005 揺れる足音・前編
朝の空はどこまでも静かだった。
空気は凪いでいて雲ひとつない空が真っ白な光を返している。
その朝、少年は坂を駆け上がっていた。
吐く息が白い。
制服の裾が揺れ足音だけが自分の存在を証明するように響いていた。
(また結果が出なかったら)
模試の日だった。
前回もその前も思うような点は取れなかった。
ノートは埋めた。問題集も繰り返した。
けれど本番になると手が止まる。焦って自分が見えなくなる。
(それでも止まったら終わりだ)
間に合わないわけじゃない。
ただ自分に負けるのが怖かった。
足を止めたら崩れてしまいそうで
ただがむしゃらに走っていた。
* * *
駅へ向かう通学路の途中。
少女は小さな橋の上で立ち止まっていた。
視線の先には冬枯れの川と白く光る朝の空。
遠くで電車の音がしたが、それに足を動かす理由はなかった。
(また、あの教室に行くの?)
誰かにいじめられているわけじゃない。
けれど誰も話しかけてこない。
朝の挨拶も昼の会話も輪の中に自分はいなかった。
気を使ってくれているのはわかる。
だからこそ距離を感じてしまう。
いてもいなくても変わらない。
でも行かなければサボりになる。
毎朝そう思って家を出てただ時間を埋めている。
(行きたくない。でも行かなきゃって思ってる)
誰にも見られないふりをして誰にも見つからないように。
そんな日々がいつの間にか普通になっていた。
一歩を踏み出すのが怖かった。
立ち止まらなければきっと自分が壊れてしまう気がした。
* * *
空の上。
ナギは空気の底に漂いながら、あくびをひとつ。
「……やれやれ、またか」
風の精霊――ナギ。
彼女はゆるく跳ねながら空の流れを感じていた。
下から登ってくるのは焦った願い。
もっと早く。もっと強く。もっと先へ。
その一念に背中を押されるように、空気が少しずつ震えていく。
「もがいてる感じ、悪くないよ。
ちゃんと風を起こすからね、そういうのって。
……私、こういうの応援したくなるんだよね」
ナギはふわりと空を滑るように身を傾ける。
彼の背中を押してあげたい。
走るその足にひと吹き、追い風を届けてあげたい。
けれど──
もうひとつ別の願いが届いていた。
動けずにいる誰かの静かな想い。
その願いは風を拒み、ただそこに留まりたいと空を包んでいた。
風と霧。
進みたい気持ちと、とどまりたい気持ち。
空は今、その狭間に揺れていた。
ナギは空の流れを指先で確かめながら小さく笑った。
「でもさ。どっちの願いも間違いじゃないんだよね」
* * *
霧の中。
霧の精霊カスミは静かにその気配を受け止めていた。
言葉にはならない想いが空に漂っていた。
誰かが今は動かないことを選んだ。
それだけが確かなことだった。
焦っているわけじゃない。
何かを待っているわけでもない。
ただ立ち止まっていたい。
それはきっと守りたい“今”があるということ。
(とどまることだって、間違いじゃない)
その願いは空を通して届いた。
霧が生まれたのは理由のあることだった。
世界をやわらかく曖昧にしてくれる、この朝が必要とされたのだ。
カスミはそっと目を閉じた。
強さは進むことだけじゃない。
止まることを選ぶ勇気もまたひとつの願いだ。
霧の中に想いが溶けていく。
声にならなくてもカタチにならなくても、
そこにあるものは確かだった。