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板見司朗はせっそうなし 下

<3>

 当日。

 夜。

 全天に雲は無く、ぽっかりと空いたような丸い月と、ばらまかれたように散らばる星がよく見える空の下。

 相も変わらず、クラウの住む屋敷は静かで暗かった。

 ただ、その敷地内は常より闇が濃く、空気の色が違う。

 ぴりぴりと身が凍りつくような緊張、じりじりと肌を焼くような焦燥、かりかりと心の内を乱すような不安――それらが入り混じって、ただでさえ濃い闇を、深く暗いものにしているようだった。

 そこに、招かれざる――しかし、あらかじめ来ることが予定されていた来訪者がやってくる。

 それは一人の男だった。

 背は高く、身は細い。とは言え、貧弱というわけではなく、背の割には身が細いという意味であり、相応に引き締まっているという表現が正しいだろうか。乱雑に、短めに切り揃えられた金髪。その下には、鋭く、目に映るものすべてを睥睨するような自信に溢れた青い瞳がある。白いシャツの上に青いシャツを重ね着し、黒のズボンに、登山用だろうか、頑丈そうな編み上げブーツを履いていた。

 男は門の前に立っていた。

 開かれる気配など、あるわけがない。元より、彼はこの場に、この先に居るだろう人々に歓迎されていないヒトなのだから。

 開かれぬ門を前に、男はしかし諦めるでもなく呆れるでもなく、笑みの吐息を一つ吐く。

 口元が歪んで表現されるのは、攻撃的で、それ以上に傲慢さが滲み出る笑みだ。


 直後。

 轟音と共に、門扉が敷地内に向かって弾け飛んだ。


 がらがらと、重く響く音をまき散らしながら、門扉は敷地内を飛ぶ。重量と速度をもって落ちた門扉は、丁寧に整えられた芝地をえぐり飛ばして、または、白地の煉瓦を砕き散らして、地面に落ちる。

 粉塵がまき散らされる。

 しかし、それらは一瞬たりともその場に留まることはなく、次の瞬間には、突如として吹き荒れた風と共に霧散する。

 風が晴れ、敷地内の惨状がよく見通せるようになったその場所には、一人の侍女が立っていた。

 乱雑に、肩口で切られた金髪を風の余韻で揺らしながら。その下にある整った相貌は静かに、男を見据えている。

「出迎え御苦労」

 男は、目の前で静かに立つ侍女に対して、笑みの声で皮肉を言う。そんなわけがないと、確信しているだろうに、心にもないことを言う。

「ええ。お待ちしておりませんでした、お客様」

 一息。侍女は男の皮肉をそう受け流し、頭を軽く下げて、

「お帰り下さい、とは申しません。ただ問います。当家への御用は何でしょうか」

「事前に伝えていた筈だが。――クラウを出せ」

 侍女は頭を上げ、静かな表情で男を見る。そして、そうですか、と頷いた後で、表情と同様に、静かな調子で言葉を紡ぐ。

「当家への御用があり、去る気が無いのであれば。……私に出来るのは、お嬢様の自室に御案内することのみです。それ以外のことはできません」

 その様子に怪訝な表情を見せながらも、男は何のことは無い、ただの世間話をするような調子の笑み声で言う。

「貴様を殺し、屋敷を壊し尽くすと言ってもか?」

 しかし、侍女は全く動じることはなかった。

「私に出来るのはそれだけです。例え他の者を掴まえ、同じことを問うても、回答は同様。それを厭うのであれば、御自由に」

「……そこにクラウは居るのか?」

 男の問いかけに、しかし侍女ははぐらかすでもなく、己の本分を示すようにただ答えるだけだ。

「先導いたします。来るか来ぬかは御自由に。私に出来るのはそれだけですので。――これ以上、同じことを口にするつもりも御座いません」

 それだけを伝え、侍女は男に背を向けて、屋敷へと歩き出す。

 男はその背中を見て、舌打ちをひとつこぼした後で、侍女の後を追うように歩き始める。

 その胸中にあるのは、拭いきれぬ違和感と疑問符だった。

 端的に言えば、男は女を一人奪いに来たのだ。侍女たちからすれば主人に相当する女を、だ。古くから仕える侍女ならば、いくら金で雇われているからと言って、主人の危機に際してあそこまで感情が動かないなんてことはないだろう。例え関係の浅い者だったとしても――否、むしろそうであったならば、金で雇われているだけの関係しかない相手のために命の危険を侵すような状況にあって、心を乱さず冷静にあるなどということはありえない。

「…………」

 浮かんだ疑問符を解消するためにそこまで考えて、男は違和感の正体に気付く。

 主導権を握れていない。

 本来自分が握っている筈のそれを、誰かに奪われている感覚があるのだ。

 誰に? ――目の前の侍女だろうか、と考えたところで、男の思考は否と断じる。

 確かにこの場の主導権を握ったのは目の前の侍女かもしれない。しかし、この侍女は誰かの指示を受けていて、それを果たしているだけだ。それを果たす能力は、評価に値するものではあるかもしれないが。

「――はっ」

 そこまで考えて、男は口元を笑みに歪めた。

 だがそれだけだ、と。

 状況の主導権は今、この侍女に対して指示を出した誰かが確かに握っているのかもしれないが。それを容易く奪える自信が男にはあったから、それ以上思考することなく、ただ己のやりたいことを考えながら、侍女の後をついて歩く。

「…………」

 侍女は男の笑みに反応して、一瞬だけ視線を移した。

「どうかしたのか?」

 視線を受けた男は、浮かべた笑みを消さぬまま、侍女に対して問うた。

 侍女は特に何かを言うでもなく、視線を男から外す。

 指示された内容をただこなす侍女と、己のやりたいことだけを考える男は、その間に沈黙を挟んだまま、屋敷の中へと入っていった。





 屋敷をほぼ一周して、男と侍女の二人はクラウの部屋の前に辿り着いた。

「こちらがクラウお嬢様の居室です。後は御自由に」

 侍女は男に部屋を示して見せた後で、その場から立ち去るために、男に背を向ける。

「待て」

 男は部屋を前にして、しかしすぐに入ろうとはせずに、去ろうとする侍女を呼びとめる。

 侍女は男の声に去ろうとする足は止めたが、正対することはなく、首を少し傾けて視線だけを男に向ける。

「何か」

「いくつか聞きたいことがある。個人的に」

 侍女はしばし迷うような間を置いた後で、男と半身で相対するように身体を回した。

 それを了承の意として、男は問う。

「何故、わざわざ屋敷を回るような真似をした?」

「私は無粋な客人を、お嬢様の部屋に案内するよう仰せつかりはしましたが。どの道を通って連れていくかは私の裁量内でした。ですので、可能な限り時間を稼ぐために、遠回りをしたまで」

「そんな戯れ、見破られて殺されるとは思わなかったのか?」

「私は私に出来ることをするだけです」

「……ここにクラウは居るのか?」

「そこがクラウお嬢様の居室であることは保証いたします」

 男の問いに答えず、それだけを告げて、侍女はその場から離れるために男に背を向ける。

 男はその背をしばし見つめていたが、侍女の姿が見えなくなるより早く視線を外し、侍女に示された扉を開いた。

 部屋の中は暗かった。しかし、屋敷の廊下も含めて光の無い場所を通り続けていた男は夜闇に目が慣れており、その中を視認することができた。

 部屋は広い。床面積は二十畳程度の広さだろうか。その面積を囲う壁を追って視線をあげれば、天井は高く、灯っていないシャンデリアが吊り下げられている。部屋に置いてある調度品はベッド、応接用のソファと机、化粧台、ドレッサー――親しい友人くらいを招き入れられる程度に家具を揃えた、という雰囲気で、それぞれに特別豪奢な意匠が凝らされているということはなかった。

 部屋の中身は、そこに住む人間を示すというが――この部屋の場合、クラウ本人はとりわけ飾り付けるということを重視しない性格である、ということになるのだろう。

「…………」

 男は部屋の中身にくまなく視線を行き渡らせたが、この部屋の中にあるのは物だけで、人影すら見当たらなかった。

 この部屋には居ない、と判断したところで、男は窓の外に光が生じたことに気付く。

「……?」

 男は怪訝な表情を浮かべながら窓に近づく。増した光量に若干顔をしかめた後、その光量に目が慣れたところで、光源に視線を向ける。

 窓の先は中庭だった。

 建つ屋敷に囲まれた中庭は広い。その中庭を四つの区画に区切るように、十字に白い石道が埋め込まれており、区切られたそれぞれの区画には手入れの行き届いた緑が見える。

 男が視線を向けた光源は十字の中央であり、この中庭の中央に位置する場所に設置されている噴水の傍にあった。

 そして、そこには二つの人影があった。

 一人は藍色の髪を持つ少女であり――男の目的そのものである、クラウという名の少女である。

 もう一人は特徴らしい特徴のない青年だ。男は青年のことを知らなかったが、クラウが雇った障害なのだろうと判断する。

 男とその二人の間には距離がある。少なくとも、机を挟んで話すような声量では会話など出来ないほどに距離はあった。

 しかし。

「野郎に礼儀正しく接する主義は持ち合わせて無いんでな。手短にいかせてもらう。――俺は板見司朗という、人間だ。あんたの判断は間違っていないだろう。俺はこちらにおわす依頼人に、あんたを追い返してくれというような依頼を受けた傭兵だ」

 男の視線に気付いた少年――板見の声は、確かに男の鼓膜を震わせ、言葉を聞かしめる。

 窓越しに、それでも確かに視線を交わして、男は言う。聞こえているだろうという確信と共に、呟くような声量で。

「……傭兵風情に俺が倒せると思ったのか」

 その言葉に、板見は肩をすくめる反応を見せる。

「依頼人は倒して欲しいと考えているようだ。でもな、俺はそこまで荒事って得意じゃないんだよ。だから、話し合いでどうにか出来ないかなと思っているんだが」

 板見の言葉に、男はそうか、と一度頷くと、

「今すぐそこに行く」

 宣告するように、決然とした声音でそう言った。





 ――少し時間は巻き戻り、男が屋敷に入った直後となる。

 板見とクラウの二人は、屋敷の中庭中央に設置された噴水の傍にいた。

 門の方から発生し、今なおその残滓を響かせ続ける破砕音を聞いて、クラウは不安を隠さぬ面持ちを傍に立つ板見に向ける。

「奴が来た」

「そのようだ。アリス女史はうまく御出迎え出来てるのかね」

 板見はクラウとは異なり、疲れたような、呆れたような表情でクラウを一瞥した後で、噴水の縁に腰を下ろす。

「依頼人、君も座ったらどうだ? アリス女史には、可能な範囲で遠回りをしながら、君の部屋に案内するようにお願いしている。この屋敷の広さなら、少なくとも十分くらいは要るだろうよ。その間はやることが無い。立っていても疲れるだけだと思うぞ」

「…………」

 クラウはわずかに逡巡する様子を見せたが、溜息をひとつ吐いた後で、板見の隣に腰を下ろした。

「おや素直」

 板見はその様子を見て、からかうような笑みを見せた後で、脚の上に頬杖をついて欠伸をひとつこぼす。

 クラウは板見の笑みを見て、表情に苛立ちの色を加えて舌打ちをひとつ落とす。しかし、すぐに苛立ちは不安の色に押しつぶされて消えていき、そわそわと、ぶるぶると、落ち着かない様子で身を動かす。

 板見はその様子を横目に捉えて、しばらくは我慢していたが、

「……依頼人。そういえば、今その辺をうろついているだろう男について、俺はまだ何も知らないんだが。名前とか知っていたら教えてくれないか?」

 こんなのが横に居る上での沈黙とか勘弁してくれと言わんばかりに、心底だるそうな表情で、クラウに尋ねた。

 クラウは声をかけられたという事実を処理するのに数拍、聞かれた内容を咀嚼するのに数秒使った後で、驚愕を通り越してあきれ果てたという様子で、口を開く。

「この期に及んで、相手のことも知らないのか、オマエは……」

 板見はクラウの表情を見た後で、おどけるように肩をすくめて、諸手を挙げて見せる。

「傭兵が仕事を放棄する程度に面倒な相手だ、ということは君から依頼を受けた時に、君の話から把握した。仕事を果たす上でそれ以上の情報なんて要らないから集めなかった。今は暇だから。暇つぶし程度にはなるだろうと思ってな。俺と依頼人、この間にある共通の話題は仕事に関する話以外に無いだろう? だから聞いてみてるのさ。君から聞きたいことを聞いて貰っても構わないんだが、とりあえず名前だけでも教えてくれるとありがたい」

「……フェルディアというそうだ」

「かっこいい名前だ。羨ましくはないが」

 板見はクラウに視線を移すことなく、聞いた名前について、どうでもよさげに頷きを返した。

 ただの確認だから、だろう。とは判っていても、聞かれたから答えたというのに素気ない反応をされては、クラウとしては面白く無い。しかし、それを口に出したところでろくな展開にはならないだろうと、少ないとはいえ、板見との対話経験から判断し、

「なぁ、聞いてもいいか?」

 会話を続けるための言葉を口にした。

 板見はその言葉を聞いた時点ではクラウに視線を向けてはいなかったが、

「聞くだけなら。――冗談だ。答えられる範囲の問いには答える。答えたくない問いには答えない。それでもよければ、場面が動くまでの間、いくらでも、尋ねたいことを尋ねてくれていい」

 最初の言葉を口にした瞬間にクラウから向けられた三白眼の圧力に思わず視線を向けてしまい、根負けしたような吐息を吐いて、クラウの問いを促す言葉を口にした。

 クラウは板見の反応に、ほんの少しだけ笑みを得て、その笑みを消すように咳払いをした後で、問いかける。

「おまえはどうしてそんなに落ち着いていられるんだ?」

 ただの世間話か、と。板見は膝の上でついた頬杖をつき直しながら答える。

「単に、依頼人、君が落ち着いていないだけだと思うよ。後は、顔に出ないだけ。この辺は場数の違いだろうけど」

「勝算はあるのか?」

「勝利の形による。俺の思い描く勝利には当然届くように仕掛けをした。しかし、それが依頼人にとっての勝利と同義であるかどうかまでは知らない。ただし、君の身柄を、君の同意無く、彼が自由に出来ないようにするための処置は必ず行う。それを果たすのが仕事だからな。まぁ、果たせるかどうかは、いざとなるまで判らないところだ。確実に果たせる、とは約束しない」

「その処置を行うまでの間に、私が奪われるかもしれないぞ?」

「そうなったとしても、その時はその時で仕事を果たすさ。君が無事――かどうかは確約しないが、とりあえず、この家に辿り着ける程度には努力しよう。これも約束はしかねるが」

「そもそも、私が奪われた時点でオマエは生きていないかもしれないものな」

 クラウが苦笑を浮かべて言った言葉に、

「……そうだな。そうかもしれない」

 板見は少し答え方を迷うような間を置いた後で、頬を掻きながら、御茶を濁すような、歯切れの悪い言い方で応えた。

 クラウは初めて見る、板見の答えあぐねる様子に違和感を覚えて、それを問い質してみようとしたが、

「依頼人。そろそろ世間話は終了だ。本番が始まるぞ」

 板見の言葉に、身をかたくして口を閉ざした。

 ただ、身をかたくした事実を隠したくて。クラウは先程まで出そうとしていた問いとは違う言葉を口にする。

「本番とはどういう意味だ?」

「茶番劇のぶっつけ本番が始まるって意味だ。――そうかたくなるなよ。さっきはああ言ったが、依頼人が想定しているような最悪は起きないから」

 一息。板見は言葉の真意を問い質そうとするクラウの肩に手を置いて、

「ま、仕事は果たすというだけの話さ。とりあえず、依頼人、君はこの噴水から……というか、俺から少し離れて立って待っててくれ」

 巻き込まれると面倒だから、と続けられた言葉に、クラウはそれ以上言葉を続けることが出来ず、ただ従った。

 板見はクラウが十分離れたのを認めると、苦笑を浮かべて、何かに示すように手を挙げる。

 次の瞬間、その手の中には目を差すような光が生まれる。

 いきなり生まれた光に眩みながら、クラウは板見の言葉を聞く。

「野郎に礼儀正しく接する主義は持ち合わせて無いんでな。手短にいかせてもらう。――俺は板見司朗という、人間だ。あんたの判断は間違っていないだろう。俺はこちらにおわす依頼人に、あんたを追い返してくれというような依頼を受けた傭兵だ」

 誰に対する言葉なのかは、クラウにもすぐ想像がついた。自分以外にこの場に関わるような人物で、板見のことを全く知らない者は、一人しか存在しないのだから。

「依頼人は倒して欲しいと考えているようだ。でもな、俺はそこまで荒事って得意じゃないんだよ。だから、話し合いでどうにか出来ないかなと思っているんだが」

 何を言っているんだ、と。クラウは板見の言葉を聞いて思う。

 倒す――否、場合によっては命を奪って死に至らしめる、殺すという手段をとらなければ、依頼した仕事を果たせる訳がないだろうと。

 だから、それを質すべく、クラウは横に居るだろう板見に対して言葉を作ろうとした。

 瞬間。

 クラウは爆発するように内側から破裂する屋敷の一角を視界に捉えた。

 塵芥と瓦礫が飛沫の如く四散する。

 それらは一瞬とかけずに破壊の中心からクラウの元へと真直ぐ殺到する。

「……っ!?」

 殺到した直後。粉塵となったそれらはクラウの周囲から掻き消えると、今度は方向を変えて、真横から衝撃を伴ってクラウの身体に叩きつけられる。

 同時に、塵芥に呑まれたか――はたまた、他の理由によってか。先程まであった光が掻き消えて、周囲に闇の帳が落ちる。

 音は後からやってきた。

 腹の底に響くような低く重い音が幾重にも折り重なって、クラウの身体を震わせる。

「……な、何が」

 起こったのか、という声は続かない。

 粉塵が晴れるのを待つまでもなく、この破壊をまき散らした元凶がクラウの視界に捉えられたからだ。

「そこに居たのか、クラウ」

 粉塵を裂いて現れたのは、一人の男だった。

 クラウの脳裏に、つい先ほど板見に対して告げた名前が強く浮かぶ。

 ――フェルディア。

「時間は与えたが。よもや、用意出来たのがあの程度の傭兵一人とはな。まぁ、俺が相手と知っていながら仕事を受ける虚けを見つけられたということは、評価に値するのかもしれんが」

 フェルディアは苦笑を浮かべながらそう言うと、クラウの方へと足を進め始める。

「何をした?」

 クラウは下がろうとする自分の足をその場に押し留め、歯が鳴るのを抑えるように噛んで、力のある視線をフェルディアに向ける。

 その視線を受けて、フェルディアは苦笑を浮かべながら肩をすくめる。

「障害を排除した。それだけだ」

 クラウはフェルディアの言葉を咀嚼し、唖然と、目を見開いて驚きを見せる。

「……あの一瞬でか!?」

 フェルディアはクラウの驚きを余所に、クラウへと近づき、

「さて。クラウの用意した障害は越えた。覚悟はいいな? 一緒に来て貰うぞ」

 その言葉と共に、クラウの身体に手を伸ばす。

「……っ」

 クラウはフェルディアの手から身を守るように自身を抱いて、目を強く瞑る。そして、叶う筈の無い望みを――フェルディアの手が自分に触れないことを、フェルディアという人間がこの場から立ち去ることを強く願う。

 フェルディアはクラウの子供じみた、何の解決にもならない、抵抗にすらなっていない反応を見て、嗜虐的な愉悦が覗ける笑みを浮かべた。そして、伸ばす手を止めることなく、クラウの肩に置く。

 後は掴み上げてでも連れ帰り、それで終わりだと、フェルディアは確信していた。

 しかし。

 その根拠のない確信は、根拠によってのみ成り立つ現実の前に容易く砕かれることになる。

 前兆は無かった。

 ただ自然。そうであることが当然であるかのように。

 フェルディアがクラウに触れた瞬間、屋敷内全ての闇を取り払えるのではないかと錯覚するほどの光量が爆ぜた。

「なっ……!?」

 無警戒のところに生じた光爆に、フェルディアは驚愕を示しつつも、冷静に対応する。防御のために魔術を行使し、損傷を防ぐことには成功した。

 しかし、爆発の衝撃による物理的な干渉そのものを防ぐところまでは間に合わない。

 フェルディアの身体が爆ぜ散る空気に押されて宙を飛ぶ。

 フェルディアは舌打ちひとつで行使する魔術を追加し、空中で身を回して地面に着地した。後ろを見れば、彼自身が破壊した屋敷の一角が近くに見える。視線を前に移せば、粉塵は晴れており、クラウが遠くに居るのがよく見える。

 クラウは石道の上にぺたりと尻もちをついて、ぽかんと間抜けな表情でフェルディアを見ていた。表情から、先程の現象が彼女の把握していないものであることが読み取れる。

「どういうことだ?」

 フェルディアはここで初めて、警戒の色を瞳に浮かべて視線を周囲に巡らせる。

 警戒もするというものだろう。なにせ、何が起こったのかは把握できても、その原因が一切理解出来なかったのだから。

 フェルディアもクラウも、両名ともに、自身が扱い、他人の扱う魔術に関する造詣は深い。クラウは戦うことは出来ずとも、相手の強さの判別が出来る程度の能力がある。フェルディアに至っては、金さえ払えば何でもする、という看板で商売をしているだろう傭兵さえ敬遠するほどの兵だ。

 魔術を行使するには力が必要だ。そして、成立するまでの時間をどれほど短くしようとも、発動する前触れというものは確かに判るものである。力が一定以上あって初めて結果が生じるというのは魔術においても常識であり、魔術が成立するまでに集まる力の流れ、のようなものは確かに存在しているのだ。だから、魔術に精通していればいるほど、その前触れには敏感に反応することが可能となる。

 しかし、先程発生した爆発にはそれが無かった。

 魔術によって発生したものではないのなら、なるほど、確かに魔術成立の予兆を感じないのも無理はない。魔術など使われていないのだから、予兆などある筈がない。

 魔術によって生じた結果でなければおかしいのに、その前兆や原因が理解できない現象が生じている――そういう場は確かに、世界のどこかに存在する。フェルディアは経験として、その場に訪れたことがある。クラウは知識の上で、そういう場所があるということとその場所の名前程度は知っている。

「だが、ここは違うだろう」

 しかも、この現象が起こったタイミングが、偶発的なものだと断じるにはあまりに良すぎる。人為的なものだと判断する他ない。

 しかし、誰が?

 フェルディアの思考がそこに至ったところで、ぱらぱらと、何かが剥がれ、崩れ落ちるような音が響いた。

 フェルディアとクラウは両者ともに、跳ねるような素早い動きで視線を音源へと移す。

 音源は十字の石道にあった。

 何かが勢いよく叩き付けられたような破壊の中から、よっこらしょ、と付けたくなるような気だるげな動作で立ち上がる人影がひとつあり、その動きに合わせて、その身体に降り積もった塵芥が落ちて音を響かせていた。

「痛いわー……」

 二人の視線を受けながら。とてもそんな発言では済まないだろう惨状の中から立ち上がっておきながら。掃除中に埃を大量に被ったから払っているような、平素と変わらぬ調子で身体や服を叩いているのは、

「板見」

 クラウが茫然と名前を呟く。

 名前を呼ばれた板見は、やれやれと、疲れたような吐息を吐いた後で、

「はいはい、何かな依頼人。……そんなところに尻もちついて、冷たくないの?」

 何事も無かったかのように、言葉を受けて、かははと笑う。

「貴様……!」

「やあやあ、いきなり蹴りぶちかましてくれやがった兄ちゃんじゃないか。フェルディアっていうんだっけ? 折角話し合いでいこうぜ、と言っているのに、返答が暴力ってのはちょっと、言語野に障害があるんじゃないかと思うから病院に行けと言っていいか」

 フェルディアの呼びかけを受けて、板見は三白眼を向けて非難の言葉を投げた。

 フェルディアはその言葉を無視して、ただ問う。

「何をした!?」

「あー? ……ああ、なるほど、なるほど。そこまで話が進んでいるわけか」

 フェルディアの問いかけに、板見は始め何を喚いてるんだこいつというような怪訝な表情を浮かべたが、フェルディアとクラウの両名をのんびりと見比べて、合点がいったといわんばかりに、ぽんと手を打って何度も頷きを見せた。

「私も説明が欲しい」

 クラウは先程までの有る意味張りつめた空気をぶち壊して一人合点している板見を、ただ疑問符を浮かべた視線で見る。

「依頼人から言われちゃ仕方ない」

 板見は苦笑を浮かべて肩をすくめながら、噴水の方に、しっかりとした歩調で歩き始める。

「と言っても、明かすほどのものは無いんだがな。俺が仕掛けた結果は既に見ただろう? どういう形で拒絶されたのかまでは知らないが、そっちの野郎が依頼人に手を出した瞬間に何かしらの反応があって、それを見たから、疑問符を投げかけられているわけだろうし」

 フェルディアは板見の一挙手一投足さえ見逃すまいと、警戒を露わにした視線を向けるだけで黙り込む。

 代わり、というわけでもないだろうが。

 クラウが口を開いて、話を聞きだすべく問いかける。

「あれは何なんだ?」

「依頼人の御依頼に合わせた商品みたいなもんだけど?」

「……端的過ぎる。私はオマエほど賢くないんだ。もう少し詳しく説明してくれ」

 クラウの言葉に、板見はふむと頷き、わずかに考えるような間を置いた後で問いかける。

「俺がどういった内容で仕事を受けたか覚えているか?」

 つい先ほどそんな話をしたな、と。クラウは思い出しながら、間を置かずに答える。

「私の身柄を彼に渡さないようにすること」

 板見はクラウの返答に、おしいなと苦笑を浮かべる。

「若干違う。君の身柄があれに渡らないようにすること、だ」

 クラウは言葉の内容に、眉根を詰めた怪訝な表情で非難するように言う。

「……どこが違うんだ?」

「渡さないだけなら君を死に至らしめるだけで解決だ。生きていない依頼人には、おそらく興味が出ないだろうし。燃やしてしまえば跡形も無くなり、渡るものがない」

 何でも無いことを答えるように。軽い口調で、板見はクラウの問いに答えた。

 その内容に、クラウはおろか、板見の動きを注視し警戒していたフェルディアでさえ驚愕し、絶句した。

 一拍の間をおいて、クラウははっと意識を取り戻したように表情を引き締めて、しかし声音は未だ動揺で震えたまま声を荒げる。

「はぁ!? 何を言っているんだオマエは!」

 想像通りの反応だ、と。板見は笑みを浮かべて、

「仕事を果たす形には色々あるという与太話だが。良かったな、俺がそれなりに良人で。その違いが判らないお子さまだというのは理解していたし、そういう条件で受けても良かったんだが」

 一息。笑みを自嘲のそれへと変えて、かははと声をあげて笑った後で、

「悪い、話が逸れた。渡さない、渡らない、という違いは個人的な解釈によるもので、それによって果たす形が異なるという話だということだけ判ってもらえれば嬉しいね。ともあれ、俺は君の身柄が渡らないようにする、という仕事を受けたわけだ」

 クラウの傍まで辿り着くと、石道に座り込んだままのクラウに手を差し出した。

 クラウはその手を握ってよろよろと立ち上がった後で、決まりの悪そうな表情を浮かべて言う。

「……それはわかったよ。というか、細かいところはどうでもいいんだ。さっきのは何かを説明してくれ!」

 駄々をこねる子どもみたいだなぁと思いながら、板見は溜息をひとつ。

「横暴な依頼人だなぁ。説明したい順序ってのがあるんだから、言いたいように言わせ――判った、判ったからそう睨むな。要は、商品の説明をすればいいんだろう? ……今回依頼人に提供したのは、自動型攻性防御壁ってやつだ。字面で伝わると嬉しいんだけど」

 板見は言ってクラウを見る。

 クラウはただ無言の三白眼で板見を見返すだけだ。

 板見はしばしの間、黙って視線を合わせていたが、根負けしたように目を伏せて吐息交じりに言う。

「……あいつが君の了承なく触れようとすれば、攻撃でもって拒絶する。ただそれだけの壁なんだが。強度はそれほど高くない。あいつが本気で死に至らしめんと放った攻撃なんかは、防げない。というか防がないけど」

「何で」

「君の身柄を渡らないようにする程度なら、そういう形で十分だろうと判断したのさ。ちなみに、君の自我がなくなっても機能します。死体にすら、あいつは触れることができません。あくまで、君の身柄があれに渡らないことを目的とした防壁だから、条件はちょっとばかり特殊にしてある。あと対あれ用だから、他の奴に対しては無用の長物、役立たずの防壁だし、色々と穴もあるが」

 とりあえず仕事は果たした形になるだろう? と、板見は何でも無いことを言うように付け足した。

「他に何か質問は?」

「……これはどれくらいの間効くんだ」

「一生。君があれの行動を拒絶する限りは、指一本だって触れられやしないさ。……男相手だったら一日限り、とかにするんだが。依頼人は女性だからな。サービスだよ」

 言って、板見は傍らに立つクラウを見て、視線で他には無いかと問う。

 クラウはしばし悩むように視線を右往左往させていたが、やがて首を横に振り、これ以上は無いということを示して見せる。

 板見はそれを見て、それはよかったと頷いた。そして、さて、と言葉を作り、フェルディアの方へ視線を移す。

「あんたも似たようなことを聞きたかったようだし、疑問が解けたのなら、さっさと失せてくれると助かるんだが」

 フェルディアは板見の挙動を注視しながら、いつでも動けるような心構えをした上で言う。

「俺も貴様にいくつか聞きたいことがある」

「断る。野郎と話しても面白いことなんぞありゃしない。ただし、依頼であれば聞いてやる。報酬は依頼の内容によるが」

 板見は即座に切って落としたが、多少取りつく島を用意してやる程度に譲歩を示した。

 フェルディアは板見の譲歩の仕方に疑問を覚えたが、受けなければ話は進まないと判断し、頷く。

「……いいだろう。依頼は二つ。まずは一つ、質問に答えろ、という依頼をする」

 板見はやれやれと疲れたような溜息を吐きながら頭を掻き、どうでもよさそうな、やる気の無い様子で頷いて見せる。

「質問に応じる程度でいいなら、受けてやる。二つ目の内容も知れてるが、一応一つ目を果たした後で聞いてやろう。報酬に関しては二つ目の内容を聞いてから指定する。この条件が呑めるのであれば、依頼人、質問をどうぞ?」

「どうやってその魔術を起動している?」

「企業秘密。そもそも、相手に時間を与えているのに、何の対策もされていないと考えて、されていたとしても自分の力なら容易く踏み潰せると油断してる下の下が相手なら、大抵のことはうまくいく。魔術の成立時点を誤魔化し、悟らせない程度なんてのは欠伸が出るほど簡単だ。むしろ、他の傭兵がこんな簡単な仕事を受けなかったということが俺には信じられないくらいだしな。常道な魔術でも再現は可能だから。今回は時間が無かったから多少裏技を使ったが」

 フェルディアは裏技という単語に疑問を覚えないではなかったが、問うたところで答えは返ってこないだろうと判断して、別の問いを口にする。

「……その防壁、どうやったら解除できる?」

 質問の内容に、板見よりもクラウの方が先に反応を示す。それは驚愕であり、跳ねるような動作で視線をフェルディアから板見へと動かした。

 板見はクラウの視線を煩わしげに、嫌そうな表情で受けた後で、その表情を消すように吐息をひとつこぼして言う。

「自分の仕事、その穴をわざわざ対策相手に教える訳が無いだろうに。――とは言え、そうだな。この回答では話が先に進まないか。今から出す条件が呑めるのなら、答えてやる」

 答えてやる、という言葉に。クラウがちょっと!? という表情で板見の胸倉をがしりと掴んで揺らし始める。

 板見は止めるのも面倒くさいといわんばかりの表情で、されるがままになっている。

 フェルディアはその様子を見ながら、舌打ちをひとつこぼして、板見の言葉の先を促す。

「なんだ、言ってみろ」

「言った以上は必ず呑めよ? ――依頼人、二つ目の依頼を受けた際に俺が出す報酬条件を必ず受け入れ、実行しろ」

「いいだろう」

 自分を置いて話が進んでいることなど、クラウは声高に主張したいところがいくつもあったが、処理が追い付かず口が動かない。とは言え、動かない口の代わりに表情が雄弁に内心を伝えていたのだが。

 今なんか、言わないよな!? な!! という懇願が聞こえてくるような必死な表情で、板見をぶんぶんと揺さぶりまくっている。

 板見はそろそろ首が痛くなってきたなぁと思いつつも、クラウの行動を止めることなく、揺らされながらフェルディアの言葉に答える。

「俺を死に至らしめること。これなら果たせば必ず消える。そしてもう一つ、今日に限って言えば、こちらの依頼人を敷地外に出すと消えます。

 とは言え、後半はあんたには無理だろうけど。この防壁、厳密に言えば、あんたが彼女に対して了解なく害となるだろう行為を行おうとすると発動するんだ。そして、その害為の規模に応じて起動する相対距離も変動する。肩に触れる程度なら触れた時点で発動するが、一定の敷地ごと、彼女を外に出そうなんてことをする場合、そう考えた時点で先にあんたが敷地外に吹き飛ぶことになるだろう」

 答えやがった! といわんばかりの愕然とした表情を浮かべて、クラウは固まる。

 板見は今の内にとクラウの両手を離して、コリをほぐすように調子の狂った首をごきごきと回す。

「では二つ目の依頼だ」

「質問は終わりか。以降の質問には応えることもしない場合があると思っておけ。では、聞こうか」

「正式に勝負を挑む。受けろ」

 だと思った、と。板見はうんざりした様子で溜息をひとつ吐く。

「顔を合わせた直後に蹴りぶちかましてくれやがった野郎の言えることじゃあないぞ、本来。だが、受けてやる。……受けないと、損になるだろうからなぁ。どうせ、受けても受けなくても仕掛けてくるんだろう?」

 板見の嘲笑交じりの問いに、しかしフェルディアは取り合わず、

「貴様が要求する報酬は何だ?」

 話を先に進めるための問いを続けた。

 板見はここで初めて、目の前に居るフェルディアに視線を合わせて、歯を噛むような、強く、攻撃的な笑みを浮かべた。そして端的に、突き付けるように要求を告げる。

「欲しい女を乱暴に奪う、なんて下らないことを二度とするな」

 この言葉に、クラウとフェルディアは同時に、目を大きく開いて驚いて見せた。

 板見は両者の反応を無視して、言葉を続ける。

「男は女を守るもんだ。それが力を揮って侍らすようじゃ話にならんし気に入らん。欲しいなら口説き落とせ。出来ないなら迫るな、見苦しい。もしも似たようなことを再びするようなら、その場で早々に死に絶えろ。そう呪ってやる。呪いを解こうとした場合でも死に至らしめるような性質の悪いやつをかけてやるから覚悟しろよ」

 一息。クラウを突き飛ばすように肩を強く押した後で、一歩を前に踏み、

「本当はもっと別な展開にする予定もあったんだ。だが、あんたに会って気が変わった。完膚なきまでに叩き潰してやらないと気が済まない。ガキ大将風情が思い通りに出来るほど、世の中甘くないんだよ。何から何まで中途半端な屑野郎に現実ってものを教えてやる」

 これまでのキャラはどこにいった? と思わず口にしてしまいそうなほど豹変したように、苛立ちを隠さず、感情を思い切り言葉に乗せまくって、まくしたてた。

 言葉の内容は純粋な罵倒である。

 フェルディアは驚愕から剣呑な――攻撃色しか見えない表情に切り替えて、構えをとる。

 クラウは驚愕に動揺と焦りの色を加えて、フェルディアと板見の間で視線を往復させながら、

「……い、板見。顔を合わせただけなのに、随分な言い草、だな?」

 とりあえず、近くに居る方に声をかけてみた。

「一目見れば判るだろうあんな薄っぺらいの。正直、依頼人、君の境遇に対して、ほんの少し前まで何の感情も無かったが。今は同情しているよ。あんなのに目をつけられれば、そりゃ誰だって嫌になる。だから、真面目に取り組むことにしたのさ」

 苛立ちをそのまま言葉に乗せたような声音に、クラウは八つ当たりという言葉を脳裏に思い浮かべたが、とりあえずそれは置いといて、気になった部分をそのまま尋ねる。

「色々言いたいことはあるんだが。とりあえず、手を抜いていたのか? と聞いていいか」

 板見はくだらないことを聞くなよと言わんばかりの表情で溜息をひとつ吐き、

「手を抜いてそれが作れると思っているのなら、君も少し殴って現実教えてやる必要があるんじゃないかと思えてくる。――purge」

 クラウの言葉に応えた後で、どこからともなく取りだしたあるものを手に握る。 

 それは、一本の武器のような何かだった。

 形状は長く、太めの棒というところだろうか。長さは板見の身長ほどで、握りこんだ時に力の入れやすいような――握りこんで少し手に余る程度の太さだ。色は黒。闇の中にあっても浮き立つほどに黒く、また、殆ど光が無いのに、闇そのものを照り返すような質感を見る者に感じさせる。だというのに、金属らしさなど微塵も無い――むしろ、風化寸前の、錆だらけでぼろぼろになっているような印象も同時にある、奇妙なものだった。

 クラウの目からは、素材そのものは謎めいているものの、地面に叩きつけたら壊れてしまうようなガラクタとしか映らない。

 フェルディアの目から見ても、少なくとも武器として使えるような代物だとは判断できない。

 しかし、板見はそれを手に馴染ませるように指運で軽く回した後で、石道に突き立てるように武器の先端を叩きつけると、

「さて、いい加減面倒だ。さっさとかかってこい三下。長々と付き合うつもりはないから、精々後悔の残らないように力を尽くせよ」

 空いた片手で、かかってこいといわんばかりにフェルディアを挑発してみせる。

 それを合図として、両者の戦闘は開始された。

 そして。

 決着は一瞬だった。

「……え?」

 肉を叩く鈍い音が響いた。

 次いで響くのは、重たい肉質の何かが何度も硬いものを叩くような音であり――それは、何かが石道を跳ねて転がる音だということに、数拍の間をおいてから気付くことだろう。

 跳ねて転がる敗者も、それを見届ける観客も、だ。

 勝者のみが平然と、結果を受け入れ話を進める。

「本当は、何回か攻撃を受けてやる予定だったんだがな。あんたがもう少しマトモに見えれば、そうしてやっても良かったんだがな」

 噴水の傍で、戦闘における勝者――板見は誰にともなくそう呟きながら、武器を肩に担って吐息を吐く。

「普通に叩き潰す方が面倒は少ないんだ、本当のところは。ただ、盛り上がりに欠けるし、一方的な展開というのは実のところ、誰も興味を持たない。追い詰められた後に逆転する、それこそ、誰もが望む展開だろう? ……まぁ、もしもこの話を見てる人間がいれば、こういうオチになることは予想していたかもしれないが」

 そして、面倒臭そうな様子で、武器で肩をほぐすように軽く叩きながら、石道の上に転がったままのフェルディアに向かって嘲笑を浴びせかける。

「どうした三下。立たないなら試合終了だ。早々に失せろ、負け犬」

 嘲笑を浴びせかけられても、フェルディアはそれに反応することができなかった。

 フェルディアの様子を端的に表すならば、認識が現実に追いついていない状態というところだろうか。

 なぜ自分は地面に横たわっているのか。なぜ身体は動かないのか。なぜあの男が立っているのか。なぜ、なぜと――ただ現実に対する疑問を処理できずに、固まっているように見える。

 クラウにも何が起こったのか判らなかった。板見が挑発した直後に、フェルディアが挑発に反応するように飛び出て、戦いは始まったのだろうと、想像することは出来る。しかし、なぜフェルディアの方が倒れているのか理解できなかった。そも、フェルディアほどの兵が行う戦いというものを、クラウは視覚でしかと捉えることは出来ないだろうに――それでも、目の前で起きている結果に疑問を覚えて、その疑問を口にする。

「何をしたんだ?」

 その声には、わずかな震えが混ざっていた。

 その震えが恐怖の色すら帯びていることに、クラウは果たして気付いているのかどうか。

 板見はその声を聞いて、困ったように、額を空いた片手で掻きながら沈黙を作った後で、

「叩き伏せた。それだけ」

 クラウの様子を見ることも無く、フェルディアから視線を外さないまま、淡々とした声音でそう答えた。

「…………」

 それだけ、という言葉で片付けられるほど簡単なものではないだろう。

 クラウはそう言葉を作りかけたが、なぜかそれ以上言葉を作ることは出来ずに、押し黙る。

 言葉なく、板見とクラウの二人は石道の上に転がったまま起き上がらないフェルディアに視線を移す。

 やがて。

「叩き伏せた? 叩き伏せた、だと……!? あれが、そんな単純な一撃なものか!」

 認識が現実に追いついたフェルディアが、地面から身を剥がすように身を起こしながら、板見に向かって声を荒げた。

 その様子を認めて、板見は舌打ちをひとつ。

「声をあげる程度の活きは残るよう配慮したが、少しはしゃぎ過ぎだな。加減を見誤ったか」

 中途半端に強いヤツはこれだから、と呟いた後で、肩を落としながら続ける。

「そうだな。確かに言い過ぎた。さっきのは、ただ叩いただけだ。叩き伏せると表現するには、結果の方が足りていないか。何なら、今からその表現に届くようにしてみせようか?」

 続けて、板見はくっと口元を歪めた笑みをフェルディアに向けた。

 その笑みを受けて、

「がああああああああああああああああああああああああああ――!」

 フェルディアは獣の如き、野太い吠声をあげて石道に向かって両手を勢いよく振り下ろした。

 同時。

 重い破れ砕けの音と共に、石道が爆ぜ飛び、その勢いに巻き込まれた芝地が吹き飛び宙に播かれた。

 草と土、そして石の欠片が塵芥となって板見とクラウの元まで飛散する。

 視界を奪って出来た隙を突くつもりか――そう、クラウが思考したときだった。

「――diffuse」

 クラウは板見が色の無い声で呟く言葉を聞く。

 直後。

 思わず耳を塞ぎたくなるほど甲高い、痛烈な割れ砕けの音が鳴り響き、フェルディアの生み出した破壊によって生じた風が余韻すら残さず掻き消えた。

 刹那の無音。

 それを聞いて我に返ったように、クラウはぶるりと一度身震いをした後で、視線を板見の方へと移す。

 そこには奇妙な光景が広がっていた。

 板見は携えた武器をただ横に、水平とは言わないまでもまっすぐに構えている。

 そして、その武器の先端に自らぶつかっていったような、そんな間抜けな姿勢で、フェルディアは固まっていた。

 具体的に言えば、板見の構えた武器はフェルディアの額、そのちょうど真ん中に突き立てられていて、白目を剥いて気を失っている様子のフェルディアは、額に突き立つ武器に支えられてかろうじて身体を立てているような状態になっていた。

「……は?」

「叩き伏せた訳でもないが、これで依頼は完了でいいだろう? 何にせよ、倒したと表現出来る状態にはしたからな」

 板見は視線を送ることなく、クラウに対してただ一方的にそう告げると、構えた武器をくるりと回してフェルディアの額から外す。

 支えを失ったフェルディアの身体は、ぼとり、と力無く地面に倒れこみ、時折生きていることを示すように、痙攣によって身を震わせる。

 クラウはそれを見て、本当に害は無くなったんだと、自分でも妙だと思える位に冷静な心持で納得した。何が起こってこうなったのか、どうしてこれだけのことが出来るということを話さなかったのか――疑問というならいくらでも頭の中で浮かんでは消えているのだが、言葉を作ることは出来ず、板見の言葉に、ただ黙って頷きを返す。

 板見はそれを見るでもなく、何でもないことを思い出して付け加えるような気軽さで続ける。

「およそ一日程度、これは目を覚まさないだろう。その間に、生かすも殺すも自由だ。俺はその選択に干渉しないが、ただ言っておく。これが生きていようといまいと、君の身柄は決してこれには渡らない。それは確かに果たした。仕事だからな。この結果は、サービスとは少し違うが、降って湧いた程度のおまけというところだろう。好きにしろ」

 そして、ああそうだ、と。これは言っておかなければと、板見はうっかりしていた自分を笑うような笑みを浮かべて頭を掻きながら、茫然と立ち尽くすクラウの方へと向き直る。

「依頼人」

「な、何だ?」

 突然板見と視線が重なって、クラウはびくりと身をすくませながら、おっかなびっくりという様子で呼びかけに問いを返した。

 その反応に対してはとくに何も言わず、板見は気軽な調子で言う。

「仕事は果たした。だから、金の話をしたい」

 クラウは板見の言葉を咀嚼するのに数拍の間を要した。そして、内容を理解したと同時に、脱力するように肩を落として、苦笑を浮かべる。

「……いきなりだな」

 しかしそれらしいもの言いだ、と続けて、苦笑を淡い笑みに変えた。

 板見もその笑みに応じるように笑みを浮かべる。

「大事なことさ。世の中はギブアンドテイクで出来ているんだから。さて、今回の仕事、その成功報酬はいくらで合意をしたのか、覚えているか?」

 板見の問いに、クラウは間をあけず応えて見せる。

「分割有りの五千だったよな」

 板見はクラウの回答に、わざとだと一目でわかるくらい大げさに感心してみせ、それを強調するように、大きく何度も頷きを見せる。

「ちゃんと覚えていたとは感心感心」

 クラウは板見の反応を三白眼で見据えながら、

「私を馬鹿にし過ぎだろう、それは。仕事は果たして貰ったんだから、ちゃんと――」

「でも、五百でいいや」

「――払うさ、って、はぁ!?」

 はっきりと、誠実に応えようとしたところで、板見の言葉に素っ頓狂な声をあげた。

「それならすぐに払えるんだろう? というか、すぐに用意できるんだろう?」

 驚愕驚嘆を示すクラウに対して、板見はあくまで常と変らぬ様子で、話を先に進めるための問いを投げる。

 その反応のせいで、自分だけ取り乱しているというのがおかしい気がして、クラウは努めて落ち着くように念じながら、板見の問いに答える。

「いや、まぁ、払おうと思えば引き出せるとは思うんだが。今すぐに、と言われると難しいぞ」

「この家にその額の金は置いてないのか?」

 言われて、クラウは親の金庫のことを思い出し、言いたくないなぁという気持ちが透けて見えるような面持ちで、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「……それなら、まぁ、なくはない、と思うが」

「だったらそこから引っ張り出してくれればいい。後で依頼人が補填すれば、問題はないだろう。親の金をくすねることは良心が痛むと言うのであれば、それは君がここで負うべき負担だよ。それは違うと言うのであれば、分割で五千にする。少なくとも、そちらの方は間違いなく、君が負うべきものだと判断できる筈だから。どちらにするかは君の判断だが」

 どうする? と、板見は視線だけでクラウに問いかける。

 クラウは板見の視線を受けて、受け止めながら、板見の言葉――その中身について考える。

 この場で払うならば、五百で済む。この場で払わないならば、五千も払うことになる。

 そういうことだ。それだけの単純な選択でしかない。

 だから、悩む必要など無かった。

「分割で五千。そういう契約だったな?」

 クラウは挑みかかるような、強い笑みを浮かべて、確認するように首を傾げてみせた。

 板見はそれを認めて、くっと口元を歪めて笑みを浮かべた。そして、その笑みを消すように掌で表情を隠した後で、クラウの確認に対して首肯を返す。

「ああ。依頼人がそれでいいというのであれば、俺は止めないさ。……ただ、少し勉強しよう。屋敷の修繕もあるだろうから、そうだな、三千程度でいい」

 そして、大きく、勢いよく息を吐いた後、笑みを噛み殺したような表情を見せながら、そう言った。

 クラウはおどけるように肩をすくめながら、板見に対して苦笑を見せる。

「それは助かる。この家は意外と金がかかるんだ」

 だろうなぁ、と。板見は笑み声でクラウの言葉に同意を示すと、彼女に対して背を向けて歩き出す。

「では、今日のところはこれで帰るとしよう。金は後日、また受け取りに来るかな。どの程度分割して払うかは、依頼人、君が自分で自由に決めるといい。……次に会う時があれば、そういう話も出来るだろうから」

 歩きながら、背に居るクラウに語りかけるようで、その実誰にでもなく呟くような――そんな、大きくも小さくもない、聞き取りやすいわけでもない声で話す。

 クラウはその言葉の前半を聞きとることはできた。しかし、最後に、間を空けて付け足された言葉は前半よりもわずかに声が小さく、聞き取れなかった。

 だから、去っていく背に問いかける。

「……? 最後、何を言った?」

 板見はその問いを受けて一度足を止め、首を傾げて、クラウに視線を向けると、

「よい夜を、と言ったのさ。もう不安に震える夜を過ごすことは無いのだから。――ではな、依頼人。また御依頼があればいつでもどうぞ」

 何でもないよと笑って見せつつそう言って、手を軽く振って見せた後で、再び振り返ることもなくその場を立ち去った。





 のんびりと歩いて、板見は屋敷の門――であった場所まで辿り着く。

 そこは酷い有様になっていた。

 まずは門扉が無くなっている。石道の果てにあるのは壁の断絶だけであって、出入り口として機能していなかった。続く動きで視線を回せば、石道の上に刺さり、あるいは転がる門扉であったものと壁であったものが目に入る。そして目を凝らせば、壁や道を作っていただろう石じみた硬いものだけでなく、塊であっても柔らかさが見えるものがあることに気付く。それは石道の横にあった芝地の一部か、あるいは道に沿って植えられた植物の残骸だろう。視線を更にずらせば、壁の断絶を中心として、広い範囲にそれらがまき散らされていることがわかり、ここで起こった破壊の規模を推し量ることができる。

 そんな惨状の中心に、一人の侍女が立っていた。

 侍女は壁の断絶より敷地側、石道だっただろう場所の上に静かに立っている。

 板見は侍女からほんの少し距離を置いて足を止めた。

 両者の間にある距離は、声が届き、顔も見えるが、手は決して届かないし――たとえ争うことになったとしても遠すぎる、そんな距離だ。

 だから、というわけでもないだろうが。

 板見はあくまで気軽な調子で、知り合いに声をかけるように、目の前に立つ侍女に声をかける。

「やあ、アリス女史。こんなところでいったい何をしているんだ?」

 声をかけられた侍女――アリスは、問いかけに応えず、ただ言いたいことを言うように、言葉を作る。

「驚かないのだな」

 問いを外されたか、と思いながら、板見は肩をすくめつつ吐息を吐く。

「世話役が見送りのために居る、というのは別段おかしな話でもないだろう。……そのためにここに居るのかどうかは知らないが。それに、ここは君の属する屋敷だ。どこに居たとしても驚きには値しないし、咎める権利も俺にはない。居るなら居ると認めるしかない。それだけだ」

 一息。話の先を促すように、片手の掌をアリスに示すように開き、

「先程の問いには応えてすら頂けないようだから、別な形で尋ねよう。俺に何か用でもあるのかな?」

 人の良さそうな――彼が浮かべると胡散臭さが滲み出る笑みを作り、アリスに対して問いかけた。

 アリスは腰に手を当てながら、肩を落とし、舌打ちをひとつこぼす。そして、嫌なものでも見るような――嫌悪と憎悪が入り混じったような暗く、鋭い目で板見を見据えながら言う。

「白々しい。貴様、用件が判っていながら尋ねているだろう」

「そんなことはない。推測が正しいかどうかは、確かめてみなければ判らないだろう。俺はそこを疎かにしたいとは思わない、そんな人間だというだけの話だ。答えていただけないというのであれば、それでもいい。用件の有る無しは知らないが、無いならばそれでよし、有るのなら手短に済ませてほしいものだ」

「では、手短に済ませよう」

 言って、アリスは板見に向かってなにかを勢いよく投げつける。

 板見は何なくそれを受け止める。ぱしん、と音を立てて掌の中に収まった感触はずしりと重く、手を握る動きにあわせてぱらりと乾いた音を立てた。視線を動かせば、膨らみに膨らんだ封筒が一枚あるのが確認できた。

「これは何かな?」

 板見が手の中にある封筒をふらふらと揺らしてみせるのを視界に収めて、アリスはうんざりしたような表情を浮かべたが、

「判っているのに聞くのは止めろ……というのは無駄か。言ったところで聞くような輩ではないよな、貴様は」

 舌打ちと盛大な溜息ひとつで諦めを示してみせると、板見の問いに対して端的に答える。

「報酬だ」

 板見はアリスの回答に、わざとらしさが見え見えの、眉根を詰める怪訝な表情を浮かべて口を開き、言葉を作る。

「何の報酬だ? アリス女史から受けた依頼に関しては、既に報酬を頂いている。君から報酬を受け取るような依頼をした覚えは――」

「無いことも無いのだろう?」

 しかし、その言葉を予想していたと言わんばかりの笑みを浮かべて、アリスが板見の言葉を遮るように、蔑むような、挑むような笑みを浮かべて問いを放つ。

 言葉を中断させられた板見は、おどけるように肩をすくめて、苦笑を浮かべた。

「――まぁ、無くは無いかもしれない。しかし、君の口から是非とも聞いてみたいものだ。この報酬は、いったい何に対する報酬なのかを」

 アリスは板見という人間はそういう奴なのだ、ということを既に諦めている。だから、その態度を良しとはしていないという感情を隠さず、苛立ちや不満として言葉に乗せることを唯一の抵抗として、問われたことにただ答える。

「クラウお嬢様の依頼、それを果たしたことに対する報酬だ。それ以外に何がある?」

「なるほど。確かに、確かに。それ以外の理由で、君が俺に対して金を渡すようなことは無さそうだ。それで、これにはいくら入っているんだ?」

「五百程度だ。この場で払うのならば、その額でいいのだろう?」

 おや、と。アリスの言葉に、板見は驚いたような顔をしてみせる。

「見ていたのか」

 アリスはその顔を見て、これまた嫌そうに表情を歪めた後で、その表情をほぐすように眉間に指をぐりぐりと当てながら、

「見ていない筈が無いだろう。主人の危機、その推移を見届けない道理は、少なくとも私の中には存在しない。……その程度のことが判らないほど、愚かではないだろう」

 言った後で、やれやれと吐息を吐いた。

 板見は肩をすくめて見せながら、

「さっきも似たようなことを言った気はするんだが。想像の域を出ない解釈を語って聞かせるような趣味は持ち合わせていないんだ。それになにより、本人の口から聞いた方が面白いだろう?」

 言って、かははと笑い声をあげる。

 アリスはそんな板見を酷く残念なものを見るような目で見据えて言う。

「趣味が悪い。最低だな」

 板見はそんな罵倒を受けても怒ることはなく、笑みの余韻が残る声音でアリスの言葉に応える。

「こんな性格でもなければ、こんなことは引き受けないだろうに。――たかだか小娘一人が不自由な人生を送る程度のことで、不自由を強制する輩を懲らしめる。どこぞの物語でもなければ見かけないようなことを、わざわざ好んでするような人間に、ろくなのがいる筈もない」

 返ってきた言葉の内容に、アリスは先程まで浮かべていた表情を静かな怒りに染め上げて、同色を湛える瞳で板見を睨む。

「……貴様」

 その視線を受けて、しかし板見は怯むでもなく、ただ笑いを深めるだけだった。かははと笑い声をあげた後、応えを期待しない、投げやりにも思える調子で言葉を続ける。

「剣呑、剣呑。しかし、依頼を受けなかった連中は、この出来事そのものに対してはそういう認識だったんじゃないかと想像するよ。名前も知らない、知っていたとしても付き合いが長い訳でもない、付き合いが長くなる訳でもない、そんな者に対しては保身の方が強く働く。ヒトとしてそれは酷く正しいと、俺はそう思うから。

 君も、もし他の家の人間が同じ目に遭ったとした時に、俺が先程と同じ言葉を吐いたその場に居合わせたとして、今まさに君が俺に向けているような感情と全く同じものを抱いて在ることは出来ると断言出来るかな」

「もしもの話はしたところで意味はない」

「そうだな。俺個人の勝手な解釈を、一方的に聞かせてしまった。先程語って聞かせる趣味は無いと言ったというのに。恥ずかしい限りだ。……だから、早々にここを立ち去ることにしよう」

 板見は自嘲の笑みを浮かべた後で、吐息ひとつでその表情を消すと、そこから立ち去るために足を動かそうとしたが、

「待て。まだ用件は済んでいない」

 アリスの制止で、動きを止める。

「……恥ずかしい思いをして逃げようとしている輩を止めるとは、容赦の無いことだ」

「全くと言っていいほど、その台詞には説得力が無いな。貴様の言葉は全て嘘のように薄い。恥ずかしいとも、だからこそ早々に立ち去ってしまいたいとも、考えてはいないだろう」

 一息。アリスはまぁいい、と呟いた後で、

「聞きたいことがある。そこに入れた金には少し色を付けておいた。その色を報酬として、質問に応じて貰いたい」

 板見はアリスの言葉を聞いて、手の中にある封筒の口を開いて中を覗く。中にある金を引き出して数えれば、なるほど確かに、五百よりも多い金額が入っていることがわかった。五百まで数えてあまりがあったからそう判断しただけで、厳密に、追加された金額がどれくらいであるのかは把握していなかったが、依頼料として追加されていることが確認できればそれでいい。引き出した金を封筒に再び仕舞って、コートのポケットに入れた後で、依頼内容の確認として、問う。

「質問に応じるだけでいいのか?」

「出来れば誠実に応答して頂きたいものだがな、貴様にそこまでは望まない。そもそも、こちらから一方的に報酬を提示した上での依頼だ。貴様のような輩は、その報酬に応じた回答しかしないのだろう。元より多くは望んでいない」

「なるほど。色々と納得した上で依頼をしているのなら、俺が何かを気にする必要もないか。では依頼人、質問をどうぞ?」

「貴様はいったい何者だ?」

「……これはまた、随分と哲学的な質問だ。どう答えればいいのか判らない」

「かもしれないな。しかし、問うべき言葉はこれだけだ」

 板見はしばらく考えるように黙り込んでいたが、やがて困ったような表情で吐息を吐き、肩を落としてみせる。

「答えないとは言わないが、方向性を判じかねる。だから、その質問に応じる前に、いくつか俺から聞いてもいいか」

「誠実に答えて貰えるのなら」

「誠実なのかどうかを判断するのは依頼人、君だろう。俺から言えることは、答える言葉を探すために問うことが必要だ、ということだけだ」

 アリスは怪訝な表情で問う。

「……何を聞きたいというんだ?」

「問う言葉があるというのなら、そう問うべきと判断した理由や背景があるだろう。それを聞きたい。そこからどういう形の答えが欲しいのかを想像して、その上で応える方が期待に沿うと判断する。それだけだ」

「わざわざ言わなければならないことなのか? 私は貴様とあの男の戦闘を見ていた。一部始終全てだ。だからこそ、だよ」

「何か気になることでも?」

「貴様は魔術を使っていなかった。だというのに、何故あんなことが出来る?」

「感知欺瞞というやつだ。使っていないわけじゃあない」

「嘘だ」

 アリスは板見の言葉を即断で否定した。

 板見はそれに面食らったように黙った後で、わずかに笑って問いかける。

「根拠は?」

「先程も言っただろう。貴様の言うことは全て嘘にしか聞こえないと」

「……なるほど、なるほど。そういえば、そんなことも言っていたな」

 一息。板見は目を伏せた後、長く息を吐いて、

「では依頼人。先程の質問に答えよう。ただ、答える前にひとつ、了承してほしいことがある」

「何だ?」

「依頼人の質問に、俺は今から可能な限り誠実に答えるつもりでいる。仕事だからな。しかし、その内容そのものは、ともすれば、はぐらかされているように感じるかもしれない。それに、口下手だから、順序立てて、論理的に説明することはできないんだ。拙い説明になるだろう。それでも良ければ続ける」

「それでいいさ。最初から大して期待していない」

 板見はそうか、と頷いて、では話そうと切り出した。

「まずは依頼人、君の質問に対して端的に答えるとしよう。俺が何者なのかという問いだったな? そう問われたならば、俺はこう答えよう。――魔法使いだ、と」

 自称だけどな、と。板見は言いながら苦笑する。

「魔法使い? 要は魔術師なのだろう」

「魔法使いと魔術師が等号で繋がるのは、なるほど、確かに正道だ。一部の物語では、物理を通して実現し得ない結果を残せるものだけを魔法と呼ぶ、なんてのもあるがね。大抵の場合、それらは同じものを指す言葉で、呼び方が違うだけだよな。例えるなら、ある植物について説明するときに、呼び方を変えて説明しているだけ、というところか。言語が違うのか、修飾する言葉が違うだけなのか、という違いはあるのだろうが」

「長い説明だ。要は、貴様にとっては魔法使いと魔術師は別だという話なのだろう。では、貴様の言う魔法使いとはいったい何を指す言葉だ?」

「簡単だよ。根本的に世界観の異なる魔術を二種類以上扱うことができる人間のことを言う。超能力と魔術が同時に使える人間のようなものだと、思ってくれればいいんじゃないかな。畑違いなことが理解できる、とか。その辺りの言葉でまとめるのも有りだ」

「……何?」

「例え話をしよう」

 アリスの疑問符には答えず、そう言って、板見はコートのポケットに両手を入れる。もぞもぞと、まさぐるように手を動かした後で、ポケットから手を引き抜くと、その両手には、それぞれあるものが握られていた。

 右手にはリンゴを。左手にはミカンを。

 何も知らない者が見たなら、いきなり何をといぶかしんだことだろう。しかし、よくよく考えれば、薄手のコート、そのポケットの中にリンゴやミカン大の物が入っていたなら、見るだけでそこに何かが入っていることが知れる。先程まで板見のコートにそれらしい様子は見られなかったのだから、そもそもそれらが入っていた筈もない。つまり、何も無い空間からそれらを取りだしたことになる。

 物理に即して考えれば、有りえない現象だった。

 だから、有り得ないと目の前の事実を否定しないのであれば、その現象を理解するために用意される尺度は奇術や魔術、超能力といった異常なものとなるだろう。

 魔術や超能力によって生じる現象は物理に即した結果をもたらさないことがある。よって、魔術というものがあって当然だとする人間にとって、その現象は魔術によって生じたものだと判断することが、落着しやすい納得の方法だろう。

 アリスは魔術のことを知っている。だから、板見が突然ものを取り出したこと自体は驚きには値しない――筈だった。

 しかし。

「……っ」

 アリスは板見が取りだした果物の内、左手に握られたミカンを見ながら、絶句していた。

 板見は想像通りの反応を認めて、満足げに頷いた。そして、左手にとったミカンを宙に放っては受け取るといった手慰みをしながら言う。

「君は今、右手に何かが握られていることは想像できた。左手にも何かしらが握られている可能性は考えなかったわけではないだろうが、少なくともポケットに収まっていることが当然であるものが出てくると、想像していた筈だ。違うかな?」

「…………」

「ちなみに。不可思議な現象を図る尺度としては奇術という選択肢もある。奇術も、見ている側からすれば因果の繋がりが見えないものだから、魔法という言葉を当てはめるに相応しいものだと思うが。これは奇術じゃない、と断言しておくぞ。俺は奇術師じゃないからな」

 板見は苦笑を浮かべた後で、右手に持っていたリンゴをアリスに向かって放り投げた。

 固まっていたアリスは、自らに向かってくるものを反射的に掴むことで思考を復帰させられて、視線を板見に向けることになる。

 その視線を受けて、板見は説明を続ける。

「そのリンゴは君が使っている魔術体系に則した魔術で出したものだ。厳密に言えば、君たちが魔力と呼んでいるだろうものを使って取りだした、というところなのだけど。だから、君は何かが出てくることに気付くことが出来たし、予想できた」

「しかし、そのミカンは違う方法で出したと?」

「少なくともリンゴを出した方法で、ミカンを出した訳じゃあないな。奇術ではないと言ったが、奇術で出したと納得してくれてもいい。どちらにせよ、話す内容は変わらないから。なにせ、君からすれば出した方法が判らない、という意味では同じだ」

「それで?」

 何が言いたいんだと、アリスは鋭く見据える視線で問うた。

 板見はただ自然と、常と変らぬ平静さをもって言葉を続ける。

「君たちをリンゴ。俺をミカンとしよう。どちらも自然に無いわけではないが、この例え話の上ではそれぞれ、同種の物が一定以上ある場所に発生することが多く、だからどちらも畑のように密集しているものだと思ってくれ。リンゴはリンゴ畑にしかないし、ミカンはミカン畑にしかない。それが常識のようなものになっている箱庭を想像してほしい。

 さて。ここで、リンゴ畑の中に、仮にミカンの木が生えていたとしよう。リンゴ畑にあるリンゴは、リンゴ畑の中にあるミカンを、果たして理解できるだろうか?」

 板見の問いは、至極真っ当に判断するならば、無意味か不可思議かのどちらか一言で断じることができるものだっただろう。

 考えるのも嫌になるような例え話、有り得ないイフを、しかし話を続けさせるために考えなければならないのはどれだけ苦痛だろうか。

「……できるだろう」

 その苦痛や不快感を隠さず表情と声音に滲ませながら、アリスは渋々といった様子で、板見の問いに答えて見せた。

「何故?」

 再度問われて、アリスは最早苛立ちから発展した怒りに近い色を混ぜて言う。

「違うものだからだ!」

「なるほど。確かに、違うものだとは理解できるかもしれないな。しかし、それがミカンであると判断することは出来ると思うか? ――少なくとも俺は出来ないと思う。だって、そこはリンゴの方が多い場所なんだ。だから結局のところ、リンゴ畑の中にあるミカンは、周囲のリンゴからしても、ミカン自体にとっても、形は違うけれどリンゴなのだろうと判断されるのではないかな」

 いい加減にしろ、と。アリスは最早我慢ならないといった様子で声を荒げる。

「……その話と貴様のことと、いったい何の関係があるんだ!?」

 しかし、板見はあくまでその問いを無視して、話を淡々と進めるだけだ。

「仮に、ミカン畑からリンゴ畑に風で飛ばされたミカンがあったとしよう。さて、そのミカンは周囲のリンゴと自身が違うことが判るだろうか。周囲のリンゴはミカンではないということが判断できるだろうか」

 アリスは舌打ちをした後、頭をがしがしと強く掻きながら言う。

「暴論だな。それに、ミカン畑から弾き飛ばされた時点で、そのミカンは潰れて使えないだろうよ。……しかし、貴様の言を借りれば、そのミカンは結局、周囲にあるものもミカンだと判断するんだろう」

「その通りだ。前半部分にも同意する。そして、それが俺の言いたいことさ」

「あ?」

「なるほど確かに、弾き飛ばされた時点で潰れてしまうものが大半だ。しかし、偶然にも潰れずに着地した場合だってあるかもしれない。無事残ったものでも、周囲のリンゴをミカンと断じて終わるものが大半だろう。でも、もしもそのミカンに、周囲のものはリンゴだぞと教える者がいたらどうだろうな?」

「有り得ない。そもそも、どうやったらミカンに対して言葉を聞かせることができるんだ?」

「常識で判断して有り得ないと断じるようなことが出来る術が何と呼ばれてきたか知らない訳じゃあないだろう? 仮にもその一端を知っているんだから。そして、偶然に偶然を重ねた実例のひとつが俺だ、という話さ。偶然が重なって、俺は周囲のものはこういうものだと教えて貰える機会を得た。だから、根本的に違う魔術が使えるというわけ。

 君はリンゴしか知らない。だから、ミカンのことは判らない。

 俺はミカンのこともリンゴのことも知っている。だから、どちらも理解できる。

 その差は絶対だ。覆せる道理は無い。――まぁ、魔術に道理も何もないのだから、覆される可能性は常にあるんだが。その為の準備だ。今回はうまくいった。だから、覆ることはなかった」

 それだけだ、と。板見は言って、歩き出す。

 アリスは無言だ。何かを言おうとして、しかし言えない――心中の困惑が透けて見えるような表情で、何かを言いあぐねている。

「ただの与太話さ。とりあえず、俺は君の知らない方法で感知欺瞞を行える。だから仕事もうまくいった。結局のところ、細かいところを省いてしまえば、それだけの話でしかない。俺が君より経験豊富だったということだ」

 板見はアリスの横で一度足を止めると、彼女の肩に軽く手を置いた。

 アリスはびくりと身を竦めて、しかし視線は決して板見の方へは向けなかった。

「俺から出せる回答は以上だ。更に要求があれば聞く」

「……何も、ない」

「それはいいことだ。……しかし、思ったより長く話しこんでしまったな。口下手の与太話に付き合わせてしまって申し訳ない」

「いや……こちらが依頼したことだ。気にする必要はない」

 それは重畳、と言って。板見はアリスの肩から手を離して、止めた足を動かした。

 離れていく足音を聞いて、アリスが身体から力を抜く。

 同時。

 ああそうだ、と。うっかりしていたと笑って、板見がアリスに対して再び声をかけた。

「……っ!?」

 知らず安堵の動きをしていたところに声をかけられて、アリスは反射的に、身を跳ねるようにして震わせると、視線を板見の方へと向けた。

 板見はその視線を薄い笑みを浮かべて受けると、言う。

「あの下らん男について、君に一言申しておきたい」

「……何だ?」

「あれを死に至らしめるような処置はしない方がいい。割に合わないぞ」

「何故か、理由を聞いていいか?」

「十分な処置は行った、というのがまず一点。もう一つの理由としては、メッキのはがれた者の末路は知れている、というところだ。最強という看板はおそらくもう通用しない。勘違いした愚かな腕自慢が、きっとこれから、あれに殺到することになるだろう。彼女に構う余裕はもう無い筈だ。そんなことをしていたら、足元を掬われることになる。それが判らぬほど愚かなら、その内勝手に死ぬだろう」

「……生かしておいて問題無い、という理由は判った。割に合わない理由は何だ?」

「最強を破ったものは新たな最強になる。それが知られれば、先程とは違う腕自慢が君のところに来るようになるだろう。その結果として、この屋敷に居る人間全てが迷惑を被ることになる。それを、割に合わない、と判断しないなら好きにすればいい」

「…………」

「まぁ、全ては俺の想像だ。正しくそう実現するとは限らない。ただ、考えなしに行動を選択するのはよろしくないと、そういう忠告だ。二度も依頼をして頂いた客に対する、サービスみたいなものだな」

「覚えておこう」

「そうしてくれ。――では、依頼も果たしたし、金も頂いた。用済みの人間は早々に立ち去るとしよう。また何かあれば、依頼をしてくれると嬉しいが」

 もう会うことも無いかもしれないな、と。

 かははと笑ってそう続けると、板見はアリスから視線を外して歩き出す。やがて、その足は敷地の外へと届き、続く二歩を踏む間にその後ろ姿は掻き消える。

「…………」

 魔術による移動だろう、と。アリスは想像する。しかしその判断に対して肯定をすることはできなかった。

 肯定の判断が出来るだけの根拠が彼女の中には無かったからだ。

 アリスは先程板見が話した言葉の内容を反芻しようとして、その行いを、舌打ちひとつで中断する。

「あんなものに煩わされる必要はもうない。終わったことだ。――仕事に、戻ろう」

 あれはそういうものだと、判断を思考の底へ押しやりながら、アリスは屋敷に戻るために足を動かした。




<4>

 それから、特に何事も無く数日が過ぎた。

 板見は今日も今日とて、事務所の書類保管に使っている一室で、外から持ち込んだ文庫本を読んでいる。

 しかし。

いずれ、彼は文庫本から視線をあげて、扉を見ることになるだろう。

 そこから先は、あらかじめ決められていたことを守るように、物事は進んでいく。

 彼はまず、値踏みをするような間を置いて、文庫本を閉じると、部屋から出て事務所へ出る。

 そこに居るのはひとつの人影であり、彼にとっての客――依頼人だ。

 彼は依頼人と二三言葉を交わして人となりを判断する。

 そして、こう言って物語を始めるのだ。

「俺の名前は、板見司朗。ここでこうして傭兵稼業をやっている。勿論商品は俺。傭兵は本来金と仕事内容が釣り合っていると判断できる場合にのみ仕事を受けるものだが、ここは一種の駆け込み寺だ。俺の出した条件が呑めるのであれば、大抵のことは何でも受けている。

 ――それじゃあ、まずは余所で見限られたその仕事内容について、聞かせてくれよ」


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