10 再会
「大分よくなりましたね。これからも薬の処方をきちんと守って喉に負担をかけなければ、また舞台に立てるでしょう」
仮面のガラス戸を背にしてにこやかに言うエルネストに、ロマーノは思い切って言いました。
「ありがとうございました。先生。わたしが舞台に立てるために今回の事件を解決してくださったのは、エルネスト先生でもあるんですよね」
「なんのことですか。僕は事件の間中眠っていただけ」
「いいえ」
頬を上気させてロマーノは話しました。
「ジョエルさんという人と話していたの、見ました。事件の日、会場で」
ロマーノのまっすぐな瞳をぶつけられ、エルネストは困ったように、
「敵いませんね」
とだけ言いました。
「ジョエルさんにも、お礼を言っておいてください。あのあと、どこへともなく姿を消してしまったから、居所がわからなくて。それから、レアにも」
「承知しました。では僕はこれで。ロマーノ、元気で」
大きなカバンを持って、エルネストが踵を返しかけたときです。
「エルネスト先生」
ロマーノは呼び止めました。振り返った彼を今度はまっすぐに見れずに、
「先生は、好きな人がいるんですか?」
ロマーノは大人の質問をしました。
「ラロシェルに、幸せになるのを見守っていきたい子なら、います。……それを好きだというのなら、もしかしたら」
レアとジョエルはヴェネツィアのゴンドラ乗り場に立っていました。
「ロマーノのこと、まだショックかい、レア?」
「……」
レアはジョエル兄さんの問いかけに無言でこっくり頷きました。
「ロマーノは大人は汚いんだって言ってました。大人に従うしかない子どもは不幸だって」
「そうかい」
「普段はそんなこと思わなかったけど、レアって本当はすごく幸せなのかもしれないでしゅ」
ジョエルはないも言わずにレアの方を見ました。その顔はかすかに微笑んでいるように見えました。
「大人が汚いなんて知らなかった。ううん、イタリアに大悪党がいるってパパの話が本当だったって知った今でも、大人が汚いわけじゃないって思ってましゅ。どうしてでしょう。レアは、そう思うんでしゅ」
「そいつぁ」
ジョエル兄さんが口を開きました。
「レアのパパとママのおかげだなぁ。多分、大人もきれいな、子どもが安心できる世界ってもんをレアの周りに作ってくれた」
「ジョエル兄しゃん、教えてくだしゃい」
レアは勢いよくジョエルを振り返ります。
真剣な幼い顏を、水鳥が不思議そうに眺めながら飛び去って行きました。
「どうしたらいいんでしゅか? 心を諦めずに大人になるには」
「難しい質問だな」
ジョエルは額に人差し指を当てて、う~んと考え込む仕草をしました。
「周りにそういう大人がいるってことがいちばんなんじゃないかい? 何も身の周りってだけじゃない。本の中とか伝説の中にでも」
あとね、とジョエルは続けました。
「大人になると色んなことも知るぶん、失敗もしやすくなるんだ。それを許せるようになることも、レアのような大人になる第一歩かもな」
うん、今いいこと言った。オレ。そう思ってジョエルが脇を見たとき――そこにレアはいませんでした。捜してあちこち見回すと、彼女はある黒いゴンドラを追いかけ、その中にいる少女に向かって手を振っているのでした。
「レアー!本当にごめんなさい。わたし達、いちから出直すから。地方で歌うことから始めて、誰も身代わりにすることなく、有名になるから。そうしたらレアのお姉ちゃんとレアみたいに、親友になってくれますかっ!?」
レアの瞳が揺れました。すーっと息を大きく吸って、
「がってんだーでしゅっ。フランスのラロシェルにも、遊びに来るでしゅよー、ロマーノー!!」
ゴンドラは次第に遠のき、夕暮れに染まり始めた海の中に消えて行きました。レアの声はロマーノに届いたでしょうか。
「またひとつ、いい意味で大人になったんじゃねぇか?」
「あぁ。それはいいんだけどさ」
そんなレアを見守っている大人がふたり。ジョエルと、そしてロジェです。
「ジョエル。なんでお前がイタリアにいるんだ? もしやオレの追っかけか? よせよ気色悪い」
「レアの、とか言うならともかく、なんでお前のこと追っかけなきゃなんねーんだ。こっちだってごめんだねぇ」
たまたまこっちで仕事があっただけだよ、とだけジョエルは言いました。
「そうか。ま、なんでもいいや。こうしてレアを安全に預かっててくれたんだから。サンキューな」
「お、おぅ」
本当はとても安全とは言い難かったのですが、それを正直に打ち明けると、この子煩悩のパパは気絶でもしかねないのでやめておくことにします。
「パパ……」
ロジェに気付いたレアが一歩一歩こちらに近寄ってきます。自分からはぐれたという後ろめたさがあるので、さすがにいつものように走り寄ってはこられないようです。それならばとロジェの方がレアを抱きしめます。
「無事でよかった」
「パパ、ごめんなしゃい。……これからは勝手にひとりでゴンドラを移ったりしないでしゅ」
「是非そうしてくれ。パパも目離して悪かった」
うんうん、これぞ親子のあるべき姿だねぇ、などと独り言ちたジョエルはオレはお邪魔のようだなとひとり姿を消しました。
レアを抱き上げたロジェは小さな耳元で囁きました。
「じゃ、行くか」
「行く? どこへでしゅ?」
ロジェは片目をつむり、
「パパとママのデートスポット、最後の訪問地が、あとひとつ残ってる」