68話 追手(※多数視点)
長い黒髪に紫の双眸のダークエルフの少年は戦慄していた。少年の名前はナーガ。現在、追手に気をつけなければならない立場だった。だというのに、そのつもりもないのに、ナーガは気づけばナガバの森に戻ってきてしまっていた。
「徴のせいか。くそっ」
毒づくナーガの眼前に、黒いどろっとしたものをまとわりつかせた百足が出現した。
「転移魔法だと!?」
逃げなければ。
思考がそれ一色で埋めつくされる。
ナーガは走った。森の中へと。
障害物や遮蔽物がある方が、身を守りやすいし、何よりも森ならば木に登り、高所から矢を射かけることもできる。
ナーガは弓を二つ持っている。その小さな体で引けるのかと思うほどの、ミアロスの長弓と、魔力さえあれば永遠に射かけることのできる魔弓と。この二つを駆使して逃げ回る。それしか今のナーガにできることはない。
「絶対に、簡単に捕まってなんてやらねぇ。俺は、俺にはまだやりたいことがあんだよ!」
生きたいのだ。
死を強制されても、自分の死をダークエルフたちが望んでいたとしても。
だからといって自分が死ぬなど絶対に納得いかない。
大罪だとしても。
神の意思に背いた愚か者だとなじられても。
それでも。
「生きたいんだよ、俺は」
誰の願いでもない。自分自身の心の底からの思い。
辛くて悲しくてどうしようもない日々を乗り越えた先には、きっと。
昨日のように誰かと一緒に、踊って楽しんだり、笑いあったりすることのできる輝くような素敵な日が待ってると、信じたいから。いや、信じてるから。
ただ一つの願い。生きたいという願いを叶えるために。ナーガは走るのだった。
「愚かなダークエルフ。逃げてもどうせ無駄なのに」
瘴気と呼ばれる、悪意や負の感情に染まった魔力が満ちた空間。その中で、遠見の水晶に、ここではないナガバの森の風景の一部を映し出していた神の一人は、淡々と呟いた。
「あたしの徴がある限り、逃げ場はどこにもない。おとなしく、あきらめればいいものを。百年の苦痛にさいなまれて、五百年悪夢をみせて、千年の間おもちゃとして可愛がってあげる」
神は、ダークエルフの行為を無駄と断じて、笑った。
儀式の邪魔をした者を、簡単に許すはずがない。
「どうせなら、女が良かったな。そしたら、もっと楽しめたのに」
あの女の代わりとして、癒えぬ苦痛に喘がせて、毎日たっぷりと可愛がったことだろう。
だが、残念なことに今回の罪人は少年だった。
「まぁ、いいか。魂を汚染させて、自分の手駒にするのも悪くないし」
ペロリ、と舌で唇をなめる。
「余興としてなら、逃走劇もそれなりにおもしろそうだしね」
もちろん、最後に勝つのは自分だ。
神は、笑う。
残酷に、蠱惑的に。
人よりもさらに高位の存在としての傲慢さが、その姿からは滲み出ていたのだった。
逃げ始めて、すぐにナーガはこのままではまずいことに気づいた。
ナーガを追ってくる百足の瘴気のせいで、森に住む魔物が死んでいく。
このままでは、森が死の森となってしまうのも時間の問題だ。
ただ、ありがたいことに、百足はナーガではない誰かを襲っている時もあるようだったので、そこで距離を稼ぐことができた。
襲われてる誰かを気にかけていると自分がやられてしまう。ナーガは心中で謝りながら、百足から逃げ続けた。
だが、百足をこのままにしてはおけない。
「あ!」
ナーガは、あるものを見つけてそちらに走った。それは、黒鋼蟻たちの巣だった。
黒鋼蟻たちは、ようやく戻ってきた平穏を享受していた。あの魔物使いの少年には、感謝してもしきれない。こうして、巣に戻れたことをアリたちは本当に喜んでいた。不穏な空気が立ち込めたのは、アリたちにとって忘れられない存在がやって来た時だ。
ぎちぎちぎちぎちぎち。
同族にだけわかる、警戒音が入口のアリから発せられた。その警戒音を聞いたアリたちが、一斉に警戒音を発する。
ぎちぎちぎちぎちぎち。
おかしな魔物のせいで数を減らしてしまったアリたちだが、まだかなりの数が残っている。
それらが一斉にとなると、大音量となった。
「待ってくれ! 争いに来たんじゃねえ! 巣を貸してほしいんだ!」
ナーガが必死に叫ぶと、アリたちから発せられる音が少しだけ小さくなった。
「俺を追ってきてる百足がいるんだ。そいつを、この巣の中に誘き寄せたい。だから、いいか? 一時間だ。一時間以内に巣から退避してくれ。その間、俺はなんとか逃げきる。自分勝手な話なのは、重々承知してる! でも、他に手段はねぇんだ! 頼む、巣を使わせてくれ!!」
アリたちの前で、ナーガは土下座した。なりふり構っている状況では既にない。
ナーガの土下座に、アリたちは驚いたが。さらに驚くべきことが起きた。
忘れもしない。アリたちが半数以下となってしまった原因である蠍の魔物とよく似た百足の魔物が巣の近くに現れたのだ!
「ちっ。もう追いついてきやがったか。あれが出たんだ。お前らの巣の中も、安全じゃねぇ。前みたいに、幼虫を運び出して、森の入口まで逃げとけ! 一時間以内にな!」
ナーガは巣とは別の方向へと走り出した。そのナーガを追って、百足も巣を素通りしていく。
アリたちはほっとしたがすぐに安心してる場合ではないことに気づいた。
またあれが出たなら、ここも安全ではない。
一体のアリが、ナガバの森の入口まで行くことを提案した。
あの魔物は自分たちではどうにもできない。だから、頼れる者を頼ろうと。
アリたちにとっての頼れる存在。それは蠍の魔物を倒して、アリたちの巣を取り返してくれた魔物使いの少年に他ならない。その意見に、他のアリたちも特に文句を言うことはなかった。
巣の外にいたアリたちは、巣の入口から中へと入っていく。巣の中の女王アリに、起きたことを伝達するもの、幼虫たちを外へと運び出すもの、などなど。
アリたちは一斉に動き始めたのだった。
「なんだ、これ!? げぇええええ!? また黒鋼蟻がナガバの森の入口まで出てきやがった! リーダーに報告しねぇと!」
ナガバの森の入口で、見張りをしていた紅蓮の騎士団ギルドのメンバーの一人は、団長であるスレイに報告に行くのだった。
一時間をとうに過ぎた、二時間半後。
完全に避難を完了した、空っぽの黒鋼蟻の巣の中へと、血にまみれたダークエルフの少年が入っていくが、それを目撃した者は、遠見の水晶で様子を確認していた神だけだった。
次→19時
 




