008_待ち合わせの空(幕間)
──降るはずのなかった、優しい雨があった。
電光掲示板の時刻が、ゆっくりと流れていく。
ベンチの片隅に座った老婦人は、小さく息をついた。
右手には、透明なビニール傘。
今日の空は、降るにはまだ足りない、そんな曖昧な明るさだった。
「……今日は、降ってくれてもいいのにね」
つぶやきは、自分に向けたものだった。
あるいは、もう会えなくなった“誰か”への言葉だったのかもしれない。
毎年この日、彼女はここに来る。
出会った日と、同じ時間に。
同じ場所の、同じベンチで。
あの日の空は、雨だった。
ほんの偶然だったけれど、あの雨がふたりを出会わせた。
だから彼女は、毎年この日に、空を見上げる。
もう一度、あの雨に出会えたなら──そんな想いを、ずっと抱き続けてきた。
もちろん、もう会えないことはわかっている。
それでも、少しだけ期待してしまう。
──もしかしたら、すれ違えるかもしれない。
──今日の空なら、届くかもしれない。
老婦人は空を仰いだ。
そこには、なんの兆しもない。
けれど、なぜか目を閉じたくなる空だった。
その時、
頬に落ちた一滴の、冷たい雫。
「……あら」
驚くほど静かに、傘を開く音が響いた。
まるで、何かを迎えるように。
空の向こうで、ひとりの精霊がそっと目を伏せる。
「……ずっと待ち続けてたんだよね。
今日くらい、降らせてあげてもいいか」
それは、叫ばれた願いではなかった。
けれど、彼女が積み上げた願いが、空の上のリクに届いた。
雨は音もなく降り始めた。
静かに、優しく、彼女の肩を包んだ。
やがて時計が、あの日の時刻を過ぎる。
老婦人は傘を軽く持ち直し、立ち上がった。
いつものように、振り返ることなく歩き出す。
その背中を、雨粒だけが静かに見送っていた。