5-2 進級カウントダウン
ホームルームが終わり、生徒たちが一斉に下校する中……
俺は、南校舎の二階――伍月のクラスがあるフロアの隅に身を潜めた。
下級生がぞろぞろと階段を降りて行く中に、伍月の姿はない。
大方、まだ教室に残っているのだろう。下校中、俺とばったり鉢合わせないようにするために。
「二年生もあらかた帰ったみたいだね……そろそろ教室に突撃する?」
と、廊下の端で様子を窺う薙沙が、サングラスをずらしながら言う。
素顔のままだと下級生がキャーキャーと寄って来るため、タオルを頭に巻き黒いサングラスをかけ、変装しているのだ。
薙沙の問いに、俺は首を横に振る。
「いや、出て来るのを待とう。俺に考えがある」
そうして、薙沙に作戦を伝え――
俺たちは、それぞれの配置に就いた。
――十分後。
教室のドアが開き、伍月が廊下に出て来た。
他の生徒はとっくに下校している。誰もいない廊下を歩き、伍月は階段の方へ向かう。
(……よし、今だ)
俺が思うのと同時に、伍月の進行方向――階段の曲がり角から、変装したままの薙沙がバッと飛び出した。
「ばぁーっ!」
「ひっ……変質者?!」
伍月は足を止め、小さく悲鳴を上げる。
そこで、薙沙は頭のタオルとサングラスを取り、満面の笑みで手を広げる。
「じゃじゃーん! 僕でしたー! 伍月ちゃん、びっくりし」
「ぎゃーっ! 平泉先輩イヤーーっ!!」
薙沙を認識するなり、伍月は叫びながら反対方向――俺のいる方へと廊下を駆けた。
「え……? 僕って変質者よりも嫌われてるの……?」
という薙沙の悲しい呟きが聞こえるが、構っている暇はない。
廊下を走る伍月の足音に耳を澄ませ……
(――ここだ!)
教室の前に伍月が到達したタイミングで、俺は隠れていたドアをガラッと開け、伍月の身体を捕まえた。
「へっ……? ヨシツネ先輩……?!」
突然現れた俺に、伍月は目を見開く。
驚いている隙に、俺はその身体を抱き上げると……
教室の隅にある掃除用具入れへと彼女を運び、無理やり押し込むような形で、中に入った。
ガチャンと閉めた、狭い用具入れの中。
俺と伍月は、向かい合うようにして密着する。
作戦は、無事に成功した。
教室に引き込むだけでは完全な密室を作ることはできない。教室は前と後ろの二箇所にドアがあり、片方を閉めてももう片方から逃げられる可能性がある。
だから、この用具入れに閉じ込め、"密室モード"を引き出そうと考えたのだ。
「ちょっ……先輩、近いっ……ていうか、なんでここに……?!」
驚きと恥じらいが入り混じったような顔で、伍月が尋ねる。
俺は目の前にある瞳をぐっと覗き込みながら、こう聞き返す。
「それはこっちのセリフだ。下校時刻はとっくに過ぎたのに、何故まだ教室にいる?」
「そ、それは……」
「……そんなに俺と遭遇したくなかったか?」
伍月が「え……」と漏らすのを聞き、俺はすぐに自己嫌悪する。
違う。こんな、伍月を責めるようなことが言いたいわけじゃない。
俺が聞きたいのは……
「……どうして、俺を避けているんだ? 教えてくれ。俺に原因があるのなら、ちゃんと直すから」
顔を近付け、真剣に尋ねる。
戸惑いに震える、伍月の瞳。
そのまま、一度唇を噛み締めたかと思うと……
――ぽろっ。
……と、揺れる瞳から、涙が溢れた。
…………って、
「ど……どどどどうした、伍月?! ごめん、痛かったか? それとも、そんなに俺のことがイヤで……」
初めて見る涙にぎょっとし、俺は大いに慌てる。
しかし、
「ちがう……っ」
伍月は、すぐに否定した。
そして、涙に濡れたまつ毛を伏せながら……
弱々しい声で、こう続けた。
「っ……だって、先輩……三年生になっちゃったんだもん……っ」
…………ん?
「えっと……ごめん、どういうことだ?」
「だからっ……同じ学校にいられるのも、あと一年でしょ……? 先輩がいない生活に、今から慣れておかなきゃって思って……わざと距離を置いていたんです……っ」
俺は……息を止める。
俺のいない学校生活に慣れるために避けていた……?
まさか、そんな理由だったなんて……思いもしなかった。
「伍月は…………俺が卒業したら、寂しいのか?」
驚きのあまり、バカみたいな質問を投げかけてしまう。
案の定、伍月は潤んだ瞳をきっと吊り上げて、
「あ……当たり前じゃないですか! 先輩がいない学校なんて、私さみしすぎて……このまま時間が止まればいいのにって、ずっと考えててっ……せんぱい、なんで三年生なの……? お願いだから、私を置いていかないでよぉっ……!」
……その言葉を聞いた瞬間。
俺は、伍月の身体を――ぎゅうっと抱き締めていた。
亜麻色の柔らかな髪が、俺の鼻をくすぐる。
……考えたことがないわけではなかった。
俺と伍月は一学年違い。留年でもしない限り、俺の方が先に卒業してしまう。
それまで当たり前のようにできていた昼休みのお喋りも、廊下ですれ違った時の目配せも、放課後の寄り道も、できなくなる。
そのタイムリミットまで、もう一年を切った。
それは、考える程に寂しくて、切なくて……どうしようもない事実。
だけど……だからこそ、俺は……
「離れたくないなら、尚更……一緒にいられる今の内に、できるだけ側にいろよ……っ」
ありったけの想いを込めて、伍月を抱き締めた。
離れることに慣れるために離れるなんて馬鹿げている。
限られた時間の中で、一つでも多くの思い出を残すために、俺はできる限り側にいたい。
それに……
「……安心しろ。卒業くらいじゃ簡単に離してやらないから。むしろ、離れないために大学へ行くんだぞ?」
「……どういうことですか?」
「言っただろ? お前と結婚して、"完全密室御殿"に住むんだって。卒業はそのための一歩だ。俺たちは別れに向かって進んでいるんじゃない。将来、誰よりも近くで生きるために、時間を進めているんだ」
言って、俺は伍月の顔を見下ろす。
不器用で、世界一可愛い、俺の彼女。
赤く染まったその頬を、涙がぽろぽろとなぞってゆく。
俺は愛おしさに目を細め、そっと顔を近付けると……
「だから――もう泣くな、伍月」
そう囁いて。
涙で濡れた頬に、ちゅ……っと、口付けをした。
その途端、伍月が息を飲む。
「せ、せんぱっ……!?」
「……こっちも」
言いながら俺は、反対側の頬にもキスをする。
涙を上書きするように、何度も何度も。
「泣くなって……俺のこと、そんなに好きなのか?」
「っ……好きですよ! 好きだから、ずっとずっと、一緒にいたいの……っ」
「……俺も」
低く囁き、キスの雨を降らせる。
その度に、伍月の身体がぴくっと震える。
……伍月の想いが嬉しくて。
唇に触れる頬が柔らかくて。
密着した身体が熱くて……
脳に、甘ったるい靄がかかり始める。
「んっ……せんぱ、い……」
加えて、キスする度に伍月がくすぐったそうな声を上げるものだから、俺の熱はいよいよ沸点へと上り詰めてゆく。
好きだ。
好きだ好きだ、大好きだ。
「……伍月」
キスの合間。
俺は、吐息混じりに名前を呼ぶ。
伍月は、それに応えるように俺を見つめ、
「せんぱい……」
まるで熱に浮かされたように、目をとろんとさせながら、
「シて…………口にも、ちゅって…………シて…………?」
なんて……
最高に可愛くていやらしい顔で、甘えるように言った。
心臓が、ドクンッと跳ね上がる。
そのままバクバク暴れ、呼吸周期を乱してゆく。
これは……反則だ。
この状況でそんな風に言われたら、もう……
…………もう、止まれない。
「………………」
俺は、伍月の頬を両手で包むと……
物欲しそうに薄く開いた、その唇に……
自分のを、そっと重ね………………
……ようとしたところで。
――ガタッ。
俺の背後……掃除用具入れの扉の向こうから、そんな音がした。
思わず固まる、俺と伍月。
扉を隔てた先に感じる、人の気配……
それが誰なのかは、言うまでもなかった。
俺は、内側から扉をそっと開ける。
案の定、目の前には……
こちらの様子を窺うように耳を傾ける、薙沙がいた。
伍月が「ひっ」と顔を赤らめ、震える。
「……盗み聞きしていたのか」
ジトッと睨み付けながら低く尋ねると、薙沙は悪びれる様子もなく手をパタパタ振り、
「だってぇ、ちゃんと仲直りできたか気になってさぁ。んで? ちゃんと唇にちゅーできた?」
なんて、にまにま笑いながら聞き返してくる。
こいつは……間が悪いと言うべきか、良いと言うべきか。
俺は息を吐き、用具入れから出る。
そして伍月の手を取り、彼女が出るのを手伝いながら答える。
「お前が邪魔してくれたお陰で寸止めだ。危ないところだった」
「うっそ、ごめん。僕あっち行くから、続きしてどーぞ」
「いや、しない。もう大丈夫だ」
「えぇー? せっかく仲直りしたんだし、もうしちゃえばいいのに。たかがキスだよ?」
「……たかが、だと?」
ギロッと、俺は鋭く薙沙を睨み付け、声を荒らげる。
「口と口でするキスは、紛れもない粘膜接触……そんなものは、もはや性行為だろ! えっちすぎる!!」
「うわー、拗らせてるなぁ」
「俺はまだ高校生だ。責任が取れる年齢でもない。いくら伍月にねだられようと、性交渉に準ずる行為は避けるべきだ」
「へぇー……じゃあ、伍月ちゃんからおねだりしたんだ。その『性交渉に準ずる行為』。意外と積極的なんだね」
……と、軽い口調で放たれた薙沙の言葉に。
伍月は、ぷるぷると震え始める。
……まずい。
そう思った時には、もう遅かった。
伍月は、右腕を思いっきり振りかぶると……
「……ばかぁあああっ!!」
――ゴッッ!!
俺の頬に、強烈なストレートパンチをお見舞いした。
俺が「ぐはっ」と倒れると、伍月はダッと駆け出し、
「この変態! サイテー! 先輩なんか早く卒業しちゃえ!!」
そう言い捨てて、教室から出て行ってしまった。
残されたのは、倒れた俺と、立ち尽くす薙沙のみ。
俺は殴られた頬に手を当てながら、薙沙に冷たい視線を送る。
「……えっ、僕のせい?」
「どう考えてもそうだろう」
「えぇ……先に性交渉うんぬん言い出したのはヨシツネじゃん」
「くそっ。せっかく仲直りできたのに、また逃げられてしまった…………薙沙」
「今度はなに?」
そのまま、俺は……
薙沙に向けて、土下座するように頭を下げ、
「……いちごペラペチーノ追加で奢るから、伍月を捕まえるの手伝ってくれ」
そう手を合わせると、薙沙はやれやれと首を振り、
「はぁ……抹茶スコーンもつけてよね」
呆れたように笑いながら、ため息混じりに答えた。