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黒猫とコーヒー

コーヒーが飲めなことは今に始まったことではないが、今日ほどこの体質を呪ったことはない。

「ちょっとコーヒーでも飲みに行こうか。いいかんじの店、知ってるんだ」

無造作に脱ぎ捨てられたシャツに再び袖を通して、彼が言った。普段はぴしっとセットした真っ黒な髪も、今はだらしなく額に垂れて、少し幼く見える。その横顔を見るのが、私は好きだった。いまこの瞬間だけは、彼は私のものなのだ。

「すごく豆にこだわってるところでさ。丁寧にハンドドリップしてくれて、味も香りもいいんだよ」

シーツに包まれた私に背を向けたまま、彼は淡々と身支度を済ませていく。遠くを見つめ、コーヒーの香りに思いを馳せながら。

「時々、一人で行くんだけどね。たまには女連れてこいってマスターに」

そうね、あなたの彼女は、コーヒーが飲めない。あの苦味の奥の旨みが、若い彼女にはまだわからない。職場の上司もいるお酒の場で、一杯目にまわりが揃ってビールを頼んでも、なんの迷いもなくカシスオレンジを頼んじゃうような女の子。空気が読めないと言われそうな雰囲気でも、持ち前のかわいらしさと愛嬌で「天真爛漫」という言葉ですべて丸くおさまってしまうような、私とは正反対の、五つ年下の女の子。

彼は彼女と、来年の春に結婚する。

「その店に連れて行って、私のこと、何て紹介するつもり?」

そう言いたいのをぐっとこらえて、私は足先に転がっているショーツを手にとった。

「澪」

いつの間にか横に座っていた彼が、耳元で私の名前を呼ぶ。低くて、少し尖ったような、私の大好きな声で。

「あんまり気持ちよくなかった?」

「ううん、すごくよかった」

そう言って軽く微笑んでみる。彼は喜んで私の髪をなで、頬にキスをした。今日も、彼とのセックスは最高だったのだから、嘘はついていない。

平日の夜に軽くお酒を飲んで、獣のように求め合いながら私の部屋かホテルになだれこみ、ことが済むと彼はシャワーも浴びずに身支度をする。甘い言葉を残して、次会う約束もせずに、私をからっぽの部屋においていく。それが、ここ最近の私たちの暗黙のルールだった。

さっきまで熱をおびていたシーツが急速に冷えていくのを感じながら、朝まで眠りにつく。あの空虚な夜が今日も待っていると思っていたが、今日は少し様子が違った。

彼は私を、初めて行きつけの店に誘った。たったそれだけのことで、涙が出そうになる。

「悟、私ね」

なのにどうして、私は。

「コーヒーはあまり好きじゃないの」

たったそれだけのことで壊れてしまうような関係に、終わりを告げたかったのだろうか。


彼が去ったあと、私は着ていた服をかき集めて、シーツが冷たくなる前に、部屋を飛び出した。

秋になったばかりの肌寒い風が、乱れた髪を揺らす。

とりあえず、何か酒を入れなくては。ありったけの強い酒を。

何も考えずに歩いていたつもりが、足は着実に時々顔を出すバーに向かっていた。悟と初めて出会った場所だ。

あれは確か、三年ほど前。

「結婚はまだか」

「子供を産むなら早い方が」

「三十過ぎて彼氏の一人もいないのか」

断れない上司との飲み会でそこそこにセクハラを受けたあと、少しだけ酔いたくてふらっと入った小さなバーで、私たちは出会った。

隅の方で静かに飲んでいた私に、悟は何と声をかけてきたか、今ではもう覚えていない。ただ、スマートな外見とは裏腹に、必死に私を口説こうとする姿がまるで子犬のようで、とても可愛くみえたのを覚えている。実際、歳は三つ下だった。

私はすぐに、彼に惹かれた。気さくで、人懐っこくて、信じられないほどに肌の合う男。仕事終わりに美味い酒を飲んで、千鳥足になりながら川沿いを散歩した。年甲斐もなく繋いだ手を大きく振って、懐かしのCMソングをでたらめに口ずさんでは、笑って。誰もいない公園のベンチでキスをして、身体をまさぐりあった。

時を忘れるほど、幸せだった。まるで少女に戻ったように、こんな満たされた日々がずっと続くものだと、信じて疑わなかった。

彼の口から、「付き合っている彼女の話」を聞くまでは。


バーにつくと、控えめに「臨時休業」と書かれた看板がドアに掛けられていた。肩を落としたが、これでよかったようにも思えた。

ここには思い出がありすぎる。

コンビニにでも寄って帰ろうかと、くるりと向きを変えた。

ふと、いつのまにかそばにいた小さな黒猫と目があった。

それはまるで闇から猫の形をかたどったように黒々としていて、怪しく光るふたつの目が、じっとこちらを見つめている。

よく見ると、水色の首輪をしているそれは、私が歩み寄るのと同時にチリンと鈴を鳴らし、細い路地に消えていった。

特段猫が好きなわけでもなかったが、私は吸い寄せられるように、その猫が消えていった路地に入った。

小さな鈴の音の先に、ぽつんと明かりが漏れている。かすかに漂う、コーヒーの匂い。

行きついた先は、小さな喫茶店だった。「喫茶ソラ」と書かれた看板があるが、窓から中を覗く限り広いカウンターと椅子があるだけで、どちらかというバーのような雰囲気だった。中には、客も従業員も、誰一人姿が見えない。

「いらっしゃいませ」

不意に背後から話しかけられて、思わず肩が上がった。振り向くと、一人の男と目があった。

「驚かせてすみません。ちょっと外に出ていたもので。よろしければ、お入り下さい」

よく見ると、男は茶色のエプロンをしていた。どうやら、彼はこの「喫茶ソラ」のマスターらしい。横を通ったとき、ふわりとコーヒーの匂いがした。

「いえ、私、コーヒーは」

男は、立ち止まって私を見たあと、やわらかく微笑んだ。

「では、とっておきの紅茶をお入れしましょう」

いつのまにか、猫の姿は消えていた。


あたたかみのある木の扉をゆっくりと開けると、カランカランと懐かしいような鐘の音がして、香ばしいコーヒーの匂いが立ちこめた。

私は言われるがままに、カウンターの右から三番目の椅子に座った。背の高いバーチェアはほどよくクッションがやわらかくて、思っていたより足が疲れていたことに気がついた。

「あたたかいミルクティーはいかがですか?」

白いシャツをまくって手を洗いながら、男はきいた。何が飲みたいかなんてわからなかったのに、不思議と初めからそれが飲みたかったような気がした。

「はい。とびっきり甘いのを」

「かしこまりました。今夜は冷えますからね。少々お待ちください」

男はそう言って、静かに湯を沸かし始めた。

ミルクティーを待っている間、私は店の中をくるりと見渡した。

木目調のテーブルに、アンティークゴールドの照明。ベージュと焦げ茶色の壁と店内にかかるジャズが優しい純喫茶を思わせる。カウンターの中には様々なコーヒー豆やミル、ドリッパーなどが並び、店の奥には大きな焙煎機が顔を出している。まさに、「豆にはこだわっています」と言わんばかりの店だ。悟が私を連れて行きたかったのは、きっとこういう店だったのだろうが、この線の細いもの静かそうなマスターが「たまには女を連れてこい」などと軽口をたたくようには見えないので、この店ではないだろうと思った。

湯が沸いて、男は絹色の陶器のカップにゆっくりと湯通しする。その腕は息をのむほど白く、線は細いながらもほどよく筋肉がついて、美しかった。先ほどは暗くて気づかなかったが、男は全体的に色素が薄く、白い肌とサラサラの焦げ茶色の髪がよく似合っていた。年齢はまったく想像がつかないが、うんと年下にも見えるし、落ち着いた雰囲気から、少し年上のようにも見える。

「コーヒーの匂いは、大丈夫でしょうか?」

手さばきに見とれていると、ぽつりと、男が口を開いた。

「匂いですか?」

「はい。先ほど、コーヒーはあまりとおっしゃっていらしたので。苦手な方には、ここは匂いが気になるかな、と」

ポットに茶葉を入れながら、男はミルクを鍋に入れる。

「いえ、匂いはむしろ好きなんです。味も、とくに嫌いではなくて。ただ、飲んだあとに、どうしてかおなかが痛くなるので」

ちなみにこれは、本当のことだ。コーヒーを飲んだ直後は大丈夫でも、のちに必ずといっていいほど腹痛と下痢に襲われる。ティラミスですら、ほんのり症状が出るくらいだ。一種のアレルギーのようなものなので、普段からできるだけ口にしないようにしている。

「そうでしたか。それなら、香りだけでも楽しんでいってください」

男はまた、柔らかく微笑んだ。なんて優しく笑うひとだろうと思った。

急に、目頭が熱くなる。

もし、コーヒーが飲めたとして、悟は私を選んだだろうか。

こんなにも今虚しいのは、その問いに意味がないことに、気づいていたからだ。

「コーヒーが飲めない」たったそれだけで、未来がなくなってしまうような関係。

そうではない。未来なんて、初めから無かったのだ。

彼が、私を決して自宅には入れないと気づいたとき。

彼が私に「好きだ」と言うのは、セックスの最中だけだと気づいたとき。

彼が私よりうんと年下の彼女と、指輪を選んでいるところをみたとき。

あきれるほどに、終わらせるきっかけはそこかしこに散らばっていた。

それでも、最後に一度だけ、コーヒーを飲む彼の隣で、紅茶を飲むことを許してほしかった。

「お待たせしました。」

うつむく私に、男はミルクティーを差し出した。ふわりと甘い香りに包まれ、顔を上げると、ミルクティーと同じ色の優しい瞳と目が合った。

「ホットミルクティーです。とびっきり甘くしてあります」

一口飲んで、涙とともに、ふっと笑みがこぼれた。本当に冗談みたいに甘くて、あたたかかった。


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