虫使い
小屋の客席の一割は子供達が占めていた。後の七割は空席だ。客席といったところで、長く渡した木の板に染みだらけの座布団を敷いただけだ。
ユウリは一番前の真ん中で、行儀よく姿勢を正して座っていた。少し──大分、緊張している。
隣では二つ年上のノブが、座席の上に片膝を立てて、ラムネの壜をしゃぶっている。
ユウリはここへ来るのは初めてだったので、ノブのほうをチラと見て、訊いた。
「……まだかな」
ノブは顔をしかめた。本人は、兄の真似をしているつもりだった。舞台に向かって怒鳴ってみせる。「ナニやってんだよったくよう。もう時間、すぎてっぞ!」
そういった拍子に、ノブはラムネにむせて、咳き込んだ。
ユウリは舞台の方を向き直した。
やがて、柱にくくりつけられたスピーカーから、のんびりとしたメロディが流れてきた。音はすっかり割れていて、ノコギリの音のようだった。
舞台の中央に、ひょろ長い、タキシード姿の男が出てくると、シルクハットを取った。片手にはステッキを持っている。それから頭が床につきそうなくらいに腰を折って一礼した。
「紳士淑女の皆様、今宵も当団のショウを見に、ようこそおいでくださいました」
「シンシシュクジョがこんなとこ来るかよぉ」
ユウリの後ろで、中年男の濁声が叫んだ。思わず振り向くと、とたん、アルコールのにおいが顔にもろに吹き寄せてきた。
「我らが一同、皆様方に一時ばかりの夢を御覧に頂こうと、己が腕に磨きをかけて、皆様をお待ち申し上げておりました!」
「待ってんのはこっちの方だい、口上なんざエェ加減にしてとっとと演目見せやがれ」
客席の端で誰かが叫んで、酒壜が舞台に向かって投げられた。
座長は一瞬、真顔になって、素早く避ける。すぐに元の営業スマイルを造り直した。一瞬のことだ。
「お客様、焦る気持ちも重々承知しております、しかしながら、(ゴホン)、まずこれからお見せしますのは、世にも希な芸でございます。勿体ぶってるとお腹立ちもしましょう、しかししかし、皆様は、ココロの準備をなさっておいてくださいますよう、なにしろコレは、とてもとても難しく、世に彼一人だけといわれる芸でございますからして──」
座長が口上を言い切らないうちに、二本目の壜が舞台に向かって飛ぶ。続いて、紙屑やら外で売ってる焼鳥の串やらがいくつも、飛んだ。
座長、さっさと引っ込む。
「なんだろ、タノシミだね!」
ユウリは目を輝かせて、空になった舞台を凝視した。
「ノミのサーカスさ、知ってんよ」
ノブが鼻先で笑った。
「蚤?スゴイ!蚤のサーカス?……でもそんなに小さいの、ここから見えるかな、もっと近付いちゃダメなの?あ、そしたら蚤がこっちに跳んでくるかも……」
「黙ってろよ、心配すんなって、どうせ見えねえんだから」
「え?」
その時、音楽が変わった。陽気でコミカルな曲になる。ユウリは口をつぐんだ。
「それでは、ドクター・バグと曲バグ団による、世界で最も小さなサーカスでございます、皆様、拍手でお迎えください──」
座長の声に、客席から鈍く拍手が挙がった。が、その半分はサクラだ。
舞台に出てきたのは、風船のようにまるまると太った男だった。座長とはまるであべこべだ。山高帽をかぶり、灰色のフロックコート、手品師のようなステッキ。
その足取りは、体型に似合わず軽快だった。
男は小さなテーブルを持って舞台の中央に歩み出た。
「さて皆様、ここにおりますのは、蚤でございます」
男は小さな箱をポケットから取り出して、テーブルの上においた。箱の上のほうが三角形に尖っていて、赤くなっている──それは家だ。小さな小さな家だった。
「蚤といってもそこいらの犬の背中を住処としてる蚤たあ違う。世界蚤協会で認定された、由緒正しい血統書付きだ、さあよく御覧あれ」
男は小さな家の形の箱の蓋を開けて、中を覗き込んだ。そして箱のふちに自分の手の甲を差し出した。
「さあお前たち、出ておいで」男がステッキでテーブルを軽く叩く。
ユウリはじっと男の手元を見つめた。そこになにかがいるのだ。
男が手を高く上げて、その手に向かってかけ声をかけた。
「ヤア!ホイ、ヨ──シ」
なにかが男の手から、テーブルの上に飛んだ。男の視線がそのなにかを追う。
ユウリはますます目を見張った。
男の動きとかけ声に合わせて、なにかが跳ね、宙返りをし、踊る。
ユウリはすっかり見入っていた。
客席のざわめきが大きくなる。しかし、どうやら感嘆の声ではないようだった。
ついに誰かが叫んだ。
「引っ込めヘタクソ!」
「なにが蚤のサーカスだ、なにもいねーじゃねーか!」
「殺虫剤撒くぞコノヤロウ!」
次々にゴミやら酒瓶やら吸い殻やらが舞台に向かって飛んだ。次第に辺りかまわず客席の中にも飛び交い始めた。
舞台の袖で座長が、虫使いの男に向かって叫んだ。が、なにをいっているのか、客席のユウリには既に聞こえなくなっていた。ただ座長が顔を真っ赤にしているのだけが見えた。
虫使いは手慣れた様子で、持参した小さな家をポケットにしまうと、テーブルを担いでさっさと袖に引っ込んだ。
「だからいったろ、見てもツマンネーってさ」ノブ。
「えぇ、すごかったじゃん!ホントに、蚤が、サーカスしてたよ!」
「けっコレだからガキはよう。あのな、ありゃ、蚤のサーカスを見せるって芸じゃねぇんだよ、〈蚤のサーカス〉って芸なの、見えるわけねーよ、ハナから蚤なんていやしねぇんだから」
「でも、見えたよ……」
「キノセイってヤツ。オマエ、オトナに騙されてんの」
ノブはラムネの壜を振り回しながら、どんどん先へ行ってしまった。
ユウリは小屋を振り返った。外から見ると、陰気な建物だ。この公園全体が、その陰気さに包まれている。学校の理科室や資料室の暗さによく似ていた。
宵闇と、色とりどりの電飾が、いたるところに濃い闇を作っている。ふしぎと寂しいとは感じなかった。その薄暗がりの中に、なにかを隠しているような、そんな暗さだった。
昼間にはまるで、ゴーストタウンのようだ。
公園の一角に、いくつかのテントや掘立小屋や遊具が建ち並んでいる。
その一帯だけ、緑も、昼の主客たる子供連れもアベックもいない。ただ疲れて辛気くさい顔が染みついたカンケイ者が気だるそうに働いているだけだ。
ユウリは学校の帰りに寄り道をしてみた。
昨夜の見世物小屋は、昼に見ると、ますます小汚く陰気だった。明るい陽光が謎めいた翳をもなにもかも消してしまう。
小屋の周囲を回って、あの虫使いの男がいないものかと思った。
いた。
見世物小屋の隣の射的の屋台の後ろに、座長と虫使いが二人きりでいるのを見付けた。
二人が向き合っていると、まるで、ボウリングのボールとピンのようだ。
ユウリは駆寄ろうとした。が、二人の周囲の空気にためらいを覚え、足を止めた。
やや離れたところから、二人の様子をうかがうと、二人は、ケンカしているらしい。いや、虫使いが一方的に怒られていた。
「いいか、これまでだからな!」
座長はエライ剣幕で、虫使いに向かって怒鳴り散らすと、くるりと踵を返して、小屋のほうへ去って行った。
後に残された虫使いは、目を白黒させて、天を仰いでいた。
ユウリはそっと近付いた。
「ねえ、おじさん」
「──おやあ?」虫使いは、妙に間延びした声で返事をすると、ユウリに向かって笑んだ。
「君は、昨日、一番前の席にいた子だねえ。ワシになにか、用かね」
間近で見るとますます、虫使いは、コミカルだった。やけに古ぼけてテカテカしたコートと、鞠のような体躯と、妙に間延びした顔と──そうだ、ダンゴムシだ、とユウリは内心思った。
昨夜のステージ衣装のままだ。あの山高帽も。フロックコートも。いったい、その下にどんな服を着ているのか気になった。
「用って……」ユウリは口ごもった。「蚤のサーカス、おもしろかった」
虫使いは口を大きく横に伸ばして笑った。
「ありがとう、久しぶりだよ、誉められたのは。ワシも年をとったなあ。近頃じゃちっとも、お客に観てもらえん」
「おもしろかったよ、ホントに、スゴイ。途中でやめちゃって、残念だった。蚤がサーカスするなんて。どうやって訓練したの?蚤って言葉がわかるの?血統書付きじゃないとダメなのかな。鞭じゃ叩けないでしょ」
ユウリが続けざまに問いかけると、虫使いは、大きな口をあけて嬉しそうに笑った。歯がきれいに光っているのが見えた。
「君はいい子だねぇ」
「え?」
ユウリは急にいわれて、言葉に迷った。
「そんなに、ワシの虫が気に入ったかね」
ユウリは大きくうなずいた。
「今夜もまたやるんでしょ、また見にくる、ゼッタイ」
「ありがとう」それから急に虫使いの顔が曇った。「しかしなあ、もしかすると、今夜で最後かもしれんのう」
「ええ!?」
「さっき、座長に怒られたんだ。もし今夜も、客達が納得しないようだったら、今夜限りでワシはお払い箱だそうだよ」
「って、もう、やめちゃうの?もう見られないの?」
「どうなるかなあ。座長にしたって、もっと客の入る芸人を使いたいだろうし、ワシにはワシの芸しかできんし、芸が受けるかどうかは客次第だしなあ。……ココだけのハナシ、座長は美人の踊り子を雇いたくてナ、それでエライ金を使ってるってハナシだ。座長も客も、ワシみたいなノよか、美人のほうが観たいだろうしなぁ」
虫使いは呑気にいった。ユウリはなおさら、寂しくなった。
「ここ辞めたら、つぎ、どこ行くの?どこかでまたやるんでしょ?」
「どうだかなあ。こんなオイボレを使ってくれる小屋が、あるかねえ」
「小屋でなくったって……ボク一人でも観るよ」
「もう、ワシの芸なんぞ時代遅れじゃよ。客がいなくて芸だけやっても仕方ない」
「でも……」
「まあ、今夜の公演も、見に来てくれるんじゃろ?」
「行くよ!ぜったい!行くから、辞めないで」
ユウリはつい、大声で叫んだ。
途端、屋台の壁の際から、熊のような中年男がヒゲ面を出して怒鳴った。
「うるせーぞ!大声でわめくと射的の的が倒れちまうじゃねぇか!」
「ったく。昨日で懲りたろ、なんだってまた」
ノブはすっかり不機嫌だった。
客席の空席は昨夜よりも多かった。しかも後ろ半分は暗がり目当てのアベックだし、前のほうにいるのは酔漢ばかりだ。どこかで幼子がむずかって、大声で泣き出した。
あんな子よりは大きいぞ、とユウリは内心、思った。
「だって、今日も、ミンナが見てくれないと、蚤のサーカス、ヤメになっちゃうって……」
「どーでもいーじゃねーか、あんなの。くっだらねーよ」ノブ。
「とにかく!約束はしたからね!」
「わかったよ」ノブは渋々うなずいた。「感激したフリすりゃいーんだろ。アイス、だからな」
「みんなもだよ」ユウリは背後を振り向いていった。
「へぇい、わかってるよ」三・四人の子供達が、一斉に返事した。
「でも蚤のサーカスってなんだよ、オレ、見たことない」一人の子供がいった。
「ただのコドモダマシだよ」ノブ。
「違うよ、ちゃんと、ホントに蚤か、なんだか、サーカスするの」ユウリ。
「けっ、これだからオコサマってやつぁ」
「違うよ……」
ユウリの顔が、飴細工のように曲がった。
ヤバイ、とノブは慌てた。ユウリを泣かすと、また、かあちゃんに怒られる。
「ワカッタよ、蚤がスゴイんだろ、ほんとに」
後ろの席にいた子供達も、不承不承うなずいた。
やがて、舞台に座長が現れ、口上を述べて、引っ込んだ。
「さ、いよいよだ」
大騒動だった。
空き地まで、必死で走ってきたユウリは、足を止めて、背後を振り返った。
見世物小屋が燃えている。赤やオレンジの炎が、宵の口の夜空を焼いていた。
大人達が慌ただしく駆け回っている。
「おい、あぶねーよ、早く行こうぜ!他のテントまで燃えそうだ」
ノブがユウリを引っ張った。
「う……うん」
ユウリは生返事をしたが、その目は炎上する小屋に釘付になっていた。
酔漢の一人がラム酒の壜をステージに投げつけたちょうどそのとき、若者が爆竹を投げた。酔漢はすっかり酔っぱらってて、壜がカラだと思っていたが、カラになったほうの壜は左手にあって、彼が投げたのは右手にある壜だった。
二つの放物線は、ステージの真ん中で衝突した。
弾けるように炎が広がって、場内は大騒ぎになった。
「虫使いのおじさんは……?」
「ほっとけよ、行こうぜ、危ないってば──あ!ユウリ!」
ユウリはノブの手を振り払って駆け出した。
瞬く間に炎に包まれた小屋の周囲では、いろいろな小屋の人間達が、大勢集まってきて、水や消火器で火を消そうとしている。が、火の勢いは強い。消防車はまだ、来ない。
その小屋を避けて、裏手のほうへ、ユウリは走った。
座長が呆然と突っ立っているのを見付けた。タキシードもシルクハットもなくなっている。赤いズボン吊りをしているのが見えた。
ユウリは彼の傍に寄った。
「ねえ、虫使いのおじさんは?どこ?」
ズボン吊りを強く引っ張ると、ようやく、座長はユウリの方を向いた。
「なん……やつか!?ヤツのせいで、オレの小屋が、こんなことに!ヤツなんか、知るか!」
座長は怒りと嘆きと悲しみを全身から発していた。
「まさか、あの火の中にっ!?」
ユウリは思わず、燃え盛る小屋に近付こうとした。
座長が慌てて、肩を掴んで引止める。
「ヤツはとっとと出てったよ、あっちのほうにな」
座長は、町外れの方を指した。
「ヤツはクビだ、好きなとこいっちまえって追い出したさ」
そういって彼は、傍に転がっていたバケツに腰を下ろした。
ユウリは急ぎ足で、虫使いの後を追った。
公園から町外れのほうへ、なだらかな丘陵地帯が続いている。
公園から一歩外へ出ると、急に、夜の草いきれが匂ってきた。街中の、人間に飼い馴らされた、穏やかで陽気な夜ではない。野生のままの生き物達の吐息の混じった、夜だ。
緩やかな斜面を登って行くと、夜空が次第に降りてくる。
暗い大地と黒い空、そして夜空のすそににじんだ真昼の残滓が望めた。
夏も過ぎた草が、靴にまとわりつく。
足を取られそうになって、一瞬、足元に目をやった。
顔を挙げると、丘の頂に、人影が立っているのを見た。
まん丸に太った上にちょこんと乗った山高帽──彼のシルエットが夜空を背景に黒々と浮かんでいる。
ユウリはなお急いだ。
「おじさ──ん」
ユウリの声に、虫使いが振り向いた。
「……ああ、キミか」
虫使いの声はすっかりしゃがれて、息苦しそうだった。火事の煙を吸ったようだ。
ユウリは走った。が、なにをいっていいのか、わからなかった。
虫使いは丘の頂に立って、帽子を手で押さえたまま、ユウリに向かって深々と一礼した。
「おじさん……」
ユウリは足を止め、再度声をかけようとすると、虫使いはピンと背を伸ばし、夜空を見上げた。
針のような月が、中天に浮かんでいた。虫使いは帽子を取った。
途端、彼の帽子の下から、無数の小さな虫達が、一斉に、飛び出した。
小さな翅を星月の光に煌めかせて、小さな虫達は、夜空に舞い散っていく。夜空の星達が、細かい光の粒となって、夜空に昇って行くように思えた。虫達は歓喜しているようだった。思い思いの曲線を描き、全身を輝かせながら、元いたところへ帰って行く。
ユウリはただ呆然と、見つめていた。
最後の一羽が、夜の中に消えていった。
ユウリははっと我に返って、丘の頂に駆寄った。そこには、脱ぎ捨てられたように灰色のフロックコートと山高帽が落ちているだけだった。
そして、周囲には、ユウリの他に、誰も、人の姿はないのだ。
ユウリは頭を振った、それから頬をつねってみた。痛い。
背後を振り返った。
丘の上から町が見下ろせる。灯が街の形に集まっている。町の端の公園での火事も、大分、鎮火したらしい。ほとんど炎は見えず、ただ白い煙が細く立ち上っている。
ユウリは軽い足取りで、丘を降りて行った。