06話
短いね。
区切りの年がやってきた。大空を仰ぎながら、大きく深呼吸をする。
エイリアツの入学式を二日後に控えた俺にとって、相応しい晴天だった。
ここ数週間で、入学に必要な教材等は全てゴルゴットさんが揃えてくれた。あの人には何度礼を言っても恐らく意味がない。それほどまでに、返し切れぬ恩を受けている。
屋敷の中を歩いていると、出発する前日ということもあって、顔を合わせる旅に子供たちが言葉を投げかけてくる。頑張って、体を大事に、怪我しないようにと、単純なものばかりではあったものの、励ましの言葉としては十分過ぎる。
そんな小さな激励を受けながら俺が現在何をしているのか。当然、彼らから言葉を貰うためなどではない。
自分の準備を終えた為、アーシェの方も済んでいるかどうか確認を取るために、屋敷内を捜している最中なのである。
そう、彼女もエイリアツに入学する。つまり、冒険者としての道を歩むと言い出したのだ。
理由を聞いても答えてはくれなかったが、多分オーバルさんに追い付こうとしているのだろう。彼女がオーバルさんに淡い思いを寄せていることは、アナリシスさんから聞いていた。
動機に関して俺がとやかく言う資格はないので、特に追及はしていない。
そんな訳で、先程から捜し回っているのだが、どうにも部屋にもいなければ、花壇周辺にも見当たらない。一体どこをほっつき歩いているというのだろう。
そうやってアーシェの姿を捜していると、不意にメイド長のメリスさんとばったり顔を合わせる。突然曲がり角で激突しそうになったことにお互い驚きながら、頭を下げる。
「そういえば姫也さん。ゴルゴット様がお呼びになっておられましたよ。なんでも、大事な話があるのだとか」
ゴルゴットさんが俺を書斎に呼び出すことは、実は結構珍しい。年中忙しそうにしているし、顔を合わせること自体食事の時だけで、それも家に不在の場合が圧倒的に多いのだ。
三度扉を軽く叩くと、奥から「入りなさい」というゆったりとした声が聞こえてきた。俺はそれに従い、失礼しますと挟みつつ部屋に入る。
椅子に腰かけたままコーヒーを啜っている姿から、どうやら今は休憩中らしい。先程メリスさんと会った際、体に不釣り会いなトレイを持っていたので、恐らく彼女が持って来たのだろう。
「準備は終わったかね」
「はい」
「そうか……こっちへ来なさい」
「はい、失礼します」
デスクの前まで招かれ、背筋を伸ばしたままそこに立つ。すると、彼は机の引き出しの中から見覚えのある一冊の書本を取り出し、机の上にゆっくり置いた。
何度か言い難そうに口を開いたり閉じたりすると、遂に意を決したようにゆったりと話し始めた。
「これは、キミが持っておくべきものだろう。私が持っていても、恐らくどうしようもない」
「よく、意味が分からないのですが」
「今は分からなくてもいい。いずれキミなら理解する時がくるかもしれない」
ゴルゴットさんにしては珍しく、どこか自身がなさそうな口調だった。
しかし、それは彼がそう語る他に言葉が見つからないからであり、俺が更に訊ねても無駄なことだろう。
大人しくそのボロボロになった書本を受け取る。擦り切れたタイトル文字は、相変わらずさっぱり読めない。
「それと、これは注意だ。よく聞いてくれたまえ」
カップを置くと、ゴルゴットさんは立ち上がりながら続ける。
「加速魔法はあまり使わない方が良い。別にキミの体に悪影響を与えるだとか、そんな話では決してないよ。ただ、あの魔法は少々特殊でね。最終的な判断は、まあキミの自由なのだが」
一応、以前からそのことについては考えていた。前々からアナリシスさんやミースから言われていたのだが、成人する以前から魔法を扱うなど、先祖にエルフでも混じっていない限り不自然なのだそうだ。
学院で魔法学の授業をとり、そこで学ぶことによって初めて魔法を使い始める者が殆どらしい。
それを俺は、好奇心という感情に任せるまま、魔導文字が読めることを良い事に二年間たっぷり訓練を重ねてきた。言わば異端な存在なのだ。
よって、実力は極力隠す。勿論、少しでも使うべきだと思った時には、加速魔法であろうと構わず使用する。出し惜しみをして怪我をしてしまっては元も子もない。
そもそも、俺はまだ出し惜しみ云々と言えるほど強くはない。それは、この書本と共に遭遇したあの怪物たちとの、満身創痍で終えた死闘から言える事実である。
「失礼しました」
静かに扉を閉め、退室する。
さて、これからどうしよう。アーシェの奴はもう部屋に戻っているだろうか。
試しに部屋まで向かい、扉を叩くのだが、まあ予想通りというかなんというか、そんな予定調和のような展開になる筈もなく、返事は帰って来なかった。
もしかしたら昼寝でもしているのかもしれない。そう思い、俺は自分の部屋へと戻ることにした。
***
私には、あれを葬り去るだけの力はなかった。それどころか、封ずることさえ叶わなかった。
完全に力不足なのか、それとも約不足なのか、はたまたその両方か。
どちらにせよ、私にはあれをどうにもすることはできない。ページを開いただけで朝食を全て吐き出してしまっては、最早本を読むどころではない。
しかし、姫也。彼は違う。彼は意味が分からないと言っただけで、特別な拒否反応を示してはいなかったのだ。
あれが一体何なのか。彼は大層知りたがっていたように見えたが、私から語るべきことは何もない。私とて、それを探し求める冒険者の一人なのだから。
今より遥か遥か遠い、おぞましいほど歪な太古の歴史を記した書物。それが、私がこの二十年間、求めて止まない物だった。
だから、あれを姫也から受け取り、中を覗いた時、私は一瞬にしてこの本が何を意味しているのかを理解した。そして同時に、強烈な悪夢に頭を焼かれ、四十年ぶりに嘔吐した。
まだ誰にも言っていないが、あの本を読んでから、ずっと左腕と右耳がびりびりと震えている。食べ物の味も殆ど感じられなくなってきている上に、左目はもう見えていない。
私でこれなのだから、恐らく普通の人間が偶然中身を目にしたりすれば、最悪気が違ってしまうかもしれない。
とはいっても、そんなことは多分有り得ない。私や姫也のように、魔導文字を真に理解して読んでいる者は、少なくともこの大陸には存在しないのだ。
魔導文字は発音すら知っていれば、魔法を発動させることができる。故に意味を理解する必要はなく、その文字の読み方と、それが何の魔法なのかさえ知っていれば問題ないのだ。
我々以外に誰もあの本を読む事はできない。だから、今後私のような目に遭うものはいない筈だ。
でなければ、あんな危険なものを渡したりはしない。いや……。
私は姫也ならあれをどうにかすることが出来るのかもしれないと言ったが、それは全く根拠のない押し付けだったのかもしれない。
あれがただの魔導書の類ではないということに、彼も薄々気付いているのだろう。
今ほど自分を無力に感じたことはない。大陸一の冒険者と祭り上げられながらも、本の一冊も消し去る事の出来ない情けない老人だ。
私は託すことしかできなかった。そう遠くはない未来に迎える死期を見据えながら、ただ後の世界へ芽を残すことしか……。
***
「これもある意味予定調和か……」
腰に手を当てながら、溜息を漏らす。目の前には、俺のベットの上でさぞ気持ちよさそうにアーシェが眠り込んでいた。
かれこれもう何十回目か分からない光景。最早注意する気すら起きないハーフエルフの少女を眺めながら、やはり俺は椅子の上に腰かけるのであった。
ただし、今日は本を読みはしない。今手元にあるのはこの不可解な書本だけだし、教材等は全て荷物としてまとめてある。
この部屋にも、短い間だったが随分と世話になったものだ。
「今日くらいは、ゆっくり寝かしておいてやるとするか」
うんと伸びをして、机の上に突っ伏す。俺も御昼寝としけこむことにしよう。