2.機先を制すは迅速に
サブタイトルなんか付けなければよかった(そうすれば悩むこともなかったのに
―――――と、まぁそれっぽいことを言ってはみたものの。
「ンな劇的な展開になんかなるわけないわな、普通に考えて」
非情に冷め切った平坦な声でつまらなさげに吐き捨てて、ハロルドは皮肉っぽく鼻で笑った。高貴な血には似つかわしくない低俗な仕草と粗野に粗暴な言い草ではあるが、厭世的なその態度はなかなか様になっている。階段の手摺にでも凭れ掛かって頬杖でもついてやろうかとさえ思う滑稽さをどうにか堪えつつ、それをしないのは兄のオルトンが今まさに階段を上がっているからだ。
「おかえり、兄上」
「ああ。ハロルド」
ただいまの代わりに瞬きをひとつ、玄関ホールに反響するきゃいきゃいと姦しい不協和音にも眉ひとつ動かさない精神力で悠然と応えるオルトンである。それそのものは尊敬すべき胆力だったが彼の背後は地獄絵図だった。戦っているのは主にフリッツを筆頭とした使用人たちの連合軍で、相対するのはみっともなく喚き散らしている例の不審者三人衆である。全員が年若い娘だった。揃って外見は整っている方だが、血統重視の貴族たちには美男美女が多いので結局のところ見慣れてしまっているハロルドからすれば大したことはない程度。良くて下町の綺麗どころ止まりで、そもそも美しさに関しては実兄の顔面偏差値が他の追随を許さないレベルでぶっちぎっているから比較にすらならない。
「公爵様! そんな、どうして聞いてくれないの!?」
いや、どうして聞いてくれないのも何も逆にどうして聞き入れてもらえると思ったんだこいつ。
通常、基本的に貴族であれば他家を訪問する際には先触れを出すものである。公爵家の治める領地の民が領主である公爵に奏上があるというのなら各地に置いた責任者にまず話を通す。その責任者も書状を送る。急な疫病、飢饉に天災、他国の侵攻、内地の反乱とよほど急ぎの案件でもなければ直談判になんか来ない。出入りの商人が来るときはこちらが呼び付けているわけだし、そも平民が頻繁に訪問するような場所ではない。何にせよ、青い血のお貴族様を相手に「話をしたい」というだけでも手順を踏まなければならない。そういう規律が出来ている。そういう気風の国であり、貴族とは面子が商売であり、要するこれは無作法を通り越した振る舞いなのだ。不敬罪という単語を辞書で引いていただきたい。
もっと噛み砕いて言うならば―――――用があるならアポを取れ。
そも、この女ども、公爵閣下を前にして色めき立って自己主張するばかりでまず名乗ってすらいないではないか。
バッカじゃねぇのかと目を細めたハロルドの心中など露知らず、栗毛に薄茶の目をした娘がどうしてと金切り声を上げる。至近距離からの甲高い声に侍女のひとりが眉を顰めた。五月蠅いと言わんばかりに片手を捻り上げる判断の速さは評価出来るが、思いっきり捻られた痛みのあまり余計な悲鳴が上がったあたりは正直言って如何なものか。
「ちょっと離しなさいよ! 私は公爵様の婚約者なのよ!? 使用人風情が触るんじゃないわ!!!」
不審者風情が喧しいわ。
アンバーの目をぎらつかせて亜麻色の髪を振り乱し口汚い罵倒を吐きながら暴れる女を二人がかりで押さえる使用人たちの表情は最早完全なる無だった。そんな妄言に取り合うバカはこの場に存在しない、というか使用人と言っても公爵家に仕える者たちなのだから出自も身元もはっきりしている。何なら陣頭指揮を執っているフリッツは男爵の地位を賜った文句の付け所のない爵位持ちなので、不審者如きは黙らっしゃいと貫禄のある恫喝をしていた。階段上の空気までビリビリと震わせる圧倒的な声量と肺活量は拍手ものだがフリッツお前そんな大声出せたのとハロルドは驚きを禁じ得ない。
「そんな………あんまりです、こんなのってないわ! ようやく公爵様にお会い出来たのに、こんな人たちと一緒にされて信じてもらえないなんて!」
たとえ単品だったとしても到底信じられるわけねぇだろ常識ってモンを考えろ。
悲劇ヒロインさながらに最後の少女が声を荒げたがハロルドのツッコミには容赦がない。頭がおかしいのが一挙に三人も屋敷に押し掛けて来たと思ったら揃いも揃って同じ主張を恥ずかしげもなくぶちまけやがったのである。到底信じられるわけがない。ていうか「公爵様の婚約者だった『ミュリエル』はこの私です」と声高に叫ぶ輩など信用してやる要素が無い。話を聞いてやる価値すらない―――――もとい、公爵である兄オルトンと対話が出来ると思っている時点で思い違いも甚だしい。そんなごくごく当たり前の理屈には微塵も気付いていないらしい少女はヘーゼルの猫目にこれでもかと大粒の涙を湛えていた。駄々っ子のように頭を振る度、金色にも見える薄い茶髪がふわふわと軽やかに揺れる。それが頬を掠めるのがくすぐったくて不快だったのか、侍女のひとりが回避も兼ねた俊敏な動きで相手の動きを止めにかかっていた。肩を狙うのは理に適っている。
「はて、今日は少しばかり騒がしいようだが」
珍しく邸内に野良猫でも紛れ込んだんだな、くらいの気軽さで自分を巡る背後の地獄絵図を切り捨てるオルトンの通常運転っぷりといったらない。自分の前で足を止めた兄のあまりにも興味のなさげな態度にハロルドは苦笑するしかなく、いっそ指摘してしまいたい衝動は肩を竦めて誤魔化した。
「公爵様、私です、『ミュリエル』ですっ!!!」
「うるさい! 『ミュリエル』はこの私なの、纏わり付いてないでニセモノはさっさとどっかに行ってよ!!! アンタたちのせいで台無しじゃないッ!!!」
「この二人は嘘を言っているんです、公爵様、信じて下さい! 私が、私だけがあなたの『ミュリエル』なんです!!! あなたも覚えておいででしょう!?」
「黙れこのブス!!! 嘘泣きなんかしてんじゃないわよ!!!!! 本当は公爵様になんか会ったこともないくせに!!!!」
「それはあなたの方でしょう!? さっきから汚い言葉ばかり使って! あなたなんか彼から愛を囁いてもらったこともないくせに!!!」
「二人とももういい加減にしてください! そんな嘘を吐いたって公爵様にはお見通しなんですよ!? あの方がどんなに私を愛してくださったか、甘やかな言葉をかけてくださったか、知りもしないのに勝手なことを言うのは止めてください! 不愉快です!!!」
自分こそが貴方の婚約者であると誰か一人でも声高に叫べば、残りの二人から罵詈雑言が飛ぶ。絶叫が絶叫を呼ぶ悲憤は最早手が付けられず、混沌は更なる混沌を招いた。正直言ってもう耳が痛い。物理的な意味で鼓膜が死ぬ。離れた自分たちですらこれなのだから、相対している使用人たちはもっと酷いダメージだろう。追い出すだけならもう時間の問題だが、このまま放り出したところで頓珍漢な主張を繰り返すのは火を見るよりも明らかだ。ハロルドはここでようやく一計を案じた。
「ああ、いい加減聞くに堪えない―――――ところで、兄上」
とうとう爆発しそうなフリッツ以下使用人一同の怒気を察知して、安全な階段上で他愛無い雑談に興じていたブラウニング家の弟の方は兄を呼ぶ声に力を込める。喧騒の中でも響くよう意図して発した呼び掛けに、勘の良いオルトンはすかさず反応した。
「何だい、ハロルド」
「私が生まれる前に亡くなられたという兄上の『婚約者』殿は、どんなお方でしたっけ」
茶番である。茶番のつもりで話題を投げて、茶番と承知の兄は笑った。どうやら乗ってくれるらしい。公務帰りでお疲れのところを誠に申し訳なく思うが、兄弟の愉快な雑談程度と思って流していただきたい。
「ああ、ミュリエル・エヴァンス嬢のことだね」
さして大きく張ったわけではない声でも水を打ったように場が鎮まり返るあたり、オルトンには空気を掴む才がある。感心をおくびにも出さず兄の言葉を傾聴するハロルドに倣うかのように、暴れ騒いでいた三人の自称『ミュリエル』たちはオルトン・ブラウニング公爵だけにすべての関心を向けていた。
「しかし、どんな、と改めて聞かれてもねぇ………実のところ、私はミュリエル嬢のことを大して知ってはいないのだよ。残念ながら深く知る前に、彼女は亡くなってしまったのだから」
見目麗しい公爵が情感たっぷりにそう告げれば、水を得た魚のように不審者三人の目が輝いた。今この最高のタイミングでこそ自らがその『ミュリエル』であると、死んでしまった婚約者本人であると力一杯宣言するために各々が意気込んで口を開く。
しかし―――――彼女らが囀り出す前に、流れるように滑らかにオルトンは手早くトドメを刺した。これ以上もなく的確に。
「何せ生まれて間もないうちに病でこの世を去ってしまったからねぇ―――――正直、会ったことすらないんだ」