デコとボコと…2
「だって、こんな危険な仕事、若い人にはさせられないわ」
甘ったるく、しかし凛として話す声に、その表情まで浮かんできてジェームスは背筋が凍る。
「俺だったらいいんかい!!」
人生で何度この言葉を放っただろう、しかも相手はいつも同じだ……不毛な突っ込みは止めておこうと思うのに、言わずにはいられないのだ。
スマホの呼び出し音が鳴る数分前まで、ジェームスとテイラー夫人ことアンジュは、3階のバルコニーでその言葉通り、甘美な時間を過ごしていた。春先の夜風は乾いていて、この春一番、気持ちの良い夜だった。
ジェームスに誘われてアンジュがバルコニーに出て見れば、心地よい風と共に一年前と違うバルコニーがそこにはあった。品の良いサイドテーブルには冷えたシャンパンと凝ったフィンガーフード、2人掛けのハンキングチェアのサイドには観葉植物がセンスよく置かれている。至る場所に置かれた淡い灯りを灯すキャンドルは夜を彩る。アンジュは驚きと感動で言葉をなくした。
このバルコニーは去年家を購入した時から、ジェームスが改造に改造を重ねていたものだ。床にはセンスの良いウッドを敷き詰め、青々とした観葉植物が配置させた。庭園はアンジュの管轄でジェームスの出る幕などない。そこで目を付けたのがバルコニーだ。閑静な住宅街にあって、眼前には遮るものなど何もなく、点在する町の明かりがロマンティックだ。ヤンチャをし過ぎたルゥへの叱責の声が度々聞こえてくるが、まぁまぁ許容の範疇である。
ジェームがアンジュと一日を締め括るに相応しい場所とするために、試行錯誤を重ねた結果なのである。勿論、今日という日を選んだのも、ジェームスの拘りだ。数日前から予報を逐一チェックして、天気は当然のことながら、温度や湿度、大気の汚染状態まで調べ上げて今日という日を選んだ。
アンジュもジェームスの拘りはよく理解していて、バルコニーに面する部屋のカーテンはずっと閉じられたままだった。そうして漸く満足がいく出来栄えとなり、今日という日を迎えたのだ。
「夕食は少なめにって、こーゆーこと」
こんな大掛かりな作業を隠れて進めていたジェームスの気持ちが嬉しくて、アンジュの唇から「ふふっ」と笑みが溢れる。
「だってこの良い季節を二人で堪能したかったんだ。サラリとした風が気持ちいいね。間に合って良かった」
悪戯に成功したかのような満足感を口元に湛えてジェームスがニッコリと笑う。アンジュの笑顔が見たいから頑張れるのだ。喜ぶことならなんでも……次は何に取り掛かろうか…そう逸る気持ちを妻の輝く瞳に重ねてみた。
カチン
シャンパングラスの繊細な音が落ちる。二人はハンキングチェアて肩を並べて、点在する街の灯りに暫し見入った。
「変化がない人生を忌み嫌っていた時期もあったのに、今はそれが幸せなの」
頭をジェームスの肩に預けてアンジュがポソリと呟く。キャンドルの淡い光の中であっても、その美しさは普遍だ。触れ合った肩の温かみに感動しながら、ジェームスは言葉を繋げた。
「僕もだよ。仕事や子供、全て手が離れた今、自分と君の事だけ…これがどんなに恵まれているのか、この一年、感謝しない日はないよ。本当に1年前の選択は間違っていなかった。」
アンジュが小さく頷きを落とす。その小さな仕草だけで心が震える程に愛おしい。ジェームスは何とか平静を保ちながら、シャンパンを口に含む。
『仕事はあれだったが、子供は勿論可愛いし、子育ては大変だが楽しかった。それでも僕にはアンジュ…君だけだ』
「今思えば、仕事で家を1年空けるとか…365日、君と会わない日があったなんて……本当に人生を無駄にした。若い頃は、それがどんなに貴重なのか分かっていなかった。ここにタイムマシンがあったら昔の僕を殴りに行きたいよ」
心底悔やむような声に、アンジュは思わず吹き出す。
「僕は本気だよ!?」
年甲斐もなく頬を膨らませる可愛い仕草に、「分かってるわ。今の状況は全て過去の自分が選択してきた事の結果なのだから、今が幸せということは無駄な事などなかった、そうでしょ?」そう諭すように、そして自身にも言い聞かせるように軽く笑う。愛しい人が笑うだけでこんなにも胸が熱くなる、グラスを置いてアンジュを引き寄せようと腕を伸ばした時だった。
その時だ。日本で知らない人はいない…友人からそう言わしめたスマホの呼び出し音が鳴った。全てが自分のモノだと豪語する人物を表現した音楽だという。正にこの電話の主そのものだ、そう面白おかしく数年前にリンクさせた。当時はナイスな選択だと思ったが、今となっては呼び出し音が鳴るたびに知らない遠い国のアニメのキャラが苦々しくて仕方がない。
『…何故、こんなタイミングで? くそ、浮かれ過ぎた。いつもはアンジュと過ごす時は消音にしているのに…』
特別な夜に不穏な人物からの電話ほど嫌なものはない。こんな日はスマホの電源を切っても許されるだろう、今からでも遅くない、そうジェームスがポケットに手を伸ばしかけた時だった。アンジュがスッと身体を正す。
「早く出て差し上げて? お待たせするのは良くないわ」
感情なく放たれた声に観念して、ジェームスが腰を上げた瞬間、
「あら、ここで宜しくてよ? どうぞお気兼ねなく」
「……はい」
愛しい人から口元を上げただけの形式的な笑顔を向けられて、このまま席を外せる男などいるだろうか? いや、いない。少なくともジェームスはそんな男ではなく、観念してスマホの受話器のボタンを押したのだった。