夏休みの初日は雨でした(下)
きっと買った浴衣に似合うと思う、けれど少し幼い感じもする、赤い模様の金魚と黒い模様の金魚が泳ぎ遊び戯れるように揺れる透明な髪飾りに指を伸ばし、美幸はここ数日ちゃんと顔を合わせ損ねている享と悠真の姿を重ね見た。
期末試験が終わって、確かにどの部活も怒涛の夏休み前強化練習だった。だからといってこんなに三人揃わないのは何年ぶりの事だろう。
そう、あれは確か小学生の頃の夏休み。
享は初めての剣道の大きな大会の準備が忙しくて。そんで、悠真が田舎のばーちゃんちに行くからとか言って一ヶ月位姿を消した時以来だろうか。
どんなにそれぞれの部活が忙しくったて、忙しくなくたって、気がつけば三人一緒に学校からの帰り道を歩いていた。
ゲームやマンガにデレヒのお笑い番組なんていうくだらない話題で盛り上がって。カラオケにちょっとした買い物にゲーセンなんて当たり障りのない事で遊んで。
内容こそ、徐々に高校生らしくなってきたものの、それは基本、小学校の頃から何も変わらない。
美幸から避けて居るわけでもないのだから、きっと避けられているんだろうと思っている。今回は。
美幸がその髪飾りを手に取った時、店舗の斜め前のエレベーターから如何にも屋上駐車場で雨に降られたと言わんばかりに濡れた体をハンカチで拭き取りながら人々が降りてきた。
ショッピングモールの中にいると、外の様子はあまりよくわからない。小さな街のように店舗が連なる店内に外と繋がる窓は少ない。天井には常におとぎの国のような青空と白い雲が居座っている。ひょっとしたら外は先ほどチラチラと見えた稲光が空を駆けずり回り、激しくなった風が雨をぶつけるかのように降らせているのかもしれない。
優歌の彼氏の話によると、昨日享と悠真は休み時間の廊下と放課後の中庭で珍しく激しい口論を繰り広げていたらしい。最終的には、あの悠真が涙を見せるほどだったらしいと聞いて、色々な心当たりがあった美幸は、心がかき乱されるという感覚を初めて知った。
あの休憩の後、美幸は正に心ここにあらずといった様だったろうと自分でも後になって思う。
姉の美咲が覚えた料理は唐揚げにカレーに肉じゃがと若い男性が好きそうなメニューばかりだった。
だから美幸はわかりやすいなと常々思っていた。
けれども、だ。今美幸が左手に持つ二つの買い物袋だって似たようなものだった。
きっと一緒に買い物をした芹と優歌には、何も言って来なくともバレバレなんだろうと思う。
今日、美幸は誰と行く夏祭を思って浴衣を買ったのか。
誰と行くプールを思って水着を買ったのか。
そんな自分の姿だってわかりやすくってバカみたいで笑えてきそうで、泣けてきそうだった。
結局、終業式の後、部活終わりの帰り道。美幸は悠真にも享にも会えなかった。
初めての一人ぼっちの終業式の帰り道。
スマホのテキストチャットで連絡を入れて見たけれど、返事どころか、今朝になっても既読表示さえ帰って来なかった。
昨日から思い込もうとしていた。あいつらならよくあることだと。
スマホの充電なんて、悪友らしく二人揃って切れたままなんだろう、なんていう逃避にも近い、美幸の甘い推測は、けれど、優歌の彼氏の話で粉々に打ち砕かれた。
無性に心配だった。心配で心配で、今日のショッピングの途中途中で何度かトイレで隠れてかけた悠真と享の携帯はずっと電波が届かないのか電源が落とされているのか繋がらなかった。
そう、繋がらない。
いつもすぐそこにいた筈の二人なのに。
いつも三人一緒だったのに。
三人でいるだけで楽しかったのに。
日差しが強くなりつつある田んぼ際の道。三人ランドセルを背負ったまま、冷たい水に手を突っ込んで。
沢山捕まえたおたまじゃくしはそのまま母親達の手によって毎回田んぼにかえされた。
『だって、おたまじゃくしは可愛くても、いつか必ず蛙になるんだよ?』
姉の美咲が偉そうに教えてくれたけど、その頃の美幸には理解出来なかった。
キラキラした水面はもうすぐ夏が来ることを告げ、稲は日々その背を伸ばしていた。楽しそうに集まっているおたまじゃくしは黒々とした体で、うらやましいくらい田んぼの生活を謳歌していた。
あの休憩の後、どう装っても上手くテンションをあげることがかなわなかった美幸を芹も優歌も責めることはなかった。それどころか、優歌は自分の発言をかなり後悔してしまったらしく、それが本当に申し訳なかった。
申し訳なさと、いてもたっても居られない気持ちに苛まれ、一通り三人分の買い物が完了すると、美幸は土下座しそうな勢いでひたすら謝り、先に帰ると二人と店内で別れた。
二人とも、高校入学後にできた友達だ。けれど、付き合う期間は短くとも美幸には勿体ないくらい、とても美幸の事を想ってくれる善き親友だ。
「明後日の部活の時までに元気になってなよー」と心配が少し混じる笑顔で手を大袈裟に振って見送ってくれた。
夏休み初日だけあって、午後になり更に人でごった返すショッピングモール内。天の川の星々の中を掻き分け泳ぎ進むかの様に美幸がやっとたどり着いた一階のモール東中央口はやけに人口密度が薄かった。
織姫には彦星しか居なかったのに、二人とも何がなんでもと泳ぎ渡る決意と勇気がなかったから、一年に一度しか合えないんだと三人笑ったのはいつの七夕の夕刻だったのか。
バス停に急ぐため、駆け寄ったガラスの自動扉の向こう。見てしまった水道の蛇口を盛大にひねったかのような雨の降り方と夏の祭り太鼓のような激しく鼓膜に響く雷の音に、美幸は織姫の絶望感を味わった気がした。
そういえば、今年の商店街の七夕飾りは享としか見ていなかったなぁ、なんてことまで思い出しつつ、美幸はとりあえず人波にUターンしてみたものの、家に帰るからと別れた筈の芹と優歌にばったり会うのは気恥ずかしいし、とてもこんな状態では再合流する気にもならなかった。
思うように身動きが取れないショッピングモールは、悠真と享と共に三人でよく観たB級ホラー映画のラストの様に誘い込んだ人々を飲み込んだまま逃がさず絶望を与えるのが得意なのかもしれない。一人そんなつまらない事に思いを馳せながら、さ迷っていると、気がつけば五階の立体駐車場に美幸は迷いこんでいた。
両親の車で来たときの記憶から、あと数階は上の階があるはずの巨大な駐車場は、モール内の人々波に比例して車がびっしりと詰められている。無いはずの壁に囲まれ、じっとりとした生温かい空気が淀むそこに、雨で洗われた綺麗な空気が時折強い風によって注ぎ込まれ、それが気持ちが良いと美幸は素直に感じた。
空気は淀んでいるものの、そこは、まるでショッピングモール内の喧騒が嘘のように静かだった。激しいはずのどしゃ降りと雷の音は耳障りどころか、三人で田んぼの前の無人販売所で雨宿りをした事を思い出させ、優しく心を撫でてくるようだった。
さして長い時間ではなかったと思う。雨音に子供の頃の思い出を重ねていた美幸はふと、一際冷たい空気に呼ばれた様な気がした。美幸が駐車場を安全の為、囲うフェンスのそばに寄ってみると、排水設備に不備があるのか、ただ雨が強いだけなのか、雨が容赦なく美幸の前髪を濡らしてくる。
ぐるぐる下り回る出口に繋がる道の脇。一歩向こうは奈落に落ちる穴のように薄暗い。
埃っぽい筈のコンクリートの上にべしゃべしゃと激しい音をたて跳ねる雨粒に美幸が目をやれば、足元に、どこからこんな場所にやってきたのか、小さな雨蛙がピョコンピョコンと飛んでいた。
小さな小さな蛙が何かを目指し飛んでいく。
ぬいぐるみはもちろんのことだが、リアルおたまじゃくしだって大好きな美幸はリアル蛙だって大好きな少女時代を過ごしていた筈なのに、いつからか、その小さな存在が少し苦手になっていた。
時期なんか覚えていない。
ただ視覚から与えられた情報とそれに付随する感情と周りから与えられた情報のみが記憶に鎮座する。
田んぼ脇のいつもの通学路のアスファルトの上、尻尾が少し残ったままの蛙は車に潰されていた。
足が生えてる!手が生えてる!
と毎日の様に覗き込んで愛でていた無数の小さな命の中の一つ。
田んぼでずっと暮らしていればこんな事にはならなかったのに。
おたまじゃくしのままならば車になんかひかれることはなかったのに。
それがとても悲しくて、悲しくて。
ランドセルを背負い、赤い傘を片手に梅雨の霧雨の中、享と悠真が周りでオロオロするくらいに美幸は号泣していたらしいと後に母から聞いた。
あのときも三人一緒だった。
ああ……そうだ。
ふと気がついて美幸が見上げた天井は、おとぎ話のような作り物の青空でもなく、雨が降りだしそうな灰色の厚い雲でもなく、鉄筋コンクリート剥き出しの無機質な表情をたたえていた。
ああ、そうだ。
思いの外、まだ大人になりきれない美幸の周りの世界は複雑そうに見えて実はまだまだ単純なのだと気がつかされた。
ああ、そうだ。
美幸は認識してしまった。
どんなことでも享と悠真との思い出に繋がっていく。
全ての事が三人の思い出に繋がっていく。
そんな自分が可笑しくて悲しくて悲しくて。
田んぼの水はどんなに居心地が良かろうと、秋には抜かれるから、おたまじゃくしはいつまでも田んぼでの生活を謳歌できない。いつかは蛙に成長しなければならない。そんなこと知っていた。わかっていた。わかっているつもりだった。
けれど、手足が生えるのはまだまだ先だと思っていた。
おたまじゃくしの友情が蛙の愛情に成長ならなければならなくなった現実が美幸の大して成長していない胸を潰しそうだった。
美幸の心を撫で続けていた懐かしさ溢れる雨音が急にピタリと静まった。雨が上がったのだろうかと辺りの様子を美幸は見回した。
いつの間にか溜まってしまった涙に潤む視界、駐車場のフェンスの僅かばかりの隙間から見える空が白くなってきていた。
美幸は更なる澄んだ空気と、広い空を求め、いてもたってもいられず、屋上を目指すエレベーターに飛び乗った。
三人なら会話が絶えないエレベーターも一人ぼっちだとやたら長くて、到着音がやけに耳につく。
たどり着き、飛び出した屋上は、屋根がある下の階に比べやけに車がすくなく、激しい雨が上がったばかりのせいなのか人はほとんど居なかった。
先ほど濡れてしまった前髪からポタポタと落ちる水滴の向こう、見える空。
先ほど上がった雨が汚れを全て流し落としたのか、どこまでもどこまでも透明な空気が満ちていた。
先月の衣替えまで毎日着ていた学校のブレザーに少し似た紺色と、先ほど買った浴衣の帯に似た赤色が、灰色の雲が消えた白い空で混じりあっていて、とても綺麗でとても不思議に思えた。
そして何よりとても胸が締め付けられるような感覚に美幸はショッピングモールの屋上駐車場のフェンスにすがり付き、人の目なんて気にすることもできず、声の限り号泣した。
*****
自転車部の悠真は雨でも教室棟での筋トレがあるし、剣道部の享だって体育館での部活なので、こんな雨でも休みにはならない。そんなことに気がついたのは十分も泣いたであろう後だった。
地平線を思わせる広く平らなコンクリートの駐車場は周りの建物を見下ろす高さで、とても見通しが良かった。草原の中の小人の家のようにポツリポツリと生えるように建つ店内入り口から少し離れたフェンス前、吹き抜けていく風は朝より涼しく優しく美幸の髪を撫でていく。
よほど動転していたのだろうと、美幸は一人でも恥ずかしさに頬が熱くなった。
けれど、スマホの表示を見れば、もう部活も終わりの時間だ。
とりあえずそれぞれに十回コールしたら切ろう。
そう決意して、スマホの履歴の一番上にあった悠真の名前を美幸はタップした。
一回……二回……三回……四回……五回……六回……七……
『……もしもし?』
聞き慣れた、けれど昨日から聞いていない声に懐かしささえ美幸は感じた。と、同時に疑問符が頭の上に並ぶ。
「あれ?今、享、悠真と一緒なの?」
なーんだ、一緒に帰ってるじゃん。仲直りしたんじゃん。良かったー。私のせいじゃなかったのねー。と美幸の中に安堵の波紋が広がった。目の前のフェンスにかけていた指を離し、向きを変え背を預ける。
『あ……ああ、美幸……いや……今、悠真は一緒じゃない』
少し言い澱む声に、美幸が肩を震わせたのは雨で少し濡れてしまっただけではなかった。普段享はこんな静かな抑えた話し方はしない。だから、その違和感に心が震えた。
「あれ?……え?……だってこれ、悠真の番号だよね?……あ?!私、享に電話したのか!」
バカだねー、ごめんごめん。と笑いたかった。けれどその言葉を享が遮った。
『……いや、これ悠真のスマホだから、美幸は間違ってねーから』
「は?なんで、一緒じゃないのに享が悠真のスマホ持ってるわけ?」
訳がわからない。美幸はすこし荒げた声で率直に伝えた。
『えっと……今、病院だから?』
「え?」
言われた病院という言葉に今までの経験で浮かぶのは部活動での怪我や事故で、美幸の背中を一気に冷たいものが駆けずり回る。静かに声を抑えて話す享の話し方もそれで納得はつく。どうしたのか?悠真は大丈夫なのか?回らない頭がやっと動き出して、美幸が自らの理解に必要な回答を得るための言葉を口にしようとしたときだった。
『あ、部活の事故とかじゃないから。悠真は大丈夫だから、な?たださ……美幸……あのな……』
「うん?」
悠真の何が大丈夫なのかはっきりしないものの、享はまず美幸の悠真に対する不安をかき消した。けれどその重く辛そうな享の声が美幸のさらに嫌な感じしかしない予感を揺さぶった。
『驚くなよ?』
「うん?」
心臓がバクバクする音が邪魔にさえ思えた。けれど、今は静かに享の言葉を聞くときだと感じていた。
『かなり前から決まっていたことらしいんだけど。悠真の奴さ。今日、手術だったんだ。……お前、知ってた?』
「え?」
前から決まっていた手術?
初耳過ぎて美幸は何がなんだか訳がわからなかった。
手術って何?なんで突然手術?
なによりなんで悠真のスマホに享が出ることが、どんな手術の話に繋がるのか?
付き合うとか付き合わないとか、ここ数日美幸を悩ませた難解で些細な話なんて、どこかにぶっとんでいきそうだった。
『おい。大丈夫か?美幸?聞いてるか?』
「う、うん……」
『……ちっ、だから言っとけよっつってたのに、あのバカ……』
電話越しにも美幸の動揺が伝わったのか、享が舌打ちし悪態をつくのが聞こえた。
言っとけって……
「え?……享は知ってたの?」
『あ、ああ…一応知ってた』
今までの会話を頭の中で整理する。
前から決まっていた悠真の手術。最初の享の言葉から今悠真は大丈夫だろうと理解して少しほっとした。
けれど、だ。
そんな大切な日に美幸はくだらないことに悩み、あまつさえ女友達とショッピングなんてしていた。
最低で最悪だと美幸は思った。
胸がぼろ雑巾が絞られていくように苦しい。喉がひゅうっとなり、胸がはち切れそうだった。
『アイツさ、小学校の頃から結構、長く休む事、あったろ?』
「うん。体が弱いっていってたよね?」
高校生になってからは差ほどでもなかったが、悠真はよく体調を崩し学校を休むことがあり、学校帰り、美幸と享が学校からの手紙を片手に下校途中見舞いに寄る事が多かった。
返答の声が震えてしまいそうだったけれど、なぜか美幸はそれを享に知られたくはなかった。
『何か、持病があったみたいでさ。今回、結構ヤバい手術だったみたいで。期末の後からアイツ、部活もしないで帰ってたろ?手術前の検査とかやってたらしくてさ』
ずっと一緒にいたはずなのに知らなかった悠真の一面だった。大丈夫と言われても美幸はやはり悠真の事が心配になった。だって、手術なのだ。
そして心の隅っこで、同時に納得してしまった。
だから一緒に帰れなかったのか、と。
嫌われていたわけではなかったのだ。
避けられていたわけではなかったのだ、と。
『俺も知らされたのは期末前の部活停止期間だったかな?そんなヤバい手術なら、美幸が心配するから言っとけよって俺、言ったんだよ』
口ごもりながら享が語る時期はまさに悠真が美幸に告白してきた時期と重なった。
なんでそんな時に悠真は美幸に自分の手術を伝えることなく、告白なんかしたんだろう。
……いや、そんな時だから告白したのか?
そう思い至ると、美幸は先程以上に罪悪感に苛まれた。
ならば、なぜ美幸はあの日、とっさとはいえ、あんな返事をしてしまったのか。
けれど、知っていてなお今と同じ回答に美幸がたどり着けたかと言えば否と即答できた。
スマホを握ったまま見つめた先の空は、藍色が今まさに染め上げ夜を迎えようと準備を進めていた。
『俺、アイツが美幸の事、好きなの知ってたから。一番近くで二人の事をずっと見てたからさ。何かあっても、美幸とアイツが後悔しないようにしろって言ったんだ』
さらりと言われた衝撃的な告白に美幸は息が止まるかと思った。何をいっているのとふざけて笑いたかったけれど、唇は震え、声が出ない。スマホは通話で熱をもってきてるのに、美幸の指先は氷のように冷たさを増してくる。
『なのにさ、あいつ、なんも美幸に言ってなかったみたいだし、俺、昨日、スッゲー怒ったんだ』
何も言えない美幸に、享は弱く、そして苦々しく笑いながら言葉を繋げた。
『そしたら、アイツ、号泣しやがんの。美幸は蛙が死んだ位で号泣するんだ。俺がどうにかなっちまったらあいつこわれちまう。だから絶対に言えねー。俺、美幸を残してまだ死にたくねーって。お前、先月、いってたろ?浴衣と水着、今年は友達と買いに行くって。それが見たい。絶対見たいって。なんか滅茶苦茶煩悩まみれなこと叫びやがってさ』
一言、一言が美幸の中で、優歌の彼氏が教えてくれたケンカと噂された真相と繋がった。
けれどそれはやはり結局は自分が原因で、美幸は目眩さえ覚えてしまう。
けれど倒れたりなんかしない。絶対しない。
まるでおたまじゃくしの黒く丸い体から手足を伸ばし、尾っぽをきゅっと縮めるかのように、両手足にしっかり力を入れて背筋をピンと伸ばして耐えてみる。
『だから、さ。俺言ったんだ。美幸にいえねぇーなら、俺が手術、付き添ってやるよって。帰ってこれねぇなら俺が美幸をかっさらうぞって、な。で、今日は部活休ませてもらって、一日病院に居たんだ』
何度も連絡もらってたのに、ごめんな。
語る享の声が美幸の髪を撫でていた風のように優しく心に染み渡った。
「悠真は?手術は?終わったの??」
わかっていても、もう一度確認したかった。何度でも確認したかった。
享に笑われるかもしれない。それでも良いと思った。
『さっき、言ったろ?大丈夫だったよ。ちょい前に手術は無事終わった。アイツさ、……お前の返事を聞くまでは死ねねーってさ』
享は美幸をバカにするようなことはなかった。それどころか、その気丈とも思われる声に美幸は涙が見えた気がしたが、そんなことを言うほど美幸も人は悪くない。
「良かった……良かったよぉ……」
こらえ切れない涙が頬を伝った。
先程までの号泣の涙とは違う。あんな子供の涙はもう美幸は流さないと泣きながら美幸は決めたから。
けれど今日は本当によく泣く日だとは思った。
こんなに泣いたのは小学生の頃以来かもしれない。
『明日、一緒に見舞いに行くか?』
享の鼻を啜る音が耳元に聞こえる。こんな日が毎日だったらたまらない。でも今日だけは良いんじゃないかと美幸は思う。
「うん……行くよ……行く!」
急に元気になった美幸の声に享のいつものクスリと笑う声が聞こえた。
『でもさ、よーく考えとけよ?明日、多分台風一過で梅雨明けすっから』
「え?」
今日はどうにも享に言われた言葉がやはり理解できない。美幸は悠真の見舞と梅雨明けの関連性を模索する。
やっぱ、美幸は揺るがねーなと笑う享の声が左耳に伝わるはずのない熱を感じさせた。
そして、それはエアコンの効きすぎた図書室での出来事を美幸にはっきりと思い出させ、思わず美幸はその場にしゃがみこんでしまった。
『毎年そんな感じじゃね?……あとさ、悠真の奴がどんなに弱っていようが、あの日、俺がした告白も本気だったからな。悠真の本気見せられたら、俺だって、ちゃんと本気ださないと失礼だろう?だから俺の返事もキチンとしろよ?』
じゃぁな。と言いたいことだけ伝えて切られたスマホを片手に美幸は帰宅を急ぐ家族連れの視線も意にせず、再び立ち上がり、フェンスの向こう、消えてしまった夕焼け空に向かって叫んでしまった。
「ええーーー!?」
通話が切られたスマホの黒い画面一杯に、藍色一色に染まる空に姿を現した月を映し出していた。
あの日、悠真から告白された直後、今度は悠真が席をはずした時。美幸は亨から左耳に悠真と一語一句まったく同じ、熱の高さまで同じ告白をされていた。
『なぁ、俺たち……付き合わない?』
いつもの話し方と違った。けど、まったくおんなじで。
エアコンがやっぱり夏の制服には寒いくらい良く効いていたから、左の耳たぶに掛かる息がとても熱く感じた。
雨が止み、涼しさをもたらす夜の足音がはっきり聞こえ出した駐車場。
赤いガラス玉に太陽の光をかざしたかのように懐かしく輝く車のテールランプが幾つも転がっていく。
一杯一杯、今の美幸にしては最大限悩んで考えて、まだまだみっともない姿をさんざん晒して、今日やっと直視できた結論だ。
深々と深呼吸する。色々な感情と色々な現状に美幸は呼吸の仕方を合わせなければならなかった。
蛙はあんなにとぼけた顔をして見せるが、きっとおたまじゃくしから初めて地上に出てきた時、現状のすり合わせに苦労したことだろう。
スマホで確認した直近のバスの発車時間まであと三十分。
夏の星々がその姿を見せ始めるのを見つめ、美幸は決まっている答えをちゃんと伝えられる言葉を探すため今夜は寝られないんだろうなと覚悟を決め、今日一番の笑顔で声を上げて一人笑った。