RFKスタジアムの狙撃手 MLB選手 フランク・ハワード(改定版)
RFKスタジアムとはJFKの弟、ロバート・フィッツジェラルド・ケネディ・メモリアルスタジアムのことである。ここの2階席にはここまで届いた本塁打の数だけ椅子が白く塗られている。この2階席を狙い撃ちにした強打者が、かつて太平洋クラブライオンズでプレーしたこともあるフランク・ハワードである。実はハワード、一九五六年六月にオハイオ州立大学野球部の一員として、極東駐留軍の慰問のために来日し、早大、中大、日大と対戦したほか、立大との試合後の交歓会にも出席しており、長嶋茂雄とも顔合わせしていたのだ。この時のハワードと長嶋のツーショット写真が「ベースボールマガジン」に掲載されているが、六大学野球の選手の中では大柄な長嶋が子供に見えてしまう。
『ホンドー』という言葉を聞いてピンと来る日本人はほぼ間違いなく西部劇ファンであろう。『ホンドー』は一九五三年に製作されたアメリカ映画(日本公開は一九五四年)で、この意味不明なタイトルは主演のジョン・ウェイン扮する騎兵隊将校ホンドー・レーンの名前から取ったものだ。
この映画はアメリカでもヒットし、ジョン・ウェインの代表作の一つにも数えられる名画だが、アメリカ人が『ホンドー』という言葉から連想するのは映画だけではない。特にオハイオ州の人々は『ホンドー』と聞けば、今もなお地元の誇りとして語り継がれる二人のアスリートの名を思い浮かべるに違いない。
一人はNBLボストン・セルティックスの黄金時代の立役者となった永久欠番のスーパースター、ジョン・ハブリチェック、そしてもう一人がMLBの長距離打者として一時代を築いたフランク・ハワードである。
奇縁というべきかこの二人はオハイオ州立大学のOBというだけではなく、バスケットボール部の先輩、後輩でもあるのだ。同校はバスケットボールでも全米屈指の強豪チームであり、ハブリチェックの同級生ジェリー・ルーカスも殿堂入りしているほどだが、四学年先輩のハワードもNBAからドラフト指名を受けるほどの名選手だった。しかし彼は野球の方を選び、一九五八年にドジャースに入団する。これは、父がセミプロの野球選手だったこともあるが、本人がドジャースに憧れていたことも大きい。ドジャースとの契約金は十万八千ドルで、オリオールズが提示した十二万ドルより安かったのだ。
『ホンドー』という綽名は、ハブリチェックは大学時代に、ハワードはドジャース時代に付けられたもので、共に由来は映画と言われているが、ハワードの場合はテレビドラマ化された『ホンドー』で主人公を演じたラルフ・テーガーと容貌がよく似ており、そちらのホンドーと混同しているのではないかという気もする。
実はハワードとテーガーは同い年(誕生日は十日違い)で共に大男という共通点の他にもドジャースという接点もあるのだ。大卒のハワードと高卒のテーガーは在籍時期こそ被ってはいないものの、高校時代は野球選手を目指していたテーガーはドジャースのマイナーにいたことがあり、新人時代のハワードはドジャースのマイナーでプレーしていた。
単なる偶然かもしれないが、『ホンドー』繋がりの三名が揃って違う業界で全米にその名を知られるようになったというところに運命の糸を感じてしまう。
ハブリチェックより一回り大きい二メートル一センチ(二メートル三センチとも言われる)の巨躯はメジャーの中でも際立っていたが、選手の体格が全体的に向上した現在でも彼に匹敵するのはアーロン・ジャッジくらいなもので、この二人を除くと二メートル超えの打者で一流メジャーリーガーと言えるほどの選手は出ていない。これは投げても打っても一四〇キロを超えるスピードで、時に回転によって不規則な変化をする小さなボールを扱う競技には、並外れた大男は向いていないからであろう。
B級グリーンベイで三割三分三厘、三九本塁打、一一九打点という実績を引っ下げてハワードがメジャー初舞台を踏んだのは一九五八年九月十日のフィリーズ戦だった。二打席目に来日経験もある殿堂入りエース、ロビン・ロバーツから放った一撃はシェイブスタジアムの左翼上段の看板を直撃するもの凄い当りだった。
右翼手のハリー・アンダーソンが、打球の衝撃で看板が落ちてくるのではないかと慌てたほどの一発で自信を深めたハワードは、デビューから五試合で二十打数六安打とここまでは期待どおりの働きを見せたが、九月十六日のレッドレッグズ(現レッズ)戦で予期せぬアクシデントに見舞われてからはさっぱりだった。
九月十六日のダブルヘッダー第二戦目、五回表二死三塁でのことだった。ハワードの痛烈なライナーが三塁走者のスナイダーを直撃したのだ。強いラインドライブがかかっていたためファウルゾーンにいたスナイダーも避けきれず、頭部を直撃されて昏倒したまま担架に乗せられての退場となった。
このシーズンは膝の怪我で欠場が多かった主砲のスナイダーは、九月に入ってから十二試合で三十三打数十四安打(四割四分四厘)十二打点とようやく当りを取り戻していただけに、この日でシーズンを終えることなったのはチームにとっても大きな痛手だったが、心優しきハワードにとっては耐え難いほどの衝撃だったと察せられる。
二年目は2Aと3A通算で三割四分三厘、四三本塁打、一二六打点でマイナーの年間最優秀選手に選ばれるなどマイナーレベルでは格が違っていたハワードだが、事故がトラウマになっていたのか、メジャーでは全く打てず、三年目もマイナー行きを命じられている。
もっとも、この年のドジャースはワールドシリーズ制覇もしているように、選手層が厚く、せっかく
メジャーに引き上げられても、結果が出せなければ直ちにマイナー落ちという厳しい環境にあったことも事実である。
一九六〇年、打の主軸で外野を務めていたフリーロとスナイダーが怪我で出場出来なくなったため、ハワードにようやくお鉢が回ってきた。メジャーではほとんど出場経験がないにもかかわらず、マイナーで一五〇メートル級の特大弾を連発しているハワードの名はメジャーの選手の間でもよく知られており、チームメイトたちも第二のベーブ・ルースも夢ではないと後押ししてくれた。
待望の常時出場が叶ったハワードは、二割六分八厘、二三本塁打、七七打点で遅ればせながらナ・リーグ新人王に輝いた。
メジャー定着以降はチーム屈指の長距離砲として君臨しながらも、投のコーファックス、ドライスデール、打のウィルス、トミー・デイビスといったタイトルホルダーがずらりと並ぶスター集団の中では、控えめで温厚な性格も相まっていまひとつアピール度に乏しいところがあった。そんなハワードがドジャース時代に最も輝きを見せたのが、一九六三年のワールドシリーズ第四戦だった。
宿敵ヤンキース相手に王手をかけているドジャースは、シリーズ通算最多勝を誇るホワイティ・フォードのチェンジ・オブ・ペースの前に凡打の山を築いていたが、五回裏にハワードが均衡を破る一発を左翼上段に叩き込むと、七回にもエラーがらみで追加点が入り二対一でシリーズ制覇を遂げた。
MVPは二勝〇敗、自責点〇のコーファックスのものだったが、第四戦勝利の最大の立役者はハワードだった。というのも、この試合はフォードに完全に牛耳られ、ドジャースでヒットを打ったのはハワード一人だけだったからだ。しかもドジャースタジアムの左翼上段席への本塁打はハワードが第一号で、その後ここまで飛ばしたのは、キングマン他数名に過ぎない。
一九六四年、ディフェンディングチャンピオンのドジャースが六位に沈むと、フロントはこの年不調だったハワードを、惜し気もなく弱小球団ワシントン・セネタースに放出してしまう。下位に低迷してもナ・リーグトップの観客動員数を誇るドジャースからア・リーグのお荷物球団へのトレード勧告は左遷同然である。
ところが当のハワードは、外野のポジジョン争いが激しいドジャースより、毎試合スタメンが確保されるチームに移った方が年間にして一五〇打席が増えることことをむしろ喜んでいた。
しかしそれ以上にハワードをハッスルさせたのは、ドジャース在籍時から先輩として敬慕していたギル・ホッジスが監督だったことだ。ホッジスはハワードにきめ細かいアドバイスを送り、シンキングベースボールを身に付けさせたのだ。
効果はてきめんだった。勝利と結果という大きなプレッシャーから解放され伸び伸びとプレーできるようになったことで一九六七年に久々に三〇本塁打をクリアして自信を取り戻すと、翌一九六八年は四四本塁打で念願の本塁打王のタイトルを獲得した。
この年のチームは散々な成績だったが、ハワードの集中力は素晴らしく、五月十二日のタイガース戦から十八日の同カードまで六試合連続の十本塁打と打ちまくった。一週間で十本塁打というのは今日でもメジャートップタイの記録である。この時の固め打ちが効いてオールスターにも初選出されている。
この年のハワードが伝説的に語り継がれているのは、短期間の固め打ちがあったからだけではない。一九六八年は十年に一人出るかどうかの頻度である防御率一点台の投手がア・リ-グだけで五人も生まれ、「投手の年」と言われるほど圧倒的に投手が有利だったからだ。
使用球の瞬発力が減らされ、ストライクゾーンが広くなった結果、ア・リーグの首位打者カール・ヤストレムスキーは三割一厘というMLB歴代最低打率でのタイトルホルダーとなり、本塁打四〇本以上は両リーグを通じてハワード一人だった。つまり最も球が飛ばない時代にこれだけ打てたということで、ハワードは記録以上に記憶に残る打者となったのである。
ハワードが打撃開眼するきっかけを作ったホッジスは、セネタース監督としては結果が残せなかったが、ハワードが最も尊敬する監督の一人と評価していたとおり、一九六九年にメッツの監督に就任するや「ミラクルメッツ」と称されるほどの快進撃で同年のワールドシリーズ制覇を成し遂げている。
ホッジスの後任監督となった偉大なるテッド・ウィリアムズもハワードの野球人生において忘れられない恩師となった。野球人として雲の上の人として尊敬していたウィリアムズはハワードにとっては恐れ多い存在だったが、スター選手になっても謙虚なハワードは、ウィリアムズの難解な打撃論にも熱心に耳を傾けた。
ハワードは二十代の頃から眼鏡をかけて打席に立つほど視力が悪いうえ、巨躯ゆえにストライクゾーンが広いため、変化球を散らされると意外に脆かった。早いカウントからのストレートに手を出す傾向が強かったのはそのせいだが、じっくり待つことでもっと打ちやすい球がくる可能性が高くなることをウィリアムズから教わり、釣り球に引っかかることが少なくなったおかげで打撃の精度が向上した。
一九六九年はキャリアハイの四八本塁打を打っているが、ほぼ前年度と打席数は同じにもかかわらず三振は四十五個も減り、四球は五十四から一〇二と倍増している。本塁打王のタイトルこそライバルのキルブルーに一本差でさらわれたものの、塁打数はリーグトップ、出塁率も初めて四割を超え、それまでの一発屋的な存在からさらに一皮向けた強打者へと変貌を遂げることができたのもウィリアムズの教えによるところが大きい。
初めてファン投票で選ばれたオールスターゲームでも、ナ・リーグの代表的エース、スティーブ・カールトンからホームグラウンドであるロバート・ケネディ・メモリアルスタジアム(通称RFKスタジアム)の二階席に飛び込む特大弾を放ち弱小チームを応援してくれている地元ファンの溜飲を下げた。
この球場は外野ブルペンの後方に高いウォールがあり、中二階にスイート席、その上に大きな庇の付いた二階席となっているため、通常特大のホームランは高く舞い上がった後、二階席の庇の上に落下するのだが、ハワードの打球はライナーで直接二階席に飛び込むのが特徴だった。
RFKスタジアムの二階席は木製の座席が並んでおり、そのうちの二十三席は白塗りになっていたが、これは全てハワードが本塁打を打ち込んだ場所を示すもので、さながら戦闘機の撃墜マークの趣きである。
ハワードの本塁打は本数より飛距離が話題になることが多い。右翼席より左翼席が遠く、閉鎖までの約九十年間で左翼の屋根を超える場外弾が四本しか出ていないタイガースタジアムで歴史的な第一号を放った打者としても知られるが、今はなきシアトルのシックス・スタジアムでもバックスクリーンの場外に消える規格外の一発を披露している。特にシアトルの場外弾は外野席の観客が空を見上げて飛球を見送ったほどの雄大な一撃で、一八〇メートル近く飛んだのではないかという証言もある。惜しむらくは公式に飛距離測定が行われなかったため、MLB最長飛距離本塁打の十傑からは洩れている。
一九六八年の夏にハワードのバッティングを生で見た元パ・リーグ広報部長伊東一雄は、これほどの強いインパクトを受けたことはない、とそのパワーを絶賛している。初めてハワードが出場した試合を観戦した日に、三塁手がジャンプした当りがスタンドに突き刺さるのを観て驚いたのも束の間、翌日は投手の頭上を越えるライナーに反応した右翼手が前進したと思いきや、打球が急激にホップして公式発表一三七メートルの特大弾となったというから、さすがの大リーグ通も度肝を抜かれたようだ。
後年のハワードの来日時に、DH制が採用されていれば、日本野球の飛距離記録をことごとく塗り替えたはず、と伊東が断言するのは、一般的なホームランバッターとは異なり低い弾道からホップする速い打球を打てたからだ。
同体型のアーロン・ジャッジは軽打のようなスイングでもスタンドに運ぶパワーがあるが、ハワードのような打球の軌道を描くことはない。
ウィリアムズが監督になって二年目の一九七〇年は四四本塁打、一二六打点で二冠王を獲得。四球、敬遠ともにリーグトップで、名実ともにリーグで最も危険な打者となった。人が良いのでファンから『足ながおじさん』の愛称で親しまれる一方で「死刑執行人(Capital Punisher)」となどというぶっそうな綽名もあった。セネタースが首都ワシントンの球団であることにかけたネーミングだと思われるが、先述のスナイダーの災厄が示すとおり、打球が速いうえに鋭くラインドライブがかかるため、野手はもとより塁上の走者にとってもハワードの打席は相当な緊張を強いられていたからだろう。
チームは弱小でもハワードの存在価値は高く評価されていたようで、一九七〇年の年俸は十二万五千ドルに達していた。これはブレーブスの至宝ハンク・アーロンと同額であり、二年前に引退したミッキー・マントルの最高年俸十万ドルをも凌ぐものだ。
四度目のオールスター出場となった一九七一年までが選手としてはピークで、球団が売却されてテキサス・レンジャースとなった一九七二年からは、膝の故障の悪化により思い切りのいいバッティングが出来なくなっていた。ハワードの実質的な野球キャリアは、ワシントン・セネタースの終焉とともに終わったのである。
一九七一年九月三十日のシーズン最終戦では、六回にヤンキースのマイク・ケキッチから左翼席に二十六号ソロホーマーを叩き込み、これがワシントン・セネタースとしては公式戦最後の本塁打となった。
不思議とメモリアルアーチに縁があるハワードは、フランチャイズがアーリントン・スタジアムに移転した一九七二年も、ここで初めてメジャーの公式戦が開催された四月二十一日のエンゼルス戦一回表にエースのクライド・ライトからセンターバックスクリーンに名刺代わりの一発を放り込んでおり、これがレンジャースとしての公式戦第一号となった。
なお、五日前の同じカードで打ったタイムリーは新チーム初打点でもある。
ハワードは一九七三年に引退に踏み切ったが、現役最後の年でも八十五試合で十二本塁打を打っているパワーに目をつけた太平洋クラブライオンズからのオファーを受け、もう一度ユニフォームを着ることにした。かつての同僚でメジャーでは自身よりも格下だったダリル・スペンサーが日本では大活躍していたことも刺激になったのかもしれない。
それまでにもラリー・ドビー、ディック・スチュワート、ジム・ジェンタイルなどメジャーのタイトルホルダーが日本でプレーするケースはあったが、ハワードは前者三人とは比べ物にならない実績の持ち主である。
それだけに彼の来日は日本球界でも大変な話題となり、斜陽のライオンズの切り札としてオープン戦から注目の的だった。
オープン戦のハワードは期待にそぐわず素晴らしい打撃を披露し、巨人軍監督川上哲治も賛辞を惜しまなかったが、開幕戦の二日前に外野のくぼみの足を取られて膝の古傷を悪化させ、開幕戦二打席ノーヒットのまま治療のため急遽帰国することになった。
太平洋クラブが大枚をはたいて獲得した超大物の公式戦出場が一試合だけに終わったことに対する球団とファンの失望感は計り知れず、やり場のない怒りの矛先がハワードに向いてしまったのは残念なことである。
本来はハワードの健康状態を厳重にチェックしておくべき球団の方に非があるのだが、狡猾なエージェントの口車に乗ってしまった責任をハワードに押し付けることで非難を免れたかったのだろう。逆にハワードの方は人の良さが仇となって膝の負担を省みずにオープン戦でハッスルしすぎた結果がこのような不本意な事態を招いたと考えられる。
伊東によると、試合後のハワードは自身のふがいなさを嘆き、男泣きしていたというが、事情を知らないファンとマスコミは裏切られたという思いの方が強かった。
前年度のヤクルトに鳴り物入りで入団したジョー・ペピトーンが、明らかな仮病を理由に帰国したばかりか、代理人を通じて年度のサラリー全額を支払わせるという詐欺まがいの事件を起こし、球界全体がナーバスになっていたため、ハワードもまた「害人」のレッテルを貼られ、不良外国人選手の一人と見なされてしまったのである。
これできっぱりと現役から足を洗ったハワードは、ブルワーズのコーチを皮切りに二十年以上も様々な球団で監督、コーチ、新人育成などに携わり、周囲からは「ビッグ・ガイ」と呼ばれていた。どの球団に行ってもハワードより大柄な選手がいなかったからである。
球界を去っても故郷オハイオでは大変な名士で、八十歳を過ぎてなおマスコミの取材が尽きなかったのはその誠実な人柄が慕われているからに他ならない。(2023年没)
Aクラスの常連チームから万年Bクラスチームに移籍すれば、クオリティの高い投手や野手を相手にすることになり、明らかに不利だが、ハワードはグラウンドに立つ機会が増えることを喜び、ストレスが溜まりがちな弱小チームのファンを喜ばせるために、いつもスタンドの最上段目がけてフルスイングしていた。スタープレイヤーが一ヶ所に固まってしまうのは、格差社会と同じで面白くない。弱小チームにも名物男がいるからこそ、観客は球場に足を運び、野球が職業として成立するのだ。




