冥府・閻魔庁にて
死者の長い列は、三途の川を越えてなお続いていた。
一人の男が閻魔大王の前へ引き出される。
「名を申せ」
男が名乗ると、閻魔は分厚い帳面を開いた。
「さて、一つ尋ねる。生前、お前はパワハラをしたことがあるか」
「ありません。」
男は即答した。
「では、『パワハラ』という言葉を作った者を知っておるか。」
「知りません。」
「その者の著書や論考は読んだか。」
「読んだことはありません。」
閻魔は静かに頷いた。
「つまり、お前は本来の意味を自ら学んだことがない。」
男は反論する。
「ですが、会社の研修でもニュースでも聞きました。」
「聞いただけで理解したつもりか。」
閻魔の声が法廷に響く。
「本来の意味を知らねば、自らの行動を注意することも、反省することもできぬではないか。」
男は黙り込む。
「目の前でハラスメントが行われていても、それと気づかなかっただけではないか。
あるいは、お前自身が加害者でありながら、自覚がなかっただけではないか。」
男の顔から血の気が引く。
「知らぬことを、知っているかのように語る。
よって、お前は嘘つきだ。」
閻魔は獄卒に命じた。
「舌を引っこ抜け。」
男の悲鳴が地獄に響いた。
閻魔は次の帳面を開く。
「次。生前、セクハラをしたことがあるか。」
若い女が前へ出る。
「ありません。」
「では、セクハラという言葉の成り立ちと、本来の意味を説明できるか。」
女は俯いた。
「……できません。」
「その意味を知らねば、被害者の苦しみに気づけぬこともある。
逆に、誤って他人を加害者と決めつけることもある。」
女は何も言えない。
「知らぬまま断言した罪は同じ。」
獄卒が舌を引き抜く。
最後に、一人の老人が現れた。
「職業は。」
「社会保険労務士でございます。」
閻魔の眉がわずかに動く。
「ほう。労務の専門家か。」
老人は少し胸を張った。
「では尋ねよう。モラハラをしたことはあるか。」
「一度もありません。」
「提唱者の著作を読んだか。」
「読んでおりません。」
閻魔は深いため息をついた。
「専門家を名乗りながら、自ら原典を確かめなかったか。」
老人は汗を流す。
「モラハラの本当の意味を知らねば、加害者と被害者を逆に考えてしまうかもしれぬ。
救うべき者を責め、責めるべき者を守ることにもなりかねん。」
老人は崩れ落ちた。
「知らぬことを『知らぬ』と言えず、知ったかぶりで仕事をしてきた。その罪は重い。」
閻魔は静かに命じる。
「舌を引っこ抜け。」
三人の亡者は皆、言葉を失った。
閻魔は独り言のようにつぶやく。
「人間は、知らぬことよりも、知らぬまま断言することを恐れぬ。」
その日、最後に現れた亡者だけは違った。
「パワハラをしたことはあるか。」
「……分かりません。だからこそ、生前もっと学ぶべきでした。」
閻魔は初めて微笑んだ。
「ようやく、本当の審判を始められる」




