仰ぎ、誰にとも無く呟く。
「……どんな奴だろうな」
予感のようなものだろうか。
その存在に、妙に興味が湧いた。
それが、全ての始まりだった。




