プロローグ 「決別」
瓦礫ばかりの世界にも嵐が訪れることがある。
廃材できた家々、擦れた洋服、枯れた花、カビの生えた本、そして、1枚の紙切れ。
それだけが、この世界のすべて。
嵐はたったこれだけの世界を、一瞬で吹き飛ばそうとする。
私は何を守れるのだろうか。
私がいったい、何をしたというのだろうか。
嵐がすべてをかき消して、私ごと消してしまえばいいのに。
私はそう思っていた。
いつもは静かな世界が、あの日は風が吹き荒れる音ばかりになっていた。
地平線の先まで瓦礫で埋め尽くされた世界。
砂煙が遠くの方で上がり、空は厚い雲に覆われ、昼間であるにもかかわらず暗かった。
閑散とした集落の中で、私は弟と距離をおいて向き合っていた。
他の集落の人間は全員、私がこの手で殺めた。
最後のひとりは私の弟だった。
弟は逃げずに、私の行く先を阻んでいた。
私に殺されると知りながら、私を止められないことを知らずに。
「私は、私がしたいようにしただけだ。この村の人間を1人残らず殺したかったから、殺しただけだ」
私は冷静にそう言い放った。
それは、私を落ち着かせるためでもあり、私が弟にできる最後の救いでもあった。
弟は微動だにしなかった。
何も守れなかった私の最後の光は、嵐に晒されたまま私を照らしていた。
辛うじて保っている自意識の中で、らしくない言葉を叫び続けるしかなかった。
私はひと呼吸置いて、また口を開く。
「家族も、隣人も、面倒だったんだよ。いらなかったんだ。殺したかったんだ。お前も分かるだろ?」
これは、私の本心ではなかった。私は弟に逃げてほしいだけだった
それでも弟が逃げてくれなかったら、その時は腹を切るつもりだった。
弟は相変わらず微動だにしなかったが、私は続けた。
「お前みたいな弟は欲しくなかった。お前みたいな弱い奴は必要ないんだ。この世界には」
それでも弟は微動だにせず、ずっと私を見ていた。
弟は、私の脅迫に全く怯んでいなかった。
それどころか弟のその優しい目は、私の視界を滲ませた。
その涙は嵐ですぐに乾いてしまった。
いつもの私なら、弟を殺すなんてことは到底出来ない。
弟はそんな私の本心を察しているのかもしれない。
私の汚い言葉を全て聞き流して、私の瞳の奥を見ていた。
弟は決して逃げなかった。私を真っ直ぐに見つめていた。
その優しい目が私はいつも大好きだった。
その優しさに最後の最後まで、私は何もしてあげられないのだろうか。
そう思っていると突然、弟が口を開いた。
「俺を殺してから先に進め。俺はこの先に姉ちゃんが進むのを、俺が生きてるうちは絶対に許さない。だから、絶対に通さない!絶対に...」
弟はそう叫んで、その場を動かなかった。
私は耐えられなかった。
命と命の駆け引き。その引き合いに出されたのは優しさだけだった。
気がつくと、涙が頬を伝って落ちていった。
嵐にも乾かすことのできない涙だった。
私は弟をまっすぐに見れなかった。
視界が歪み、運命も狂い始めていく。少しの綻びから心が運命に蝕まれていった。
「姉ちゃんが苦しむところなんて見たくない。俺だって殺されるのは怖い。でも、見たくないんだよ。だってさ、姉ちゃん...こんなの酷すぎるよ。姉ちゃん、本当に...だから...最後くらい、わがままを聞いてくれよ!」
弟は私にそう叫んだ。
もし私が弟の立場だったら、あんな事は言えない。
私の視界の中の弟の輪郭は、完全に滲んでしまっていた。
弟の表情が見えなかった。
何度も袖で涙を拭ったが、視界は晴れなかった。
泣いているのか、怒っているのか。
どうだっていい、慰めて上げったかった。
そのまま、私は腰元の柄にゆっくりと手をかけた。
これが私の運命だ。
足元の砂を、できるだけ強く足の裏ですり潰す。
私は刀身を鞘から引き抜くと同時に、弱弱しい最初の1歩を弟に向けて踏み出した。
まだ、弟の表情が見えない。
そのまま、歩みを重ねるにつれて自然と歩みは早くなっていった。
まだ、弟の表情は見えなかった。
そのまま、私は全力で走り出した。
「絶対に許さない....」
私は走りながら腹の底から絞り出して、そうつぶやいた。
歯を食いしばりながら、私は弟に向けて刀を振り下ろした。
その瞬間だった。涙がふり切れて、弟の顔が視界に入った。
その顔はいつもの優しい顔だった。
口元がなにか言っている。
「ごめんね」
私は弟の胸元から太ももにかけて刀を滑らせた。
最も痛みの少ない斬り方で弟は死んだ。
その鋭い刃先は弟の体をスっと斜めに走った。
刀が風を切る音が聞こえた。
それとほぼ同時に、弟が崩れ落ちる鈍い音がした。
倒れた弟を背にして、刀を握ったまま足元から力が抜けていくのが分かった。
私はその場で膝をついて崩れ落ちた。
刀身についた弟の血を、私の涙が洗い流していった。
冷たい風が頬を撫でた。
私の涙と弟の血を洗い流すように、雨が降り始めた。
私は先に進まないといけない。
弟の死を無駄にするわけにはいかなかった。
それにしても、涙が止まらなかった。
誰もいない集落で私の嗚咽と雨音だけが音になった。
雨が私の涙を洗い流していく。
私は足元が覚束ないまま立ち上がって、両手で力一杯に地面に刀を突き刺した。
突き刺さった刀を握ったまま、私は地面に向かって叫んだ。
言葉にならない全ての感情をこの世界にぶつけた。
何度も、何度も私は叫んだ。
雨が止む頃になって、私は振り返らずに先へと進みはじめた。
そうするしかなかった。
私は私の道を進まなければいけなかった。
私のシナリオに、苦しめられながら。