僕の終わり
「ねぇ、どこに向かってるのよ?」
ガタっ、ガタっ、と揺れる車内。
体を痛めつける振動で目が覚める。
そんな中、母親の声が前から聴こえてきた。
「あぁッ?んなもん決まってねぇよ、適当だ適当。」
父親だろうか?聞き慣れた男の低い声も聞こえてくる。
目を開くと視界には母親の金髪とハンドルを握るゴツい手が映った。。
(臭い・・・。)
タバコ臭いが鼻をつく。
思わず鼻をつまみたくなったが、手はなぜか動かない。
「適当って・・・もう1時間走り続けてるじゃない。あの子を捨てる場所があるんじゃないの?」
「はぁ?んなのあるわけ無いだろ。
ただ遠くに捨てないと、この餓鬼の死体が見つかったときに簡単に足がつくからこうやって走ってんだ。少しは頭使え馬鹿。」
「・・・そこまで言わなくたっていいじゃない。」
足も同様、今は息をするので精一杯で、こんな不自由な感覚は生まれて初めてのことだった。
僕は自分の体がどうなっているのか確認したくなる。
顔を動かすと座席と体が擦れる音が鳴った。
「あ?起きたのかあいつ?」
「・・・起きてるわね、驚きだわ。」
「アハハハハハ!マジかっ!?すげぇな!」
その音に親は何故か驚いて声を大きくする。
どうしたのだろうと疑問に思ったが、その理由は体に視線を向けることで理解した。
「あれだけやってもまだ生きてるのかっ!」
腕と足があらぬ方向に曲がっていたのだ。
見る限り全身は打撲のせいで青紫に変色済み。
昨日の僕など見る影がなく、死に体も同然なのは日を見るよりも明らかだった。
「前から思ってたがお前の餓鬼は存外にしぶといな!」
「何嬉しそうにしてんのよ、あそこまで行けばもうゾンビよ、ゾンビ。
気味が悪いったらありゃしない。」
「いいじゃねぇか!どうせあの様子ならあと数十分も生きられないだし!あと少しの根性ぐらいは褒めてやろうぜ!」
痛みはない・・いや、体の感覚がないのだろう。
体を襲うのは寒気のみ。
「皮肉ね、あんなんにしたのはあんたじゃない。」
「仕方ねぇじゃん。あいついい反応するからついつい熱が入っちまうんだよ。」
まるで微睡みの中にいる感覚。
体がこんな有様なため、結局僕に出来るのは現状の確認のみだった。
いつも通り、親の会話に耳を傾ける。
「しかし、あんなにボコボコにしたってのにまだ死んでないとはな。・・・ほんとに人間なのか、あいつ?」
「さぁ?ただ私の中から生まれたんだし人間なんじゃないの?
まぁ、どちらにしろさっさと死んでほしいわ。」
母親もタバコを吸っていたらしい。
火を消した吸い殻が僕に当たる。
一瞬、根性焼きの痛みがフラッシュバックした。
「酷え奴だなぁ〜?お前それでも母親かよ。」
「そっくりそのまま返してあげる、貴方それでも父親なの?」
「あぁ、義理だけどな。お前も災難だよなぁ〜、俺達の間に生まれちまってよ!」
ガタンっ、タイヤが大きな石でも踏んだのだろう。
車体は大きく揺れ、寝そべる事しかできない僕は足場へと転げ落ちる。
グチュと血の音がなった。音の割に痛みを感じないことに恐怖する。
「しっかしまぁ、お前ら見れば見るほど似てないよな。
こよく見ればこいつのほうが男の癖して美人だし・・・うん、それなりの野郎に売れば儲かったかもな。
あーあ、壊すんじゃなくて娼夫にでもすればよかったぜ。」
「・・・ちっ。」
「おぉー、母親が息子に嫉妬してやがるwww
まぁ、安心しろよ、もうその見る影もないんだし、今はお前のほうが美人だぜ?」
「喧嘩売ってるの?それを聞いて嬉しく思うとでも?」
「事実だろ?」
「・・・ちっ。」
その音は二人には聞こえなかったよう。
体制を変えられない僕は、視界が真っ暗になってしまった。
「そんなことよりも・・・さっさとこの子捨てましょうよ。
もう距離はだいぶ稼いだんじゃない?」
「あ"、・・・もう少し必要だろ?」
「私、帰ってみたいドラマあるんだけど。」
「知るかよんなこと、勝手に携帯で見とけ。」
「・・・もう県跨いだんだからいいでしょ。
それにこいつのことだれも知らないんだから、見つかったところで私達はバレないと思うけど?」
「・・・。」
二人は沈黙の後、結論を出す。
「・・・それもそうだな。」
それは僕を殺す決断で躊躇なく下された死の宣告だった。
あまりにあっけなく告げられる死。
僕はその言葉を聞いた悟る。
(稼げる、お金、廃棄・・・・あぁ、そうか、僕は今まで便利だったから生かされていたのか。)
それは愛のない答え。
便利という言葉で汚された僕の生涯。
やっと僕は自分の生まれた意味を知る事ができた。
元々、そうではないかとは予想はしていた。
お陰で涙は流れない。
逆にここまで想像通りかと思うと、可笑しくて笑みが出てしまう。
(なるほど、手足の動かない僕はもう価値のない存在。いるだけ無駄なんだ。)
焦りか、悲しみか、頭は考え続けることを放棄する。
ただ時間が過ぎる事に集中していたせいで、ついに死神の鎌が振り下ろされるときが来る。
バタン、ドン、ドンとドアがカウントダウンを刻む。
「くそ、ガキは重いから嫌なんだよ。」
掴まれ、投げ飛ばされたのは僕の体。
勢いに逆らわない僕は、何度も地面に雑巾の如く叩きつけられる。
「さて、これからお前を殺すために埋めるんだが・・・。」
父親が頭をかきながら近づいてきた。
身を襲う寒気。
恐らく死の恐怖だろう。体は震えることで俺に危機を知らせてくれる。
でも、それでも動こうとしない体。
僕は何一つ逆らえす、曲がった足を踏み潰された。
「ヴぅ嗚呼あ"あ"あ"ぁぁぁアアアっッッ!!!!!!!!」
ようやく電流なような激痛が体を走る。
体に感覚が戻ったらしい。
ドクドクと血液は体の中で煮えたぎり、同時に栓を無くした蛇口のように脱力感に襲われた。
人が今を生きることに逆らえぬように、僕は父親に逆らえず何も出来ぬまま痛めつけらる。
「・・・カヒューっ・・・ヒューっ・・・。」
叫びすぎて喉が潰れたのだろう。呼吸もままならない。
「おい、何携帯いじってんだ。
さっさと穴掘れよ。死体埋められねぇだろうが。」
「嫌よ、汚れるじゃない。」
「はぁっ!?ふざけんなよ!俺一人でやれってか!」
体は少しでも生きながらえようとしているのか、呼吸を整えるのに必死だ。
「ほっとけばいいじゃない。この子も動けないんだし、どうせそのまま朽ちて死ぬわよ。」
「こいつの死体が見つかったら厄介だろうが!」
「この子の身元を誰かが知ってるとでも?
というかそれ以前にこんな山道に誰かがこの子を探しに来るとでも?」
「・・・。」
「普通に考えたらそんなことあるわけないってわかるじゃない、少しは頭使いなさいよ。」
「・・・確かにここは自殺スポットをだしなぁ〜。ちっ、上手く返されちまった。」
痛みと感情のキャパオーバー。
覚醒した意識は特有の浮遊感を生み、五感を嫌というほど冴え渡らせていた。
口を蹂躙する鉄の味。
草木の揺れる音に合わせて聞こえる羽虫の音。
地面の冷たさで体に籠もる熱を冷ます体。
満点の星空とは対象的な自分の体を映す視界。
近づいてくる懐かしんだ煙草の臭い。
僕は髪を引っ張り上げられ、視界を父親の顔で埋め尽くされる。
「お前は俺の名前を知ってるか?」
「・・・知り、ませ・・・ん。」
脅迫に似たその質問。嘘をつけるはずもない。
「・・・よし。」
掴まれていた髪を離されたせいで自由落下する顔。
鼻先が地面につくと同時に僕は蹴飛ばされ、草木が生い茂ってる方へとぶっ飛んだ。
「さて、帰るか。」
「・・・はぁ〜、やっと終わった。」
視界端に映る車に乗ろうとする二人の姿を尻目に僕は呼吸を整える。
「あ〜あ、長かった。お前の餓鬼しぶと過ぎだろ、帰ったら迷惑料貰うからな。」
「はぁ?金なんて持ってないわよ。」
「安心しろよ、客ならいる。」
「・・・ちっ、扱い雑な奴いたらぶっ殺すからね。」
「お〜、怖い怖い。」
自分の全てである親二人が離れていくこの現実。
見慣れた黒い車が小さくなって行くのを眺めて、ついに僕は始まりの言葉を口にした。
「・・・捨て・・・られた。」
それから何時間が経過しただろうか。
死ぬまで暇だった僕は夜空に広がる星の数を数え終わってしまう。
「・・・ま、だ?」
誰かが答えてくれるわけでもない。
あまりの暇さに、『死』と言う現象がいつ来るのか僕は虚空にたずねてしまった。
「・・・・。」
もちろん帰ってくる言葉はない。
終わりが訪れるのは不明のままだから、僕は何もせず時間を潰すことが確定する。
しかし変化は訪れた。
僕の隣ににゃーと鳴く痩せこけた黒猫が訪れたのだ。
「・・・くす、ぐったい。」
ある文献で黒猫が昔は悪魔の使者と呼ばれていたと見たことがある。
だからてっきりこの黒猫は死神として僕の前に現れたのだと思っていた。
でもそんな事実はなくただ黒猫はひたすらに僕の首と顔を舐め始める。
どうやら僕は彼?彼女?の味覚の好みに合ったらしい。
血の味しかしないだろうに楽しそうに僕を舐め続けた。
「・・・。」
こしょぶったい感覚は嫌いじゃないが、どうも得意じゃない。
「・・・やめ、て。」
手は動かせないから言葉で一応、拒否してみる。
だが猫はにゃーと鳴くだけでやめてはくれない。
表情を見るとクックックと僕に向かって笑っており、自分のほうが強者なのだぞと言っている様子。
なんとこの場では僕のほうが立場は下だったらしい。
「・・・。」
跳ね除けられない僕は猫に蹂躙される他なかった。
僕は悔し紛れに猫から視線を外した。
「・・・ん?」
すると暗闇に咲いた一輪の花が目に止まる。
それはどこにであるような白い花。
その花を見た時、僕は母の見ていたドラマの1シーンを思い出した。
どのドラマにでもある、愛するものが死んだ時の葬式シーン。
棺桶のような木箱に入った死人に添えられる美しい花。
その綺麗さには微塵も近くないが、僕は無性にその花が欲しくなった。
「ねぇ、猫・・・。」
呼び捨てにしたとしても元気ににゃーと返事を返してくれる黒猫。
「あの、花・・・取ってきて、くれない、かな?」
価値のない僕は、期待半分の頼みを投げかけた。
にゃー!
すると猫は、僕の願いを聞き入れてくれたのか、花に向って動き出す。
「あ、りがぐべっ。」
しかしこれはどうやら、の慈悲のよう。
ふてぶてしくも堂々と僕のお礼を無視して猫は僕の顔の上を渡る。
花のもとまで辿り着いた時、こっちを振り向いて鼻で笑ってきた。
にゃー。
物理的にも雰囲気的にも上から目線なその態度。
僕は父親とは違って愛嬌あるその姿に思わず笑みをこぼしてしまった。
「・・・くふふ、そう、だね、その・・・通りだ、よ。
あり、が・・・とう、ね、こんな・・・僕の、ために。」
憧れとはこういうことを言うのだろうか?
僕は猫を格好いいと思ってしまったらしく、初めて他人に信頼を置いた。
猫はそんな僕に満足したのか、にゃーと返事した後、花を取ろうとする。
・・・っ!?シャーッ!
「・・・っ!?」
しかし突然、その手は止まり、急に僕の方を向いて威嚇を始めた。
正確に言うなら、僕の頭上にいる何かに向けての威嚇。
何かいるのだろうか?・・・仰向けの僕は確認のため見上げてしまった。
「タ•••ノ•••シイ•••ネェ•••♪」
目と口が虚空となった痩せ細った顔。
ぐにゃりと曲がり歪なまでに左右対称じゃない手足。
ひしゃげたぶどうのように変色した胴体。
ヒーローショーでよく見る敵キャラに似て・・・いや、そんなのは可愛く見える。
この世のものとは思えない、正真正銘の嫌悪感の塊な『化け物』が、そこにいた。
「・・・。」
普通の人ならこんな場面に出くわすと、一体どうなるんだろうか?
ドラマのように恐怖して足がすくむ?
アニメのように膝から崩れ落ちる?
どちらにもあるように神様に祈りを捧げる?
それとも・・・今の僕のように、竦む足はなくても呼吸が荒くなって体が震えてしまうのだろうか?
「・・・ニタァ♪」
化け物はそんな僕を見て嬉しそうに笑う。
その笑顔に僕は父親の顔が重なった。
「・・・お迎、え?」
自然と言葉が出る。
持ち上げられる折れた腕からは血肉の滴る音が鳴り響く。
過呼吸を強いられながらも僕はとうとう待ちに待った死が来た、逆らうことは許されない『運命』が訪れたのだと気づいた。
「・・・バイバイ。」
諦めはついていたからか、虚空を孕んだ化け物の口が近づいてくることで過呼吸は止まる。
どうやら僕は神様に最後の一秒を自由に過ごすのを許してくれるらしい。
喰われる直前、僕は最初で最後の恩人に向かって笑いかけた。
慈悲とはいえど優しさをくれた猫にお別れを言う。
思い残しもない僕は眠るように目を閉じた。
シャーっ!!!!!!!!
しかし、いつまで経っても死ぬ直前に来るであろう痛みは訪れない。
僕が感じたのは土臭さと嗅ぎ慣れた鉄の匂いに、猫の鳴き声だけだった。
何がどうなったのか、確認のために閉じた目を開く。
「・・・猫っ!?」
映ったのは、僕の折れた腕を掴んでいた手を齧る、一匹の弱弱しい猫の姿だった。
「ア•••そ•••ぶノォ•••っ♪」
化け物は手を振り回し、猫を引き剥がそうとする。
痩せ細った体の何処に噛みつける体力が残っているのか分からないが、その勢いに逆らい続けながら猫は必死に噛み付き続けた。
「逃げ、ろ!馬鹿!」
猫相手だ、人間の言葉が伝わるとは思ってない。
でも猫の存在を失いたくない、僕はやめてくれと叫ぶ。
シャーっ!
しかし、期待は裏切られた。
猫は化け物に向かって威嚇を止めず、噛み続けるのを止めてくれなかった。
「何、してるん、だ・・・っ!早く、逃げ、ろよ・・・っ!」
化け物の振り払う力は、次第に強くなっていく。
このままではにゃー子が傷つくのは確実で、同時に叫ぶこと以外できない僕は無力感に襲われた。
「タ•••ノ•••シイ•••♪」
出来ないと分かっていながらも猫を引き剥がすべく、化け物のもとまで移動する。
自分の出せる全速力で地面を這いずる。
けど運命は僕がとことん嫌いらしい。
・・・化け物がにゃー子の体を豆腐のように握りつぶした。
「・・・。」
面前でボタボタと流れ落ちるにゃー子の血。
視界外では肉を噛む音が鳴り響く。
「・・・ッ!」
過呼吸とは違う。息を吐くことが出来ない苦しさが身を襲う。
心臓は壊れてしまうぐらいに鼓動を鳴らす。
ボトっ
そんな絶望の縁、神様のいたずらか、目の前に猫の頭が落ちた。
「・・・。」
その途端、意識は強制的に現実に戻される。
視界の先には化け物の下卑た眼差しと癪に触る笑みが写ってしまった。
「ア•••そ•••ぼォ•••っ♪」
憎たらしいその姿。
僕の怒りは血と一緒になって煮えくり返った。
「・・・っ!」
言葉にならない怒りに任せて、僕は捕食するために近づいてきた化け物の手に噛み付いた。
猫にしたことをそのまま返すためにその指を噛み千切った。
「んぐっ・・・ぺっ、死んで、しまえ、この・・・屑、野郎!」
化け物に見せつけるように噛み千切った指を飲み込む。
腐った魚のような味が広がる中、僕は化け物を睨み恨んだ。
「ア•••そ•••んデ•••クれ•••る・・・ノぉっ♪」
「カハッっ!?」
過去、僕はこれでも沢山の悪意に触れている。
実際に悪意に触れてその被害者となることも僕の日常の一つだった。
故に僕の経験は化け物をひと目見て理解する。
こいつは父親と同じ、理性を意図的に働かせない獣の一匹。
観察するまでもなく、僕がこの世で誰よりもよく知る、屑の生態、こいつはそのものだった。
だから僕は容易に化け物の逆鱗に触れ、化け物に一矢報いる事を可能にすることができる。
その証拠に化け物は僕を全力で蹴飛ばしてきた。
「あ"ぁ・・・っ!」
狙い通りに物事が進んだことは、僕の中での報いるための一矢。
おかげで、僕の心のつっかえは綺麗に取れたと言っていいだろう。
が、しかし、その代償は凄まじかったよう。
化け物の力は単純に父親以上だったため、後方の木に勢いのままぶつかった僕は、背中に『メリメリ』と嫌な音を立て、ついでに内臓もダメージを負ったからか、体に流れる血は喉にまで逆流した。
元々、折れた両腕と両足を持つ体に、壊れた肋骨と背骨に加え内出血を起こした内臓。
「お•••ワ•••リぃ?」
傷みのせいで五感の一切が役に立たなくなった体は、取り敢えず呼吸をするため、喉に溜まった血液を咳で吐き出そうとする。
「がはッ・・・っ!」
が、そこにさらなる化け物の追い打ち。
僕は地面に血と少量の胃液も撒き散らしてしまった。
痛みの容量を超えた体は気を抜けば気絶しそうになる。
「くそ・・・っ!」
僕はそれを、心に灯った一つの炎で耐え凌ぐ。
「ハァっ・・・ハァッ・・・っ、」
辛さや苦しみを薪のように生きる燃料としてしまうこの感情。
痛みで気絶してしまいそうな最中、胸を締め付けるような痛みが僕の意識を覚醒させる。
「ア•••そ•••ぼォ•••っ♪」
「・・・ぐっ。」
首から下が動かない僕は、またも化け物に持ち上げられる。
今度は背中にまで伸びた髪で持ち上げられているので、頭皮からヒシヒシと髪が張る音がなった。
「い・・ゃだ・・・っ、」
正直、出来る事ならこんな苦しむなら生きることを諦めてしまいたい。
願う事も止めてしまいたいと思う自分がいる。
けど、今日初めて感じたこの感情がその結論を認めない。
諦めることを許さず、諦めたくないと、逆らい続ける意志を生み出していく。
「ぜっ、だい・・・に、いあ・・・だ・・・っ!」
迫りくる化け物の口。
それを見た僕の思考は、まるで引力に引き寄せられるかのように一つになった。
(このままっ・・・終わるなんて・・・っ、)
それは『死にたくない。』と言うたった1つの想い。
(僕は絶対っ、認め「ないっ!!」
しかし、化け物はそんな事あり得ないとでも言うように口を広げてしまう。
(あ、)
勢いで言えば視界で取ら得られることのできない速度。
化け物の口は広がり、月光に照らされた僕の体は影に覆われる。
思考は活動を止めた。
ドスンっ
しかし、意識の終わりは訪れない。
終わらないことを理解した意識は、思考に電源を入れ、視界を開ける。
化け物は『消え去っていた』。
そこで化け物がいないにもかかわらず、地面に落ちていない自分に気づく。
本来、支えるものがなくなった僕の体は膝から地面に崩れ落ちているのが普通だろう。
でも化け物のほかに、僕は支える存在がいた。
「お疲れ様。」
それは今まで聞いたこともない怖気立つほどに澄んだ声。
「今はゆっくり休むといい。」
声音的に女性だろうか、川のせせらぎのような音調が母の包容のように僕に安心を与えてくる。
「後は私がケリをつけよう。」
その上、母親がいつもつけるキツイ香水とは違う、柔らかな花の匂いが鼻をくすぐってくる。
今までの我慢してきた分の眠気が一気に押し寄せてきた。
「イ•••ダぁ•••いイ•••?」
でも、化け物の声が意識を覚醒させる。
本能が化け物はまだ生きていることを理解した。
このまま寝てしまってはいけない。
遠くの方で化け物の声を聞いた僕は、根性で無理やり意識を覚醒させて、震える声で僕を抱き抱える人ににこう言った。
「だ、だめ・・・っ!」
「え?」
「にげで・・くだ、ざい・・・っ、」
脳裏に焼き付くのは猫の死。
もう喋る事の無い目の前に落ちてきた猫の頭。
そしてあいつらしいふてぶてしい態度に僕のために体を張った勇敢な姿。
正直に言おう、僕はその猫の姿をこの女性に重ねてしまった。
「おね、がい・・・じまずっ!」
人生の中で何よりも叶えたい一番の願いが口に出る。
それは僕の考えた最悪を逃れる唯一の手段。
「おねがい、だがらっ・・・逃げで、くだ・・・さいっ!」
自分を助ける優しい人をもう死なせたくない。
その一心で潰れた喉で想いを叫ぶ。
そんな言葉を聞いた女性は呟いた。
「・・・どこまで私を惚れさせる気なんだ。」
女性は少しの沈黙のあと、僕の顎に触れる。
それはまるで何かを確認するかのような触り方。
何をしているんだろうと首を傾たら、次の瞬間、僕の唇は奪われた。
「んッ!?」
口に侵入するのは生きて動く柔らかな舌。
こじ開けられた口は流し込まれる女性の体液を塞げない。
んっ、んっと吐息を吐きながら喉を流れる唾液。
それはさながら空腹時に体に浸透する蜂蜜のよう。
「んあっ///んん"っ・・・・んぢゅっ///。」
絡み合う水飴のような音。
感じたことのない快楽に僕の意識は一瞬、化け物のことを忘れさる。
羞恥心が働かなかったせいで女性の唾液を貪るのに集中させられてしまう。
しかし、全ての物事に終わりは訪れるもの。
チュと淫乱な音が僕と女性の接吻の終わりを告げた。
「・・・///。」
親に強制的に酒を飲まされたときに似た酩酊感。
体は渦巻く快楽に耐えるためか、打ち上げられた魚のように痙攣して触覚を敏感にしていた。
「・・・お、意外に可愛い顔だ。」
撫でられる頬。浮き出てきた涙を流すべく瞬きした目に映ったのは、アクアマリンの様な薄青色の瞳をした麗しき女性の姿だった。
今までとは違い、何一つ歪みなく世界を映す僕の視界。
「・・・綺麗。」
断言しよう。この人は母親含め僕が今まで見てきた女性の中で一番の美人。
僕は生まれて初めて、他人に見惚れてしまっていた。
僕のポロッと出た本音が目の前の女性の頬を嬉しそうに歪める。
そしてまたキスをするためか、僕に顔を近づけてきた。
「や、嫌っ///」
やっと僕の中で羞恥心が起動する。
胸をポワポワと暖かくするキスを拒むため、僕は傷一つない手を使って女性の肩を押した。
そう、傷一つない腕を使って・・・。
「・・・えっ?」
僕は目を疑う。
さっきまであらぬ方向に曲がっていた両腕。
それはキスの後、まるでそんな事実はなかったかのように変色すらも治して正常の状態に戻っていた。
「えっ、えっ!?」
驚いて足を見てみると、腕同様、傷一つなく治りきっている。
「ふっふっふっ♪」
恐らくこの人の仕業だ。女性の優しい笑みを見て僕はそう察する。
それと同時にその方法は僕の頭じゃ理解することはできないのだと分かってしまう。
「た、助けてくれて・・・あ、ありがとう・・・ございます。」
僕は取り敢えずはお礼をするため、緩んでいた意識を切り替え、久しぶりに自分の足で地面に立った。
女性の身長が170を優に超えるので見上げる形となってしまったが、まぁ、誠意は伝わるだろう。
僕は40度、頭を下げる。
「うん、どこも異常はないみたいで良かった。」
どうやらこの人は母親と違って優しい人のようだ。
女性は笑顔で僕のお礼を受け取ってくれた。
「ア•••ア•••アソ•••ボォ•••。」
「・・・っ!」
お礼を言って満足した僕は、化け物のことを思い出す。
瞬時に視線をその方向に向けるとまだ尻もちついた体を起こせない化け物の惨めな姿が映った。
僕はにゃー子の死んだ姿と助けられる前に感じていた血の滾る感覚を思い出す。
今すぐにでも殴り倒したい気分を意図的に作り出した。
「少年、助けたついでだ。あの化け物を殺せる力をあげよう。」
すると女性が後ろから抱きついて、僕の手に触れてくる。
触れられた手にぬるま湯に浸かった様な暖かさが発生した。
「いいか、今、君の手は刃だ。」
女性の声が抵抗なく脳内に侵入してくる。
僕は異常とも思える温もりは確かな鋭さを覚えた。
「包丁と同じ。物を切り、時には貫き、時には削ぎ落とす事ができる、たった一つの刃だ。」
この感覚はまるで自信と同じ。脳内に化け物を倒せるという確信が生まれる。
「切れ味なら心配しなくていい。私が作った特注品だ、あんな化け物なら簡単に切り裂くことが出来るだろう。」
不思議な感覚だ。お風呂にいるような安心を感じるのに一切の気の緩みが来ない。
すべてが上手く行くような万能感が僕の中であふれていく。
「さあ、敵はすぐ目の前だ。その上、君の後ろには襲われたら簡単に死んでしまうか弱い女の子がいるぞ。
少年、こんな私を・・・助けてみろ。」
気づけば、僕は自分の力の試したさに、全速力で前へと駆け出していた。
「イ•••イィ•••イ"イ"」
体を動かす気配がない化け物。
恐らく女性の攻撃のダメージがまだ身に残っているのだろう。
立ち上がれても震えている体に、僕は殺せると確信する。
だから僕は化け物の目の前にして、左に引いた右手で素直に振り斬ろうとした。
「アぁ”♪」
しかし、それをわかっていたかのように、化け物は勝利の笑みを浮かべる。
次の瞬間、髪を掴まれた時なんて比じゃないくらいに化け物の口は大きく開かれた。
走馬燈のように進む時間。
このままでは僕はあっけなく食われてしまうとわかった僕の体は・・・
「汚えもの、見せんな。」
全くと言っていいほど物怖じせず、恨みに任せた力づくで正確に下顎を骨ごと切り落とした。
ゆっくりと自由落下する下顎。化け物に叫ぶ隙さえ与えない。
「死ねぇぇぇぇぇぇえ"え"え"え"っッ!!!!!」
いち早く化け物を殺したい僕は、その破片ごと心臓を手刀で貫く。
僕の手に掴まれた脈打つ心臓。
化け物の血は人間と同じくらいに生暖かった。
ジュシュ。
化け物から手を引き抜く際に血肉の滴る音が鳴る。
「・・・。」
ドスンっ。
数センチ後ろに下がると、化け物は抵抗なく地面へと倒れ付す。
化け物の体はまるで倍速で寿命が縮む花のように灰となって消えていった。
「・・・。」
化け物がいなくなっても手に残る肉の感触。
脈打つ心臓の柔らかな鼓動。
その場に残ったのは何とも言えない虚しさと、親と同じ外道に成り下がった僕だけだった。
「・・・僕が生きてていいはずがないよな。」
どうしてこんな思いが出るのか分からない。
大切な命が自分のせいで失なわれたせいか、それとも一つの命を奪ってしまったせいか・・・
どちらにしても僕は自分を信じて女性の方へと向き直る。
そしていつでも手刀を繰り出せるような構えをとった。
「どう言うつもり?」
女性は笑いながらも、そんな僕にたずねてくれる。
全てわかっているだろうに優しく聞いてくれる。
僕は何も言わないことで僕ですら分からない自分の想いを全てを伝えた。
そんな僕に女性は呆れたような顔をする。
「助けてもらったってのに生意気だなぁ~。」
笑いながらも向けられる殺気。
僕は自傷気味に穏やかに笑って返した。
「ごめんなさい、ご迷惑おかけします。」
「これは私の運が悪かったってことなのかね・・・。」
女性は一瞬殺気を緩め、苦笑する。
「いいよ、望み通り・・・殺してやる。」
放たれる化け物以上の殺気。
僕の本能が『格が違う』と危険信号を発してくれる。
僕は恐怖を感じたと同じに安堵した
これでようやっと僕は死ねる。
僕は笑って、女性を殺すため駆け出した。
化け物を相手にしたとき同様、女性の心臓へ右手の手刀と向かわせる。
「嬉しかったよ、私を頼ってくれたこと。」
だがしかし、女性が手をかざした瞬間・・・僕の身体の自由は効かなくなった。
喋ることも抵抗することも叶わない。
力尽きるように倒れた僕は女性の腕の中に包みこまれる。
何をされたのか見当がつかない。
それどころか沈みゆく意識のせいでその思考すら許されない
「これで捨て子としての君は死んだ。」
落ちていく意識の中、脳は女性の声を焼き付けた。
「もう君を脅かすものはいない。」
内容は流石に理解出来なくても、僕を思っての言葉なのはわかる。
「君を狙うものも存在しない。」
全身に今まで感じたことないほどの温もりが伝わってきた。
「だから安心して眠るといい。」
子供の僕はもっと安心を得るために女性の腰へと手を回す。
甘えるように全身を預けると、女性は今度は強く抱きしめてくれる。
「・・・大丈夫、君が起きるまで、私がちゃんと守ってやる。」
安心感は頂点に達した。
「少年に、穏やかな夜の祝福を。」
僕は意識を手放した。
はたして、次に起きる僕は何者として生きていくのだろうか。