001 役者、五味秀一
海の中。
男が死の淵にいた。
スーツ姿のその男は両手に手錠をかけられ、足には100㎏の鉄の錘が繋がれていた。
死にたくない――
見開かれた目から、男の叫びが聞こえてきそうだった。
やがて。
最後の大きな泡がひとつ生まれ。
事切れた男は、海の底へと沈んでいった。
恐怖と絶望に顔を歪ませて――
「いかかだったでしょうか。先日最終回を迎えました連続ドラマ『神と悪魔の天秤』、そのワンシーンを見ていただきました。
漫画原作のドラマ化で、現代版ロミオとジュリエットとも言えるこの物語、ラブストーリーとしての評価も高かったのですが、何と言っても今ご覧いただいたシーンの彼、ヒロインを執拗につけ狙う男の存在が、SNSでも常に話題に上がっていました。
本日はそのストーカー、大垣敏明役を演じられた俳優、五味秀一さんにお越しいただきました」
進行役の布川あずさの言葉に、五味秀一がにこやかに頭を下げる。
「初めまして五味さん。今日はお越しいただきありがとうございます」
「お招きいただきありがとうございます」
穏やかに微笑む秀一に、布川あずさが緊張気味に会釈する。
「早速失礼な言い方で恐縮なんですが、実は私……今本当に緊張してまして」
「そうなんですか?」
「はい。私もドラマ、毎週楽しみに見ていたんですが、あの大垣敏明というキャラが、本当にその……何と言いますか」
「怖かったと」
「はい……すいません」
「ははっ、そうなんですね。でもまあ、そういう風に感じてもらえるのは、演じた者としては嬉しい限りです」
「でも実際お会いして、イメージと違いすぎてて困惑してます」
「仕方ないですよね。物語に没頭していれば尚更でしょう。大垣という人間は陰湿で狡猾、救いようのない悪党でしたから」
「でも五味さんとお会いしまして、本当にご本人? って思うぐらい雰囲気が違うので、少し戸惑ってます」
「撮影中にお会いしてたら、今と違った感想になってたかもしれませんね」
「それは他のキャスト、スタッフの方たちも言われてましたね。役を演じてる時の五味さんは、撮影期間中本当にその役になりきっていると」
「僕は不器用な人間なので、オンオフがうまく出来ないんです。ですから一旦役をいただいたら、演じ終わるまでその人間になりきって生活するよう心がけているんです」
「ヒロイン役の山岸あかりさんもおっしゃってましたね。撮影中ずっと、五味さんのことが怖くて怖くて仕方なかったと。本当に殺されるんじゃないかと思ってたそうです」
「はははっ。僕は歪んだ愛情を彼女に押し付ける役でしたからね。怖がらせてしまったのは申し訳ないですが、仕事なので諦めてほしいと心の中でいつも謝ってました。ちょうどいい機会です、今ここで謝っておきましょうか。
山岸さん、お疲れ様でした。撮影中ずっと変な視線を向けて、怖い思いをさせてしまいましたね。嫌な気持ちになったと思います、ごめんなさい。また仕事でご一緒する時があっても、どうか僕を避けないでくださいね」
秀一の言葉に、布川あずさが声を上げて笑った。
「でも本当、五味さんの仕事に向ける情熱はすごいですね。役になりきる姿勢もそうなんですが、最初にお伝えしたように、雰囲気と言うか、それこそお顔自体も違うと言うか」
「大垣敏明というキャラは、目が落ち窪んで頬もこけていました。それに目の下にはかなり大きな隈があって」
「そうそう、そうなんですよ。それなのに今の五味さんを見てると、肉付きもよくて肌色も健康的で。それに彼のトレードマークとも言える隈もなくて。あれってやっぱり、メイクだったんですか?」
「ああいえ、あれは役が決まってから急いで体を作ったんです」
「作った……と言いますと?」
「大垣敏明の体重は48キロ、男としてはかなり細めですよね。ですが僕の当時の体重は62キロでした。なので」
「まさかダイエットを?」
「はい。クランクインまであまり時間がなかったので、結構大変でした」
「すごい……そんなご苦労があったんですね」
「まあ、身長だけはどうにもならないので諦めてますが、出来ることはやろうと思ってますので。
目の隈に関しては、勿論メイクさんの仕事は素晴らしいのですが、でもそれでは僕自身が役になりきれないんです。言い方は悪いですが、これってただの化粧じゃないかって。
決してメイクさんを否定してる訳じゃないんで、そこは誤解してほしくないんですが、僕みたいに不器用な人間は、それだと嘘くさくなるって言うか……ですから撮影期間中は、睡眠時間をかなり制限してました」
「ええっ! ということはあの隈、本物だったんですか?」
「ええ。特に撮影の前日は基本、寝てませんでした」
「どう言ったらいいんでしょう……本当、五味さんのプロ意識には脱帽してしまいます。そんな影の努力があったからこそ、あのドラマ『神と悪魔の天秤』の成功につながったんですね」
「いえいえ、僕はただの憎まれ役、物語のスパイスに過ぎません」
「本当、お話しを聞けば聞くほど、五味さんの役者としての姿勢に感動してしまいます。でも五味さんの演技が素晴らしいことは、視聴者からのコメントでもお分かりと思います。放送後はいつも『大垣敏明』がトレンドにあがってましたから」
「役者としては嬉しい限りなのですが、でもやっぱり複雑ですね。ラブストーリーなので」
「コメントで一番多かったのが『大垣敏明、本当にむかつく』というものでした」
「ありがとうございます」
「演じ手としては、やはり嬉しいものなのですか?」
「勿論です。皆さんにそう感じてもらえるように演じる、それが僕の役目ですから。事務所にも抗議のメール、よく来てたみたいですよ。『二度とあいつをテレビに出すな』って」
ははっと秀一が笑う。その姿に感嘆の溜息を漏らし、布川あずさが話題を変えた。
「冒頭に見ていただいた、大垣敏明最後のシーンも圧巻でした」
「ヒロインを我がものにする為、恋敵である藤間聡志を殺そうと雇った組織に裏切られ、海に沈められ絶命するシーンですね」
「あのシーン、初めて見た時は鳥肌がたちました。最後に口から大きな泡がひとつこぼれて、絶望の表情のままに息絶えて……どんな撮影状況だったのですか?」
「どんな、とは?」
「本当に溺れてるようにしか見えなかったので。勿論、CG併用と分かってはいるのですが」
「あれは本当に沈んだんですよ」
「ええっ! 本当にって、どういうことですか?」
「言葉のままです。あれは実際に腕に手錠をかけ、100キロの鉄の錘をつけて海に落ちたんです」
「……」
「あのシーン、監督とはかなり喧嘩しました。そんな危険を冒さなくても、今の技術なら安全に出来るじゃないか、そう諭されて」
「……私もそう思います」
「確かに監督の言う通り、今の技術はすごいです。どんな場所であってもCGで本物に近い演出が出来ます。ですがひとつ、それだと表現出来ないものがあるんです」
「それは一体」
「役者の演技です。あの絶望に満ちた瞳、苦悶の表情。あれは実際に経験しないと生まれないものなんです」
「それは……そうなのかもしれませんが」
「創作の世界で、たびたび議論になるものがあります。それは『経験したものでないと、リアリティに欠けるかどうか』というやつです。
僕の答えは『イエス』です。経験に勝るものはない。どれだけ努力しても、経験には勝てない」
「経験ですか」
「こう言えば『じゃあお前は、人殺しを表現する為に人を殺すのか』という極端な意見を出す人が必ず出てきます。演技の為に人を殺す、そんな馬鹿はいません。当たり前です。ですがあえて言うなら、もし殺人犯が演じれば、よりリアルな演技になるということです。
ハリウッドで言えば、有名な戦争映画。撮影前に半年間、実際にジャングルの中でキャストに生活させ、訓練を受けさせていたと聞きます。そういう努力があるからこそ、例え作り物の戦争だとしても、観客はリアルを感じることが出来るんです。
なので僕は、ひとつの役を与えられた時、可能な限りの経験を積むよう心掛けています。実際あの水中シーンで、僕は死ぬかもしれないと思いました。本当に怖く、苦しかったです。ですが後で画を見た時、僕の信念は間違ってなかったと心から思いました」
秀一の言葉をじっと聞いていた布川あずさが、感嘆の眼差しで拍手を送った。
「本当に、本当に素晴らしいです。私、番組の進行役であるとか、ゲストを迎え入れる立場とか。そういうことを抜きにして今、心から感動してます。五味さん、あなたは本当にプロなんですね」
「すいません、偉そうに語ってしまいまして」
「流石芸能界のサラブレット、名優五味新太郎さんのご子息ですね」
その言葉に、秀一の表情が一瞬強張った。しかしすぐに微笑みうなずいたので、布川あずさは気付かなかった。
「父のことは……そうですね、役者として本当に尊敬してます。僕は父の名を汚さいよう、もっと精進しなければいけないと思ってます」
「五味さんの演技にかけるストイックな姿勢は、やはりお父様譲りなのでしょうか」
「父の演技は本当に素晴らしいです。僕はその大いなる頂を求め、この世界に入ったんです。ですが当然、まだまだ未熟の極みでして……僕が経験というものにこだわるのも、コンプレックスの裏返しなのかもしれません」
「どういうことでしょうか」
「父の哲学は、先ほど僕が言ったことの対極なんです。『経験してないことを想像力、感性で補い演じる。それが役者というものだ』そう言ってます」
「補い演じる……」
「はい。ですから今でも、よく父に叱られます。経験がないと演じることが出来ない、そんなお前は二流だと」
「身内ならではの、厳しいご指導ですね」
「はい。でもあの父が言うんです、それが真理なんだと思います。父は現場に入ってから、その役に瞬時になりきることが出来ます。メイクひとつで監督が求めるものを表現出来ます。僕には真似出来ない、本物の役者です」
「五味さんがこれから役者としてのステージを上げていく為には、そういうお父様の厳しさも必要なのかもしれませんね。ですが本当に、今日は五味さんのお話が聞けてよかったです。
五味さんがこれからも、役者として私たちを魅了して下さること、心から期待しております。あ、でも、どうかお体だけはお大事にしてくださいね」
「ははっ、ありがとうございます」
「では今日は『神と悪魔の天秤』に出演された、五味秀一さんにお話を伺いました。それでは今日はこれで。ありがとうございました」
「ありがとうございました」