静謐なる制圧【後編】
ノクスが歩み出ると同時に、魔術師団のざわつきは一段と濃くなった。
その視線には、露骨な不安と、わずかな“試し”の色が混じっている。
(……まあ、こうなるよな)
アイゼルや刺客以外の前で魔術を使ったことは、まだない。
実力のわからない人間を警戒するのは、普通だ。
そう腹を括り、ノクスは前に立つ。
その時、沈黙を破ったのは、若い団員の一言だった。
「本当に……側近殿が、俺たちを指導できるんですか?」
刺々しさはない。
だが、疑念を隠す気配もなかった。
続くように、別の団員が魔力を片手に集めながら言う。
「……試してみても?」
控えめな声だが、周囲の空気が一気に引き締まる。
——明らかに、ノクスを測ろうとしている。
ノクスはわずかに眉をひそめた。
(言質は取ったな。なら……遠慮はいらねぇ)
魔術の気配が膨れ上がる。
挑発的というより、判断を求めるような視線がいくつも向けられる。
その瞬間、ノクスはわずかに指先を動かした。
小さな音もなく、周囲の魔力が一気に震える。
「っ——!?」
前列の団員が慌てて構えを取り直し、魔術式を展開する。
だがその魔術式にノクスが視線を向けた途端、複雑に組まれたそれは音もなく分解され、砂のようにほどけて消えた。
誰もが息を飲む。
続くように、横から放たれた熱球も、ノクスの指先一つで軌道を捻じ曲げられ、地面へと叩き落とされる。
「な……っ」
魔術師たちの顔に驚愕が走る。
彼らの実力は低くない。一般兵であっても、他国に行けば隊長に準ずるレベルと言えるほどだ。
だが——アイゼルの精密さにも、速度にも、威力にも遠く及ばない。
フェイクさえも、今のノクスから見れば非常に単純だ。
地獄の特訓を何ヶ月も受けてきた彼の瞳には、すべてがまるでスローモーションのように映っていた。
ノクスは肩を竦めたまま、淡々と告げた。
「試すのは構わねぇけど……、最初に言っとくぞ。手加減できると思うなよ」
声は低い。
そして、どこか静かに凍るような響きを含んでいた。
空気が変わった。
魔術師団のざわめきは、一瞬で消える。
ノクスは歩を進め、正面の団員を指した。
「“詠唱を短縮して組む術式”……速度はマシだが精度が甘ぇ。 力任せに魔力ぶつけても、俺みたいなのには崩されるだけだ。まずは核の安定、話はそれからだろ」
刺すような静けさの中で、指摘された団員は息を呑み、その瞳にあった不信感が驚きに塗り替わっていく。
これが——皇太子殿下の認めた、”唯一”の側近……
「……っ、はい!」
返事は先程とは違う。
緊張と、ほんのわずかな尊敬が入り混じった声だった。
ノクスは溜息をつきつつ、腕を組む。
(はぁ……これ、完全に"仕事増えた”やつじゃねぇか)
だが、魔術師団の空気はもう先刻のものではない。
少しずつ、それでも確かに、変わり始めていた。
最初は探るような視線ばかりだったが、ノクスの実力を目の当たりにしたことで、団員たちの顔つきに徐々に熱が宿っていく。
「側近殿、ここまで魔力を圧縮しようとすると、式が不安定に……」
「そこは流量じゃなくて軸。ほら、こうだ」
ノクスが軽く手を添えるだけで、魔術式が形を変え、魔力が安定する。
その度に、団員たちは驚いたように目を見開き、すぐに次の質問を投げかける。
"敬意”
それはまだ完全ではないが、確かな"認識の変化”が生まれつつあった。
(……はぁ。完全に火つけちまったな)
そっと息を吐きながらも、ノクスは次々寄せられる質問に答えていく。
そして、ふと横目に視線をやった瞬間、その光景に視線が縫い止められた。
訓練場の一角で、騎士団がアイゼルに次々と挑み、そしてなぎ倒されていく。
だが——誰一人、落ち込んでいない。
むしろ、倒れたそばから立ち上がり、 「もう一度お願いします!」と声を張り上げていた。
アイゼルもまた、相手の弱点に合わせて動きを変えている。
ある班には攻撃を仕掛け、別の班には徹底して防御に回る。
どちらも「学ばせる」ための最短手で、動きに一切の無駄がない。
(……本当に、人に教えるのが上手ぇんだよな)
この短期間での自分の上達も思えば、認めざるを得ない。
ノクスの顔に、自然と苦笑が浮かんだ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
やがて、日が傾き始めた頃、訓練は終了の合図を迎えた。
魔術師団の団員たちは汗を拭いながらも、今までとは違う眼差しでノクスを囲む。
「側近殿。今日は……ありがとうございました」
「また教えていただけますか?」
その声に、ノクスは一瞬だけ目を瞬かせた。
戸惑いと、僅かな喜びが入り混じった表情。
「……機会があればな」
そっけなく返しながらも、ほんの少しだけ頬が赤い。
その様子を後ろから見ていたアイゼルは、 悠然とした足取りで近づいてきた。
「上出来だ」
短い言葉だったが、その声は驚くほど柔らかかった。
アイゼルはノクスの前に立つと、当たり前のように彼の頭へ手を伸ばす。
次の瞬間——
その手が、ゆっくりと髪を撫でた。
「……っ!?」
触れられた瞬間、ノクスの全身が反射的にびくりと跳ねる。
驚きと戸惑いが同時に押し寄せて、息が詰まった。
(……な、何だ……これ……?)
幼い頃から、両親から褒められた記憶などない。
優しく触れられた経験など一度もない。
アリウスは自分を心から評価してくれたが、頭を撫でてくるような関係ではなかった。
だから——
この感覚は、人生で初めてだった。
温かいのに、落ち着かない。
嬉しいのに、胸が締めつけられる。
拒みたいのに、拒めない。
そんな感情が一気に押し寄せ、 ノクスは耳まで真っ赤に染めながら、慌ててそっぽを向いた。
「……あんたが急に丸投げするからです。おかげで仕事が増えたじゃないですか」
声は強がっているが、かすかに震えていた。
アイゼルは、そんなノクスの反応に気づいていないのか、あるいは気づいたうえで気に留めていないのか——
さらにもう一度、軽く髪を整えるように撫でた。
無自覚な甘やかし。
それがどれだけ心臓に悪いかなど、本人はまるで理解していない。
「……っ……!!」
ノクスは言葉を失い、完全に目を逸らすしかなかった。
そして、その光景を見ていた兵士たちは、ざわ……と小さく波立つ。
「え……殿下が、あんなに優しい顔を……?」
「いやいや、あれ撫でてたよな……? え、側近殿だけ?」
「殿下に撫でられるって……選ばれし者……?」
小声のはずなのに、どこか興奮と羨望が混ざっている。
騎士団の中には目を潤ませている者までいた。
一方、魔術師団は魔術師団で、
「……さすが側近殿……」
「撫でられるくらい信頼されてるんだ……」
「今日の指導もすごかったし……あれは本物だ……」
と、妙な納得をしていた。
ノクスは聞こえているのかいないのか、顔をそむけたまま、耳だけが真っ赤だった。
そしてアイゼルは、そんな周囲の“ざわつき”すら気にせず、いつもの落ち着いた声で告げる。
「帰るぞ。ノクス」
その声音はどこか満足げだった。
この訓練を境に、ノクスに向けられる周囲の目は、大きく変わっていった。




