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21.蒔きました

「アレン、何があった」

「ヴォルフ様」


昼にはまだ少し早い時間、騎士団のヴォルフガングの執務室で彼の休憩を待っていると、険しい表情でヴォルフガングが入ってきた。珍しく狼狽している。


「怪我をしたのか?」

「大丈夫ですよ。少し切れたくらいです」


孤児院を後にして、馬車の中でアレンがおもむろに小石を吐き出すと、イリナとクルトが青くなった。

作業中のミスか、パウンドケーキに入っていたと告げると、イリナはすぐにハンカチと水を用意してくれる。それだけならまだ自分のミスですんだのだが、吐き出した拍子にハンカチに血が滲んでいたのがまずかった。

噛んだ拍子に小石で口内を傷つけたらしい。口の中が少しピリピリする。血を見た途端にクルトは益々青くなってしまったので、血を見るのは苦手なのだろうか。

幼い頃から擦り傷切り傷で散々流血三昧だったアレンとしては、大したことはないのだが、騎士が向かないというのはこういう所も原因かもしれない。


孤児院の後はヴォルフガングへお昼の配達に行くつもりだったのだが、屋敷へ戻るか悩んだ末に、イリナに騎士団へ行く事を強行された。

到着するなり、イリナはアレンを執務室に突っ込み、ヴォルフガングへの伝言をクルトに任せる。


「どこから入り込んだんでしょうか。小石というには些か大きいような……」

「そうね。ヴォルフ様のおやつがなくなってしまったけど、逆によかったわ。ヴォルフ様が傷つかなくて」

「ヴォルフガング様用のパウンドケーキに入っていたのですか……申し訳ありません。衛生管理には気をつけていたのですが」

「イリナのせいではないわ。材料に混入していたのかもしれないし」

「……はい」


とは言いつつ、それは少し考えにくいなと、自分でも思う。

屋敷の料理人達は徹底しているし、アレンが入って調理指導する時は側にイリナとクルトがいる。今までなかったのに今日に限って異物混入とは。


「うーん……ここにきてかぁ」

「お嬢様?」

「なんでもないわ。それよりクルトは……」


姿の見えないクルトに室内を見回すと、同時にその従者を従えて、ヴォルフガングの登場というわけだ。


「見せてみろ」

「え?いや、口の中ですから、それは」

「いいから」

「え、まってヴォルフ様っ……!」


アレンの承諾もなしに、ヴォルフガングは顎を掴むとそのまま口を開かせる。


(いやややや、まってまって!ヴォルフ様〜!!)


恥ずかしい!

手が!指が!頰にも唇にも触れてます!


それなりの年齢になってからは口内なんて家族にも見せた事はないのに、ヴォルフガングにこれほど真剣に見られるなんて。

真っ赤になって固まるアレンを他所に、ヴォルフガングは真剣に内の傷を見やると眉を潜めた。


「切れているな」

「だ、大丈夫ですよ、ちょっと傷ついただけですし……」


大丈夫じゃないのはアレンの心臓だ。

未だに頰をヴォルフガングの手に包まれたまま、至近距離で向き合っている。

初めてヴォルフガングからエスコート以外で触れられたのに、こんなに心臓に悪いものだと思わなかった。


頰に熱が集まる。

自分でも分かるくらい、脈が速い。


「医者は?」

「そんなっ、お医者様に診てもらうほどではないです。こんなの、舐めていれば治ります」

「私はそんなところ舐められない、だ……」


言いかけて、はた、と気付いたヴォルフガングと視線が合う。

途端にヴォルフガングがアレンから距離を取った。


「違う、自分で、だな。そういう、ことでは」

「あ、はい、分かってます、はい」


アレンが、熱い自分の頰に手を添えてヴォルフガングをチラリと伺うと、彼も耳まで赤くなって顰めっ面をしている。

ものっすごく照れている。

冷静ではなかったのか、妙な勘違いを聞いたが、心配してくれるのは嬉しい。こんなに慌てる程アレンを気遣ってくれるとは、随分進歩したものだと思う。


ヴォルフガングは気付いているだろうか。アレンの頰に手を添えた時に、彼の指が唇にも触れた事を。

口付けする時は、あんな風に触れたりするのだろうか。

口の中だって、舐めるって……。

自分の思考にアレンは更に真っ赤になると、ヴォルフガングにバスケットを押し付けた。


「ヴォルフ様!これ、お昼です!差し入れです!あの、たくさんありますのでっ……では、私はこれで!」

「あ、ああ、気をつけるように」

「はい!では!」


イリナとクルトを引き連れて馬車に戻ったアレンは、屋敷に帰るまで、熱が引かない頰を隠すように座席に埋もれるしかなかった。



ずっと、ヴォルフガングに触れてほしいと思っていた。

普通に手を繋いだり、抱きしめあったり。

近づきたい。もっと側にいたい。

それなのに、いざ距離が縮まると恥ずかしくて仕方がない。

慣れるものなのだろうか。慣れない気がする。

心臓が破裂しそうだ。いくつあっても足りないくらいドキドキしている。

恥ずかしいし照れ臭いのに、早鐘を打つ心臓は嬉しいといっているようでもある。

ヴォルフガングの一挙手一投足に浮かれたり沈んだり、恋とは忙しいのだなと思う。

一目見て、好きだと思った。ヴォルフガングに恋をしているのだと。

それなのに、今日、改めてそれを実感した気がする。


あんなに真剣に心配して触れてくれるなんて、許されているようで、アレンだけがどんどん好きになっているようだ。

せめてアレンの十分の一でも、ヴォルフガングが同じ気持ちを返してくれたらいいのに。






「と、いうことでお菓子を作ります」

「突然ですね」

「ヴォルフ様には渡せなかったもの!心配もして貰ったし、お礼も兼ねてお渡しするわ。胃袋を掴むのは重要よね!」

「その切り替えは流石です」


屋敷に戻って簡素なワンピースに身支度を整えたら、人の疎らな厨房へと入る。現在は下働きが夕食の下拵えをしている程度で、アレンが入っても邪魔にはならないだろう。

料理人不在の時や、食事時を外せば使っても良いようにしてもらった。レシピを供給しているお陰だ。

レシピや調理指導を請われるのは気にしないのだが、やはり早く別館で自分の厨房、とまでは言わないが台所を持ちたい。

アレンの作るものをヴォルフガングも気に入ってくれているので、たまに食事を出すのもいいかもしれない。いやでも、基本は料理人にお任せしますよ。仕事を取ったりしません。


「クルトは」

「手伝わせます」

きっぱり言い切るイリナにアレンは苦笑する。イリナは自分と他人の領分をしっかり弁えているので、他人の仕事に口出ししたりしないけど、どうもクルトは心もとなく見えるらしい。珍しく指導しているのが、たまに目に入る。


「じゃあ材料も余ってるしパウンドケーキかしら」

「そうですね。あまり日持ちもしませんし、使い切ってしまいましょう。お嬢様、ブレスレットは外しておいた方が」

「そうね。傷ついたら大変だわ」

「本当にご自分で料理されるんですね」

ブレスレットを棚に置くアレンに、クルトが感心したように呟く。貴族は自分で料理しないし、クルトもそうだったんだろう。彼は朝、パウンドケーキを作っている時から驚き通しだった。

そうはいっても、実際手伝わせたらクルトは意外となんでもできた。


「僕は子爵ですし、領地もないしそれほど裕福でもなかったので、使用人にやって貰うのを待つなら自分でやった方が早いんです」

それならアレンが料理しても驚く事ではないと思うのだが。

「エーベル伯爵家と同じにしないでください!まさか高位貴族のアレクサンドラ様が料理するなんて思いませんよ」

だそうだ。

まあ確かに、エーベル家は伯爵といえど財産も領地も歴史も実績もある高位の方の伯爵だ。伯爵と一言で言っても、この爵位はピンからキリまで幅広い。


クルトの実家のペルニー子爵は本人の言う通り領地を持たない。

そういう貴族は、大きな領地を持つ貴族の地方管理を任されるという、領主内に入ったりする。

爵位の上下関係はあるが、従僕というわけではない。雇い主と働き手、ケースバイケースだ。

クライスナー辺境伯ほど広大な土地を持つなら、端々まで自家だけでは手が届かない。そこで伯爵以下の貴族に領地の管理を分けるのだ。

勿論領地はクライスナー家の物だし、責任もクライスナーにあるが、ある程度の権限は与えている。


のんびり話しながらお菓子作りをしていると、ゾロゾロと料理人達が厨房に入ってきた。

ゆっくりしていたお陰で、食事の支度の時間になったらしい。

急に人が行き交うようになってしまったなかで、アレン達は慌ただしく後片付けをして、厨房を後にするのだった。


「アレクサンドラ様!ブレスレットをお忘れです」

「いけない!ありがとうクルト」

「綺麗ですね。贈り物ですか?」

「そう!ヴォルフ様にいただいたのよ。宝物なの!」

ニコニコとアレンが笑うと、クルトは驚いたように目を大きくした。

「え!そうなんですか……なんだか少しイメージが……」

「ふふ、私が綺麗だって言ったのを覚えててくださったのよ」

「そうですか、やっぱりヴォルフガング様はお優しいですね」

「そうなの!ヴォルフ様って素敵よね!」

アレンが上機嫌で頷くと、パウンドケーキの入った籠を抱え直してクルトも微笑んだ。


バタバタしてしまったけど、今回も上手くできたと思う。ヴォルフガングは喜んでくれるだろうか。














アレンが悶えたり唸ったり照れたり画策したりしている間、彼女が去ってからのヴォルフガングといえば……。

執務室でバスケットを抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。


驚いた。

自分の行動にも驚きだが、アレンのあの小ささはなんなんだろう。

両手にすっぽり収まる程顔が小さくて、おまけに凄く頰が柔らかい。肌も滑らかでヴォルフガングとは全然違う。

指に触れた唇も、柔らかくて張りがありプルプルだった。その感触を思い出して、ヴォルフガングは目を覆う。

女性に触れた事がないわけでは無い。

繊細で流れるような髪、柔らかい肢体、誘うような甘い匂い。包み込まれるような肉は、腹の底から熱く毛色の違った安堵を生む。

それらは過去の経験の中でも、ヴォルフガングにも悪くはないと思わせた。だが、先ほどまで手の中にいたアレンとは比べ物にならない。


以前に二度、アレンを抱きとめた事がある。

最初は階段で。弟と揉めていたようで、何事があったかそればかり気になっていた。

二度目は、アレンと向き合って話した時。

あの時は、背中に回ったアレンの細い腕に驚いて、咄嗟に手を離してしまったが、己の腕の中にすっぽり収まって、胸に頭を擦り付けてくるアレンに温かいものを感じた。

雛鳥を愛でるようなもの、というか。


しかし、いつもはまっすぐ自分を見て、言いたい事を言ってヴォルフガングの真意を計って、為になろうと動いてくれる、そんな彼女が、見た事ないくらい頰を赤く染めて狼狽える姿は、可愛らしくて仕方がなかった。

熟れるような頰も潤んだ瞳も可愛らしくて、胸の下辺りが疼く。初めての激情を思い出してしまうくらいには。

アレンがあそこでバスケットを押し付けて、早々に立ち去ってくれて良かったと思う。


何をどうしたのか、彼女はヴォルフガングをとても良い方に評価してくれている。過大評価だとしても、期待してくれているのだと考えれば、応えたいと思う。


応えても、いいのだろうかと思い始める。

もっと触れて、近づいて、それがヴォルフガングの意思であっても許されるのだろうか。

婚約者という形式上ではなく、自分の意思で望んでもいいのならばーーーー。


ヴォルフガングは生まれて初めて、『特定の誰か』を抱きしめたいと思った。

遅いですが感想ありがとうございます。

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