08話
激しい雨音と雷鳴が轟く悪天候の下で、一両の蒸気機関車がとあるトラブルに見舞われ、崖上の鉄橋で停止していた。
車内の乗客たちの間では不安が募り、ざわめきが広がっていく。
そんな中、俺こと姫也は停止した理由を聞くために操縦室へと向かったのだが、どうにも俺と同じ考えを持った者たちが多数いたらしく、狭い廊下は人で埋め尽くされていた。
これでは話を聞くどころではない。乗務員たちも、押し寄せる乗客を鎮める方に専念しており、とても事情を説明できるといった様子ではない。
諦めてアーシェたちの所へ戻ろうと踵を返した時、ふと離れた所から群衆を眺めている中年の乗務員が目に入った。
「あの、何があったんですか?」
歩み寄って訊ねてみると、彼は困ったような頭をぽりぽり掻きながら、しかしはっきりと答えてくれた。
「いやね、どうにも上空をワイバーンの群れが通過しているらしくて…………あまり刺激しないようにと、停車したんだ」
「成程。でも、あんなに騒いでいると、どっちにしろ危険なんじゃ……」
「うーん、伝達管の整備がされていなかったみたいで、車内放送が間に合わなかったんだよ。お陰でまだ空中に留まってるみたいで……」
ワイバーン。二本足の翼竜。
ドラゴンと比べると一回り小さく、ブレス等の特技も持ち合わせていないし、力も弱い。
とは言っても、それはあくまで"ドラゴンと比べて"に過ぎず、人間とは雲泥の差がある。
それに、小型のワイバーンになると、ドラゴンと違い群れで行動することが多いので、むしろ厄介だと言えよう。
恐らく、現在上にいる種も、その類のものなのだろう。これは非常にまずい事態だ。
時期が時期なので、乗客には俺と同年代、成人したばかりの子供が多い。
当然アクシデントに対する耐性も低いから、この騒ぎは暫く治まらないだろう。
この豪雨が、今は生命線になっている。もし今日が日光降り注ぐ晴天だったら、間違いなくこの車両はワイバーンの群れによって崖下へ真っ逆さまだった筈だ。
しかし、このままだと時間の問題と言えなくもない。
「魔物の鳴き声が聞こえるという声も上がって来ています。多分、このままだと……」
彼がそこまで行った、その時だった。
車両全体が、大きく揺れた。
俺は最初地響きだと思った。その次に、もしかしてワイバーンが上に降りて来たのだと悟った。
騒ぎぴたりと静まった瞬間、目の前の乗務員さんは顔面蒼白になったまま、ぴしりと硬直してしまっていた。
直後、爆発したように騒ぎが大きくなり、俺は思わず耳を塞いだまま車内を駆け出した。
アーシェたちのいる部屋の扉を開き、中を確認する。きょとんとした少女が二人、こちらを見ていた。
「聞いたか、今の」
「うん。ドラゴンに似てたけど、違うかな」
「ワイバーンだ。多分、今汽車の上にいる。無理は言いたくないが、気をつけろ」
「え、ワイバーンって、え、え?」
部屋の窓から身を乗り出して、空を見上げる。雷雨の中から聞こえる捻るような轟音。遠くに多数。近くに一つ。
雨がかなり強くなってしまっているため、どこにいるのかまでは分からない。だが少なくとも、この両にはいない筈だ。
「窓は絶対に開けるなよ。俺が上がったら鍵を閉めて、静かにしていてくれ」
「駄目だよ」
窓枠に足をかけた所で、アーシェに腕を掴まれる。止めてくれるな、と言おうとして振り返ってみると、その表情はいつになく真剣だった。
しかしまあ、この汽車に乗っているのは子供ばかりで、魔物に対抗する手段などありはしない。尚且つ、俺には加速魔法がある。危険になれば逃げ帰ってくることなど朝飯前だ。
と舌を回してみても、アーシェは頑なに俺の腕を離そうとはしなかった。いつもはのほほんとした顔をしている癖に、なぜこういう見逃して欲しい時に真面目になってしまうのだろうか。
「他に強い大人が乗っているかもしれないよ。その人を捜せばいいんじゃないの?」
「じゃあ捜して来てくれ。俺は先に様子見て来るから」
「ふざけないでッ!!」
久々に聞くアーシェの迫力ある怒声に、俺は驚いて目を見開く。正に怒り沸騰という訳である。
後ろに座っているレフィンは未だに状況が飲み込めていないらしく、おろおろとした様子で俺とアーシェを交互に見やっていた。
「前に姫也くんが森から帰って来てずっと寝てた時、私とても心配したんだよ。周りから精霊が消えて、このまま目を覚まさないんじゃないかって不安だった」
「その素直さを、もう少しあの人に向けた方が良いんじゃないか?」
「え?」
直後、俺はアーシェの腕を振り切り、強化魔法を使って車上に駆け上がる。
目指すは後部車両。強化を解き、背中に俺の名を呼ぶ声を聞きながら、俺は豪雨の中を駆けていった。
***
皆さんこんにちは、ヴルム家の三女ことレフィン・ヴルムです。
今日、私は生まれて初めて、お友だちという方々ができました。今までずっと思い悩んでいたことが解消して、しかも向こうから友達だよ、と言ってくれた時は、思わず感極まって涙した程です。
さて、そんな私の友人の一人である、アールシェイブことアーシェさんですが、現在私の向かいの席で膝を抱えたまま顔を伏しています。
どうやら彼を止められなかったことが余程ショックだったのでしょう。彼というのは姫也さんというもう一人の友人でして、まるで女性のような男性です。
まだあまり状況を飲み込めていないのですが、どうやら現在汽車が止まっているのはワイバーンに襲われているかららしく、姫也さんはそのワイバーンをどうにかする為に窓から飛び出していってしまったようなのです。
もう何がなんだかわかりません。そもそもワイバーンという種は森に生息する魔物ではありませんし、というかベテランの戦士が長時間の戦闘を経て、やっと討伐することのできるレベルの魔物なのです。
到底、子供一人が対処できる相手ではありません…………。
重たい空気の中、どうにかしてアーシェさんに話しかけようとあたふたしていると、突如として部屋の扉が開かれました。
そこに立っていたのは高身長な初老の男性で、私は彼の顔に見覚えがありました。
「ミリオニアスさん、どうしてここに!?」
「おや、ヴルムの所のお譲さん」
彼の名はミリオニアスと言って、私が山越えを果たす際に父が護衛としてつけてくれた冒険者。とても優秀な魔法使いで、ドラゴンですら軽くあしらってしまう程の実力の持ち主です。
「言ってませんでしたっけ。今年度からエイリアツの教師として新任することになったんですよ」
「初耳です」
「そりゃ悪かった。そんなことより大変だお譲さん。今上にワイバーンの群れが来ていてな、このままだと」
「聞きました。それで、さっき男の子が一人、上にあがってしまって……」
ミリオニアスさんは「はあ!?」と言いながら、少しして呆れたように溜息を漏らしながら頭を抱えていました。
「とんだやんちゃ坊主だな…………仕方ない、ちょいと失礼しますよっと」
そう言いながら、部屋に入って窓から外を覗く。暫くして彼は、身軽な動きでひょいと身体を滑り込ませると、一気に車上へのぼってしまいました。
少しして窓から顔を覗かせると、逆さまになったまま「ちょっと見てきますんで、静かにお願いします」と残して窓を閉めて姿を消しました。
***
ごつごつとした青黒い鱗と甲殻で全身を多い、翼の先には鋭いかぎづめ。
長い尻尾の先端にはきらりとした毒針が伸びており、あれに刺されてしまえば一巻の終わりだと、ミースが言っていたのを思い出す。
豪雨に打たれながら這い、こちらを睨むその巨体は、ダンプカーよりまだ大きい。
しかし、これでもまだ飛竜種の中では小さい類なのだというから驚きだ。あの翼で叩きつけられれば、それだけで大の大人でも真っ二つになってしまうらしい。
「敵意剥き出しって感じだなぁ……」
今にも飛びかかってきそうな血走った双眸に捉えられながら、その様子を伺う。魔物は人間の敵。人間は魔物の敵。昔からそう伝えられているらしい。
白い吐息を漏らしながらじっとこちらを伺うその姿は、図鑑で見るのとは全く違う迫力がある。
雨音と車内の喧騒だけが聞こえる。アーシェ以外、誰も俺がワイバーンなどという大型の魔物と相対しているとは思ってもいないだろう。
そんな現実離れした感触に口元を釣り上げたその瞬間だった。突然、特大の轟音が周囲に鳴り響いた。
黄金色の稲妻が炸裂し、その閃光をバックにしたままワイバーンの左翼が振り上げられた。
空気と雨粒を切り裂く音が続く。迫りくる斬撃にも似た剛腕を肉体強化の魔法で後方に避ける。車両に突き刺さるワイバーンの翼。
それと同時に、俺が魔力の消費を抑えるために強化を解こうとした瞬間だった。
追撃だ。魔法による反撃を試みようとかなり距離をとったのに、顔を上げた瞬間、もう既にワイバーンの体は目と鼻の先まで来ていた。
再び強化魔法を脚部に集中させ、飛びかかる巨体の股下を滑り抜ける。そのまま一気に隣の車両まで移動した俺は、周囲に満ち溢れた雨粒をかき集め、車両の間に巨大な氷の壁を作り上げた。
しかし、奴の強靭な肉体にそんなものは関係ないらしく、ただの突進によって打ち砕かれてしまう。
迫りくるワイバーンと自分の間に連続して氷壁を立てていくが、その全てが無残にも粉々に破壊されていく。
そこで俺はようやく悟った。このままではジリ貧だ。他の手段を考えなければいずれ魔力が尽きてしまう。
とはいったものの、あの堅牢な鱗を打ち砕くのはかなり至難な技を要する。あの時のように、水の槍で突き破ることもできないだろう。
火炎魔法はこの豪雨の中では効果半減は逃れられない。足場を崩すことも乗客がいるから無理だ。
ここはやはり、加速魔法に頼るしかないみたいだ。
雨粒が減速し始め、周囲が静寂に包まれる。しんとした空間にただ一人、じっと立ち止まる。
更に全身に硬化の魔法を施しておく。こうしておかなければ、もしかしたら全身穴だらけになってしまう可能性があるのだ。
雨粒を蹴散らしながらスローモーションの世界を駆け抜け、ワイバーンの頭部に飛びかかる。
狙うはこのぎらぎらした両目。俺は周囲の満ち足りた水分を使って氷の槍を二本、両手に構えて、そのままワイバーンの頭部に振り下ろした。
流石の竜の一族といえど眼球だけは柔らかかったらしく、槍はワイバーンの顎まで突き抜けて、完全に奴の視力を奪った。
勝負あった、と気を抜いたその時だった。突然、加速魔法の効果が切れ、周囲に激しい雨音と雷鳴が戻って来た。
(魔力切れ……!)
そう理解した時には時すでに遅し。激痛にのたうち回るワイバーンに振り落とされ、そのまま巨体を支えていた右足に蹴り飛ばされた。
視界がぐるぐると大回転する。猛烈な痛みで勢いに抵抗できず、何度か車上をバウンドし、最終的に線路上に転がり落ちた。
どうやら加速魔法の最中に魔法を重ね掛けするだけの魔力は、今の俺にはないらしい。
全身がみしみしと音を立てているのが分かる。かつてこれ程までに痛めつけられたことがあっただろうか。
汽車から大分離れた位置に落下した辺りから、あのワイバーンの脚力がどれほどのものかを伺わせる。次撃を喰らえば、今度こそただでは済まないだろう。
あれで絶命してくれればよかったのだが、どうやら竜種というのはそれほど軟弱な生物ではないらしく、ワイバーンが線路に降り立つ音がすぐに聞こえてきた。
種に限らず、魔物は執念深い生き物だ。ここで打たねば、どこまでも追いかけてくるに違いない。
既に足が見える距離まで迫っている翼竜を、見上げる力さえも今の俺には残っていない。
このまま踏み潰されてしまうのだろうか。いや。
(そんなのは真っ平御免被る)
迫りくるワイバーンの足から逃れ、立ち上がる。それと同時に、体の至る個所から鋭い刺す様な痛みが走った。
左腕は動かない。右足も、もう駄目だ。加速魔法を使うだけの魔力も残ってはいない。たとえ使ったとしても意味がない。
せめて奴を絶命させるだけのダメージを与えなければ、倒れる訳にはいかない。
俺は魔力の残りカスを、最後の一滴まで絞り切った。
ワイバーンの雄叫びが周囲を振動させる。びりびりと腹に沈むその轟音は、とても生き物が出せるものとは思えない大きさだった。
そんな奴の頭上に幾つもの氷のギロチンを出現させる。氷の処刑台で頭をがっちり固定させ、幾重にも続けて斬撃を加えていく。
(頼む、これで死んでくれ……)
追加で十にも及ぶギロチンを落とした頃だろうか。気付くとワイバーンが大きな音を立てながら倒れ込み、白目を剥いて事切れていた。
赤黒い竜の血液が、豪雨に流されていく。脅威が去ったことと、魔力の使い過ぎによって全身から力が抜け、俺は糸の切れた人形のように線路に仰向けになって倒れた。
ワイバーンの鳴き声が遠のいていく。これで、乗客たちに振りかかる危険は去ったことになる。
真っ白な雨音だけが支配する世界で、俺は静かにゆっくりと両目を閉じた。