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板見司朗はせっそうなし 上

<1>

 静かな場所だった。

 どこかの書斎だろうか。四畳ほどの空間を、背の高い棚が囲い込み、それぞれの棚にはぎっしりと古臭い本や書類の類が詰め込まれている。中央に開けられた空間には、それをほぼ埋める広さのテーブルがひとつ置いてあり、その上にも本が山のように積まれていた。空気は埃っぽく、古い本特有の匂いも立ち込めている。

 そこに一人の青年がいた。

 黒髪黒目。中肉中背。白いシャツとジーンズの上に黒のコートという格好で、髪は短くも長くも無く、顔は整っているわけでも整っていないわけでもない。服装は少しアレだが、それを除けば他人に訴えかけるものがないことが逆に特徴というような、平凡な容姿の少年だった。ただ、ある意味完結した容姿の中において、露出している肌に包帯の白が混ざってることが違和感を与えてくる。

 彼はテーブル傍の椅子に腰を下ろして、その場にある本ではなく、外部から持ち込んだのであろう真新しいブックカバーに入れられた文庫本を読んでいる。

「……ん?」

 彼はふと本から視線をあげて、この部屋の扉へと視線を向けた。

 値踏みするように数拍、扉を見続けた後で、彼は口元を笑みに歪めて本を閉じる。

「久しぶりのお客様か。いったいどんなことを頼まれるのやら。――楽しみだねぇ」

 言って、彼は椅子から腰をあげながら閉じた本をコートのポケットに入れると、扉に向かった。

 扉を開けると、そこには広い空間が続いている。

 フローリングの床と白い天井で囲まれた空間に、事務所然とした家具が設置されていた。大きな窓の前には木製の事務机が置かれ、その窓と外に続く扉との間には応接用だろう革製のソファとひとつの小さなテーブルが置かれていた。観葉植物は虫が湧くと面倒なので置いていないが、それなりに事務所らしく見える内装だろうと彼は思う。

 そして、その部屋に置かれたソファには、やけに不機嫌そうな表情で腰を下ろしている一人の少女がいた。

 腰まである藍色の髪は、前髪を眉のあたりで切って右側にヘアピンで留められ、後ろ髪は首のあたりで結んで右肩から前に下ろしている。露わになった顔は年の頃に似合わず大人びて整っており、その中でも少し鋭い目つきで彼を睨む藍色の瞳が特徴的に、厳しそうな印象を彼女の人柄として示しているようだった。背は高くもなく低くも無い、少女としては平均的な身長だろうか。その体躯を包むのは、白いシャツと黒のワンピースであり、服の上から見える身体のラインは――

「……微妙だ」

 値踏みをするように少女を見た後で、彼はぽつりとそんなことを呟いた。

 その言葉を受けて、少女の視線が更に鋭く、強さを増す。

「……貴様。初対面の人間、しかも客に対するその発言は些か以上に失礼ではないか?」

 彼の言葉に対する反応には、不機嫌な色どころか既に怒気が満ち満ちている。

 しかし、彼はそんな少女の反応を気にすることもなく、少女の対面にあるソファに足を向けながら、

「印象的だろう。それとも気にしていることだったりするのかい? 女性としても、やはり起伏に富んだ女性らしい体つきというものに憧れるものなのかな。俺は生憎男だから、異性としての判断基準はよく判らないんだが」

「…………」

「反応なしか。求めているのは謝罪なのか? まぁ、先に失礼と思しき発言をしたのはこちらなのかもしれないが。勧められたわけでもないのに我が物顔で勝手に他人の家にあるソファに座り、その上返答の中に貴様という、他人を侮蔑する際によく使われる単語が使用されているのだから、失礼なのはお互い様というところで手を打つのが妥当だと思うけど」

 彼は少女の対面にあるソファに腰を下ろして、膝の上に頬杖をついて、手で顔を支えるようにして首を傾げつつ少女を見やる。

「あと、ここは普通の店じゃあない。老後に隠居が趣味でやる商売みたいなもんでな、客が来なくても問題のない場所だ。客に媚び諂うような態度がお望みなら余所へ行け、お嬢ちゃん」

「……先程の発言は忘れてやる」

「更に言わせて貰えるなら、起伏に富んでいないというだけで、君の身体は俺からしてみれば十分魅力的なんだけどね。別に太ってるわけじゃないし、綺麗な体つきだと思うよ」

「忘れてやると言ったにも関わらず、また……!」

 おや、と彼は少女の反応に意外なことを言われたと目を大きく開いて見せる。

「今のは誉めたつもりだった。気を悪くしたなら、これは素直に謝罪しよう。申し訳ない」

 そう言って、彼は目を伏せて謝罪の意を簡単に示した。

 少女は舌打ちをひとつ返して、視線を彼から外す。

 彼はその反応を一応の許しと判断して、言うべきことを言うことにした。

「さて、掴みはこの程度で十分だろう。では商談といこうか、お嬢ちゃん。

 知っているかもしれないが、ここで一応言っておこう。

俺の名前は、板見司朗。ここでこうして傭兵稼業をやっている。勿論商品は俺。傭兵は本来金と仕事内容が釣り合っていると判断できる場合にのみ仕事を受けるものだが、ここは一種の駆け込み寺だ。俺の出した条件が呑めるのであれば、大抵のことは何でも受けている」

 一息。彼――板見は口元を歪めて、

「それじゃあ、まずは余所で見限られたその仕事内容について、聞かせてくれよ」

 目の前の少女に向けて、笑みの口調でそう告げた。





 少女はクラウと名乗った。

 彼女の依頼内容を要約すれば、それは単に自分のことを守ってほしいという一点に尽きる。どうやら、彼女の家は特殊な血筋らしく、彼女の所属する魔術社会において、彼女の家に属する女性との間に成した子どもは魔術師としての能力が向上するのだとか。その特性を求める誰かが、彼女のことを狙っているらしい。

 板見はクラウの話を聞いて、ふぅんと頷き、それでも判らない部分を口に出して問う。

「仕事内容も事情も、よくあるもののようだが。どうして断られたんだ?」

 クラウは板見の言葉に若干答えるのを逡巡するような間を開けた後で、苦虫を噛み潰したような表情と声音で言う。

「相手が問題なのだ」

 クラウの返答に、板見はますます訳が判らない部分が増えたと、眉根を詰めた疑問符を浮かべる。

「……あ? ちょっと待ってくれ。この依頼は、自分が狙われているという噂話を聞いたから用心で護衛を増やそうというものではないのか?」

「違う。私を狙っている人間から直接、日時を指定して、この日におまえを奪いに来るという連絡……のようなものが来たのだ」

 板見はクラウの言葉を聞いて、面白いこともあるものだと笑みを浮かべ、

「ははっ、面白いなぁ。要はあんたが欲しいから奪いに行く、嫌なら拒め、勝負だ、俺が勝てばおまえは俺のものだ――というところか」

 珍しいこともあるものだ、と。自分の言葉が面白くてたまらないというように、笑みを深める。

 その笑みを見て、クラウは不機嫌そうに目を細めると、舌打ちをこぼして、板見から視線を外す。

「……当人として言わせて貰えば、面白くも何ともない。いい迷惑だ」

 そりゃそうだなぁ、と板見は笑みを浮かべたままで、おどけるように肩を竦めた。そして、ほんの少し前に身体を傾けて、クラウの方に顔を寄せて、問う。

「なぁ、いくつか確認したいことがあるんだが。聞かせて貰っていいか?」

 クラウは外した視線を板見に再び向けると、不機嫌そうな様子を隠すことも無く問い返す。

「なんだ?」

 板見はクラウの様子を気にかけることもなく、淡々と尋ねる。

「あんたの血筋が珍しいものであるということは判った。それは有名なのか?」

 突然思いもよらない質問をされて、クラウはわずかに目を大きく開いて驚いた様子を見せた。しかし、それは一瞬のことであり、すぐに考え込むようにして腕を組んで片手を自らの顎に当て、無言で数秒ほど逡巡した後、首を横に振る。そして、迷うように、言葉を選ぶようにゆっくりと答える。

「私には判じかねる。有名無名で言うならば、無名の類だと思うが。そういう類の血筋は、何も私の家だけにある――専売特許のようなものではない」

 クラウの言葉にふむ、と頷きをひとつ返した後で、板見は更に重ねて問う。

「相手の狙いが君だということは判った。君を狙う理由がその血筋であるということは、その連絡内容で明確にされているのか?」

「いや、理由に関しては私の推量に過ぎない。私はその相手と面識がない。あったとしても、私が覚えていない程度のものだ。だから、狙われるような理由があれば、血筋なのだろうと判断した」

 この質問に対して、クラウは先程の質問とは異なり、間を空けずにはっきりとした口調で答えた。

 その様子を見て、板見は片眉だけを器用にあげて、笑みを作る。

「はぁん? なるほど、なるほど。背景は理解した。それじゃあ仕事内容と報酬に関して――契約内容の話に移ろうか」

 クラウは板見の納得の言葉や自分に向けられる笑みの表情に対する不理解と、理解できないことに対する不信感を隠しもせずに、猜疑の視線を板見に向ける。

「……待て。相手の名前を聞かないのか?」

 表情を隠さないことに対して、板見は甘いなぁという感想を抱きつつ、それはお互い様かという自己反省とクラウの言葉に対する反応として、やれやれと肩を竦めながら言う。

「おそらく、名前を言われたところで俺にはいったい誰のことを指しているのか判らないからな。ただまぁ、強いんだろう? 余所の、大手と呼ばれる類の場所が断るくらいなのだから」

 クラウは板見の返答に対して、一瞬だけ絶句した。そして、その状態を引きずるように、たどたどしく言葉を紡いで、最も信じられないと感じた言葉をオウム返しのように口にした。

「名前を言われたところで判らない……?」

 それは自問のような呟きだった。

 しかし、板見はそれに対して律儀に頷きを返して、苦笑を浮かべる。

「……まぁ、その辺りは気にするな。こっちの事情だ。どちらであっても、君にはあまり関係の無い話さ。そも、無いよりマシ程度の算段でこんな場末に来たんだろう? 仕事を受けて貰えるだけマシ、と思って試しに雇えばいい。俺の出す条件が呑めるのであれば」

 板見の言葉を受けて、クラウはしばし唸るように目を強く閉じて顔を伏せていたが、やがて意を決したようにひとつ頷きを落とした。そして、板見に対して挑みかかるような笑みを見せつけるように、顔をあげて言う。

「それもそうだな。――それで、条件というのは?」

 板見はその笑みを見て、吐息をひとつ落とした後で、淡々と言う。

「まずは期間だ。指定された日まで、可能なら一週間程度、君の家に居させてほしい。そして、指定された日に相手が来て、その相手が去れば契約は終了だ」

「契約の終了時期は問題ない。しかし、一週間も家に滞在させるのは無理だ。家の者が納得しない」

 クラウの渋る様子を見て、板見は溜息をひとつ吐き、呆れたような視線を彼女に向ける。しかし、それも一瞬のことであり、

「お嬢ちゃんの身を守る為でも納得できないとは、どういう家庭だろうな。詮索はしないが。……三日が妥協ラインだ」

 軽い非難のような、皮肉のような――そんな言葉の後で、あっさりと最低条件を告げた。

 クラウは前半の非難めいた言葉に一瞬だけ眉をしかめたが、後半の言葉には、家に帰ってから費やさなければならない労力を思って吐息を吐きつつ納得の意を示して見せる。

「三日ならば納得させてみせよう」

「よろしく。それじゃあ、次は仕事内容だ」

 板見の淡々としたもの言いには慣れつつあるものの、その言葉が示す意味を図りかねて、クラウは隠すことも無く疑問符を浮かべる。

「……?」

 どういうことだ、と。クラウの問いかけるような視線を受けて、板見はおどけるように肩をすくめた後で応える。

「曖昧な定義は後々面倒になる。確認だと思えばいい。――仕事内容は、君の身柄をその相手に渡らぬようにすること、で問題はないか? この内容なら受けてやる」

 クラウは先程自分が話した内容と大差無い言葉を聞いて、わざわざそんなことを確認するのかと言うように、疲れたような吐息を吐き、目を伏せながら頷いた。

「……ああ、問題ない」

 そして、そうクラウが言葉を作った直後。

 板見は口元を嗜虐的に歪めて笑みを作って見せる。

 しかし、クラウが伏せた視線を板見に向け直した時には既に、板見は笑みを苦笑へと変えていて、いっそ攻撃的と言ってもよい板見の笑みに、彼女が気付くことは無かった。

 板見は苦笑を消すように吐息を吐き、クラウの同意を示す言葉に対して、納得の意思を示すように頷いた。

「結構。では、最後に金の話だ。率直に行こう。いくらまで用意できる?」

「五百」

 クラウははっきりと提示できる金額を答えた。

 しかし、

「五千だ」

 板見はクラウの提示した金額よりも遥かに高い金額を口にした。

 クラウの提示した金額は傭兵に対して護衛を依頼する場合の、一般に知られるような金額よりも少し多い金額の筈だった。それの十倍と言われれば、流石に慌てずにはいられなかったのだろう。クラウは目の前のテーブルに手をついて、ソファからわずかに身を浮かせて前のめりになる。そして、その様子と同様に、震えてうわずった声で抗議の言葉を放った。

「ば、馬鹿を言うな! ぼったくりにも程があるだろう!」

 そんなクラウに対して、板見は何を慌てているんだというように、見ている人間の背筋が冷たくなるような感情の見えない視線を彼女に向ける。そして、気軽な口調で――しかし、これ以上はないと聞いている人間が思わず感じるような、最後通牒としての言葉を作る。

「さっきも言ったが、俺は俺の出した条件が呑めない相手を客とは扱わない。そして、客が来ても来なくても、依頼が御破算になったとしても、俺は困らない。……仕事を受けて貰えなくても困らないというのであれば、帰るといい」

 クラウはその言葉に絶句し、力無く、浮かせた身をソファに落とした。そして、そのまま頭を下げて、両手で頭を抱え込む。しばらくの間そうしていたが、やがて、そのままの姿勢でぽつりと言った。

「……一括は無理だ」

 板見はあくまで気軽な調子で応える。

「服を見る限り、君の家は結構な金持ちだと推測できるんだが」

 板見は不躾な、値踏みをするような視線でクラウを見る。

 クラウが身につける服は、デザインこそ簡素なものだが、布地の質が違う。それは服飾に関してド素人と言っても過言ではない板見の目から見ても、そう判断できるほどのものだ。推して知るべしとはこういうことを言うのだろうかと、板見は内心でのみ吐息を吐く。

 とはいえ、板見が彼女の家は金持ちだろうと判断する理由は他にもあるのだが。どれも勘の域を出るものではないし、それは別に語る必要もないだろうと思いつつ、板見はクラウの反応を無言で待った。

 その沈黙に耐えかねてという訳でもないだろうが。クラウが苦々しい表情を浮かべた顔をあげて、板見を見る。そして、その表情と同様の色を滲ませた口調で言った。

「これは私個人の依頼なんだ。どのような場合であれ、支払いに使う金は親のものになるが、それでも引き出すまでには時間がかかる」

 クラウの反応に、板見はやれやれと吐息を吐く。

「……なるほど。そういう事情ならば、分割でもいい。払ってさえくれるのであれば」

 クラウは板見の言葉に、わずかに安堵するような吐息を漏らした。そして、それを誤魔化すように、少し大きく吐息を吐いた後で尋ねる。

「……前払いは必要か?」

 板見は面倒くさそうに手を振ってみせながら、口調にも同様の感情を乗せて言う。

「成功報酬でいい。金に困っているわけでもない。――俺からの基本的な確認は以上だ。君から何か、聞きたいことはあるか?」

 板見の問いに、クラウははっきりとした口調で答える。

「ひとつだけ」

「何かな?」

「おまえは強いのか?」

 クラウのまるで挑みかかるような視線と口調に、板見は苦笑を浮かべる。

「いや、強くはない。場末で細々やってる程度だ、察してくれ」

 その返答に、クラウは怒りを隠さず、ぎりぎりと音を立てるように歯を噛んだ後で、噛みしめるように、非難の言葉を放つ。

「それであの報酬額を提示したのか、貴様は」

 しかし、板見は悪びれることもなく、ただ静かに、苦笑を浮かべたままでその言葉にこう応えた。

「成功報酬だ。相手が相手なんだろう? 多少ふっかける位は大目に見てくれてもいいんじゃないか。成功すれば、お互いに益がある。失敗しても、君は若干損が増える程度だろう。それも気持ちの上での損だけが、だ。元々誰にも受けて貰えずに、その連絡通りのことが起こるだけだったのでは?」

 板見の言葉はまさしくその通りであり、だからこそ、クラウは応えるべき言葉もなく沈黙するほかなかった。

 その沈黙を嫌うように、板見はおどけるような口調と態度で、言葉を作る。

「いつが指定日なのかは知らないが。はっきりと強さが判る相手を探してみるのも一つの道だ。もしかしたら、指定された当日に、物語の主人公みたいに強くてカッコイイ奴が来てくれるかもしれないぞ? 俺を雇わなければ、そういう未来もあるかもしれない」

 板見の言葉に、クラウは怒気と不機嫌そうな雰囲気を収めないまま、しかしその軽口に応じるように言葉を続けた。

「……雇ったとしてもそういう未来は来るかもしれない」

 だから、というように。板見は楽しそうな笑みを浮かべて、更に言葉を作る。

「ああ、その通り。その時は、俺との契約を切ってくれてもいい。違約金を払え、なんてちっぽけなことは言わない。せいぜいよろしくやってくれ。無論、そういう奴が来たところで、そいつがその相手とやらに勝てなければ一緒だが」

「…………」

「勿論、俺が君の望みを叶えられるかどうかも判らない訳で。……まぁ、何が言いたいかと言えば。何はともあれ、お嬢ちゃん、君の判断次第という話さ」

 一息。板見はソファから立ち上がって、クラウの目の前に片手を差し出し、続ける。

「俺の出した条件が呑めるというのであれば、その上で仕事を依頼したいと思うのであれば、この手を取れ。そして、条件が呑めないか、もしくは俺自身が信用出来ないなりで依頼をしたくないのであれば、この手を弾け。……選択の機会はこの場、この時だけだ。後悔の無い判断をしてくれ」

 クラウは板見の言葉を受けて、表情を怒気と不機嫌さが入り混じったものから、無表情、不安や懊悩へと変化させる。そして、頭を脚の間に入れるように身を曲げて、頭を抱え込んだ。

 板見はその様子を見ても、声をかけようとはしなかった。ただ差し出した手をどうしたもんかな、と内心で若干困っていたりもしたのだが。

 やがて、クラウは意を決したように勢いよくソファから立ち上がり、

「もうひとつだけ聞かせろ!」

「大声出さなくても聞こえるんだけど。何かな、お嬢ちゃん」

「おまえは、私をちゃんと守ってくれるのか?」

 板見はクラウの言葉に、やれやれと肩を竦めて、しかし気軽な口調で言った。

「……仕事は果たすさ。自分の命惜しさに仕事を放棄するようなことはない。流石に、俺が物理的に動けなくなった結果として君が相手に捕らえられることになった場合は、諦めろとしか言えないが」

「そうか。……そうだな」

 クラウは板見の言葉を聞いて、仕方ないと諦めるように、少しだけ力を抜くように肩を落としながら頷いた。そして、その後で、クラウは板見の手をとった。

「これでいいのか?」

 板見はクラウの問いかけに対して頷いてみせた後で、手を離した。

「ああ、これで契約は成立だ。一応な」

「一応とはどういう意味だ?」

「そう怖い顔をするなよ。一応と言ったのは、単に、まだ紙面上で契約を結んでいないというだけの理由だ。今は互いに、仕事の依頼に関して同意が得られただけだろう? 少し待ってろ、契約用紙を用意する」

「……待つのはいいが。客だと認めてくれたのなら、紙を用意するまでの間くらいは、御茶の用意をしてくれてもよいのではないか?」

「客ってのは金を払ったことのある依頼人のことだ。お嬢ちゃん、君はまだ依頼をしただけだろう。俺はそれを客とは呼ばない。依頼人で、少しだけ知り合いになったというだけの、他人でしかない」

「物は言いようだな。――単に茶を出すのが面倒なだけだろう、おまえは」

「そういうことだ。なに、そんなに待たせることはない。あらかじめ、いくつかの基本事項が書かれた紙を用意してある。それに、今回の依頼に際して、先程話した条件を書き加えるだけだ」

 言って、板見は事務机に向かった。引き出しから一枚紙を取り出して、事務机の上に置いてあるペンでさらさらと内容を書き殴ると、そのままクラウの座るソファの方へと戻ってくる。

「紙面の内容を確認の上でサインと母印をここに。君の家の住所とかは裏にでも書いてくれ」

「……契約書なのだろう? これは。そんな風に書いても大丈夫なのか?」

「厳密な意味で言えば、それ自体に意味はない。それを読み、名前を書くということが重要なのさ」

「――強制遵守型の誓約書か、これ!?」

「おお、かっこいい名前だな。でも、俺はそんなもの知らない。それの能力は、そこに書かれてある内容を守らなければ互いに不幸になる、という簡単なおまじないみたいなものだよ。君の言った字面から想像できるような強制力なんぞない」

「それはそれで嫌だな……」

「なら守ってくれ。俺もそこに書いてあることは守る。嫌だからな、不幸になるなんて。――不幸だ不幸だと喚き散らしつつも主人公然として善性を示す、なんてのは俺には到底無理だしな」

「……?」

「気にするな、深い意味はない。とりあえずそれを書いてくれれば契約は完了だ。……ああ、住所を書くついでに、その指定日とやらも書いておいてくれ。その三日前にそこに書かれた住所に直接出向くから」

「……これでいいのか?」

 クラウが言われたことを書き終えて、契約書を板見に示して見せる。

 それを受け取り、不備がないことを確認すると、

「おつかれさま。これで契約は完了だ」

 板見は契約書を折りたたんで懐にしまいつつ、笑みの声でそう言った。

「これで手続きは終了か?」

「ああ、もう帰ってくれて構わないぜ。次に会うのは指定日の三日前――これから一ヶ月ないくらいかな、それくらい後になる。その間に、精々死なないよう気をつけてくれ」

 無駄足を踏むのはごめんだからな、と。板見は苦笑しながらそう言った。



<2>

 指定日三日前。

「はー、こりゃまた凄い家に住んでるもんだ」

 契約書に依頼人――クラウという名前の少女が書いた住所に建つ家を前にして、板見は感嘆と呆れの感情の入り混じった吐息を吐きながら、同様の色を滲ませた声音でそうひとりごちた。

 何度か紙面上の文字とこの場所を示す住所の文字列を見比べたが、どうやら見間違いや勘違いといった間抜けを晒しているようではないと判り。あからさまに不審げな様子を隠しもせず、露骨な視線を向ける、ここら一帯のどこぞにある家の関係者にクラウという名前を出して尋ねた結果、間違いが無いようだと確信した上で、板見はあまりにも広い家の外壁を回るように歩き続ける。

 時刻は昼。空は全天に雲がまばらに、雲間には透通るような青地が見えている。

 晴れだった。

 板見の真横にそびえたつ、クラウという少女の住む家を囲っているだろう壁は高く、果てを見上げようとすれば陽光が目に痛い。

 回る方向と日の向きが悪く、うまい具合に影が出来ない壁際を、ちょうど日差しを直接浴びながら歩いている身体は、服の色が黒いこともあって必要以上に熱を持つ。

 選択肢を間違ったなぁ、と。板見は額にうっすらと浮かんだ汗を袖で拭いつつ、苦笑を浮かべた。

 長々と真っすぐ歩き続け、角を曲がること二回。もう一回曲がるとか選択失敗にもほどがあると思いかけたところで、門らしきものを発見した。

「……でかっ。つか、呼び鈴っぽいのどこですかこれ。どうすればいいんだ?」

 首が痛くなるかなと思う程度に見上げなければ上端が見えない外壁に繋がるように、色も素材も異なる、のっぺりとした門扉があった。しかし、その門扉はよくよく観察してみれば、掴むところが存在せず。視線を少し動かしても、門番らしき者の姿もなく、この場所から中に居るだろう住人と連絡をとる手段が見当たらない。

 宅配便とかどうしてるんだろうなぁこれ、と自らの立場を度外視した的外れな感想が頭をよぎった後で、板見はやれやれと溜息を吐く。

「さっさと出てきて貰えないものかね。……これだけ広い家なら、監視をする誰かが居るだろうし、その誰かから、知らせがあると思うんだが。当てが外れたかな」

 呟いて、門扉を支える柱に背を預けながら、板見は腕を組んで顔をうつむかせる。

 ただ何をするでもなく、板見はしばらく無言で目を伏せていたが、やがて、

「…………」

 門柱から身を剥がすようにゆっくりと身体を動かして、門扉と正対する。

 同時。

 門扉がぎりぎりと軋むような音を立てて二つに割れるように開いた。

 扉が開き、敷地内へと続く空間が見えるようになる。

 そこに広がる景色を見て、板見は笑う。

「いやはや、金持ちの道楽には頭が上がらんな」

 扉が開き、まず目に飛び込んでくる色は緑だ。

 手入れが行き届いた芝生と植木が、陽光を受けて青々とした己の姿を誇示するように広がっている。

 次に目がいくのは、門から屋敷へと続いている、白く、長い煉瓦敷きの道であり。

 道を視線で追って、門の奥にある洋式で整えられた石造りの屋敷が見えると、そこに見えるあらゆるものが、開き切った門が囲う空間において対称となるように配置されていることに驚く。

 板見はふむふむ、と驚きついでに楽しむような表情で、調和のとれた風景に対して頷いてみせると、

「……で、だ。一人は見覚えがある顔で、もう三人は知らん顔なのだが。これはどういう状況だ?」

 その景色の中に紛れ込んだ四つの人影の内、見覚えのある顔に視線を向けて、苦笑を浮かべながら問いかけた。

 四つの人影は、一人が門の傍に立ち、残る三人の内、二人が一人をその場に押し留めるような配置で立っている。

 板見が視線を向けるのは、二つの人影に動きを制限されて煩わしげに表情を険しくしている一人の少女である。

 腰まである藍色の髪は首元で束ねられていた。しかし、以前会った時とは違い、尻尾のような長髪は少女の背中でゆらゆらと揺れており、また、前髪もピンで留められるでもなく動きに合わせて揺れている。あとは、当然と言えば当然なのだが、服装も違っていて、チェック柄のシャツに濃い茶のベストを羽織り、丈が少し短いスカートを着ていた。とは言え、顔つきや背格好は流石に一月で大きく変化する筈も無く、年相応に、身につけた服で未熟なラインを描いている。

 長々と語るまでもなく――今回の依頼人である、クラウと名乗った少女だった。

 クラウをその場に押し留める二人はどちらも女性であり、古式ゆかしきとでも言うべきか、ステレオタイプとでも言うべきか、無駄な装飾が一切存在しない黒のワンピースに、白のピナフォアドレスを身に着けている。お嬢様を世話する侍従、というところなのだろう。クラウの様子に困っている状態が判るものの、動作そのものには慣れた雰囲気が見て取れた。

「見覚えがあるのは当然だろうがっ! 依頼人だぞ、私は!」

 板見の言葉に、クラウは立ち塞がる二人の侍従の向こうから八つ当たりのように強い語調でそう言い放つ。

 それを見て、板見はかははと笑った。そして、クラウの言葉ににやにやとした笑みをもって応える。

「生きていてくれて嬉しいぜ、依頼人。お陰で無駄足にならずに済みそうだ」

 その言葉に対して、クラウは更に言葉を続けようとしたが、

「気安く声をかけるな、下郎」

 残る一つの人影が放った鋭い声音に口をつぐんだ。

 板見はクラウの悔しそうに歪められた表情を見て苦笑をした後で、門柱から門の中央へと――クラウと板見の間に立とうとするように歩く声の主の方へ、視線をついと動かした。

 中性的な顔立ちの人物だった。

 中肉中背。首元でざっくりと切られた金髪は、手入れが行き届いているようで、粗野な印象は受けない。その下にある顔は、人柄を表しているのか、はたまた感情を表しているのか、判断はつかないが、各部のパーツが鋭く尖った形で整っているようで、近寄りがたい雰囲気を作り出している。服装は黒のスーツで、ネクタイはしていない。

「…………」

 この人物の言葉に対するクラウの反応から、彼女はクラウにとっての世話役――その中でも、地位としては高い方なのではないかと、板見は考える。

 そこまで考えた後で、板見はやれやれと溜息を吐きながら言う。

「男の俺としては、女四人で出迎えして頂けるという状況そのものは、何も考えなければ嬉しいものなんだが。それで、クラウ様? この状況はいったいどういうことなのか、説明してくれないか」

 板見の言葉に、男装の麗人は表情を更に険しくしながら、射抜くような視線を向ける。

「貴様、人の話を聞いているのか? いや、それよりも」

 板見は彼女の言葉を遮るように、言葉を作る。

「ちなみに。そこのスーツ姿が女だと判ったのは単純な理由だぞ? 声音と、あとは、俺が親で世話役を配するならば、娘の場合は同性を充てる。そういうものだ、というだけの話でね」

 ただし、その言葉はあくまでクラウに対して向けられたものであると、他の三人に対しては一切向けられていないことが判る――否、判らせるような表情と声音で、板見は話を続ける。

「ま、なんとなく理由は想像できるから、喋れないなら喋らなくてもいい。君は思った以上に、ヒエラルキーでは下位に属しているようだ。発言力はあるようで、ない。そんなところだろう。子供だからな。仕方ないと言えば仕方ない。厳しく言うのであれば、それは君が足りないからだろうと、言っておくけれど。部外者だから、無責任に」

 言って、板見は門に向って歩き始める。

 それに呼応するように、男装の麗人はどこからともなく取りだしたサーベルを、板見の喉元に突き立てるように突きつけた。

「言葉が聞こえないなら、直接身体に聞かさせてやろう」

 板見は流石に、サーベルには当たらないように歩みを止めたが、

「お嬢ちゃん、さっきから君は何も発言していないが。この状況を止める気はないのか?」

 それでも変わらず、目の前に突きつけられた武器を含めた彼女を無視して、クラウへと言葉を投げる。

 サーベルの先が、力を込め直されるようにわずかに揺れた。

 動く。

 その瞬間に、クラウは制止の声を挙げる。

「アリス!」

 名前を呼ばれ、男装の麗人――アリスという呼び名の女が持つサーベルの切っ先が制動の余韻で揺れる。

「……クラウ様。なぜ止めるのですか」

「逆に聞きたいくらいだ、アリス。私の客人に対する態度か、それが」

 クラウの言葉にアリスが答えるよりも早く、板見がおどけるように肩を竦めて笑う。

「客人ではないからなぁ。俺はただの雇われ用心棒だから、客人に対する態度ではなくても問題はないぜ」

「おまえは人の挙げ足を取るなよ! しかも庇っている側の挙げ足を取るなんて、どういう了見だ!?」

「どういう了見もなにもない。俺の対応は既に決まってる。あえて放置してるのは雇われてるからだよ、お嬢ちゃん。本来、契約内容とは異なる部分に対して依頼人の要望を聞く義務はないが。そうだな、人間としてのサービスというところか」

「どういう意味だ?」

「一度しか聞かない。是非の応答で応えられる質問だ、出来れば時間をかけずに答えて貰いたい。――なぁ、お嬢ちゃん。こいつは、生かしておいた方がいいのか?」

「何……?」

「死んだ方が都合はいいのか、そうでないのか。単純な話だろう。さっさと答えてくれ。でなければ、言葉を交わす理由すら生まれない。――依頼人、勘違いをするな。これは、君が答えない限り対応を決めないという話ではないぞ。君が答えるより前に、仕事の邪魔が入れば俺の判断で対処をすることになる。君が答えれば、可能な範囲で意向に沿うような形で対処をする。依頼して頂いたことに対する、感謝の御奉仕、サービス精神に則ってね」

 返答は想像がついてるんだけど、と板見は吐息まじりに呟く。

 クラウは自身と同様に困惑の表情を見せるアリスにちらりと視線を移した後で、

「死なない方がいいに決まっている」

 戸惑いを隠さない様子で、板見の問いに対して答えた。

 その返答を受けて、

「了解、了解。それじゃあ、仕事の話、契約内容の話に移ろうか。――そっちの依頼人が呼ぶのを聞くに、君の名前はアリスというそうだけど、俺もそう呼んで構わないかな?」

 板見はここで初めて、武器を向けるアリスに対して視線を移し、声をかけた。

「……仕事、だと?」

 アリスは、戸惑いをわずかに滲ませながら、それでも強い視線で射抜くように板見を見、問い返す。

「ああ、仕事だよ。君が命を失いたいのかそうでないのか、その選択の機会を与えるための契約を行う。そしてそれに基づいて考え、行われる労働は、仕事と呼ぶに値すると俺は考えるわけだ」

 板見の言葉に、アリスは失笑を浮かべる。

「まるで、私の命が貴様の手に委ねられているかのような物言いだ」

 板見はアリスの笑みに対して特に反応を示すこともなく、力を抜いた笑みを見せる。

「その辺の取り方は君の好きにしたらいい。……さて、本当ならさっさと仕事の内容に言及したいところではあるが。一応、君が俺に対して武器を向ける理由について聞いておこうか?」

「気に食わない」

「端的でシビれる回答だ。つまり、君は俺のことが気に食わないからこの場所に入れたくない、だから排除をするために武器を向ける。……この認識で間違いはないな?」

「判れば失せろ」

「クラウ様から受けた仕事があるからそう簡単には引き返せないんだ。こちらも仕事でね。だから、条件を出そう」

「条件……? 出せる立場だとでも思っているのか」

「短気は損気だ。悪くない条件だと思うぜ。それに、この条件が呑めるなら真面目に相手もしてやる。……今から君に、一度だけチャンスをやる。俺に対して、一撃を入れるチャンスをな」

「ほう?」

「俺は、この契約が了承され、君が一撃を繰り出し終えるまで何もしないと誓おう。魔術やら何やらも、その時だけは使わない。君は命を奪う気で来てくれていい。その結果、死んだとしても恨む気はない」

「条件は?」

「これから三日程度居るわけだが、その時の待遇を改善してほしい。どうせ、ろくな待遇じゃないだろうからな。とは言え贅沢な暮らしを望んでいるわけじゃあない。一日三食と、一応世話人を一人つけてくれ。出来れば夜の仕事も頼みたいから、女がいい。――その時はぜひ、アリス女史、君にその世話人をお願いしたいところだ」

「貴様」

「この条件での勝負が呑めるなら、君の命は保証しよう。もしこの条件を呑まず、ただ邪魔をするだけなら、その時はその時だ。……後始末はきっと、相当面倒になるだろう」

「……いいだろう。その条件、呑んでやる」

 アリスは忌々しげに舌打ちをひとつこぼした後で、板見の喉元に突きつけていたサーベルを下ろした。続く動きで、板見に背を向けて距離をとるように歩き始める。

 準備の一環だろうと、そう判断して、板見はアリスの背中に声をかけ、

「毎度あり。――と、その前に。これから先、勝負が終わるまでの間は、クラウ様の方から声をかけられても応答は出来ないから、今の内に言いたいことがあれば言っておいてくれると助かる」

 思い出したように、未だ二人の侍女に行く手を阻まれたまま足を止めているクラウに対して声をかけた。

 若干拗ねているかのような表情で、クラウは舌打ちをこぼして言う。

「クラウ様とか呼ぶな。おまえに呼ばれると気持ち悪い」

 おや、と意外なことを言われたというように。板見は目をわずかに見開いてきょとんとした後、噴き出すように笑い声をあげる。

「かはは! 了解、了解。呼び捨てでよければ次からはそうしよう」

 クラウはその笑い声に気分を害したように表情を険しくしたが、すぐさま不安の色に曇らせる。

「あと、アリスのことは」

 そして、クラウが表情と同色の声音で続けようとする言葉を遮るように、板見は口を挟む。

「安心しなよ依頼人。さっきも言ったが、要望には沿うよう、努力するさ。アリス様に世話を焼いて頂くには、生かしておく以外に道はないのだから。死なせないでほしいという要望には、応えられると思うぜ。……他には何か?」

「何もない。好きにしろ」

 渋々出したかのようなクラウの言葉に、板見は苦笑を浮かべながら頷き、

「そうかい。……では、準備をどうぞ、アリス様。この言葉が終われば俺は何もしない。言葉も発しないし、この場から動くこともない。準備にどれほど時間をかけても構わないから、精々後悔が少なくなるようにしてくれ」

 十分な距離をとったのだろう、正対して視線を向けるアリスへと、板見も視線を向けた後で、アリスの行いを受け入れるように両手を広げて見せた。





 アリスはこちらを受け入れるように両手を広げて見せた板見を見ながら思う。

 何かがおかしい、と。

 そもそも、板見の出した勝負は勝負にすらなっていない。防御を行わないということは、なるほど、確かにアリスにとっては都合がいい。気に入らない人間を無抵抗のまま殴ってもいいと言われれば、それはこれ以上ない好条件だと判断できる。

 しかし、それでは相手に利点が無い。

 武器による攻撃を防がなければ、当たり所次第で死に至り。

 魔術による攻撃を防がなければ、致命傷を受けるのは自明だ。

 この勝負は、何も用意が無ければ一方的な虐殺になるやり取りでしかない。

「…………」

 アリスは無言で目の前に立つ板見を見る。

 魔術による結界は無し。服に魔術的な防護がかかっている様子も無し。鎧等を着こんでいる様子も無し。魔術の準備をしている様子も無し。攻撃する意思は見受けられない。

 目の前に立つ男は完全な無防備だった。

 ただ立っているだけだった。

 対して自分はどうか。

 万全だ、と言える。断言できる。アリスは自身に対して何かしらの魔術が既にかけられているのではないかと予想をしたが、それも無かった。何度も何度も調べてみたが、いつもと変わらないという事実以外に得られるものはない。

 アリス自身にかけられた魔術そのものを気付かせないほど、目の前に居る男は腕が立つのであれば、そもそも勝ち目はない。

 猜疑の心で刃を収めることを望まれているのなら、男の力量は判らず、これについては勝ちも負けも無い。

 いずれにせよ。

 勝ち目のない勝負だろうと、敗北を望まれている勝負だろうと。

 相手が受けるというのであれば、己の心に後悔の無いように。

「全力で行く」

 心に浮かんだ言葉を呟き、アリスは構えた。





 板見は見る。

 目の前に在り、武器を構える一人の女を。

 まず、彼女は右足を一歩前に踏み、板見に対して半身に構えた。続く動きで体重を軽く右足に傾けて前傾姿勢に移り、サーベルの柄を順手で掴んで腰だめに落とす。

「告げる。我が力はただ引き裂くために在ると。我が身はただ引き裂くために在ると。悉くを食い散らしてただ前に進むのだから、それ以外に能など無い」

 そして、目を伏せて、朗々と言葉を紡いだ。

 直後。

 サーベルの刃を中心として、風が発生する。

 渦を巻くように周囲の空気を集めては散らすその流れは、時間と共に速度を増し、密度を増し――やがて、距離を挟んでもじりじりと肌が焼けると錯覚するほどの熱と光をそこに宿す。

 魔術。

 因果の繋がりが不明瞭な結果を生み出す技術による、攻撃手段の形成だった。

「…………」

 この世界の魔術は、己の為す結果を想像し、言葉によって周囲の世界に対してその結果を強調することで因果を結ぶ。要は呪文によって魔法を使うタイプのものなのだが、この世界の魔術の特徴として面白い部分は、選ぶ言葉が必ずしも結果に関連している必要がないという点だろう。全く関係の無い言葉であれ、その言葉を使って魔術を使ってきた経験こそが魔術の結果を左右する。

 アリスが使用した魔術はサーベルを中心とした空間を誘電状態に変化させた。

 腰だめから狙う軌道は切り上げか薙ぎ払いか。いずれにせよ、その軌道上の物を焼き――否、融かし斬るのが狙いだろう。

「……っ!」

 アリスは呼気をひとつ吐き捨てて、溜めた力を解放する。

 体重を瞬時に右足にかけて身体を前に流し、身を前に飛ばす。

 崩れたバランスを整えるように、後ろにある左足を前に運ぶ。

 そして、左足を強く踏むと同時。

 その勢いのまま、腰まで伏せた刃を跳ね上げた。

 刃は逆袈裟に胴を両断する軌道を描くべく、ただ走る。

 しかし。

「これで一撃。……仕事は完了だな。報酬はきっちり払ってくれよ、その身体で」

 その一撃は板見に届くよりも前で止まっていた。

 その一部始終を見ていた者の内、最も驚愕したのは誰でもない、当事者たるアリス本人だろう。

 刃は止まっていた。

 その武器を向けていたアリス自身が武器の勢いを完全に殺すことで、攻撃は終わったのだから。

 勢いよく放たれた動きを止めるために無理な力をかけた代償として、びきびきと軋み割れるような、くぐもった音がアリスの身体から響いている。

「貴様、何をした!?」

 サーベルの刃を届かせようとして。サーベルの柄を握る掌から、力強く噛まれた口の端から、それぞれ血を零すほどの力を込めても。

 それそのものを拒むように、彼女の身体はその動きを抑えるように身をその場に留め置く。

 結果として、彼女の身体は無理を伴い軋みをあげて、自ら傷ついていく。

「企業秘密だ。手の内を晒す意味なんてないだろうに。――と、本来なら言うところなのだろうが。サービスだ。やったことだけなら教えてやろうか」

 アリスの様子を見て、板見は肩を落とすような仕草で疲れの滲む吐息を吐き、言う。

「君の行動に制限をかけた。俺に対して攻撃をしてくるならば、その動きを自ら止めるように。意図せず無理をかけた身体は勝手に傷つき、戦うためには使えなくなる。今まさに君が体感していることだし、その辺りはわざわざ言葉を尽くすことでもないのかな。ちなみに、刃を収める方向に身体を動かすのなら、自然と、いつも通りに動けるだろう。あくまで、俺に対して害が出るだろう行動に対して制限がかかるだけだから」

 一息。ちなみに、と。聞き分けのない子どもに言い聞かせるように、腰に手を当てて、もう片方の手では立てた人差し指をアリスの鼻先に突きつけた後で、

「何をした、という問いには答えたが。どうやったのか、までは教えてやるつもりはない。自分で考えることだ。そこについているものは、飾りじゃあないだろう?」

「……っ」

 突きつけられた言葉に、アリスは苦々しげに息を呑む。

 それを見かねたように、クラウが無理やり割り込む形で口を出す。

「引け、アリス。……自分で受けた勝負だろう。それ以上、醜態を晒すな。私はおまえを見害いたくない」

 その言葉を聞いて、アリスは葛藤を抑えつけるように強く目を閉じ、そして、力無くサーベルを下げた。続く動きで、彼女は板見に道を開けるように、その身体を退ける。

 その行為に、板見はどうもと軽く礼を言って、二名の侍女を傍に置くクラウへと歩み寄る。

 クラウの傍に控えていた侍女たちは、板見が近づくと同時にその場から身を剥がすようにゆっくりと道を開ける。

 板見は手が届くほどの距離までクラウに近づくと、呆れたように、吐き捨てるように笑って見せ、

「俺は君のことを見下げ果てる気分だけど。三日ならば納得させてみせよう、という言葉は嘘だったようだから。……あまり強い言葉を使って他者を貶めるのは感心できることじゃないな」

「彼女を貶めているのはおまえだろう。彼女を引かせるためには強い言葉が必要だったから使ったんだ。それに、おまえはそもそも私を見上げても見下げてもいないんじゃないか?」

 クラウはその笑みを受けても怯むことなく、力のこもった視線を板見に向けて、挑みかかるように獰猛な笑みを口の端に浮かべて見せた。

「そう言われればそうかもしれないな。……さて。予定外の労働があったとは言え、まだ時間はあるだろう。今日から俺が居座ってもいいことになっている部屋に案内してもらえるかな、依頼人。ついでに、あの屋敷の中についても教えてくれれば嬉しいが」

「部屋までは案内してやる。屋敷の案内については、先ほどオマエが勝ち取った世話役にでも頼め。嫌々ながらに教えてくれるだろうさ」

「それもアリだな。その時は、この二人と同じように、メイド然とした格好でよろしく頼む。男装の麗人も悪くはないが、やっぱり女は女として似合う服装をしていてほしいと思うものなんだ、男としては」

 かか、と笑う板見に、クラウは残念なものを見るような視線を向けた後で、同情するような視線をアリスに向けた。

「……だそうだ、アリス。自分で受けた勝負の代償だ。しっかりと要望に応えてやれ」

 その視線を受けたアリスは、疲れたような、そして何かを諦めるような表情で、

「御意」

 力無く頷いて見せた。




 場所は移り、屋敷の中。

 重厚な正門玄関を開いた先には、広い空間があった。

 天井は仰ぎ見るほど高い。その天井の中央から、玄関口から見える空間の中央に向かって豪奢なシャンデリアが吊り下げられている。そこから目を動かして下を見れば、鏡のような照り返しを見せるよく磨かれた石の床があり、そこから二階へと続く階段が一対、左右から玄関の対面にある壁の中央に続いている。

 正面、一階の壁には扉と窓が備え付けられ、その窓から見える景色は明るい。恐らく中庭に続いているのだろう。

 正面玄関から左右を見れば通路があり、中庭の空間を囲うように屋敷が造られていることが想像できた。

 板見とクラウの二人は、その屋敷を右回りに回るように、廊下を進んでいる。

「それにしても。先程のあれはどういうことなんだ?」

 先導するように板見の前を歩きながら、クラウは首だけを傾けて板見を見た。

 板見はクラウの質問を受けて、とぼけるように、さてと首を傾げる。

「どういうことだ、とは。いったい何を指して言っているのやら、俺には判じかねる」

「アリスの動きを止めた。――いや、止めさせた、のか。オマエの言を信じるのなら。仕事と言った以上、オマエはあの場では何もしていないのだろう? どうすればあんなことが出来るんだ」

 なんだそんな話か、と。板見はつまらなさそうに溜息を吐き、その感情を隠しもせずに表情に浮かべて言う。

「企業秘密、と言うのは簡単だが。……まぁ、一端くらいは明かしてやろう。サービスだ。我ながらサービスし過ぎだとは思うがね。俺とアリス嬢の間にあった差は、準備時間の差だよ。単純にそれだけだ。そして、俺がそれだけ準備に時間がかけられた理由のひとつは、君と彼女の生活圏が重なっていたという点にある」

「何?」

「気付いていないだろうけど。あの呪いめいた仕掛けは、君から感染したものだ」

「……は?」

「たとえ話で説明するとだな。……感染力が非常に強い病原菌を想像しろ。その菌保有者は君だ。だとすれば、君と生活圏が被っている人間ほど、その菌に感染する可能性は高まるだろう? そして、感染した人間から更に感染が広がり――やがて世界中の人間に感染し尽くす、というわけだ。とはいえ。実際はそこまで強い感染力を持つものは造れないし、仮に造れたとしても意味はない。君に仕掛けたものでいえば、君の生活圏に居る者程度にしか感染しないだろうさ」

「オマエ、いつのまに」

「君があの部屋に入った時からだ。あの場所は感染させるためにあるようなもんだから。事前にある程度現場の障害を排除しておけば、仕事も楽に進む。今回の場合は、君の説得不足による他者からの妨害が予想された。だから手を打っておいた。それだけだ。後の仕事にも、多少は役に立つだろうという判断もあったが」

「さっきのは、おまえにとっては茶番劇だったというわけか」

「いやいや。冷や冷やしたぜ、かなり。五分五分よりちょっとマシという、決して分がいいとは言えない賭けだったんだ」

「なるほど。だったら、別に何か保険があったんだろうな」

 板見は肩をすくめて吐息を吐きながら頷く。

「……一応は。と言っても、勝負に勝つためのものではないが」

「それはいったい――」

 板見の頷きに対して、クラウが言葉を重ねようと口を開いたが、

「依頼人」

 という、板見の呼びかけに中断された。

 その声は諌めの色を含んだ鋭いもので。

 だからこそ、クラウは足を止めて身体ごと振り返り、板見を見た。

 しかし。板見はただ力を抜いた、こちらをからかうような笑みを浮かべているだけで、

「これ以上は有料だ。明かしても問題ないが、明かすだけの利点がない」

 嘲るように、そう言葉を続けるだけだった。

 クラウはその言葉に拍子抜けするような感覚を得たが、大きく吐息を吐いて、板見の言葉に応じるように口を開く。

「依頼人からの信用は得られるんじゃないか?」

 あん? と、板見は怪訝そうに眉根をつめて首を傾げる。

「言葉で生まれる信用や信頼で食いつなぐのは商人じゃないのか? 傭兵稼業は実績でのみ信用されるべきだ、というのが俺の信条でね。結果が全て。それも、契約にそった結果が出せなければ意味もない。それ以外はすべて余計なことなのさ」

「オマエが居る間の食糧その他は、私の側で負担するような形になっているのに?」

「釣り合いが取れないと判断できるのならば、契約はこちらから無効にしてもいいんだが?」

「……オマエをここに留め置くための必要経費ということか」

 クラウは溜息をひとつ吐き、止めていた歩みを再開する。

「こちらも多少は質問に応じてやっているだろうに。その程度の負担はお互い様、というだけのことさ」

 クラウの言葉にそう応じて、板見もクラウの後に続いて歩き出す。

「それで? 依頼人。あれから手紙の主から何かしらの接触はあったのかな」

「何も無い。手紙がただの悪戯ならそれでよし、あの内容が確かであるなら、一応の保険は今ここに居るだろう」

「悪戯だといいんだが。金は入らないが、まぁ、久々の小旅行と思えば安上がりだ。なにせ宿代は無料だからな」

「その時は宿代を請求するぞ。そこらの宿よりは高値で」

「酷い詐欺もあったものだ」

「勝てる算段はあるのか?」

「依頼人。それは尋ね方が間違っている。君がここで尋ねるべきは、依頼した仕事が果たされるかどうか、ということだろうに。俺の仕事に、手紙の主を倒す作業は入って無い筈だが」

「負けない限り去らないだろうが……」

「さてね。何にせよ、今の状態では色々と足りないから、準備はするさ。相応に、適当に」

「大丈夫なんだろうな……?」

「仕事はするさ。多少、依頼人に協力して貰わなければならない部分もあるが」

「例えば?」

「これから三日は家を出ない、とかだ。……ところで部屋はまだか?」

「大人しく付いて来い」

 クラウが疲れの見える声音でそう言って、しばらく歩いた後で、

「ここだ」

 と言って指を指して示した場所は、板見にとって想像以上の場所だった。





 板見を部屋に案内した後で、私用があるとクラウはその場を去っていった。

「それは家を出るような用事か?」

「悪いな。これでもそれなりに多忙な身だ。……せめて、依頼した時にその指示を貰えれば調整のしようもあったが。当日くらいしか、家に常に居るようなことはできそうもない」

 部屋の去り際にこんな会話があったものの、そう言った時のクラウの表情には全くと言っていいほど申し訳ない様子が見えなかった。信用や信頼、要は人柄のなせる技というものなのだろう。板見としては自身のキャラを変える気が毛頭無いのだから、その辺りの小さな不都合には目を瞑る他無い。

「しかし、これまたいい部屋だなぁおい」

 板見は入った部屋を見て、吐息交じりに苦笑を浮かべた。

 部屋は広い。

 十畳程度の床面積があり、その対面にある天井は非常に高い。その天井には玄関ほど大きくはないものの、安物ではないだろうと思われるシャンデリアが吊り下げられている。壁は白く、磨き抜かれたように染み一つなかった。床から何から、全てによく手が行き届いていることを実感させられる。

 入口から見て真正面に大きな窓があり、その向こうには中庭が見える。その窓の真下には小さな机が一つ置かれ、その上には燭台がひとつ置かれている。その机の横には天蓋こそついてはいないが、ダブルサイズのベッドが置かれ、その上には、壁紙と同様の、染み一つない真新しいシーツが被せられていた。入口から見て右の壁際には、ベッドの横に置かれているものよりも二回りほど大きな机と、座り心地のよさそうな椅子が置かれている。

「牢屋みたいな部屋が宛がわれるものだと思っていたんだがな」

 板見は部屋に入り、きょろきょろと部屋の中を見回しながら、困ったように頬を掻いた。

「クラウ様の采配だ。一応客人として扱うように、と命じられたからな。客室の一つを割り当てていた。使用人と同程度の部屋だが、この屋敷における各部屋の内装はそう大差ない。精々、家具に違いがある程度だよ」

 おや、と。板見は独白に対する返答があったことに驚き、視線を音源である部屋の入り口に向ける。

 そこには一人の侍女が立っていた。

「着替えるのが早いな。女の着替えというのは、時間がかかるものだと思っていたが。――アリス女史、普段しない格好をするのはどんな気分だ?」

 入口に立っている侍女姿のアリスが、忌々しげに舌打ちをこぼす。

「最悪だ。見慣れぬ格好で屋敷を歩きまわると、すれ違う女中共に奇異な視線を向けられてな」

「男装だと判らないけど、君って意外と胸があるんだな。だから視線が集まるんじゃない? ……おいおい、そんな怒ったような顔しないでくれよ。好ましくない話題のようだから、話を変えるが。一応客人として扱われていたということは、三食くらいは出る予定だったのか?」

「貴様がどういう扱いを予想していたのかは考えたくもないが。食事くらいは出してやったさ。予定していた扱いと差異があるとすれば、世話人が付いているというところくらいか」

「一応待遇を改善してくれ、という条件だったんだから、食事の質も少し上げてくれると嬉しいんだがな」

「使用人から下位の客人相当には上げてやる。十分だろう?」

「何この世話役、超上から目線なんだけど」

「屋敷の案内が必要なのだろう? さっさと部屋を出たらどうだ。旦那様と奥様の居室近辺は流石に案内出来ないが、それ以外なら大抵の場所には連れて行ってやる」

「……ああ、そう。じゃあ、依頼人の部屋への案内を頼む。後は別に、案内は要らないな。むしろ屋敷の外、敷地内を自由に歩きまわる許可が欲しい」

 板見は疲れの見える様子で吐息を吐いて、アリスの横を抜けて部屋を出る。

 へぇ、と。アリスは横を通り抜ける板見に意地の悪い、嗜虐的な笑みを浮かべながら問いかける。

「トイレの案内は要らないのか?」

「……随分と気の回る世話役だ。感謝感激だね。それも頼むよ」

 その笑みに、板見はやれやれと大きな溜息を吐きながら頷いた。





 夜。

 板見は宛がわれた部屋の椅子に座りながら本を読んでいた。

 本は持ち込んだものであり、真新しいブックカバーに包まれた文庫本である。

「三日間の暇つぶしにしては、少し薄いか。まぁ他にもストックがあるにはあるが……見返すにも限度があるし、少し街に出ておいた方がいいかもしれないな」

 本から視線を上げ、板見は溜息を吐いた。そして、続く動きで視線を窓へと移す。

 窓から見える景色は、昼間とは打って変わるような静けさだけがあった。

 黒く、暗い。ただ、それだけの場所しかない。

 ところどころにぼんやりと灯が見えるのは、屋敷のいくつかにある窓や廊下の燭台だろう。しかし、それらは窓の外を照らすだけの光量を備えていない。だから、暗い。

 敷地が広いことに対して、明かりを点す場所が少ないのが原因か。なんにせよ、

「不気味な家だ」

 板見は素直な感想を口にして、再び本へと視線を戻す。

 ぱらぱらと、ページをめくる乾いた音だけがしばらく部屋に響いて。やがて、それを中断させるように、硬質な音が四度響いた。

 ノックの音である。

 板見は視線を扉の方へ移して、扉の向こうに居るだろう人物に、どうぞと声をかける。

 開かれた扉の向こうから姿を現したのは、クラウとアリスの二人だった。

 板見は二人を見比べるように視線を動かした後で、苦笑しながら問いかける。

「律儀な回数だったな、今のノック。どっちが叩いたんだ?」

「私だ。一応仕事の間柄だろう」

 板見の問いかけに、やれやれと肩を落としながら、吐息交じりにクラウが答えた。

「流石お嬢様というところか。……流石に、屋敷の主人格に対してベッドを勧めるわけにもいかないな。俺が座った後で申し訳ないとは思うが、ここに座って貰っていいか?」

 板見の言葉に、クラウが何か答えようと口を動かしたところで、

「すぐに椅子を持って参ります、クラウお嬢様。少しお待ち下さい」

 相変わらず侍女服姿のアリスが、その言葉を遮るように口を開いて、その場から姿を消す。

 アリスの姿が見えなくなるのを、クラウと板見は見届けた後で、板見がクラウへと声をかける。

「……だったら、俺はここに座ったままでも良さそうだ。時間が勿体ないし、用件を聞こうか依頼人」

「椅子が来るのを待ってもいいのではないか?」

「待たなくても話は出来るだろうよ。俺の方が年寄りなんだから、座ってる部分には目を瞑っておいてくれ」

 クラウは板見の言葉に溜息を返すと、腕を組み、壁に身を預ける。そして、板見をまっすぐ見据えて言う。

「……単なる顔合わせだよ。一日の終わりに、仕事の結果を報告してほしいんだ。金を使ってここに置いている以上、最低限度は成果が欲しい。もしくは、やったことに関する報告がほしい」

「無為に過ごした、と言ったらどうするんだ?」

 クラウの言葉を聞いて、板見がからかうような笑みを浮かべて放ったもの言いを、

「とりあえず追い出す」

 クラウは遊びの全くない三白眼でばっさりと切って落とした。

「なにこの依頼人、超怖い」

「当然の処置だ。……私が悪いように言うな」

 余裕がないねぇ、と。板見は苦笑した後で、何でもないことを言うように、ただ口を動かして言う。

「散歩をした。君の部屋を見せてもらった。俺が今日やったことはそれだけだな」

「それは無為に過ごしたということか?」

「そういう取り方もある」

 クラウはしばし無言で板見を睨み据えていたが、

「それ以外の取り方を、どうやったら出来るか教えてくれないか」

 取繕う様子もなく、ただ言葉を待っているだけの板見に根負けして、脱力するような、疲れたような色を混ぜてそう言った。

 板見は嘲るように笑みを浮かべて、クラウの頭を指差し、言う。

「そこについているものは飾りか、依頼人。少しは考えてみたらどうだ? ヒントは出したぞ。……まぁ、考えた結果として、無為に過ごしたと判断するのなら、今すぐ出ていけと言ってくれれば出ていくから。当日ここに出向けばいいだけだからな、その場合」

「……書割でも、そこまで立派だと、それと判らないものだよな」

 クラウの皮肉るような言葉を、しかし板見は堪えた様子もなく、おどけるように肩をすくめて、両手をあげて言う。

「ちなみに。これから当日まで、俺がやることと言えば、この屋敷の中を無為に歩き回るくらいだ。気分次第でサービスはするが。他に何かをやる予定はない。だから、今から追い出したところで、君に損は無いかもしれないな。タダ飯食らいがあと二日、居るか居ないかという違いしかない、だろう?」

 クラウはしばしの間、無言で板見を見据えていたが、やがて、何かを諦めるように大きく溜息を吐いた後で、口を開く。

「……依頼人として聞きたい」

「何かな」

 応じた板見に、クラウは強い視線を向けて問う。

「あと二日、そうして過ごすことは、仕事を果たすのに必要なのか?」

 問う言葉に、板見は何を聞いているんだかと、呆れるような視線を返して答える。

「あと二日。どう過ごしたとしても、仕事を果たすつもりでいるのは確かだが」

 そして、成功するかは判らないがね、と追加しながら肩を竦めて見せた。

 気負いも無く、自信を感じさせるでもなく。ただ、自然とその言葉が出ていることに、クラウはわずかに驚きを得て、

「……ならいい。タダ飯を食らった分だけ、依頼料は勉強してくれ。世話役もつけたしな」

 しらず、安堵の混じった吐息を吐いて頷いた。

 板見はその言葉に、おいおいと非難するように、眉根をつめた苦い表情を浮かべてみせる。

「世話役がついたのは、俺の仕事に対する報酬だろう?」

 おや、判っていないのか、と。馬鹿にするような視線を向けて、クラウは言う。

「侍女服を着るように促したのは私だぞ」

 板見はぽかんと間の抜けた表情を浮かべた後で、ああ、と頷きをひとつ落として、笑みを浮かべる。

「……なるほど、なるほど。確かに、それは一考の価値はあるか。考えておこう」

「そうしてくれ」

 クラウがそう応えたところで、

「クラウお嬢様。椅子をお持ちしました」

 侍女服姿のアリスが椅子を持って来た。

 そんなアリスに対して、クラウは申し訳なさそうな視線を、板見は残念なものを見るような視線を、それぞれ向ける。

 アリスは両者の視線を受けて、板見に対して何だテメェ文句あんのかゴラァというような表情で視線を返した後で、クラウに対しては視線で静かに問うような表情を向けた。

 クラウはその反応に対して苦笑を浮かべると、アリスの横を抜ける形で部屋を出る。

「悪いな、アリス。話はもう済んだ。……済んだが、その椅子はこの部屋の中に置いておいてくれ。また使う機会もあるだろうから」

 その際に、アリスの肩を叩いてそう告げて、板見には軽く手を振って見せた。

「仰せのままに」

 アリスはクラウの言葉に即座に応じて、クラウがある程度遠くに行くまで、頭を深く下げたままで見送った。

「感心するね。職業意識が高い、とでも表現するのが適当かな」

 板見が頭を上げ終えたアリスに向かって、彼なりの賛辞を投げた。

 アリスはその言葉をこれみよがしに鼻で笑ってみせた後で、椅子を部屋に運び入れる。場所は扉のすぐ脇の、扉が開いても邪魔にならない隅の方だった。

 板見に背を向けるアリスに向かって、彼は盛大に吐息を吐いた後で、天井を仰ぎ見るように椅子の背もたれに身を投げて、首をのけぞらせた。そして、その顔の上に、手に持っていた文庫本をひさしのように被せて目を覆う。

「賛辞を鼻で笑うのは、この家の慣習なのか?」

「貴様の賛辞なら誰でも鼻で笑うだろうさ。なにせ、誉められた気がしない。世辞にすらなっていない」

「……本心からの賛辞なんだがなぁ。伝わらないとは、本当に残念なことだ」

 目を、顔を覆ったままで、板見はかははと笑って見せる。

 アリスはその笑みを、心底不快げに、嫌なものを見るような表情で見ていた。

 ある程度笑った後で、しかし笑みの余韻を顔に張り付けたまま、板見は姿勢を戻して、顔から本を除けて、アリスに視線を向ける。

「なんだ」

「なんだ、は俺の台詞だよ。なんて顔してんだアリス女史。ヒトのする顔じゃあねえな、それは。畜生みたいだぜ。まぁそれでも見目麗しいというか、醜女にならないだけ、美人というのは得なのだろうが」

 一息。板見は提げたブックカバーを一度開いて閉じる動作を見せて、

「アリス女史。世話役の自覚はあるか?」

 アリスは板見の問いに、やれやれと溜息を吐きながら応じる。

「不本意だが。一応、貴様の世話役として、常識的な範囲で仕事を受けるようにと、クラウお嬢様から言い渡されている身なのでな」

 なくはない、と。そういう意味の返答に、板見はほんの少しだけ対応に困るような、眉尻を下げた表情を浮かべて苦笑しつつ、言う。

「曖昧な応答だが、四捨五入やらで自覚があると判断できることを期待しておこう。……アリス女史。ひとつ、君に頼みたいことがある」

「何かな客人。常識的な頼みごとなら聞いてやるぞ」

 あくまで横柄な態度を崩さず応じるアリスに対して、

「なあに。幼児でも、少し賢ければ出来る程度の御使いだ。それを淑女に頼むのが常識的な行いではないというのであれば、素直に諦めることにするよ」

 その態度を嘲るように、板見はおおげさに、おどけるように肩を竦めてみせた。

 アリスは舌打ちをひとつこぼし、

「言ってみろ。内容次第だろうが」

 忌々しげに、先を促すように仕向ける。

 その反応を見て、板見は提げていたブックカバーをアリスに投げつけた。

 アリスは難なく投げつけられたものを受け取り、視線を手の中にあるものに向けた後、怪訝な表情で板見に視線を向けた。

 視線は言う。何だこれは、と。

 しかし、板見は無言の疑問符に答えることはなく、ただ淡々と指示を出す。

「その中にあるものを、当日、この屋敷にいるだろう侍女全員に配れ」

 アリスは舌打ちをひとつ挟んだ後で、視線じゃ足りないのかという苛立ちが滲む声音で問う。

「何だこれは?」

「御守りだよ。想い人の名前を書けば、その人物にかかるだろう苦難の一部を防いでくれる――かもしれない、そんな程度の代物だ」

 言われて、アリスが受け取ったブックカバーを開くと、そこには真っ白な紙片が入っていた。試しに一枚取ってみて、ぺらぺらと回して裏表を見てみるが、何も書かれていない。本当にそんな効果があるのかどうか、アリスから見てもよく判らなかった。しかし、そんなことを質してみたところで、この男は何も答えないだろうと考えて、板見の発言で気になっていた別な部分を問い質す。

「侍従ではなく侍女限定なのは何故だ?」

 そんな質問に、板見はきっぱりと断じるように答える。

「野郎を守る趣味は無い」

 アリスはその返答に三白眼を向けたが、板見はそれを無視して続ける。

「自分の名前を書くもよし、他人の名前を書くもよし。そもそも、使うかすら自由だ。好きにするといいさ。書くときは自分の血で書くことと、名前を書くにせよ書かないにせよ、その日にそれを持っておくことを、強く念押ししておいてくれ」

「何の意味があるんだ?」

「ただの保険だよ。……そも、意味の有る無しを問いたければ、仕事を果たしてから問うてくれ。そうすれば、少しは答えてやってもいい気がするってものだ」

「他に条件や用件は?」

「今のところは」

 答えながら、板見はコートの懐から別なブックカバーを取り出して、ぺらぺらとめくり始めた。

 サイズはアリスの手にあるものと同じくらいのもので、文庫本でも入れてあるのだろうか。

 それを見ながら、アリスは溜息を吐き、

「……茶のひとつくらいは出してやるぞ。客人だからな、一応」

「頼んでもいいなら、淹れて貰えるとありがたいなぁ」

 板見の返事に、ふん、と鼻を鳴らして返すと、部屋を出た。

 板見は扉の閉まる音に続いて、ぱたぱたと部屋を離れる足音を耳にしつつ、

「やれやれ。面倒だが、あと一場面というところか。――仕掛けはそれなり、結果もそれなり。過程に楽しむところは無し、だが。もう少しだけ気張るとしよう」

 文庫本の文字を追いながら吐息をひとつ吐いた。


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