04.恋に落ちました
ドカーン、と。
暗闇の中に雷が落とされるような衝撃。
それは一瞬で、アレンの頭から足元まで、勢いよく電気を走らせた。
目の前でチカチカと光が瞬き、手足が痺れるような感覚。
アレンは呼吸をするのも忘れて、ただただ青年を見上げていた。
癖のない銀色の髪。釣り上がり気味の目元は涼し気で、深い緋色の瞳を際立たせる。
高く通った鼻筋ときつく結ばれた薄い唇が凛々しい。
女性にしては高めの身長であるアレンが見上げる程の高身長で、騎士らしい立派な体躯。身につけているフロックコートは、体のラインが綺麗に出て素晴らしいスタイルを窺わせる。急いで来たのか、それが少し乱れているのも色っぽい。
落ちた雷の行方を追うように、アレンがそっと窓の外を伺うが、今日は朝から晴れ。雲一つない青空だ。
視線を青年の方へ戻すと、彼は不機嫌そうな顔でアレン見下ろしている。
微動だにしないアレンに、背後に控えていたイリナが小さく声をかけた。
いけない、挨拶をしなければ。
「初めまして、アレクサンドラ=エーベルです。お会い出来て光栄です。よろしくお願いいたします」
気を取り直したアレンが、にっこりと微笑み綺麗にカーテシーをすると、青年が息を飲む。
何か失敗してしまっただろうか。
だが、アレンの不安を他所に、青年も形だけは丁寧に礼を取った。
「……ヴォルフガング=クライスナーだ」
この人が、ヴォルフガング=クライスナー。
例の、噂の、粗野で乱暴な、英雄の孫。
自身も優秀な騎士である、ヴォルフガング=クライスナー。
じっと見上げるアレンの視線に、ヴォルフガングの目元は険しい。
何故だろうか。
不機嫌そうではあるが、眉間に寄った皺さえも凛々しく見える。
「ヴォルフ、衣服が乱れていますよ。ちゃんとなさい」
「勝手なことを言わないでいただきたい。指導中だったというのに、突然連れてこられて着せられたのです。私の意思ではない」
そうは言いつつ、ヴォルフガングはタイを直している。律儀な性格のようだ。
指導というのは騎士の仕事だったのだろうか。不機嫌なのは、仕事中に中断させられたからか。
しかも今、ヴォルフガングは自分の意思ではないと言った。
ということは、この婚約はブルクハルトとクライスナー夫妻の独断ということで、ヴォルフガングは不本意だということだ。
おまけに、どうも今の今まで知らされていなかったらしい。
完全なる政略だと分かっていた。政略どころか、ただの将軍の厚意だ。
それでも、そうあからさまに拒絶されると、胸が痛い。
驚くべきことに、ガッカリしている自分がいる。
分かっていたのに、寂しいと思うのは何故だろう。
「いつまでも婚約者どころか意中の女性さえ捕まらないお前に、漸く婚約者候補が現れたんだ。お祖父様が手を尽くしてくださったんだぞ」
「頼んでいません!」
「何が不満なのですかヴォルフ。こんなに若くて綺麗なお嬢さんなのに」
「そういう問題ではありません!たった今聞かされたばかりの婚約者など、そんな話は頷けません!」
やはり、孫に充てがう為の婚約だったか。
眉を下げつつ、ヴォルフガングを見つめるアレン。
夫妻と言い争うヴォルフガングを、これ幸いと観察し続ける。
目までかかる銀色の髪はサラサラで声を上げるたびに揺れる。羨ましい。アレンは自身の黒髪を気に入っているけど、根元と毛先が癖毛で猫毛なのがちょっと難点なのだ。
緋色の瞳はまるでスピネルだ。奇跡の宝石。磨かなくても自ら輝く緋。こんなに美しい瞳が恐ろしいだなんて、誰が言ったんだろう。でも確かに、この瞳に見つめられたら、その幸運に恐ろしくなりそうだ。
眉間に寄った皺も男らしくていい。高くスッと通った鼻筋が、それに拍車をかけている。
でもできたら笑った顔も見たい。きっと素敵だと思う。
高身長も、アレンならヒールを履いてもバランスが取れる。隣に並んでも、彼の見目を損なうことはないだろう。
立派な体躯は騎士らしくて好感が持てる。真面目に鍛錬している証拠ではないか。
しかもただ鍛えているわけではないようだ。肩や胸の筋肉は厚そうなのに、腰が引き締まっているのだ。それなのに尻は小さ目でキュッと上がって、足が恐ろしく長い。
彫刻だ。神の作った完璧な芸術品だ。
性格はどうなのだろうか。
入室した時から、クライスナー夫妻との会話中の今まで、特別乱暴だとは思わなかった。言い方はキツイかもしれないが、言葉使いは悪くない。
背筋も伸びて姿勢正しいし、体の動きが指先から足元まで無駄がない。躾の良さが垣間見える。どこが粗野だというのか。
これを以って粗野と言うのなら、下町の破落戸など人と認識されないのでは?
声を荒げているように聞こえるのも、騎士特有のものかもしれない。それに、ヴォルフガングの声はハイバリトンで、普通に喋っても聞き様によっては重く聞こえるのだ。それが、素っ気なく聞こえてしまう要因かもしれない。
アレンにしてみれば、低音が耳に心地よくて安心するのだけど。
欠点という欠点が見当たらない。
もしかして、物凄く意地悪だとか。姑息とか卑怯者だとか。でもそんな人物が、戦場で武勲を立てたりするだろうか。親ならぬ祖父の七光り?それはもう少し触れ合ってみないと分からない事だ。
触れ合うなんて、いかがわしい意味ではないですよ、とアレンが一人で頰を染めていると、思考を読んだかのようにイリナに脇腹を小突かれた。
その様子を見られていたのか、ブルクハルトがにんまりとほくそ笑む。
あら、漸く狸が動くのかしら。
今まで黙って客観視していたブルクハルトの動きに、アレンは気を引き締める。
「ヴォルフ、客人の前だ。控えなさい」
「しかしっ……」
「アレクサンドラ嬢、すまないね。孫が駄々をこねてみっともないところをお見せした」
「駄々などっ!」
「いいえ、とんでもないことでございます。ヴォルフガング様の素のお姿が見れましたもの。とても好ましいですわ」
アレンが微笑むと、彼女以外の人間の動きが止まる。まるで室内が凍ったようにカチリと。
なんだろう。何か不味い事でも言っただろうか。
だって本当に好ましいのだ。
ヴォルフガングの、驚きに見開かれた目もその表情も好ましい。
気を引き締めたばかりなのに、つい口元が緩むのはご愛嬌だ。
「ヴォルフ、部屋まで案内してあげなさい。それから、夕食は一緒に」
「……っ、分かりました」
頷くヴォルフガングだが、納得はしていないだろう事が、ありありと分かる。こんなに分かり易くて騎士として大丈夫なのだろうか。
それでも、差し出された手には遠慮なくエスコートして貰う。
手も大きい。兄のアルノルトとは皮の厚さが違う。剣を扱うからだろう。出来た肉刺が何度も潰れて分厚くなっているのだ。
その手を握って繁々と見つめるアレンだったが、訝しげに向けられた視線に我に帰ると、誤魔化すように微笑んで、退室するヴォルフガングに続いた。
アレンに充てがわれた部屋の、扉の前でヴォルフガングは足を止める。
三階建ての屋敷の二階の東側。臙脂色の上品な絨毯を進み、客室として用意された一室がアレンの部屋だ。
到着してしまったのなら仕方がない。名残惜しいが、エスコートされた手を離す。
あーもう少し、ヴォルフガングの手の感触を楽しみたかった。偶然を装って何度か揉むように握ってしまったのだが、決して変態ではないのです。
知的好奇心からくる欲求には逆らえなかったのです。
扉の前で、中にも入らずヴォルフガングを見上げたままのアレンに、彼は逡巡した後問いかける。
「あなたは」
「はい」
「自分が何故ここに呼ばれたのか、理解しているのか」
何故呼ばれたのか。
孫の婚約者に充てがう為。
ブルクハルトの温情に報いる為。
細かい理由は多々あれど、アレンは正しく理解している。おそらくヴォルフガングよりも。
「勿論です。私、その為にここにいるんですわ」
アレンが頷くと、ヴォルフガングの眉間に皺が寄る。
「後悔する事になると思うが」
更に苦々しげに吐き出したヴォルフガングは、そのまま踵を返して元来た道を戻って行った。
残されたアレンは、暫くその後ろ姿を見送っていたが、イリナに促されて部屋に足を踏み入れる。
綺麗に整えられた室内は、白が基調な中でアクセントとして木の質感が際立つ家具が揃えられていた。
どれも年代物としての価値が高そうな代物だ。
広々とした部屋は、正面にベランダへと続く窓があり、入ってすぐにソファとテーブル、その奥にはゆうに大人三人は寝られそうな大きいベッドがある。
手紙には、部屋の用意は済んでいるとはあったものの、やはりいきなり私室へとはいかないのだろう。なんせ、当事者であるヴォルフガングは、婚約の話も婚約者の訪れも今日初めて知ったようなのだから。
そこのところの根回しは、ちゃんとしておいて欲しいものである。
まあそんな事どうでもいいくらい、アレンはヴォルフガングを気に入ってしまったのだけど。
そう、気に入ったのだ。
ソファを素通りして、ベッドへと飛び乗る。この際少しばかりはしたなくても許して貰おう。
だって沸き立つこの胸の衝動を、どう治めたらいいのか分からないのだ。
アレンは枕に顔を埋めて、暫く足をバタバタと動かしてから、背後に控えるイリナを振り返った。
「見た!?イリナ!」
「同席しておりましたから」
「凄いわあの方!プラチナシルバーの髪!スピネルの瞳!声はチェンバロ!鍛え上げられた体は彫刻のようだわ!」
「お嬢様……」
「なんて、高価そうなの!!!」
「……淑女として残念な反応です。お嬢様」
興奮するアレンを、イリナは冷めた目で見つめる。守銭奴の主人が、漸く色恋めいたと思いきや基準はそれか。
「だって本当に高そうなんだもの!金貨に換算すると何枚の価値があるかしら?10枚どころじゃ無いわよね!?それが生きて動いてるなんて、金貨でも足りないんじゃない?」
「本当に残念です」
しかし、アレンの反応を見てイリナは確信する。すぐに物の価値に換算してしまうのは主人の癖だが、ヴォルフガングが現れた時の彼女を見ていると、一目瞭然だ。
感想が、十代の少女にしては残念な事に変わりはないが。
要するに。
アレンは、一目で恋に落ちたのだ。
ヴォルフガング=クライスナーに。