己の無力と届かぬ手【後編】
その場にいた全員が、アイゼルを振り返った。
少女も、ゆっくりと僅かに顔を上げる。
その瞳が露わになった瞬間、アイゼルは息を呑んだ。
見たことのない、金色の瞳。
後ろでノクスが身体を僅かに震わせ、顔を逸らしたのが気配でわかった。
何か、"視えた”のかもしれない。
だが今は、それを気にしている余裕はなかった。
皇帝が目を細め、鋭い視線を向けてくる。
「アイゼル。この部屋への立ち入りを許可した覚えはないぞ」
威圧を孕んだ低い声。
しかしアイゼルは表情ひとつ動かさず、落ち着いた声で応じた。
「約束の時間にいらっしゃらなかったので、探していたのです。それで、一体何を」
皇帝は一瞥しただけで答えようとしない。
代わりに、黒いローブの男たちへ命じた。
「我が命に従うことが出来ぬ者など、要らぬ。処分しろ」
あまりにも自然な、機械のような命令。
アイゼルの胸が強くざわつく。
「……まだ幼い少女のようですが」
自然と口が動いてしまった。
「処刑に値するほどの失態を?」
抑えているはずの声に、驚きとわずかな怒りがにじんだ。
しかし皇帝は態度を変えない。
「お前が気にすることではない。お前は、任されたことをやっていればいい」
「父上!」
「早くその娘を連れて行け」
下された命令に従い、一人の男が少女の腕を引く。
気づけば、アイゼルの足は前へ踏み出していた。
「待て——!」
腕を伸ばしたが、突然縛られたかのように身体が動かなくなった。
何かをされたわけではない。
ただ、それ以上動くことが出来ない。足が前に進まない。
今、あの少女の手を掴んで何が出来るのか。
処分を命じたのは、皇帝。この国の絶対権力者。
たかが皇太子の自分が動いたところで、状況は覆らない。
優秀すぎる頭が、その現実を理性に叩きつけてきた。
感情のまま動くことを、拒んだ。
ただ、連れて行かれる少女の背中を見送ることしか出来ない。
胸の奥に、鉛が沈んだようだった。
悲しみでも怒りでもない。ただ——己の無力さに対する、虚無感。
それが全身を支配した。
腕を下ろし、無言で立ち尽くす。
その背に声をかけたのは、先程と変わらない皇帝の声だった。
「部屋を移すぞ。遅れてしまったが講義の時間だ」
何事もなかったかのように踵を返し、部屋を出る皇帝。
アイゼルは何も答えず、ただその背を追った。
続いて、ノクスが無言で後ろにつき、歩調を合わせて歩き出す。
講義室へ向かう道のりを、三人は一言も発することなく歩き続けた。
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講義が終わり執務室へ戻ってからも、アイゼルの胸の奥には濁った何かが沈んでいた。
(父上にとって、母上以外は“人”ではないのかもしれない。
……たとえ、私であっても)
誠実に接してくれた態度の理由も、「息子」あるいは「後継者」だからではない。
——"最愛の人に似ている”から。
母がこの世に存在していた証として、自分を見ているだけ。
だがどれほど面影があろうとも、決して「本人」ではない。
(だから、きっと私も……父にとって“人”ではないのだろうな)
同じように失敗すれば。
命令に背けば。
——私も、用済みになるのだろうか。
いつの間にか、手が机の端を強く掴んでいた。
沈黙の中で、そっとノクスが口を開く。
「……さっき、"視えた”魔力の話ですが」
あの少女の話だと、すぐに分かった。
アイゼルが視線を向けると、ノクスは少しだけ言葉を選ぶように続ける。
「心臓を中心に、すげぇ量の魔力が溢れてて……あれ、ほとんど“暴れてる”って感じでした。
あの"質”は、人間じゃねぇ……まるで、魔獣です」
その言葉に、アイゼルの眉がかすかに動く。
「魔獣……?」
「ですが、もうひとつ別の魔力も混じってました。
視た限りそっちは、……“人”の魔力でした。
二つが同じ体にあるなんて、有り得ません。
まるで……無理やり後付されたみてぇな……」
ノクスの顔が僅かに歪む。
嫌悪と困惑、そして恐怖の気配。
アイゼルの胸の底で、嫌な予感がさらに重く沈んだ。
「……調べますか?」
ノクスが低く問う。
「魔力の偽装も出来るようになりましたし、気取られる可能性は低い。
場所さえ突き止めれば——」
アイゼルはすぐに首を振った。
「駄目だ。忘れろ、ノクス」
「……っ、ですが」
「陛下が直接関わっている。貴様が動けば、最悪……処分されるぞ」
ノクスが息を呑む音がした。
沈黙が落ちる。
「……殿下は、それで納得できるんですか」
ノクスがゆっくり顔を上げ、呟くように言った。
アイゼルはゆっくりと拳を握りしめる。白い指が震えるほど強く。
「今は動けない。皇太子としての務めを完璧に果たすことが最優先だ」
声は静かだった。
しかし冷えた瞳の奥に、確かな熱が宿っている。
「だが、いずれ暴く。
あの少女の正体も。
彼女が"利用された理由”も。
そして、利用した者たちと、それを許した者を——必ず、裁く」
その瞳には、襲いくる虚無を押し返すほどの強い意志があった。
ノクスはその横顔を見つめ、肩を竦める。
「……了解しました。あんたが動くと決めた時は、俺もついていきます。
俺の力は、殿下の為に使うって約束ですから」
その言葉に、アイゼルは何も返さなかった。
ただ、氷の瞳を静かに閉じた。
心の奥底で、決意だけが固く、冷たく結晶していた。




