デコとボコと…1
パチン
NYから車で五時間。程よく田舎…そんな言葉が浮かぶたびにティラー婦人は頬が緩む。顔見知りばかりが暮らすこの町で、変化なく過ぎる日々。切り揃えられた芝生が青々と太陽の光を反射している。庭園は狭いながらも細部まで拘り抜いた自慢の庭だ。クラブアップルが白く可愛い花を付け、深緑のオリーブの葉がよいアクセントになっている。何といっても特筆すべきは白・ピンク・赤の花弁が零れんばかりのバラ群だろう。ティラー夫人は、調和が取れた庭を見て瞳を細めた。
ティラー夫人は、身長は160センチの小柄な女性で少し腰が曲がっているお婆さんだ。いつもニコニコとご機嫌で陽気な話好きなため、町に出れば多くの知人が声を掛けてくる。
「ばっちゃん、おっはようぅぅ!!」
隣に住む双子の片割れ、ルゥが家から飛び出してきた。ヤンチャを体現したような十歳の男の子で、よく母親の「いい加減にしなさーい!」が家から響いている。抜け替わりで前歯が歯抜けなのがこの子には不思議と似合っていた。
「おはようございます、だろ。ティラーさん、おはようございます。今日は暑くなりそうだから、日中は気を付けて」
ルゥの後に家から出てきたコゥがニッコリと笑う。双子とはいえ正反対な二人だ。容姿が同じだというのに二人を双子だと認識するのは難しい。スクールバスに向かって駆け出すルゥと、テクテクと歩いていくコゥの後ろ姿に、
「行っていらっしゃい、気を付けてね!」
毎日変わらない声をかける。そう穏やかな日常がここにはある。視界を遮るものがない風景を見ながら、ティラー夫人は心地の良い息をつく。
「おはよう。今日もいい天気ね」
双子の祖母である隣人、リンダ婆さんが声を掛けて来た。双子のひ孫が良い刺激になっているのだろう、高齢にも関わらず町をグルリと一周するのが日課の名物婆さんだ。
「リンダさん、おはよう。今日も早いわね。ルゥとコゥはもう行っちゃったわよ」
「行ってくれて良いのよ。あの子達のテンションに付き合っていたら昼前には疲れて動けなくなっちゃうの。いやぁね〜歳を取るって…あら? 今日は旦那さんがいないのね、珍しいじゃないの」
いつもは日がな一日デッキで優雅に冬は熱いコーヒーを片手に、夏は氷が浮かぶアイスコーヒーをサイドテーブルに置いて本を読む旦那の姿が今日はない。いつもの特等席であるチェアーには、大きなクマのぬいぐるみが置かれている。
ティラー夫人は、薔薇の瑞々しい茎に鋏をパチリと入れた。
「そ、以前勤めていた会社に急遽呼び出されてね。短期バイトっていうのかしら、全く…若くて綺麗な社長の頼みだからって昨晩の内にイソイソ出かけて行ったわ。連絡があったその日によ? ビックリしちゃう」
面白く思っていないのは一目瞭然だ。自身の過去の経験を苦く、そして懐かしく思いながらリンダ婆さんは茶目っけたっぷりにウインクを返す。
「男って幾つになってもしょうがない生き物なのよ。でもあんな真面目そうな旦那さんなのに…人は見かけによらないものねぇ」
そうして二人でため息交じりに笑い、最後は「まぁそんな所も可愛いのよね」と言葉を締めくくる。そうしてティラー夫人は庭の手入れを、リンダ婆さんは変わらない町の散策に今日も出掛けていく。
この町の1日はこうして過ぎていくのだ。
ジェームスは眼下に広がる光景を視界に収めて、深い…それはそれは深いため息を吐いた。とは言え、認識が出来るのは豆粒かと言わんばかりの車と張り巡らされた道路だけだ。時折、大気が震えるように身体を揺らす。
超高層ビルの屋上となれば地上よりも圧倒的に空が近い。ジェームスは何度目かのため息を吐く。
「何で俺がこんな場所に…?」
昨日のこの時間は、お気に入りの小説を片手に、妻の庭の手入れを横目に見ていた。隣の悪ガキどもが(悪ガキは一人だけだが)、家から飛び出してきて早々、ルゥがジェームスを見てニヤリと笑う。
「ジェームスさん、今日も相変わらず暇そうじゃん、俺に代わって学校行ってよ〜」
「馬鹿者! 学生の本分は学ぶことだ。儂だって学ぶべき時に学び、働くべき時に働いたこそ……」
「うわ〜年寄りの説教とかマジ辛〜。毎日、刺激がない生活してたらボケちゃうよ〜そうしたら孫みたいに可愛い僕との軽快なコミュなんて出来なくなっちゃうんだからね!」
「だぁれが孫だ、そんな歳ではないわ!!」
「えぇ…そんな歳じゃん」
「ルゥ、今日という今日は…」
殺気を纏いユラリと腰を上げたジェームスに、次の説教ターンに入ったことを察したルゥは、歯抜けの前歯を晒して「じゃねー行ってきまーす」と駆け出を出して行く。軽快と言えば軽快なのだが、如何せん子憎たらしさこの上ない。妻の「子供相手に大人げないんだから」という呟きも聞こえてくるものだから、朝の清々しい気分が台無しだ。隣の家の玄関ドアが申し訳なさそうに開いて、双子のコゥが出て来た。
「ジェームスさん、いっつもルゥがごめんなさい。よく言って聞かせ……ても、次の日には忘れちゃうです。馬鹿だから」
馬鹿だから…この言葉に、二人は目配せをし合って頷き合う。ルゥという少年は、町一番の木の天辺で動けなくなったり、湖で溺れ掛けたり、隣町の上級生と喧嘩をしたりと、話題に事欠かない。そんな双子の兄を持つコゥの苦労を思うと、ジェームスの溜飲はストッと下がるのだ。
「コゥが謝る事ではないわ。あんな子供の戯言、気にしちゃおらん」
「流石ジェームスさん、大人だね。でも度が過ぎたらちゃんと怒ってね。手を掛けさせるのは申し訳ないけど…」
親かと言わんばかりの謝罪に、ジェームスは苦笑いを浮かべて、
「心配いらん、彼奴は叱責される範囲を弁えているからな。それも腹立たしいが…お前さんが気にする事じゃない。所詮は子供のやる事だ。その範疇を越えたらゲンコツだぞと言っておるからな」
そうゲンコツを作って笑ってみせた。そこで漸くコゥの顔に笑顔が戻る。全く、親よりも親っぽい奴だとジェームスは内心笑った。
「ほらほら、お爺さんの無駄話に付き合っていたらバスに遅れちゃうわよ。コゥも早く行きなさい」
ティラー夫人の声がけに「うん、行ってきます」と頷いてルゥもまた駆け出していく。その後ろ姿を見送った後に、ジェームスが唇を尖らせた。
「お爺さんって歳じゃないだろ、俺は」
そうぼやいて白髪が混じった顎髭をザワリと撫でたのだった。