31.いただきました
「ヴォルフ様それは褒め言葉ですか!?褒め言葉ですね!褒めようとするヴォルフ様のお気持ちは受け取りました。ですが普通、女性にイノシシは褒め言葉ではないですからね!」
ヴォルフガングの膝から降りて、アレンは目の前で仁王立ちする。
この後に及んでまだイノシシを引きずっているとは、しつこいのは健在のようだ。
というか、ヴォルフガングは女性の褒め方を理解しているのだろうか。アレンの事は可愛いらしいとか美しいとは言ってくれた。近頃は、ドレス姿も褒めてくれる。
後に夜会が控えているのだ、貴族の礼儀として社交辞令程度は身につけていると思いたい。
ヴォルフガングとしては、侮辱のつもりはなかったのだが、室内に視線を彷徨わせると、控えているイリナもクルトも首を横に振っている。
「姿形が、と言っているわけではないのだが」
「ではイノシシと称してどこを褒めていますか?」
「真っ直ぐ突き進むところ?」
「私がそうであればいいということですか?疑問形なのは怪しいところですが、まあ言いたい事は理解しましょう。猪突猛進とはいいますが……うーん、やっぱり褒め言葉とは違うような。向こう見ずって含みがありますし」
「私に対してならありがたい」
座ったまま見上げるヴォルフガングに、アレンは目を丸くする。
ヴォルフガングに対して、勢いよく突き進むのならいいということか。
なんだこの可愛い生き物は。
なんてことを言ってくれるのだ。
アレンは悶えるように手を震わせると、そのままヴォルフガングの髪をぐしゃぐしゃに撫で回した。
今すぐ抱きしめてキスしたい。その衝動を、撫でることで発散する。
それを、不機嫌なアレンの意趣返しととったのか、ヴォルフガングはされるがままだ。
「気を悪くしたのならすまない」
「怒ってないです。ヴォルフ様の感性が特殊なのだと受け止めます」
「それはあなただろう」
「私?私が特殊ですか?どこがですか?」
「……色々と」
「では私達、お互い特殊同士でお似合いですね!」
一通り撫で回してスッキリしたのか、アレンは笑いながらヴォルフガングの髪を手櫛で整えた。やはりヴォルフガングの髪はサラサラで、指通りがよく気持ちがいい。
離れるアレンが名残惜しくて、ヴォルフガングは彼女の指先を掴む。
「ヴォルフ様?」
「あー……、いや、すまない。やはり良くないな、女性に言うことではなかった。なにか詫びでも」
「お詫びですか?」
「ああ。なんでも言ってくれ」
「なんでもなんて言うものではありませんよ」
「本当になんでもいい。気が済むまで殴ってくれても構わない」
同じ事を言っている。
ケヴィンもそうだが、男性はなんでもすると言えば、女性の激発から逃れられると思っているのだろうか。
暫く考えて、アレンはニッコリ微笑むと、ヴォルフガングの手を握ってその場に立って貰う。
「ではヴォルフ様、屈んでここを覗いて見てください」
自分の胸元辺りに手を持ってきて、水をすくう形を取る。ヴォルフガングは不思議そうな顔で、素直に掌の中を覗き込んだ。
「そのまま目を瞑っていただいていいですか?」
「ああ」
手を振り上げたアレンに、やはり殴られるのだなと覚悟する。女性の力では大した威力はないだろうが、衝撃はあるだろう。それも含めて甘んじて受けるつもりだ。
ヴォルフガングが目を瞑り、軽く奥歯を噛んでいる間、アレンは少し背伸びをする。振り上げた手はそのまま彼の頰に添えた。
そうしてーーー。
ちゅっ、と。
屈んだヴォルフガングの頰にキスをした。
途端に、バチッと音がしそうな程の勢いで、ヴォルフガングの瞼が開かれる。
屈んだままの体制で呆然としているヴォルフガングに、腰が痛くはないのだろうかと思う。
アレンが見守っていると、ぎこちなく視線をアレンに向けてきた。
なんだか、いつものヴォルフガングらしからぬ動きに、可笑しくなってくる。だってまるで、ブリキの玩具のような動きなのだ。ギギ、と擬音が付きそうで、動揺しているのが手に取るように分かる。
戦場で名を馳せた銀の悪魔だというのに。
「お詫びとして、ヴォルフ様の頰にちゅーをいただきました。親愛のキスですよ。差し当たっては、おやすみなさいのご挨拶ですね」
口元を両手で隠して、くふふと笑うアレン。
楽しくて仕方ないという顔に、ヴォルフガングは我に返るとアレンに手を伸ばす。
(あら、いつものおやすみのハグかしら。って、ちょっと痛い痛い痛い!ヴォルフ様力入れすぎ!)
「ヴォルフ様、少し苦しいです。腕の力を……」
パシパシとヴォルフガングの腕を叩くと、力は弱まったが拘束は解けない。しかもなんだか、いつもより抱擁が長い。
ヴォルフガングの腕に囲われて、胸に顔を埋めたままでは表情が伺えない。怒っているのだろうか。はしたないと思われたかも。
「ヴォルフ様、嫌でしたか?はしたないと思われました?こういうのお嫌いなら……」
「嫌、では、ない」
控えます、と言う前に被せるように否定された。もうしない、とは言いませんよ。ヴォルフガングがしてくれなくても、アレンからすればいいのだから。接触は積極的にやっていこうと思う。
ヴォルフガングの胸の中は、体温が高くて気持ちがいい。幼い頃は両親や兄妹とくっつき合ってはいたけれど、こんな風に好きな人と温度を分かち合うのが、こんなに気持ちいい事だと知らなかった。
先程父にも抱きしめられたけれど、やはりヴォルフガングは違うな、と思う。
胸板に頭を擦り付けると、髪を梳いていたヴォルフガングの手がアレンの頰を撫でる。
促されるまま顔を上げ、ヴォルフガングの表情を捉えてからアレンの心臓は一際高鳴った。
いつもよりも、ずっと熱を持ったヴォルフガングの目に捕らえられる。こんな目で見られているなんて気付かなかった。
「ヴォルフ様」
「アレン……」
じわり、と近づくヴォルフガングの影に緊張が走る。
これはもしかして、予想外に一歩進んでしまうのでは!?
(目よ!目を瞑るのよアレクサンドラ!キスするのに目を開けたままなんてカッコ悪いでしょう?ヴォルフ様だってやりにくいわよ!これは絶対キスする流れよね!?キャー!アレクサンドラ、遂に大人の階段を登ります!!)
頭の中では祭囃子が鳴っているアレンだが、不自然にならないように瞼を閉じると、緊張で汗をかいた掌を握り込む。
瞼の裏に迫る影が見え。
ちゅっ、と。
軽いリップ音がした後に、身体ごと離された。
「……」
「おやすみ」
真顔で内心呆然とするアレンには、状況が飲み込めない。キスは、した。音もしたし感触もバッチリだ。
ただ、キスされた場所が頰だったというだけで。
(……なんだったのかしら、今の)
「私は少しクルトと話がある」
「そうですか。ではおやすみなさいませ」
「ああ」
アレンが微笑むと、頭を撫でられる。笑顔を貼り付けたまま、アレンは居間を後にした。
「なんでよ!」
「落ち着いてください」
湯浴みも済んで一旦落ち着いたあと、アレンはベッドに拳を叩きつけていた。
暫くは頭が追いつかなくて、イリナにされるがままに服を脱がされ風呂に入れられ、髪も肌も手入れされていた。すっかり身支度が整ったところで、じわじわと思い出す。
何故頰なのか。
もちろん嬉しい。ヴォルフガングから初めてキスして貰ったのだ。嬉しくない訳がない。
だから余計に何故!?何故頰なのか!
ほんの少し、横に5ミリ程ズレれば唇が鎮座しているというのにっ!
ボスボスと枕を叩いて気が済んだのか、アレンは肩で息をする。
「ヴォルフ様って天使なのかしら」
「は?」
アレンが難しい顔で側にいるイリナに呟くが、ヴォルフガングと天使が結びつかずに、イリナの顔には疑問符が浮かぶばかりだ。
「だからね、ヴォルフ様って天使じゃないかしら」
「天使の定義とは?」
「だってあの状況で、普通、頰にキスする?言ってしまえば据え膳だったわけでしょう?やろうと思えば最後まで出来たわけじゃない?それを頰って」
「お嬢様、はしたないです。私もクルトもいますので、最後までは難しいかと」
「それは分かっているわよ。流石にそういうは趣向は持ち合わせていないわ。って、そんなことが言いたいわけではないのよ」
むくれるアレンの話を右から左に聞き流し、イリナは手早く紅茶を入れた。
「嫌だったのですか?」
「嫌な訳ないでしょう!嬉しいに決まってるじゃない。ただ……」
「ただ?」
「惜しいのよ!なんでそこで頰にいくかなー?いや嬉しいけど!だからね、ヴォルフ様って奥手なんだと思って。目の前に鴨がネギを背負っているというのに、わざわざ私に倣って頰にキスだなんて純なのね。天使みたいじゃない?」
「天使という言葉の広義を知りました」
どこの世界に、戦争の英雄で悪魔と呼ばれる成人男性を天使に例える人間がいるのか。ここにいた。世界の広さに、イリナは感心するばかりだ。
「普通お付き合いして三月だというと、世の恋人同士はもう少し親密になっていると思うのだけど。まあ天使が相手なら仕方ないわね。私達は恋人もすっ飛ばしてるし。それでも大きな一歩だわ」
「お嬢様はそんな話をどこでお聞きになるのですか」
「あら、領地を回るのに噂話ほど取っつきやすいものはないのよ」
「世俗にまみれ過ぎです」
「大丈夫よ話半分だから。それより、順調にいけば来月辺りにはおやすみのキスが当たり前になってるわよね。作戦通りだわ」
どの作戦だ。そもそも、こと恋愛方面に関しては、アレンの作戦は穴だらけだ。行き当たりばったりが過ぎる。
それでも、最終的には収まるところに収まっているので、まあ作戦通りといえばそうなのか。
「明日から暫く忙しくなると思うから、イリナもそのつもりでいてね」
「畏まりました」
アレンがいない間に王都の屋敷に届いた手紙の処理や、クライスナーの領地に持って行かなかった身の周りの物の処分、生誕祭出席の準備にと忙しくなる。
イリナも明日からを思って気を引き締めると、ベッドの中からくぐもった声が聞こえてきた。
「おはようのキスもするべきかしら」
ぶつぶつと呟く内容については、イリナは聞かなかった事にした。




