人命救助した後に転生した私は、悪役令嬢ではなくて、なんと残酷令嬢だそうです!
異世界のラブコメディーのつもりで書いてみましたが、このジャンルは初めてなので、もしそのジャンルになっていなくても大目にみて下さい。
長めですが、話の流れを切りたくなかったので短編として投稿します。読んで頂けると嬉しいです。
『エエッ!? 私って残酷令嬢だったんですか!』
マーガレットは思わずこう叫んだ。もちろん心の中で。
令嬢たるもの大声など出してはいけない。自室ならまだしも自宅の庭園とはいえ屋外で。しかも、すぐ近くには婚約者であるジョアン第二王子殿下がいたのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
先週マーガレットは、入学以来ジョアン王子に付き纏っている平民出身の男爵令嬢から、
「手を離して下さい! 痛いです。貴女は噂通りの悪役令嬢様なんですね!」
と、言い放たれた。その時、マーガレットは何を言われているのかよくわからなかった。
『悪役令嬢』って何? 悪役っていうくらいだから、悪そうな人を指すのだろう。しかし、マーガレットはただ学園の庭の池に落ちそうになった令嬢を助けようとして、その腕を掴んだだけなのだが。
マーガレットがただ呆気に取られてポカンとしていると、その男爵令嬢のメアリは、マーガレットの隣にいたジョアン王子を腕にしがみ付き、こう訴えた。
「ジョアン殿下、マーガレット様ったら酷いんですよ。今、私を池に突き落とそうとしたんですよ」
すると、ジョアンはマーガレットの方を見た。普段穏やかで優しい王子が、少し苛立った顔をしていた。彼女は慌ててそんな事はしていないとそう言おうとしたが、王子は婚約者の言葉を遮り、
「彼女は池で水浴びをしようとしていたんだぞ。今日は猛暑だからな。それなのにその邪魔をしてはいけない! 彼女が熱中症にでもなったらどうするんだ!」
そう声を荒げると、メアリ嬢に絡められていた腕を振り払い、彼女を池の中に突き落とした。
バシャと大きな水音とともに、大きく水がはねて、殿下のシャツとズボンに水がかかった。
「「「エエッ!!」」」
マーガレットも池の中のメアリも、その他近くにいた生徒達もあ然とした。
暫くして、蛙のゲロゲロという鳴き声に、マーガレットがいち早く我に返った。しかし、ジョアン殿下とメアリのどちらに手を伸ばしたらいいのかわからずあたふたしていると、どこから騎士が二人現れた。
そしてそのうち一人、女性騎士のリアナがメアリにこう尋ねた。
「少しは(頭が)冷えたか? まだ冷やした方がいいのか?」
メアリは、厳しい目をした騎士の言葉に含まれる意味を瞬時に理解し、勢いよく頭を振った。辺りにしずくが飛び散り、近くにいた女性徒達が小さな悲鳴をあげて飛び退いた。
するとその騎士は自ら池の中に入ると、メアリの脇の下に腕を差し込んで彼女を抱き起こし、池から出てきた。そしてそのまま医務室へと向かった。
「熱中症になりかけたら体を冷やすのが一番だ。しかし、なにも池に飛び込まなくても、初期に頭を水で冷やした方が、服まで濡れなくすむぞ。いくら暑くても池に飛び込もうとするのはよしたまえ!」
メアリの背中からジョアン王子が声をかけると、メアリは小さな声ではいと答えた。
そしてジョアン王子はもう一人の男の騎士と共に更衣室へ行ってしまい、一人その場に残されたマーガレットは、ただポカンとしたまま立っていた。
「ドンマイ! マーガレット様。いつもの事だから気にすんなよ」
「そうそう、貴女が悪役令嬢だなんて、誰も思っていないわ。むしろあの人の方が悪役でしょ。言いがかりや難癖、嘘の噂流して」
「まあ誰も信じていないけどね、一人を除いて」
周りの友人達がマーガレットを慰めてくれる。しかし、除かれたその一人というのが、彼女の婚約者であるジョアン王子なのだから、気にしない訳にはいかないのだが。
メアリは入学早々ジョアン王子にぶつかりそうになり、その後も様々な場所で王子の前に現れた。まるで王子のストーカーでもしてるのかと疑いたくなるくらいに。
彼女の積極性やバイタリティーには感心するが、その行為がテンプレ過ぎで、周りは皆どん引きしていた。
そして最近ではマーガレットが側にいても絡んでくるようになった。
自分で勝手に転んでおきながら、マーガレットに足を引っ掛けられたと言ったり、マーガレットがお茶を飲もうとしていた所によろめいたふりをしてぶつかってきたり、マーガレットにノートにいたずら書きされたと言ったり。
そんなメアリの嘘にマーガレットは今まで何一つ反論した事がない。何故ならメアリに彼女が何か言う前に、ジョアン王子がにこやかに対応してしまうからだ。
「君、よくマーガレットの側で転ぶよね。
え、マーガレットのせい? そうか。ごめんね。マーガレットが美し過ぎて目が眩むせいなんだね? わかるよ。実はいつも一緒にいるこのぼくでさえ、時々彼女の美しさにはクラッとするもの。
でも、転んで怪我をしたら大変だから、あまりマーガレットの側に近づかない方がいいと思うよ」
「えっ? またマーガレットの美しさに目が眩んでぶつかったの? あれ? 今回は違うの?
ああ、お茶が熱すぎて、マーガレットがそれを飲んで火傷したら大変だから、それで払い除けようとしてくれたのか。そうなんだよね。マーガレットは猫舌だから熱い飲み物は苦手なんだ。
マーガレットのドレスに染みをつけた事なら気にしなくていいよ。どうせそのドレスはぼくが贈ったものだからね。これの代わりにぼくがもっと素敵なドレスを贈れば済むことだからね」
「今度はどうしたの? ふーん、ノートにいたずら書きをされたの? どれ、見せて。これは酷いね。でも、犯人はすぐに見つかると思うよ。だって、こんな下品なスラングを知っている人、この学園にそうそういないものね。調べてあげようか? あれ、いいの?
これからは自分の持ち物はきちんととロッカーに入れて、鍵をかけておいた方がいいよ」
ジョアン王子はこんな感じで事をおさめていた。全て笑顔でふんわりと。
この一連のジョアン王子の対応の評価は人様々だった。
事を荒立てずにさっさと事態収集するとはさすがだと褒める者。
王族なのだからもっと厳しく対応すべきだと、甘過ぎると眉を顰める者。
天然なのか演技なのかわからず怖いという者。
ただ一様に皆が感じる事は、この王子がメアリの下手くそなハニートラップには間違っても引っかからないだろうという事と、婚約者のマーガレットを大好きなんだということだった。
しかし、当のマーガレットは、自分がジョアン王子に好かれているという実感があまり持てずにいた。
何故ならジョアン王子は誰に対しても優しいからだ。特にマーガレットだからというわけではない。本当はあのメアリに対してだって、
「転んで怪我をすると大変だから、マーガレットに近づかないでね。
君にだって熱いお茶がかかって火傷をするところだったのだから、本当に気をつけてね。
新しいノートをあげたいところなんだけど、出来なくてごめんね」
と言いたいところをぐっとこらえている事をマーガレットは知っている。
✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱
プラントー侯爵家令嬢であるマーガレットは、プラチナブロンドヘアにライトブルーの瞳をした美人で、学園に入学する一年前の十二歳の時に、同じ年のジョアン王子と婚約して既に五年が経つ。
テッサロキ王国のジョアン第二王子は金髪碧眼の美少年で、その上体も鍛えられており、頭脳も飛び抜けて優秀で、パーフェクトな王子だった。しかも性格もいい。
ところが、王族としてはこの優しすぎる性格が問題らしかった。上に立つ者はある程度威厳と狡猾さが必要なのだという。
以前ジョアン王子は誰に対してもお願いモードで話をしていた。
「すみませんが、そこの本をとってくれませんか?
お水もらってもいいですか?
庭に出てもかまいませんか?」
そして最後にニッコリ笑ってこう言うのだ。
「ありがとうございます」
と。
ジョアン王子は人に命令ができなかった。これでは仕えている者に示しがつかない。
それにいずれは国王になる兄を支える立場になるのに、そんな軟弱ではまずい。表に立つ国王に代わり、裏で陰謀策略出来るくらいでなくては困る。ただ真面目で素直で優しいだけでは人に利用され、騙されるだけだと。
『つまり新選組の○○歳三みたいにならないといけないわけね? 暗の部分を一手に引き受けて、主役となるボスを引き立てろという事ね』
国王陛下や宰相から話を聞いた時、マーガレットはこう理解した。
そう。マーガレットは『ニッポン』という異世界からの転生者だった。
海沿いの町の料理屋の娘だった。大学生だった時、近くの海岸へ海水浴に出かけ、波に流されていた子供を助けて死んだのだ。
五歳の頃、庭の池に落ちて溺れかけた時に前世の記憶が甦った。
暴れたら余計に溺れる。マーガレットが手足をばたつかせるのをやめると、まだ幼かった彼女の足でも容易に底についた。
屋敷の者達が大慌てしている中で、マーガレットは自ら池から這い上がると、冷たくて気持ち良かった、と呟いたのだった。
それにしても、とマーガレットは思った。いくら王族としての役目とは言え、性格ばかりはどうしようもないのではないかと。心優しい人に残虐な真似をさせるのは所詮無理ではないかと。
いっそ残虐王と、慈悲深い司祭の弟という図式にでもした方が国を纏めるのにいいのではないかしらと。まあ、余計な事は言わなかったが。
「これから宰相や執事長、家庭教師、宮廷一丸となってジョアンをもっと凛々しい男になれるように教育したいと思っている。君も是非とも協力してくれたまえ」
陛下にそう言われれば、マーガレットは頷くしかなかった。しかし本心を言えば、いくらイケメンでも冷酷残虐な○○歳三さんには興味ないのよね。彼より、たとえ三の線でも頭が良くて飄々としていて、出世の道を捨てても、没落していく元士族達の生活を守るために知恵を絞っていた○海舟さんの方が、ずっと好みなんだけどなぁ。
前世のマーガレットは特に歴史好きというわけではなかった。しかし、店をやっていて忙しい両親の代わりに、祖父母に面倒を見てもらっていたので、週末夜は某国営放送の連続歴史ドラマを見させられていたのだ。
そのせいでそこそこ歴史には詳しかったのだ。だいたい、戦国時代と幕末を交互にやっているようなものだったから、登場人物もいつも似たりよったりで、嫌でも多少は話が頭に入ってきていたのだ。
時代考証が難しいから取り上げないのだろうが、出来れば飛鳥や奈良時代をやってくれればいいのに、と前世のマーガレットは思っていた。あの時代の人間関係のドロドロさは半端無くてドラマティックである。そして、所詮後世の歴史も同じような事を繰り返しているに過ぎないのだから。
そう。結局、人間の本質なんて何千年たってもそう変われないのになぁ、とマーガレットは嘆息したのであった。
それでもジョアン王子を凛々しくする計画は粛々と進められていったのだが、その道のりはけして楽なものでなかった。マーガレットがお妃教育のために登城する度に、次第に周りの者達が苛立つようになってくるのを感じた。
このままではジョアン王子は陛下から廃嫡されてしまうのではないか? 家臣から見放されしまうのではないか、とマーガレットは心配になった。
まぁ彼女からしたら、正直ジョアンが王子でなくなってもかまわない。ジョアン本人が好きなのだから。しかし、彼が家族から見捨てられたら辛いのではないかと思うのだ。そして人の役に立つ能力があるのに、それを発揮できないのも。
そこでマーガレットは、ある日こうジョアン王子に提案してみた。
「人の心持ちはそう簡単には変えられませんわよね。でも、仮面はつけられますでしょ?」
「仮面?」
「ええ、仮面です。舞台の上の殺人鬼は本当に殺人を犯しているわけではありませんでしょ? それに本当の殺人鬼が演じているわけでもないですよね? 舞台を降りてしまえば役の仮面をはずして、本来の自分に戻ります。
それと同じです。殿下は一歩ご自分の部屋を出られたら、王子としての仮面をお着けになってください。そして上に立つ者として人に命じて下さい。そうすれば、周囲の観客はお喜びになります。殿下自身はお変わりにならなくてもよいのです。ただ凛々しく演じてみて下さい」
ジョアンはマーガレットの提案に暫く思案した後でこう尋ねた。
「君はどんなぼくなら好きでいてくれるの?」
すると、マーガレットはそれこそ花が綻ぶように笑って言った。
「もちろん、今のままの優しいジョアン殿下が一番好きですわ。でも、仮面を付けて自分に与えられた役を一生懸命演じようと努力なさる殿下も、きっと好きだと思います」
すると、ジョアン王子も仕方ないなぁという顔で笑った。
「君にずっと好きでいてもらえるように、きっといい役者になってみせるよ」
こうしてジョアンは学園に入学する前までに、現在のようなミステリアスな王子が出来上がったのである。ニッコリと笑ってはいるが、その実何を考えているのかわからない、底知れなさをもっている末恐ろしい王子に。
所詮、冷酷非道のクールキャラには無理があったので。
つまり、現在のジョアン王子をつくったのはマーガレットの力が大きく、彼の事を一番よく知っているのも自分だと、彼女はずっと思っていた。
しかし、先週のメアリの池ポチャ事件以来、マーガレットはジョアン王子に好かれているという自信を無くしていた。
あの時、ジョアン王子は本当に怒っていた。本当にメアリを心配していた。メアリの正体に気づいていない王子があんなに本気で心配するということは、彼女の事を本当に好きなのかもしれない。
マーガレットは大分前から気づいていた。メアリは王宮が仕組んだ仕込みだと。ジョアン王子がハニートラップを仕掛けてくる手練手管の女性を上手に裁き、王子としての凛々しい姿を周りの者達に示させようとしたのだと。
まあ、彼女があまりにも大根過ぎて、マーガレットだけでなく、周りの人間からも不信がられてしまっていたが。
それでも彼らはこう考えていたのだ。いくら誰にでも優しいジョアン王子でも、婚約者であるマーガレットが虐げられ、悪役令嬢に仕立てられたら、多少は相手に対して厳しく対処するのではないかと。
ところがである。
メアリがマーガレットを悪役令嬢だと罵ったのに、ジョアン王子はそれを否定もせず、彼女を庇ってもくれなかった。
そうか、本当は演りたくない芝居をやらせる自分の事を、ジョアン殿下は本当は嫌っていたのかもしれない。
そう思い至った時、全てが合点がいくとマーガレットは思った。
前世料理屋の娘だったマーガレットは料理をするのが好きだった。この世界では貴族の娘は厨房にはあまり入らないが、菓子作りくらいなら大目に見てもらえる。
だから、よくクッキーやケーキを焼いては学校へ持っていったのだが、ジョアン王子はありがとうと笑顔で礼を言うが、それをマーガレットの前で食べた事はない。
昼食も一緒にとった事はない。
王族はどこで毒や薬を混ぜられるかもしれないから、決まった人の作った食事を決まった人としか食べないと、妃教育で習ってはいた。しかし、自分は婚約者だ。それでも信じて貰えないのだと、彼女は密かに傷付いていたのだ。
マーガレットは周りの人間にさえ知られていないが、案外気が短くせっかちである。グズグズ悩むのは性分ではない。
国王が決めた婚約を自分一人の意思で解消するわけにはいかないだろう。しかし、愛のない政略結婚とはっきりすれば、それはそれで覚悟が出来るに違いない。モヤモヤしているのが一番辛い。
そう考えたマーガレットは月に一度の王子の訪問日に、きちんと彼の本心を確認しようとした。
ジョアン王子の目の前でマーガレットが作った料理を食べてくれたら彼女を信用している。もしも食べてくれなかったらそうではないということだ。相手が自分をどう思っているのかを確かめるのは怖い。でも、疑いながら付き合うのは失礼だ。
テッサロキ王国の王都は北側を海に面している。そして王都は至るところに水路が張り巡らされ、多くの船が行き来している。そして倉庫や魚や野菜の市場だけでなく、貴族のタウンハウスなども水路に面していて、馬車だけでなく、船を利用する家も多い。
マーガレットのプラントー侯爵家もやはり水路に面して建てられていて、船着き場もある。そしてその船着き場は良い釣り場にもなっている。
マーガレットは幼い頃から兄弟や使用人達とよく釣りをしていた。前世も祖父や兄と海釣りをしていたので、釣りは得意だった。
前世の記憶を取り戻した五歳の時、釣りをしようと釣り針に生きたエサを付けているところを見た母親が気を失った事があった。母親は内陸部の出身で、あまり釣りをする習慣がなかったようだ。いや、この王都でも貴族の娘が自らエサ付けまではしないのかもしれないが。
今日は海に面した庭の四阿の横に、簡易の調理場を作って料理をしようと思っている。
この時期だとアジに似た魚がよく釣れる。午前中にマーガレットは侍従達と数十匹の魚を釣って生簀に入れてある。
新鮮な魚なので、本当は刺し身にしたいところだが、生魚を食べさせて食中毒にでもなったら処刑ものだ。火を通した方が安全だろう。
三枚におろして天ぷらにしようと思った。アツアツのアジの天ぷらはプラントー家全員の大好物だが、作り方を料理長にこっそり教えたのはもちろんマーガレットである。
丁度下準備が終わった頃にジョアン王子がプラントー侯爵家に到着した。マーガレットは急いで手を洗い、エプロンを外し、姿見で身だしなみを確認してから玄関へ向かった。
そして護衛騎士二人を伴って入ってきたジョアン王子に、マーガレットは完璧なカーテシーで挨拶をした。
「お越し頂けてありがとうございます。今日は大分暑さもおさまってきましたので、庭の方に席を設けましたので、どうぞこちらへ」
マーガレットは自ら先に立ってジョアン王子一行を庭の四阿へ案内した。そこへ侍女がアイスティーを運んできた。しかし、ジョアン王子は騎士が持参した飲み物の方を口にした。
ジョアン王子はそれを飲むと、ホッと一息ついてこう言った。
「メグ、この前はすまなかった。嫌な思いをさせてしまったね」
メグとはマーガレットの愛称で、プライベートの時、ジョアン王子は彼女をそう呼んでいた。
「この前とは?」
「メアリ嬢の池ポチャの事だよ。君に声を荒げてしまって。あれから君の元気がないと聞いた。別に君を責めたわけじゃないんだよ。ただ、彼女が熱中症になっていたら大変だと焦っていて・・・」
ジョアン王子の言葉にマーガレットは護衛の女性騎士リアナを見た。彼女が注意したのだろう。ジョアン王子がそんな些細なマーガレットの心の変化なんかに気付く筈がない。
「いいえ、気にしておりませんわ。殿下が誰にでもお優しい事は十分に理解しておりますもの」
「・・・・・」
平静を保ったつもりだったが、少しトゲがあると感じたのか、ジョアン王子は黙り込んだ。
「殿下、それよりも、今日はお願いがありますの」
「お願い? メグがそんな事を言うなんて珍しいね。いいとも。ぼくが出来る事なら何でも言って!」
ジョアン王子は意気込んで言った。機嫌の悪いマーガレットをあまり見た事のない彼は、対応の仕方がわからず戸惑っていたので、渡りに船だと思った。しかし、彼女から昼食の料理を作るので、それを食べて欲しいと言われると、明らかに動揺した。
「マーガレット様、いきなり何をおっしゃるのですか? そんな事を出来ない事は貴女が一番良くご存知でしょう。お妃教育で学ばれていますよね?」
騎士が言った。
「毒や薬を入れられたら困るからですよね? でも、殿下は先程持ってこられたお飲み物を飲まれましたよね? ここへいらっしゃるまでに、誰かに危険物を入れられる可能性があるというのに」
マーガレットの言葉に騎士は眉を顰めた。
「そんな事はあるわけがないでしょう。私は一時たりと、殿下がお口に入れられる物から身を離したりはしません」
「それをどうやって証明するのですか?」
マーガレットの言葉にジョアン王子は困惑の表情を隠さなかった。
「メグ、一体今日はどうしたんだ。彼はそんな事はしない。ぼくは彼を信じているんだよ」
「そうですか・・・」
ジョアン王子の言葉を聞いてマーガレットは落胆した。料理を作る前に自分が彼に信頼されていないという事がわかったからだ。
ツーンと鼻の奥が痛んだ。
「わかりました。大変失礼な事を申し上げてすみませんでした。もう二度と私の手料理を召し上がって欲しいなどという無謀な事は望みません。一緒に食事をしたいなどというわがままも申しません」
マーガレットの冷え切った言葉に、ジョアン王子は久しぶりにオロオロし始めた。ミステリアス王子の仮面がはずれるのは久しぶりだ。
「間もなく昼食となりますが、お帰りになりますか? それともダイニングでお持ちになられたお弁当をお召し上がりになりますか? 家の者はここで私の作る料理を食する予定でしたので、この四阿で昼食をとるつもりなのですが」
「なんだ、その無礼な物言いは!」
マーガレットの不遜ともいえる物言いに騎士は怒りを表し、プラントー家の使用人達も真っ青になっていた。
しかしマーガレットは顔色一つ変えない。こういう時、彼女が怒っているのだと知っているのは、ジョアン王子と女性騎士のリアナだけだ。
マーガレットはジョアン王子の返事を聞く事もなく、生簀に向かって歩いて行き、アジに似た魚を網で掬うとそれを手で掴み、簡易キッチンのまな板の上に載せた。そして包丁を振り上げた。その瞬間、ジョアン王子が珍しく大声で叫んだ。
「やめろ! 何をしているんだメグ! 魚が苦しんでいる。なんて恐ろしい事をしているだ! この残酷令嬢め!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『エエッ!? 私って残酷令嬢だったんですか!』
ここで話が冒頭に戻る。
生きたままの魚を調理しようとしたからですか? とその瞬間マーガレットは思った。
確かにこの国で魚を生きたまま捌く令嬢はレアかもしれない。だから、残酷令嬢なんですか?
しかしそういう事ではなかった。ジョアン王子は続けてこう言ったのだ。
「魚を食べるなんて、君はなんて残酷なんだ!」
「「「エッ???」」」
マーガレットだけではなく、その場にいた者達は騎士を除いて皆呆気にとられた。そしてすこし間が空いてから、料理長や調理人だけでなく使用人達まで怒り出した。
このテッサロキ王国は海洋王国だ。畑や牧草地が少ないこの国では、タンパク質は肉より魚でとっている。貿易も海産物の占める割合が多い。生魚だけでなく、干物や缶詰、練り製品なども人気だし、美味しい魚料理を出す有名レストラン目当てに来る観光客も多い。
つまり、魚はこの国の主要産業なのだ。そして国民は魚を食べるのが大好きだ。それなのに、魚を食べるのが残酷だとは・・・
マーガレットはまな板の上の魚を生簀に戻した。それからジョアン王子の前に立つと、こう言って頭を下げた。
「ジョアン殿下。どうか私と婚約を解消してください。残酷令嬢の私では貴方に相応しくありません。瑕疵は私にありますので、解消ではなくて破棄でも構いませんから」
「な、何を言っているんだ! ぼくは君と婚約解消なんか絶対にしない!」
ジョアン王子は興奮しながらそう言って、マーガレットの両肩を掴んだ。
「「「あっ!」」」
騎士二人と執事が声をあげた直後、少し離れた場所から声がした。
「娘から手をお離し下さい!」
みんなが顔を向けると、プラントー侯爵が険しい顔をして王子を睨んでいた。そしてつかつかと四阿の方に歩いて来ると、王子に一礼してこう言った。
「娘が大変失礼な事をして誠に申し訳ありません。私の教育不足です。こんな娘では到底王宮では務まりませんので、婚約は破棄して下さるよう、これから私から陛下にお願いに参りますので、お引取り下さい。お願い致します」
ジョアン王子は反論しようとしたが、女性騎士リアナに耳元で何かを囁かれて、縋るような目でマーガレットを見ながらも離れて行った。マーガレットはその姿をずっと見ていた。もうその姿を見るのも最後かもしれないと思いながら。
その日の夜遅く、王城から戻った父親から昼間の事を叱られた。貴族の娘が生きたままの魚を人様の前で掴んで捌こうとするなんて、とんでもない事だと。暫くは部屋で謹慎しろと。
そしてジョアン王子からは婚約を破棄されるだろう。しかし、正直、我が家もその方が却って都合が良いから気にするなと。
そう言われてマーガレットは驚いた。父親からは家を追い出されて、修道院送りになるかと思っていたからである。
「良かったのですか? 私の政略結婚がなくなっても?」
「政略結婚? まさか。元々この婚約はジョアン王子殿下がお前に一目惚れしたと大騒ぎをしたから結ばれたのだぞ。私は別に王家と縁を結びたいなどとは思っていなかった。あちらからのたっての願いというから仕方なく応じたまでだ。
それなのに大事な我が娘をよりによって残酷令嬢だと呼ぶとは許せん。しかも、魚を食べると残酷だなんて、我が国民がほとんど全員残酷非道だと言っているようなものではないか。
自国民を否定するような王子の元に、誰が大切な娘を嫁がせるものか!」
父親が怒るのも無理はないとマーガレットは思った。交易担当の大臣の父は、この国において魚の重要性を誰よりも知っているし、大切にしている。
そのために子供が小さなうちに魚の大切さを知らせるべきだと、自分の子供だけでなく、知り合いに子供が生まれると、お祝いに必ず魚図鑑と魚が主人公になっている絵本を贈っているくらいだ。
それなのに食べたら残酷だとはどういう了見をしているんだ、あの王子は! 今までよくそれを隠していたものだ。
マーガレットは二つの事に驚かされた。父が自分の事を大切だと思っている事。そしてもう一つはこの婚約がジョアン王子の希望だったという事だ。
マーガレットは初めての顔合わせで、ジョアン王子の優しい瞳を見たその瞬間に恋に落ちた。初恋だった。そして付き合うようになって、益々王子の事が好きになっていった。優しくて純粋で思いやりがあって。
しかし、ジョアン王子は違ったのだろう。どこかで自分を見かけて容姿が気に入って婚約を望んだが、いざ付き合ってみたら、信用できない相手だと思ったのだろう。
その上残酷令嬢だとわかったのだから、あちらも婚約を解消したい筈だ。それなのに何故さっきは解消しないなんて言ったのかしら。急過ぎて戸惑っただけかしら?
今日は色々とあって疲れが出たのか、マーガレットは部屋へ戻るとそのまま眠ってしまった。
翌朝、普段よりも大分遅く目が覚めてマーガレットがダイニングルームへ向かうと、父親から今日登城するようにと陛下からの早便が届いたと、とても不機嫌そうに言った。しかもマーガレット同伴で。
ブランチになった食事をすませ、マーガレットは父とお付きの者達と一緒に庭の船着き場から小型のボートに乗り込んだ。船を操縦するのは執事だ。
貴族の家に仕える人間はほとんど船を操縦できる。水路が四方八方につくられているので、水路に面した家に行く場合には混雑しがちな道を馬車で行くよりも、船の方が時間通りに目的地に着ける場合が多い。そのために多くの使用主は、使用人に操縦の資格を取らせている。
王城は周りを水路で囲まれていている。そして王城の近くにはマリーナがあって、貴族の多くはそこにボートを停泊させて上陸し、橋を渡って城壁の門をくぐり城内に入るのだ。
マーガレットが父と共に登城して謁見の間に入ると、両陛下とジョアン王子、そしていつもの騎士が二人待っていた。
両陛下は泰然とした様子で玉座に座っていたが、ジョアン王子はいつもの仮面が剥がれ、おどおどと情けない顔をしていた。そして、マーガレットの顔を見た途端に泣きそうになったので、マーガレットは少し驚いた。そんなに自分が怖いのかしらと。
まずプラントー侯爵が昨日の娘の不始末を詫び、いかような罰でも受けますと述べた。腹の中は怒り狂っていても、さすがに表には表さない。さすが貴族である。
父親と共に娘のマーガレットも一緒に頭を下げた。
しかし陛下はこう言った。
「頭を上げよ。そちの娘は何も悪い事はしていない。謝る必要はない。謝罪するべきは私だ。息子ジョアンの特異性について隠していたのだからな。本当に申し訳ない」
『特異性?』
意外な言葉にプラントー侯爵父娘は頭を捻った。
「申し訳ないが、王家としてはジョアンとそちの娘マーガレットとの婚約を解消するつもりはない。
昨日わかったであろうが、ジョアンは魚を食べられない。肉もだが。息子は菜食主義者なのだ。海洋国で主な産業が魚関連の我が国において、その国の王子が魚を食せない、人が魚を食べるのを見るのも嫌なのでは外聞が悪い。それに皆と食せないとなると、まともな社交も出来ない。
いっそ、海から遠く離れた大陸の国にでも養子に出すか、婿入りさせようかと本気で考えたくらいだ。しかし、魚以外は親が言うのもなんだが、優秀な息子を手放すのは惜しくて手元に残した。
そして、王家の決まりだとか適当な事を言って、ジョアンを人前で食事をさせなかったのだ。けしてマーガレット嬢を疑っていたわけでも信じていなかったわけでもないのだ。貰った手作りクッキーやケーキも私達に分けようともせずに、一人でニマニマしながら食べていたくらいだ」
陛下の話にマーガレットは目を丸くした。そしてジョアン王子を見ると、彼は更に目を潤ませながら、マーガレットの前で膝を突き、彼女の手を取って、唇ではなく自分の額に当てて言った。
「メグ、ごめんね、酷い事を言って。お願い、婚約解消なんて言わないで」
マーガレットは手を外そうとしたが、ジョアンがしっかり握って離さない。
「殿下、離して下さい。殿下が私を信用なさっていない、というのは誤解だったかもしれませんが、私を怖がっていらっしゃるのでしょ。なら、解消なさった方がよろしいのではないですか?」
マーガレットの言葉に王子は頭を振った。
「優しいメグを怖がってなんかいないよ。ただ、ぼくは魚に関わると理性が吹っ飛んでしまうんだ。あの池ポチャの時もそう」
『んん? 魚で理性を失うってどういう事? しかも、池ポチャ騒動の時、魚なんか関与していたかしら?』
マーガレットが頭に疑問符を浮かべていると、女性騎士のリアナが王子の代わりこう説明してくれた。
ジョアン王子は常日頃から纏わりつくメアリを鬱陶しく思っていたが、先週のあの日、自分の腕に絡んできた彼女を見てようやく何故嫌いなのかを悟った。メアリはジョアン王子の嫌いな蛸そっくりだったのだ。捕食対象に八本の腕でしがみつく死神のような奴。
しかしいくら嫌な奴でも、あの炎天下で干からびて死ぬのは可哀想だと思った。何故苦しんでいるアレにみんな手を差し伸べないのだと少し怒りを覚えたのだという。そしてその蛸の命を救おうと池に落とした、というのだ。
「えっ? 蛸ですか? 確かに似てる気もしますが・・・」
「殿下はお優しすぎるのです。マーガレット様が一番それをご存知でしょう?」
「ええ、それはわかってはおりますが・・・」
マーガレットが口籠ると、国王陛下が深いため息をつき、とうとう重い口を開いた。
「実はな、これは極秘情報なので、覚悟して聞いて欲しいのだが、ジョアンは三歳の頃までは普通に魚料理を食べていたし、特に魚に関心があったわけでは無かったのだ。
ところが四歳の誕生日を迎えた頃、突然自分は魚の生まれ変わりだと言い出したんだ」
「「はい?」」
マーガレットとプラントー侯爵の目が点になった。
最初は夢の話をしているのかと思ったら、まだ四歳になったばかりだというのに、やたら魚の生態や海の中についても詳しいので、一概に出鱈目だとも思えなかったというのである。
「因みに、ジョアン殿下はなんの魚の生まれ変わりだったのでしょうか」
プラントー侯爵が恐る恐るこう尋ねると、王子はマーガレットから侯爵に目を移してこう答えた。
「雄のゲゲルでした。しかもヤンチャで暴れん坊で怖いもの知らずで後先考えない奴でした」
『ゲゲル』とは前世の『ゴンズイ』によく似た魚で、体長は十センチから二十センチほどで、頭から尾びれにかけて鮮やかなオレンジ色の線が左右に伸びている。
幼い頃は大きな集団を作って行動しているのだが、それは一般的には『ゲゲル玉』と呼ばれている。
食すれば美味しいが、背びれと胸びれに猛毒があり、トゲに刺されると人は激痛に襲われ、亡くなる場合もある。
故にゲゲルを釣り上げると、漁師や釣り人は酷くがっかりした。
ジョアン王子は自分がこの『ゲゲル』だったのだと主張した。
危ないから離れてはいけないと仲間達から注意を受けても、すぐに『ゲゲル玉』から離れて勝手な行動をとって大きな魚に襲われそうになったり・・・
疑似餌に引っかかって釣り上げられた他の魚を馬鹿にしたり・・・
エサだけ上手にとれる事を自慢したり・・・
たまにわざと針に引っかかって、海の外の景色を眺めたあと、釣り人の手から上手に逃げて海に飛び込んだり・・・
『ゲゲル』だった頃の彼は、とてもわがままで不遜な奴だったと。でも、ある日、彼は他の魚達に馬鹿にされている事を知った。
『ゲゲル』が凄いから人間から上手く逃げられていた訳じゃない。『ゲゲル』には強力な毒があって捕まえたく無かったから海に放しただけだと。『ゲゲル』は死んでも毒性が消えず、厄介な魚だと人間には嫌われているからだと。
真実を知らされた『ゲゲル』は慢心の心を捨て去り、また『ゲゲル玉』に戻り、仲間達と仲良く暮らしたと言う。
つまり、ジョアン王子は前世のこの記憶があるから、人に対して傲慢だ、思い上がっている、と思われかねない行動を避けていたというのだ。
そして魚を食べられなかったのは、もちろん共喰いをしたくなかったからだ。冷静に考えれば、『ゲゲル』だって他の魚を食べていると思うのだが。
ジョアン王子の告白を聞いて、マーガレットと父親は真っ青になった。そしてアイコンタクトでお互いの意思を確認し合うと、二人同時に土下座をした。マーガレットの右手は王子の手に握られたままだったが。
「国王陛下、王妃殿下、そしてジョアン殿下、本当に申し訳ありません。全て私の責任でございます。どんな処分でもお受け致します。ただ何卒マーガレットだけには温情のあるご処罰をお願い致します」
「「「はぁ?」」」
国王一家はなんのことだかわからず呆気にとられた。
「ジョアン殿下は魚の生まれ変わりなどではありません。殿下が魚に大変詳しかったのは、魚図鑑を見られたからであり、先程の『ゲゲル』の話は絵本の中の話です。私が殿下の四歳のお誕生日の日に、娘マーガレットと同じ本を贈らせて頂いたので間違いありません」
「先程、殿下はメアリ様が熱中症で死ぬかも知れないと思って焦ったとおっしゃいましたよね。それは、羽魚が飛び過ぎて堤防の上に落ちて、お日様に焼かれて苦しんでいたからではないですか?」
マーガレットの言葉に王子はあっという顔をした。
「王妃様は以前、お子様達が小さな頃はお子様全員に、寝る前に読み聞かせをなさっていたとおっしゃっていましたよね」
プラントー侯爵の言葉に王妃陛下は頷いた。すると今度はマーガレットが尋ねた。
「妃殿下は、一冊の本をどれくらい繰り返して読まれたのでしょうか?」
「子供や本にもよるわね。お気に入りは何十回も強請られて読んだわ。ただジョアンはどの本もすぐ飽きたから、大体三回くらいだったかしら」
「三回も読まれたのですね・・・」
妃殿下には聞こえない小さな声でマーガレットは呟いた。
何故父はあの絵本を贈ったのだろうか。第二王子なのだから王族だという事に驕らず、控えめであれ、という教訓のつもりだったのか、それともたまたまだったのか。魚図鑑だけを贈っておけば良かったものを。
まあ、まだその当時はジョアン王子の能力を知らなかったのだから仕方がないのかも知れないが。どっちにしろこれは父のチョイスミスのせいだ。そのせいでジョアン殿下や両陛下、そしてお付きの方々にさんざんご迷惑をおかけしたと思うと、マーガレットは本当にいてもたってもいられない気持ちだった。
やはり自分が王子妃なんてもっての外。自分は一生かけて無償で殿下のお世話をさせてもらおう、とマーガレットは心に決めてこう発言した。
「両陛下は当然ご存知だとは思いますが、ジョアン殿下はパラパラ本をめくっただけでその内容を頭の中に入れてしまわれます」
「そうだな」
「その上殿下は一度耳にした事も全て記憶されてしまいます」
「えっ? そうなの?」
「はい。生徒会において書記が書き漏らした場合でも、いつでも殿下が一言一句覚えておられました。書記がそれで安心して手抜きをしようとしましたので、会議の最重要課題以外は、私は殿下の耳に耳栓を入れておきました。つまらない事柄まで、大切な殿下の脳の中に詰め込みたくなかったので」
ジョアン王子は生徒会の会長で、マーガレットは副会長をしている。
「まあ!」
「ですから幼少期の殿下も、妃殿下から読み聞かせて頂いた本の内容を、一度で完璧に頭の中に入れておられたと思われます」
「それなのに私が三回も読んだから、この子の頭の中に話の内容がしっかりとこびり付いてしまったと。私の方は全くその話を覚えていなかったのに・・・」
妃殿下がガックリと肩を落とした。
「それは妃殿下のせいではありません。記憶というものは寝ている間に固定化されるもの(前世の知識)らしいのです。
それに妃殿下は沢山のご本を読まれてきました。それが今の素晴らしい殿下をおつくりになったのです。ただ父が選んだ『ゲゲルの玉』という絵本がたまたま殿下にとって、その、琴線に合いすぎてしまったといいますか、その・・・」
マーガレットは父の事も考えて、はっきりとはものが言えなかった。
ジョアン王子はいつものように最後まで人の話を聞いた後でこう言った。
「メグも侯爵も何を言ってるの? ぼくが絵本の中の主人公だと思い込んでいるとでも思っているの? 違うよ。ぼくは本当に『ゲゲル』の生まれ変わりなんだよ。信じない人もいるけれど、この世界には転生者と呼ばれる生まれ変わりの人が本当にいるんだよ」
ジョアン王子は自分の記憶が絵本のものだとはなかなか信じなかった。
『転生者? ええ、転生者の存在は信じますよ。自分自身がその転生者ですからね。でも、殿下は違うでしょ!』
「殿下、魚にも脳はあるでしょうが、自己反省なんかしません。謙虚でいようなんて間違っても思いません。だから、殿下は間違っても『ゲゲル』の生まれ変わりなどではありません」
マーガレットの理詰めの説明にジョアン王子は黙ったが、その顔は納得していないのが丸わかりだった。このまま有耶無耶にしてはいけないと思ったマーガレットは、女騎士のリアナを見た。
リアナとはジョアン王子と婚約した時からだから、もう五年の付き合いである。天然で天才肌の殿下を二人でタッグを組んでずっと守ってきた。今では親友か姉妹のような関係になっているので、目と目で見つめ合うだけで通じる事も多い。
土下座しているマーガレットの側に寄ってきてくれたリアナの耳元で、彼女はある事を告げた。一瞬ひどく驚いた顔をしたリアナだったが、聞き終えると納得したように頷いた。そしてそれから両陛下の元へいって、マーガレットの言葉を伝えた。
すると両陛下もリアナ同様に驚いたが、やがて少し笑みを浮かべた。
「プラントー侯爵、マーガレット嬢立ちなさい。君達に過誤はないよ。故に一切罪を咎めるつもりはない。もちろん婚約も解消しない。侯爵には申し訳ないが。
マーガレット嬢以外にジョアンを上手に扱える者などいそうにないからね。今の提案も了承した。好きにやりたまえ」
「ありがとうございます」
マーガレットは両陛下に頭を下げてから父と共に立ち上がった。ジョアン王子を引きずるように。そして近距離から王子を見上げてこう言った。
「殿下、私が殿下が『ゲゲル』の生まれ変わりではないという事を証明してみせますわ」
マーガレットは両陛下と王子殿下、そして父親とと共に、騎士達に人払いしてもらった庭園へ向かった。
城内の庭園には水路からの海水を引き入れた池があって、海水魚が飼育されている。深さは二メートルほどだろうか。
「ジョアン殿下、ちょっと池を覗いて見て下さいな。気持ち良さそうに、メバルが泳いていますわ」
そうマーガレットに声をかけられて、ジョアン王子が池の中を除き込んだ時だった。後ろから背中をマーガレットに押されて、彼はバシャッと池の中に落ちた。
ジョアン王子は驚いて手足をバタつかせて「助けて!」と叫んだ。そこでマーガレットは大きな声でゆっくり言った。
「殿下、落ち着いて下さい。殿下はお魚の生まれ変わりなんでしょ、泳げますよ」
ジョアンは大きく目を見開いたが、「無理、無理だ・・・」とアップアップしながら言った。
「わかりました。今お助けします」
マーガレットはペチコートを脱ぎ捨てると、池に飛び込んだ。そしてリアナもその後に続いた。ジョアン王子は両脇を二人の女性に支えられて、ようやく水面から顔を出し、ゲホッと水を吐いた。そして婚約者の顔を見つめて呟いた。
「ぼくは、魚の『ゲゲル』の生まれ変わりじゃなかったみたいだ。でも、君は淡水魚の『ベタ』の生まれ変わりだと思うよ。女神のように美しいのに、恋人にも攻撃しまくる残酷なところがそっくりだ。でも、そんな君が大好きだよ。愛してる」
それを聞いて、再びマーガレットが目を丸くした。
✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱
例の婚約解消騒動から少し経ったある日、マーガレットは王宮の長い廊下に置かれてあるいくつかの水槽を眺めていた。それらの水槽の中には、内陸の隣国から寄贈された淡水魚が一匹ずつだけ入っていた。
それらの魚の名前は『ベタ』といい、まるでフリルいっぱいのウェディングドレスを着ているような、とにかく美しい魚だった。しかも色合いが様々である。純白、クリームイエロー、真紅、ブルー、紫・・・
以前から何故一匹ずつ飼っているのかと思っていたら、この『ベタ』は見かけに反して凶暴で攻撃性が高く、複数では飼えないのだという事を後で知った。しかもパートナーさえ攻撃するというのだから残酷で恐ろしい魚だ。もっとも攻撃するのは雄の方だが。
この魚に似てると言われた時は正直ショックだった。殿下って本当にマゾなんだろうか?
「みんな綺麗だろ。でも、特にこの純白の『ベタ』を見る度に、君のウェディングドレス姿を想像して胸が高まるんだ。もちろん、君の方が綺麗に決まっているだろうけど」
水槽を覗いていたマーガレットに、ジョアン王子が後ろからこう言った。
「殿下は私が『ベタ』という魚に似ているから、婚約者に望まれたのですか? 殿下は残酷令嬢がお好みなのですか?」
マーガレットがこう尋ねると、ジョアン王子はポカンと口を開けた。それからククッと笑った。
「あれはね、愛する君にみっともない姿を晒してしまった腹立たしさで、つい言ってしまっただけだよ。本当にごめんね。
君がいつもぼくのために必死で助けてくれている事は知っているよ。その為に、君が淑女らしさを犠牲にしている事も。
ぼくの脳を疲れさせないように、雑音を入れないように遮断して、ぼくの代わりに色々働いてくれている事も。
この間は自ら残酷令嬢を演じてぼくを池に投げ込んで、しかもわざわざ飛び込んて助けてくれたよね。
そして今はぼくが魚だってわからないように、自らテリーヌや天ぷら、唐揚げにして食べさせてくれているよね。
そんな優しい君を残酷令嬢だなんて本気で思っている訳ないだろう。
それに、君が『ベタ』に似ていたから好きになったんじゃない。
十歳の時に母上が主催した子供向けのガーデンパーティーの時、純白のふわふわバルーンドレスを着て一人で踊っている君を見て、思わず見惚れてしまったんだ。
まるでジェリーフィッシュみたいにふわふわしてて、なんて可愛いんだろうって。あんなに愛らしく優しく笑う女の子をお嫁さんにしたいなって」
ジョアン王子は眩しいほどの笑顔でマーガレットを見つめてから、彼女を思い切り抱き締めた。マーガレットは胸をドキドキさせながら、王子の胸に顔を埋め、彼の背中に手を回してこう思った。
『ジェリーフィッシュ(クラゲ)かぁ、やっぱり私は水中生物に似ていたから好きになってもらえたのかなぁ。確かにアレはかわいくて綺麗だわ。でも毒を持ってるのよね。やっぱりジョアン様って・・・まあ、いいか。』
と。
(おしまい)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〜余談1〜
余計な情報を遮断されていたジョアン王子も、さすがにメアリの事はおかしいと思って調べていた。
すると彼女は、とある騎士をしている男爵の隠し子だった。庶民の使用人に産ませた娘だったが、母親の死後に男爵家に引き取られた。
そして学園の入学試験の成績がかなり上位だったので、男爵がこれは使えると、騎士団に娘を売り込んだ。そして採用されて仕込みにされたのだが、宮廷の期待に反して彼女は全く使えなかった。
それどころか、ジョアン王子に優しい口調でたしなめられているうちに本気で王子を好きになってしまった。
自分はヒロインで、婚約者のマーガレットは自分と王子との仲を邪魔する悪役令嬢だと本気で思い込んでしまった。そして数々の嫌がらせを始めてしまったのだ。
もっとも間抜けっぷりはそのままだったが。
しかし、例の池ポチャ事件で騎士団からとうとう見限られ、冷静になったジョアンからは、怒りを買う破目になった。それはそうだろう。彼の最愛の婚約者を悪役令嬢呼ばわりしたのだから。
メアリは本来仕込みの仕事を上手くこなせれば、騎士団の暗部としての職を約束されていたのだが、言わずもがなである。
彼女は監督不行き届きの父親と共に、内陸の辺境地にある訓練の厳しい騎士養成所へ送られた。そして王都へ入る事を禁じられた。この手の思い込みの強い人間はストーカー行為を繰り返す恐れがあるからだ。
だから彼女だけは、厳しくない緩い訓練を積んでいる。優秀な騎士になって、そこから抜け出されては困るからである。
〜余談2〜
池でおぼれかけてから、ジョアン王子は騎士達から泳ぎの特訓を受けた。元々運動神経が良かったので、一月ほどで泳げるようになり、今では暑い日には、庭園の池で魚達と楽しく泳ぎ回っている。
『ゲゲル』のモデルの『ゴンズイ』という魚を主人公に、童話を書きたいなと、大分前から思っていました。それが、小説の中に出てくる童話という形で思いがけなく描く事になり、自分でも不思議な気分です。
読んで下さって、ありがとうございます。