夏休みの初日は雨でした(上)
濡れた前髪からポタポタと落ちる水滴の向こう、見える空。
先ほど上がった雨が汚れを全て流し落としたのか、どこまでもどこまでも透明な空気が満ちていた。
先月の衣替えまで毎日着ていた学校のブレザーに少し似た紺色と、先ほど買った浴衣の帯に似た赤色が、灰色の雲が消えた白い空で混じりあっていて、とても綺麗でとても不思議に思えた。
そして何よりとても胸が締め付けられるような感覚に美幸はショッピングモールの屋上駐車場のフェンスにすがり付き、人の目なんて気にすることもできず、声の限り号泣した。
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気分的には多少複雑な……と言うか、はっきり言えば、両親からは余り誉められもしないだろうが、かといって自分では落ち込む程ではないと思う数字が並ぶ通知表を、言われるまで故意に鞄の中にしまったままテレビのつまらない特番を見ていた美幸は、寝転んでいたリビングのソファーの上、ついいつもの癖で手の中でいじっていた携帯端末の、急なバイブレーションに肩を揺らして驚き、続き表示された内容に目を通した。
「お母さーん。前から言ってたけどさー。明日、せりちゃんとゆっちんと一緒に水着と浴衣を買ってきていいー?」
朝のニュース中の天気予報士がまだ梅雨明けを告げないのがしみじみと身に染みる程の、テラスの屋根に打ち付ける雨の音の大きさに、美幸はキッチンにいる母に声が届くように負けじと声を張り上げた。
「成績表、出したら予算を考えるって母さん、言ってたでしょー。さっさと出しなよ」
テーブルに香ばしい食欲をそそる唐揚げの山が盛られた皿を並べつつ、キッチンから現れた姉の美咲が明らかに呆れた表情で美幸を見せるものだから、美幸は少しカチンとした。
「大学生はいいよねー。成績表なくって」
最近急に母の手伝いをするようになった三つ上の姉、美咲は悠々自適な大学生だ。美幸は嫌みをたっぷり込めてソファーの上の平べったい蛙のクッションを軽く投げつける。
「なくはないよ?」
「は?」
軽く投げつけられたクッションを受け止めた美咲は、何を言っているのかわからないと首をかしげてみせて、その反応に美幸も訳がわからないと首をかしげ返した。
「はぁ?……ふぅ。大学生なめんなよ、高校生。そんな事より、水着に浴衣って、あんた彼氏でもできたの?」
あんた馬鹿?とありありと顔に書かれた表情をみせ、深々とため息をついたあと、美咲はいやらし下世話な表情で、ソファーの上、寝転んだままの美幸の背中に蛙のぬいぐるみをぽとりと投げ返し、お尻を足でつついてくる。
「……いや、夏休み……だから?」
鼻の頭をポリポリかきながらの、美幸のぼそぼそとした返事に、今度は美咲が何を言っているのかわからないと首をかしげた。そして、少し遅れてなにかわかったといわん限りに、ポンッと手を叩く。
「……あちゃー。だから女同士か……。かわいそうに……」
「そんな同情の目で見んなー!!」
哀れみと同情とからかいが2対2対6位の比率で混じりあっている美咲の表情が、彼女の考え付いてであろうことの全てを語る。その様子に美幸は一気に沸き上がった腹立たしさに、抱き抱えていた黒くて丸くてふわふわでお気に入りのおたまじゃくしのクッションを今度は力一杯、美咲に投げつけた。
「あはは。とりあえず成績表、出したらどう?父さんが帰ってくる前に出さないとお母さんもフォローのしようがないでしょうが」
陽気に笑いながら、ぱほんとぬいぐるみを見事に受け止めた美咲は、手触りの良いおたまじゃくしに頬擦りをすると、
「大丈夫、大丈夫。あんた私の妹なんだから、この夏、ちゃんと小綺麗な格好すれば彼氏くらいできるって」
とフォローになっているのかなっていないのか微妙な事を自信満々に美幸に聞かせてくる。美幸も年頃の女子高生だ。確かに美咲には彼氏だか、彼氏候補がいるらしいと最近うすうす感づいている。特に今まで一緒にゴロゴロダラダラと過ごしていた夕食前のこの時間帯。少しでも料理を覚えようとする姿がいじらしいというよりはウザくて仕方がない。
「その前に成績表の試練だけどねー」
一人楽しげに再度おたまじゃくしのぬいぐるみを美幸に投げつけた美咲はケラケラと笑いながら、キッチンからの母の声に「はーい」と返事を返した。
「お姉ちゃんの妹だから心配なんじゃないっ!!」
だから美幸はキッチンに戻った行く美咲の背中が、なぜかいつもより寂しげに見えたのはイライラしている自分の気のせいだと思い込んでいた。
*****
夏休み初日。
運悪く接近しているという大型台風の影響で、空は灰色の厚い雲が覆い、少しいつもとは違う強い風の中、小雨が時おり打ち付けていた。
待ち合わせは駅ビルの前のバス停だ。
今日はここからバスで郊外に新たにオーブンした大型ショッピングモールに向かう。
田舎の電車は強風雨に弱いから、学校にいくときにはしないけど、美幸は予定の時間よりもひとつ早い電車に乗って来た。しかしこの悪天候で今日あるはずだった部活は休みなんだから文句ばかりもいってはいられない。
肌にまとわりつく空気は風はあるのにネットリとしていてべたついた。
見渡すバス乗り場は、連休初日もあって人が多い。浮き輪を既に構えた子供を連れた親子連れに、花火大会でもあるのか浴衣姿の女子と甚平姿の男子なんていうカップルも見受けられるし、美幸達のように女友達、男友達で集う集団も見受けられる。
空も空気もまだ六月のジメジメを引きずっているのにここは夏休み一色だった。
芹も優歌もまだ待ち合わせの場所には来ていなかったようで、駅から飛び出した美幸は傘をささないまま、目的のバス停の屋根の下に駆け込んだ。
パラパラと小気味良い音が時折響くなか、次々と人の波がいくつものバスの中に吸い込まれ消えていく。
部活がないからと高い位置で結んだツインテールがヒシバシと強い風に煽られて頬に打ち付けた。
『あんた彼氏でもできたの?』
気にしないように、気にしないようにとしていたものの、玄関を元気に飛び出してからずっと昨日の美咲の言葉が耳にリフレインする。
通知票に対する両親からの厳しいお言葉はそのまま右耳から左耳へと通りすぎていったのに、美咲の深い意味なんてない、からかいの言葉が美幸の頭の中をぐるぐるする。
別に美幸は彼氏が欲しい訳ではない。かといって、欲しくないかと問われれば、それはそれで首をかしげて悩む位には、恋愛に憧れを持っている。
けれど、しかし。
それより、なにより。
あんまり直視したくない現実だが、実は美幸には近日中に告白の返事をしなければならない男子がいる。
実はいる。
三週間前、美幸はコクられている。
実はコクられている。
『なぁ、俺たち……付き合わない?』
いつもの話し方と違った。けど、まったくおんなじで。
エアコンが夏の制服には寒いくらい良く効いていたから、右の耳たぶに掛かる息がとても熱く感じた。
享が「俺、しょんべんっ!」なんて言いながら席なんか外すのが悪かったんだ。
二人して「小学生かよっ」って笑ってツッコんで。いつもみたいにふざけてただけだったのに。
なんで期末テストの二日目だっていうのに真っ直ぐ家に帰らなかったのか。
なんで、あいつらと、いつもみたいにつるんで市立図書館になんかに寄っちゃって、いつもみたいに一緒に勉強しちゃったんだろう。
いつもとなんにも変わらなかったのに、なんでだろう。
なんでだろう……。
しかもだ。
「あーーーー!!もうっ!」
思い出しただけでイライラしてくるしお腹は痛いし頭の中はハチャメチャだ。
思わず吐き出してしまった苛立ちに、恥ずかしさのあまり、あちゃーと周りを見渡せば、そこには運がいいのか悪いのか、到着したばかりであろう芹と優歌が、
「あ……遅刻はしてないと思ってたんだけど……遅れてゴメン?」
と微妙な表情で片手を挙げたまま、硬直していた。
*****
人が多いバスの中。つり革につかまって、窓の外をみていると徐々に雨足が強くなってきたのか、窓ガラスに打ち付ける雨粒が次第に大きくなり、鋭角な三角形を描くようになってきた。
今日の雨は、朝からおたまじゃくしの匂いがしていた。
美幸にとっては懐かしくて切なくて大嫌いで大好きな匂いだ。
美幸の家の周辺は、今でこそ立派な住宅地だが、美幸が小さい頃は田んぼや畑や空き地だらけだった。
享も悠真も、もともとはそんな田舎町の小学生の頃からの腐れ縁で、いつも田植えが終わった頃、三人で学校帰りに隠し持っていたプリンの入れ物でおたまじゃくし掬いをする。そんな仲から始まったように記憶する。
帰り道、同級生の女子も少なかったし、何より美幸がもともと男の子のような性格だったこともあったのだろう。気がつけばクラス替えの時、見知った女子が居なければ、最初に声をかける位には親しかった。下校の時、偶然合えばそのまま一緒に帰る位には親しかった。
仲の良かった女友達と進学する度に離ればなれになっていっても、おたまじゃくしを掬った三人の腐れ縁は中学高校とそのまま続いてきてしまっている。
そう、おたまじゃくしの仲なのだ。
だから美幸としては、いまさらそんな関係になるなんて思ってもいなかったし、思いたくもなかった。
ただ、一般的に顔面偏差値が高めの二人が昼休みの校舎西裏庭で他の女子達から告白されているのを見て、あぁ、寂しくなるな。と少しだけ胸に石が詰まったように感じることは何回か、確かにあったように記憶する。
けれどそれは、結局三人の間に大きな変化を生み出すことなんて一度もなくて、結局のところ美幸の毎日は小学生の頃、おたまじゃくしを掬っていた時と同じくらい平和で穏やかで幸せだった。
「おたまじゃくしは、おたまじゃくしのままでも幸せだったのに」
脚が生えてくるなんて知りたくなかった。
蛙になる日なんて知りたくなかった。
声になっていたのか、空気の音だけだったのか。発した本人の美幸でさえわからなかった。
けれど再び漏らしこぼしてしまったかも知れない本音が他の誰かの聞かれていたのかもしれない。ふと不安になって辺りを見渡せば、右隣の芹と優歌は今日の買い物とショップの話題で盛り上がっていたし、左隣の女性はイヤホンから音を漏れさせながらコクンコクンと居眠りをしていて、美幸は誰にも気づかれなかったことにホッと息をつくと窓の向こうの黒みを増す厚い雲を見つめ直した。
*****
成績表の結果から得た、けれどかなり限られた予算の中での買い物を散々三人で楽しんだ。実際はまだ何一つ購入なんてできていなかったけれど。
喉が乾いたねーと美幸達が立ち寄ったのはフードコートのドリンク専門店。
入店から数時間はたっていった。本当は背伸びしておしゃれで大人っぽいコーヒー屋さんで魔法の呪文みたいなドリンクを注文したかったけれど、部活が忙しくてアルバイトできないおこづかい生活者には手が出せなくて諦めて。けれど、やっぱり背伸びして自動販売機のジュースではなくて、お手頃で夏らしいドリンクを三人窓に面したカウンターで笑いながら飲んでいた。
みんなお母さん達から、過激な水着は買っちゃダメとか浴衣は厚い良い生地のものを選びなさいとか色々口を酸っぱく言われてきたようで、希望と理想と予算がうまくマッチングしないと頭を悩ましていた。
そんなときだった。
「そーいえば、美幸。尾地くんと付き合ってんの?」
先生にカラーを疑われているボブを編み込んで女子力UPさせている優歌が、なんてことはないように、けれど、美幸には視線を合わせることなく訊ねてきた。
「?」
一瞬何のことかわからず、美幸は芹と視線を合わせ首を揃ってかしげた。
「だーかーら。尾地享くんと付き合ってるのって、聞いたの」
「はぁ?……あぁぁぁぁ???」
「何大声だしてんの!」
「え?二人付き合ってんのぉ?!!」
思わず叫んだ。そんな美幸の口を優歌は手で慌てて抑えるし、芹は何それ楽しそうと目を輝かせ美幸の前に身を乗り出してきた。
「ナイナイナイっ!そんなことないからっ。友達だから。腐れ縁だからっ!」
優歌の手を退け、美幸は内心冷や汗をかきながら全面的に否定する。
「えー。でも、尾地くんと原澤くん、珍しくケンカしてたらしくって」
彼氏から昨夜そんな話があったからさ、と優歌は少しだけ心配そうな表情を見せながらそう告げた。
「ケンカ?んな風に見えなかったけど?」
クラスは違っても、いつも廊下でつるんでいる二人を思いだしたのか、芹が首をかしげた。
「うん、一見ね。でも最近、美幸、あの二人と一緒に帰ってないでしょ?だからそうなのかなーって」
男子の中の噂だけどさ。
心配してくれているであろう優歌の言葉、一つ一つが重くて痛くて、苦しくて。
けれど本当のことなんか絶対に話せない自分も美幸は怖かった。辛かった。
目の前の窓の向こう。稲光が駆け回るようになった空は、黒く濁った雲が勢い良く移動していく。時折強い風が更に強くなって、窓を震わせるほど強く打ち付ける。
嵐の足音は思いの外はっきりしているようで、これから訪れる悪天候は容易に想像できた。
『あ……えっと……梅雨明けまで待ってくれる?』
あの日、とっさに美幸の口に出た答えは、夏休み初日の今日もまだ有効だった。