1.状況説明は簡潔に
初めまして。お手柔らかに。
軽い気持ちで始めましたので軽い気持ちで読み流していただけますと幸い。
オルトン・ブラウニングは絶世の美形である。
誇張ではない。比喩でもない。無論、身内贔屓などでもなく―――――実弟のハロルド・ブラウニングの目から客観的に見て判じても、兄は美しい貴公子だった。
まず第一に顔が良い。この国においては珍しいオレンジの色味が強い赤毛は北の国の血を引いていたという亡き父譲りの鮮やかさで、切れ長の目は深い青。肖像画に残る父の目は青とも緑ともつかない神秘的な色合いだったから、それ以外はほとんど同じ容姿である。対するハロルドはといえば色素の薄いブラウンの髪に青みがかかった灰色の目で、これは母から受け継いだ。兄程の派手さはないけれど、顔の造作そのものは父に似ているらしいので血縁を疑われたことはない。
―――――ああ、うん。いけない。話が逸れた。
とにかく、オルトンは派手な容姿の美男子である。
家柄だって申し分ない。由緒正しい公爵家の一人娘だった母と、北の国から婿入りしてきた異国の貴族たる父から生まれた彼は、不慮の事故で身罷ってしまった父母の跡を立派に継いで今や若き公爵として存分にその才を揮っている。兄が優秀で本当に良かった。十五の身空で公爵になんぞなれる器でもない自分には荷が重いにも限度があるのでオルトンがいてくれて本当に良かった。しみじみとそう思ったのがもう一年も前だとはまさに光陰矢の如し。
―――――と、それはさておき。
オルトンは派手な容姿の美男子でブラウニング公爵家の現当主である。
年齢は今年で二十二歳。この国における結婚適齢期真っ只中なのに浮いた話のひとつもなく、未だ恋人の影さえない。つまるところ独身だった。結婚どころか婚約の予定すらなく、どころか次々舞い込む縁談を片っ端から断っている。きっぱりと妙な話だった。両親無し、公爵家当主、模範的な貴族に相応しく礼節を重んじ気品を備え、余りある財力に加えて才覚も群を抜いているためか王族からの信頼も厚い、というのに伴侶婚約者恋人はなしとまぁここまで好条件を並べ立てれば世のご令嬢たちが言うところの『優良物件』であることは間違いない。
―――――どうしてだろう。客観的な情報をただ羅列しただけの筈なのに字面の強さが半端ない。実兄が完璧過ぎて怖い。
オルトン・ブラウニング公爵は派手な容姿の美男子だがなんと未婚の独身である。
世間には謎だと囁かれていたが、兄が黙して独り身を貫くのにはれっきとした理由があるのだと実弟のハロルドは知っていた。聞いてしまえばどうということはない。別に謎でもなんでもない。オルトンには婚約者が“居た”のである。居た、というのは過去形であって現在進行形ではない。あくまで昔の話であり、かつて、で始まる回顧である。
―――――そうだ。
ようやく議題が追い付いてきた、とハロルド・ブラウニングは前を見据えた。
オルトン・ブラウニング公爵は派手な容姿の美形だがなんと未婚の独身であり、世には知られていなかったが彼にはかつて婚約者が居たのだ。
彼女は、その名をミュリエルという。
ミュリエル・エヴァンス。
ブラウニング夫妻と大層仲が良かったと伝わるエヴァンス辺境伯の一粒種。懇意にしていた両家の意向で幼い頃から内々に婚約していたので知らない貴族の方が多いだろう。知っていたのはごくごく限られた口の堅い両家の関係者と、あとは婚姻を認めたという一部の王族くらいだった。オルトンとミュリエルは世に知られることなく婚約し―――――そして、知られないままに破綻した。切っ掛けはどうしようもないことで、どうにも出来なかったと兄は言う。
ミュリエル・エヴァンスは幼くしてこの世を去ってしまった。
流行り病に罹ってあっけなく彼女は帰らぬ人となり、夫人も間もなく亡くなって、残されたエヴァンス辺境伯は精神に異常を来し凄絶な自死を遂げたのだという。ハロルドが生まれる前の話だ。他ならぬオルトン自身の口から聞いた真実は苦く痛く重々しく―――――いずれは結婚する筈だったミュリエル・エヴァンス嬢を悼み生涯妻は娶らないと真剣な顔で告げた兄に、一体何が言えたというのか。
オルトンの決意は固かった。公言こそはしていなかったけれど、伴侶を迎える気はないと何が何でも断り続けるブラウニング公爵―――いや、あの頃はまだ公爵子息か―――に秋波を送り続ける無意味さにやがて世間の方が折れた。有体に言えば諦めたのである。そこまではよかった。具体的にはおよそ一年前、両親がまだ健在だったくらいの時期までは。
跡目争いもなくスムーズにすとんと新たな当主におさまったオルトンは当然のことながら忙しかった。微力ながらも手伝った弟のハロルドも忙しかった。二人揃って多忙を極め気付けば一年近くが経過、ようやっと落ち着いてきたと思った矢先、とある噂を耳にしたのだ。正確には執事のフリッツが耳に入れてくれたのだが、経緯はひとまずおいておく。
曰く、「数ヵ月前から市井で流行っている舞台劇のモデルが、旦那様とミュリエルお嬢様であるとまことしやかに囁かれております」とのこと。
ここ一年、優雅に観劇などする間もなく働き続けていたオルトンとハロルドは何のことだと首を傾げた。昨今流行りの創作舞台といえば貧しくも美しい娘が立派な貴族に見初められて成り上がる、というシンデレラストーリーが主流だが、フリッツが小耳に挟んだものはそれの亜種にあたるらしい。
ざっと掻い摘めば主人公はとある貴族の娘だ。生まれた時から年上の、幼馴染の婚約者がいて、しかし彼女は陰謀により五歳にも満たない幼さで病と見せ掛け毒殺される―――――が、忠実な召使いの献身により危ういところで命を拾い、事態を重く見た父親に高貴な血であることを隠して遠くの町へと逃がされる。そのまま貧しい町娘として美しく健やかに成長し、やがて美しくも逞しい青年となったかつての婚約者に方々手を尽くして探し出され愛され結ばれ幸せを得るのだ。土台が貴族の娘になるだけで基本はシンデレラストーリーだった。が、問題はそこではない。もう説明するのは面倒だからいろいろとお察しいただきたい。
何処かで、というかものすごく身近で、特に序盤のごたごたしたあたり似たような話を聞いたような―――――ハロルドは無言で兄を見た。オルトンは一見平素と変わらない様子だったがその内心は窺い知れない。恐怖を感じて視線を逸らした。フリッツは得心したように多くを語りはしなかったが、頷きひとつを返されてしまえば何よりも如実な肯定である。冷静な執事は主の繊細な部分には触れず、必要なことだけを淡々と述べた。
「最近ではあまりの評判に貴族の方々も多くご観覧なさっているご様子」
「今のところ表沙汰にこそなってはいないようですが………“あの”エヴァンス家を大々的に探り始める者が出るのも時間の問題かと思われます」
「加えて、旦那様へ夜会の招待状が届いております。それはもう、掃いて捨てる程に。ハロルド様にも何件か同様のお誘いをいただいております」
「どちらもお断りの方向で捌いて参りましたが、いくつか判断に迷う招待状もありましたのでご確認ください」
ここで先代からの有能な初老執事フリッツまでもが無表情になるレベルの招待状攻勢が明かされた。帰りたい。ここが実家ではあったけれど平和な何処かに帰りたいとオルトンから発生する重圧的な何かを感じつつハロルドは切実にそう思う。流石に立場というものがあるので付き合いの都合上断れない集まりには出たが娯楽に飢えた貴族の貪欲さは筆舌に尽くし難かった。ありきたりな表現が許されるとすれば砂糖に群がる蟻である。まさにありきたりで蟻が来る。言ってる場合か。オルトンは終始柔和な笑顔で当たり障りなく捌き切った。ハロルドはといえばぎこちなく笑って、少しでも情報を聞き出そうと食い付いて来るお上品な肉食動物を紙一重で躱すのに精一杯。
ともあれ、乗り切った筈だった。乗り切ったとばかり思っていたのだ。
なのに今、ブラウニング公爵邸の正面玄関ホールへと足を踏み入れたハロルドの前には厄介事が立っていた。
ハロルドにとってもブラウニング家にとっても他でもない当事者のオルトンにとっても無視出来ないそれは、なんと「私が『ミュリエル』です」と名乗る少女のかたちをして堂々とそこに立っている。
「信じて下さい、本当に私が『ミュリエル』なんです!」
「嘘よ! 偽者は黙ってて! 『ミュリエル』は私だって言ってるでしょう!?」
「静かにしてください、お二人とも何なんですか!? さっきから酷いことばっかり………ひどい、ひどいわ! 何を言ってるんですか! 『ミュリエル』はこの私ですっ!!!」
しかも三人。
しかも三人だ。
なんでそんなにいるんだよ。
偽者を騙るにしたってどうして面突き合せてるんだよ。
どんなタイミングだ。
作為を感じる。
ハロルドは回れ右をしてとっとと自室に籠りたくなったがそうもいかない。揃いも揃って『ミュリエル』を名乗る不審極まる少女たちは此処が何処かも弁えず姦しい口論の真っ最中で、出自も定かでなく頓狂なことを宣い屋敷の中に入れろと騒いでいる連中に言い募られているフリッツの額に青筋が浮かぶのも時間の問題だ。
―――――ああ、兄上の不在に、なんて面倒な。
「何の騒ぎだ」
意を決して口を開く。ぴたりと止んだ『ミュリエル』コールが再び始まらないうちに、フリッツを含めた四者の瞳が勢いよく階段の上に立つハロルドその人へと向けられた。憮然とした表情でも元が整っている顔を視認した少女たちの目が輝く。色を含んだその視線にげんなりとしたものを感じつつ、兄がこの事態を知る前に全員とっと追い返そうと執事に目配せしたハロルドの目論見は奇跡的なタイミングで頓挫した。
正面玄関の扉が開く。
公爵邸の手入れは完璧だから蝶番が軋むことはないが、相対する位置に立っていたハロルドにだけはゆっくりと開く両開きの戸がはっきりと視界に映っていた。本当になんというタイミングだろう。扉が開いて空気が動いたことで玄関ホールに風でも起こったのだろうか、焦がれるようにハロルドを見ていた少女たちの目がくるりと背後に向けられて―――――
「………おや。何の騒ぎだね」
心底不思議そうな声は一日の疲れを感じさせない飄々としたものだった。鮮やかな赤毛、深く青い目、均整の取れた長身に、絶世と名高い完璧な美貌。兄のオルトン・ブラウニングは、さながら舞台俳優のような計算し尽くされたタイミングで帰宅を果たして弟に問う。
「これはどういう状況かな、ハロルド」
兄上、と。安堵したようなしくじったような、微妙な気持ちでオルトンを呼ぼうとしたハロルドの言葉を遮って、姦しい珍客たちが再び甲高く囀り始めた。
「公爵様!」
「ああ、やっとお会い出来た!」
「ずっとお会いしたかった! 私です!!!」
「「「―――――私が、あなたの『ミュリエル』です!!!!!」」」
喧しい声が唱和する。
こちらからは見えない少女たちの表情を真正面から静観していたオルトンの眉がぴくりと動いたのを見たハロルドは痛み出した頭を思いっきり抱えた。普段は温厚に寝そべってくれているだけの獅子を自慢げに叩く勇者気取りの愚か者どもに「馬鹿野郎!!!」と怒鳴ってやりたくても口汚く声を荒げるなんて貴族の子弟としては許されない。
この三人の中の誰かが本物にせよ偽者にせよ、賽は地上高く投げられたのだ―――――助走をつけてぶん投げられ過ぎて大暴投もいいところだが。
かくして、舞台の幕は上がる。
謎解き要素はありません。
何故なら頓挫しましたので←