05話
踏み込みます
鳥の囀りと、木の葉が揺れる音が主軸となっている森の中で、少し小ぶりなショートソードを正眼に構える。
見据える先にあるのは、猛烈な敵意を示す野生のイノシシだ。ぶるるっと鼻を鳴らし、何度も地を蹴る真似をしながら頭を震わせている。
もうあと半年ほどで屋敷を離れるという時期に至ったころ、俺は魔物の生息しない森の中で、独り狩りの実戦を行っていた。
冒険者を目指すのなら、実戦における恐怖に慣れる必要があると本に書いてあった。実際に命を賭して戦闘を行うのと、保障された演習とではやはり大きな違いが生まれてしまうらしい。
それ自体は、俺もここ数カ月で体感していた。
「……そろそろか」
完全に頭に血が上ってしまったイノシシは、あとはもうこちらに向かって全力で突進をしてくるだけになるだろう。
そして、予想通りイノシシが凄みのある突撃を繰り出してきたと同時に、俺は横に避けて前もって目をつけていた木のツタを引っ張りあげる。
伸びたツタがハードルのような役割を果たし、イノシシは呆気なくそれにひっかかると、思い切り一回転しながら地面に脳天を直撃させ、そのまま気を失ってしまった。
恐らく、まだ生きていると思われるが、俺の目的は狩猟や討伐ではないので、このまま放っておくことにする。他の肉食動物の餌になるかもしれないし、また目を覚まして森を徘徊するかもしれない。どっちにしろ、それは自然な流れである。
ちなみに、この辺りには鉱山や洞窟も存在せず、前述した通り魔物も生息していないので、他の冒険者たちがやってくることはない。
見た所、珍しい野草も見当たらないので、採集を目的とするにしても、あまり利益は得られないだろう。
言わば、初心者用の訓練場所なのである。
町からも南へ徒歩二十分程度で来ることができるし、その間にあるのは精々広い湖くらいだ。それだって、遠回りをすれば安全に切り抜けられる。
懐中時計の針は午後四時を示している。そろそろ町に戻らなければ、ゴルゴットさんにも心配をかけてしまいそうだ。
ここを教えてくれたのはアナリシスさんで、昔は彼女もよくここで狩りを行っていたらしい。
空気もうまいし風も心地よい。リラックスを目的にするにしても丁度良い場所なので、とてもおすすめだと言っていた。
ただ一つ注意する点は、暗くなるまでには帰って来いというものだった。
理由を聞くと少々渋っていたのだが、どうやら彼女が昔夜の八時頃に帰宅した時、酷くゴルゴットさんを心配させてしまっていたのだという。
同じ轍は踏むなという忠告をしっかり受け止め、俺は町への岐路についた。
「なんでこんなことに……」
あのまま素直に帰ることが出来たなら良かったのだが、残念ながら神様は俺に大層酷な嫌がらせをしたいらしい。
現在、俺はどこにいるのか分からない。恐らく、森から出られてもいないのだろう。
魔法で作り出した明かりが無ければ、一メートル先ですら曖昧な暗がり。鼻をつくような冷たいこの空気は、洞窟等の持つ独特の雰囲気である。
そう、現在俺は、あの森には存在しないとされていた洞窟を彷徨っていた。
あと少しで森を抜けると言った所で、どういう訳か落とし穴に滑り下ちてしまい、今に至る。
足元には、人骨と思しき白い物体と、およそそれ以前のものと推測される、夥しい量の骸骨が広がっていた。空っぽの目がまるで一斉にこちらを向いているみたいで、かなり気分が悪い。
暫く壁伝いに道を歩いていると、少しだけ開けた場所に出た。灯りを掲げながら踏み入るが、どうやら吉報とは言い難い空間が、そこには広がっていた。
ちらほらと床に散らばる骸骨と、乱雑に、しかしなぜか法則性を感じてしまう位置へ投げられた赤煉瓦。壁には無数の鋭角がこちらを向いており、明らかに何者かの手が加えられていることが分かった。
最も不気味なのが、部屋の中央に置かれていた一冊の書本だった。誰かが踏み入ったことを告げており、同時に誰もこれを持ち出せなかったことも表している。
俺は周囲の横穴を警戒しながら、腰を屈めてその書本を手に取る。タイトルは、掠れて上手く読めない。その下部に記されている文字だけは、なんとか断片的に読み取ることができた。
魔導文字。つまり英語表記で「A……ul A……er……」と書かれているのだが、何を意味するのか、これだけでは情報量が少なすぎて俺にははっきりと判断できない。
可能性としては、本のサブタイトルや、筆者の名前というのが普通だろうか。
中の魔道文字もまちまちで完全に理解することは不可能だったが、多分読めていたとしても俺にはさっぱり意味が分からなかったと思う。
内容は様々だが曖昧で、その根拠とされることもまた意味不明で、こういう言葉はあまり使いたくないが、どこか気違いじみていた。
まるで夢を記したような幻想が記録されたそれに目を通していると、突如として強烈な悪臭が俺の嗅覚をついた。
涙が出るような刺激臭から逃げるように部屋の出口に立つ。灯りを部屋に掲げると、なんと部屋の壁に付き出た無数の棘から、青黒い煙が激しく噴出していた。この臭いの原因はあれ以外に考えられない。
しかし、それは激臭だけでは終わらず、なんと何か力が作用しているかのように集合し始め、二つの塊となって凝固し、次第に四本の足を持った犬のような姿になったのだ。
その全身からは青みがかった脳漿のようなドロドロとした液体がしたたり落ちていて、ワニのような長い顎からは太く曲がりくねり、鋭く伸びた注射器のような舌がうねうねと蠢いていた。
直後、俺は左手から発している魔法の明かりが次第に弱まっていることに気付いた。漂う暗雲の中に浮かぶ赤い二つの双眸が揺れ動き、俺に向かってねちっこい鳥肌がたつような敵意を向けていた。
恐怖を感じずにはいられなかった。奴らは恐らく、魔物の類だろうということは分かるのだが、その姿はあまりにも不気味だった。俺がこれまでこの世界で見て来た図鑑の中にも、あんな姿を持った魔物は見たことがない。
しかし、野生動物ではないということは見れば分かる。なら、魔物以外に他ならない。
俺は腰の鞘から、アナリシスさんから借りていたショートソードを抜き取った。ここには俺以外の獲物と思しき生物はいない。そして、足元に転がる頭蓋骨を生み出したのが誰なのか。
その答を悟った時、もう俺の取るべき行動は一つしかなかったのだ。
加速魔法を使用し、躊躇せずに斬りかかる。勢いを上乗せしながら水平に斬撃を叩き込む。
しかし、怪物の体が切り裂かれることはなかった。がりがりという鈍い音が鳴ったかと思うと、気付けば手に持っていた剣の刃が、先から腹まで溶解してしまっていたのだ。
直接攻撃の手立てはなくなった。しかも、既に照明魔法は切れかかっている。
暗所の中で戦うのは下手だと判断した俺は、咄嗟に加速魔法を持続しながら走り出した。既に冷静さは欠いてしまっていたので、そこが出口だという根拠もなしに駆ける。
途中で加速魔法が途切れると、後方から犬より数倍甲高くも重圧的とも思える鳴き声が聞こえてくる。
得体のしれない不気味な存在に追われるというのは最悪な気分で、ホラー映画の主人公などの気持ちがよく分かった。
アテもなく走り続けていると、ようやく光が見えてきた。全力で残りの距離を駆け抜けると、転がり込むように俺は洞窟から飛び出した。
激しい水の落ちる音で、そこが滝だということに気付いた時にはもう、俺の体は滝壺に沈んでいた。
浮上して岸に上がる。かなり体力を使ってしまったため、全身が酸素を欲しているように呼吸が止まなかった。いや、恐らくその解釈は間違っている。これは焦りや恐怖から生まれるものと言ったほうが正しい。
立ち上がって滝の奥に薄らと見える、洞窟の口を眺める。あそこで一体、過去に何があったのか、あの怪物は何だったのか、分からず仕舞いでいるのは少々癪だが、あそこに入るのはもう二度と御免だ。
暗所恐怖症になっていなければいいが、などと頭の中で呟きながら滝に背を向けた瞬間だった。
眼前まで迫る、大きく開かれたあぎと。全身の血液が焦りによって熱く煮えたぎった。
咄嗟に横っ跳びをした俺は岸辺に転がる。逃げ切ったというのは、どうやら俺の早とちりだったようだ。
夕暮れが、奴の影をくっきりと伸ばしていく。記憶にあるどの生物とも結びつかないそのおぞましい姿は、どう考えても生命の持つ肉体ではない。
(挟まれた……)
左右から感じられる犬のような息遣い。どろどろとぬめりのある液体を垂らしながら様子見するその姿は、今すぐにでも目を逸らしてしまいたい程の気色の悪さを漂わせている。
俺は諦めて両膝をついたまま、静かに両目をそっと閉じた。
日が沈み、周囲に闇が満ちたのと同時に、怪物は猛烈な蹴りと共に駆け出す。
加速魔法を発動させた。まだ遅い。二匹同時に狙いを定めなければならない。
更に重ねがけする。猛烈な頭痛と動悸に眩暈を覚えながら、俺は思い切り右手を振り被り、地面を強く叩いた。
加速魔法が切れ、怪物らの動きが元に戻った直後、地面が隆起して奴らの身体を天高く打ち上げる。流石に空中では身動きが取れない辺り、申し訳程度の生物らしさが垣間見える。
俺は岸を這うようにして水辺に手を伸ばし、最後の力を振り絞って水流魔法を入力して水を凝縮し、槍のようにして無数の弾丸を空中に向けて放った。もう狙いを定めるだけの余力も残っていないので、とにかく乱射する。
直後、断末魔のような甲高い悲鳴が二つ辺りに響き、べちゃりという大きな粘液の塊が落下した音が続く。
仰向けになっているため見えなかったが、現在襲われていないこともあり、どうやら仕留めることに成功したらしい。脳味噌の後方が熱くなって凄まじい安堵が訪れる。
深く息をついた俺は、そのままそこで脱力する。乱雑に放たれた水が雨となって降り注ぐ中、俺はそのまま眠るように意識を手放した。
翌朝、何事もなく夜を過ごし目を覚ました俺は、抜き脚差し脚と忍の真似をしながら屋敷に帰宅したのだが、どうやら部屋の中で待っていたらしいアーシェに窓から侵入する所を見られてしまい、こっぴどく絞られることとなった。
その起こりっぷりたるやトラウマもので、もう二度と心配かけまいと決心してしまうほど、見ていて心が痛くなる泣き顔だった。
当然、ゴルゴットさんやアナリシスさんにも注意をされた。それで済んだのは、一重に彼らが言おうとしていたことを、全てアーシェが口にしてはっきりと俺に言っていたからである。
とにかく、無事に帰宅することができた俺は、一度風呂に入ってすっきりした後、ふかふかのベットに飛び込んで二度寝としけこむことにした。
思えば、ここのところはずっと訓練鍛錬実戦の疲労続きだった。
これを機に、一週間に一日くらい休養を挟むというのも、考えてみることにしよう。
といっても、大体がアーシェの相手をする時間に潰されてしまうのだろうが。
二日後。
ゴルゴットさんに三日前の晩にあったことを、報告した。勿論、あそこで拾った書物も渡した。
ゴルゴットさんは暫く悩ましそうに頭を抱えた後、俺のことを退室させた。何か、俺に言いたそうにもしていたが、どうやらかなり躊躇しているようにも思えた。
あの日、結局俺は何の何をなぜ体験したのか、分からないままだった。
あそこにあった骸骨の山はどこの誰の物だったのか。あの棘だらけの空間に並んだ煉瓦は? あの怪物の正体(あの後ミースに聞いたり自分で図鑑を探してみたが、似通った生物の言い伝えすらなかった)は?
何も分からない。ただ巻き込まれ、恐怖して逃げ惑い、討ち倒しただけだった。
でも、いつか全てを知る時がくるような気がする。あそこにあったものと、あの本に記されていることは、必ずこの世界において逃れられない重要な事に違いないのだから。
もし再びあのような怪物が襲いかかって来た時、俺は隣にいる人を守れるのだろうか。
そのためには、もっと強くならなければならない。身体も、心も。
そう遠くない出会いと別れの中で、俺はそうやって学んでいく必要があるのだ。
弾切れ