02話
「姫也は勤勉だね」
俺がこの世界で目覚めて約半年が経った。
変わったことといえば、屋敷の構造や住人である者たちの名前を覚えたことくらいで、驚いたことは、己の記憶力の良さである。
あの自己紹介をなんとか終えた次の日、流石にうろ覚えになっているであろう子供たちの名前を、なんと完全に記憶していたのである。
勿論、元々そんな記憶力は持ち合わせていない。生前は大学の講師の名前すらロクに覚えていなかったし、今でも思い出すことは不可能である。
とはいっても、流石に本の内容を丸暗記、なんてことはできない。記憶力が良いだけで、完全に記憶できるという訳ではないのだ。
という訳で、今日も本棚を見上げながら選んでいると、不意にそんな声が背後から聞こえてきたのである。
振り返ってみると、棚と棚の間の先に、眼鏡をかけた小柄な少年が立っていた。その脇には分厚い書本が幾冊か抱えられており、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
名を、ミースという。ほぼ毎日をこの図書館で過ごしているらしく、他の皆からは本の虫と呼ばれていた。所謂文学少年という奴だ。歳は俺より下と見える。
「ミースも人の事はいえないだろう。大分夜更かしをしているようだが、あまり無茶はするなよ。ゴルゴットさんも心配する」
「善処するよ」
そう言うと、ミースはこちらに歩み寄って来て、眼鏡の奥に浮かぶおぼろな目つきで棚の本を眺め始めた。
「魔導書か……羨ましいな、姫也は魔導文字が読めるんだったね」
「まあ、一応」
魔法語。この世界における常用語とは対を成す言語として扱われており、この世界で読める人間は極一部といわれている。
そして、俺が前世で英語と呼称していた言葉でもある。
最初に意気込んで開いた「初めての魔法」という本に紹介されていた、魔導文字というのが英語だと気付いた時、俺はびっくりしたのと同時に歓喜した。何せ、普通の人間が一から学ぶ文字が、既に知っているものだったのだから。
魔道文字の扱いは単純で、各単語に魔法の呪文としての力が込められており、それらを意識しながら頭の中で繰り返すことによって、魔法の起動が始まる。
とはいっても、それで魔法が発動する訳ではない。当然そこには基となるエネルギーが必要だし、イメージの力というのも必要不可欠である。
まず、エネルギーは個々が体内に秘めている、所謂魔力というものを扱う。これはあらゆる生命が内包している力であり、我々人間や野生動物は食物から魔力を取り込み、植物は呼吸によって得るのだそうだ。
つまり、寝れば全快などと都合のいいことにはならず、消費した魔力は食べなければ回復することはない。
ちなみに、魔力の限界量は一度使い切り、更に取り込むことによって拡張を繰り返す。ようは使えば使うほど容量が増えるのだ。
放出された魔力は再び植物に吸収され、まるで酸素のように世界を循環していく。
続いてイメージの力だが、これは俺もよく分かっていない。かなり曖昧な説明になるが、強いて言うならばどれだけ鮮明に、発現する魔法を想像できるか、が重要らしい。
らしいというのは、実際に俺がそう感じているのではなく、本にそう記されているからだ。
色、大きさ、温度、触感、音。挙げ出せばキリがない。
兎にも角にも、俺は現在進行形で魔法を学んでいる訳なのである。
ちなみに、この屋敷の中で魔法が使えるのは、主人であるゴルゴットさんと、年長組のアナリシス、オーバル、マクアムの三人だけで、それ以外は魔導文字を読む事もできないらしい。
年長組の三人が魔法を使えるといっても、アナリシスさん以外の二人は照明魔法や探知の魔法が扱える程度で、専ら剣技に時間を費やしているらしい。
上の三人は既に自立目前なようで、よくゴルゴットさんの仕事について行っている。
ゴルゴットさんの仕事というのがこれまた物騒で、冒険者ギルドという施設から舞い込む様々な依頼をこなしているのだそうだ。
これも本を読んで得た情報なのだが、そもそも冒険者ギルドは、各町々の支部でそれぞれ依頼を抱え、やってくる冒険者たちがその依頼の中から自由に選び出し、こなしていくのが普通だ。
しかし、ゴルゴットさんの場合は、どうやらギルド側から依頼が来ているようなのである。このことから、彼がどれだけ信頼されていて、かつその内容が危険なものなのかが分かる。
だが、彼は既に定年退職していてもおかしくない歳だ。無理が祟って大事にならなければいいのだが。
「僕も、早く読めるようになりたいな……」
「もしかして、それが理由で夜更かしをしているのか?」
「おかしいかい?」
「いや……向上心があるのはいいことだけど、休息も必要だと思う。記憶力は睡眠量に比例するともいうからな」
「本当に? そうか……今日からはきちんと寝るようにするよ」
俺も、彼のことを言えた身ではない。高校時代は、よくテスト前になると寝る間も惜しんで……というより、尻に火がついた思いで徹夜をしていた。
先の台詞は、ここにきてようやく実感が持てたのである。規則正しい生活はモチベーションを上げていくのに欠かせないことなのだ。
暫し書本と睨めっこを続けた後、部屋に持ち帰る本を選び出して図書館を後にした。両開きの扉を開くと本館までの渡り廊下が続いていて、程良く木々の隙間から射す日光が薄く照らし上げていた。
すっかり肩ほどまで伸びてしまった黒髪が、そよ風になびく。最初はこの女性のような容姿に嘆いていたのだが、慣れてみれば大したことはなく、今では殆ど気にしていない。
それでも髪は邪魔なのだが、生前より面倒臭がって放置していたこともあり伸びっぱなしである。いつか切ろう切ろうと思いながら先送りにしてしまう。悪い癖だ。
いまだに子供たちの中に俺の事を「姉ちゃん」を誤ってつけている者がいるのも、恐らくそのせいだと思われる。いや、間違いない。
「ひめやくーん」
そんな風に散髪について悩みながら屋敷の廊下を歩いていると、突然背後から俺の名を呼ぶ声と共に、小さな衝撃が背中に突き刺さった。
前向きに倒れそうになるのをなんとか踏ん張り、首を捻って背後を確認する。
「……いいねえやっぱりこれ」
そう言いながら、俺の伸びた髪と背中に顔をうずめているのは、この屋敷において同年代の友人にあたる、アールシェイブという銀色の髪を持った少女だった。
「アーシェ……年頃の女の子が、男子の背中にタックルをかますというのは如何なるものか……」
「姫也くんはいいの。男子って感じがしないから」
君ってつけてるじゃないか、と一人心内で溜息を漏らしつつ、彼女に構わず歩き始める。その間も、アーシェはまるで気にせずといった様子で俺にしがみついたままだった。
「ねえ、どうして姫也くんは、そんな本を読んでるの?」
部屋に戻って本を読んでいると、不意に不思議そうな顔を浮かべたアーシェが、俺の肩に顎を乗せてたずねてきた。
俺はページに並んだ文字列から視線を外し、息抜きついでにパタンと閉じる。
「俺たちはこうやって本を読んで学ばないと、魔法が使えないからだよ」
「ふうん、変なの」
アーシェがなぜこんな風に言うのかというと、実は彼女がエルフと人間との間に生まれた、ハーフエルフという存在だからである。
エルフという種族は感覚的というか本能的というか、森の精霊とやらと直接頭の中で交渉して、魔法を行使するらしい。
彼女らからみれば、人間のような魔法の使い方は不自然なのだろう。
更にエルフの特徴を挙げるとすれば、それは皆総じて容姿に優れているということだろうか。勿論、半分エルフの身であるアーシェも例外ではない。
しかしその分自分の種族に対するプライドが非常に高く、普通は人間を毛嫌いしているのだとか。
アーシェがゴルゴットさんに保護されているのも、それが原因だ。たとえエルフの血が混ざっていようとも、半分人間ではエルフにとっては差別対象らしく、仲間からはずっと疎まれていたらしい。
結果、エルフの里から追い出され、人間のハンターに掴まって鎖につながれていたところを、ゴルゴットさんに救われたという訳だ。
そんな波乱万丈の経緯を持っているというのに、今の彼女はそんな苦労を感じさせない顔で、俺がいつも使っているベットの上で寝息を立てている。
アーシェは俺を変だと言ったが、俺からしてみれば彼女はもっと変だ。
聞くところによると、人間に掴まっていた間はずっと、魔法の封印を施された首輪腕輪足輪をつけられたまま、酷い辱めや虐待を受けて来たのだという。
俺なら人間不信になる。なって、自殺か復讐をしていたことだろう。
なのに、同じ人間である俺やここの住人たちに対して、彼女はいつも和やかな笑顔を絶やさない。全くもって不思議である。
さて、暫し時間が経つと腹の底から空腹を伝える虫の音が鳴った。既に日が落ちかけており、ひょっこり見えるオレンジ色の頭頂部が残光を残しながら去っていくところが見えた。
本を閉じ、机の上に三冊まとめて重ねる。今週中には全て読んでしまいたい。こんなことをしているから、髪を切る機会を逃してしまうのだ。
「でもまあ、しばらくはこのままでも良いかな」
それがアーシェという一人の少女にとって、望ましいことなら、このままでいるのも悪くはない。
黄昏時の空を眺めながら、俺は大きな欠伸をのぼらせていた。