004 風のまにまに(幕間)
風が、なかった。
春の陽射しは心地よく、空は雲ひとつない。
けれど、海はまるで止まったように静まり返っていた。
その日、小さな港町では年に一度のヨット大会が開かれるはずだった。
港に集まった人々の視線が、水面の上に集まっていた。
ヨットは桟橋に並び、少年たちはその上で不安げに待機していた。
「……風がない」
一人の少年――ユウトは、舵を握ったまま空を見上げた。
澄み切った青。気象予報では、昼頃から弱風になる予定。
でも、それまでに開会式も、スタートも、予定されていた。
「せっかく練習してきたのに……」
誰に向けるでもない声が、ヨットの帆に吸い込まれる。
海は動かず、風も来ない。
動けないのは、誰のせいでもなかった。
* * *
観客席では、町の人々がゆっくりとざわめき始めていた。
子どもたちのための大会だった。準備も、練習も、みんなでしてきた。
一日しかない休日。どうか、風が――
誰からともなく、空を見上げる人が増えていく。
願いは、声にならない祈りとなって、空へと昇っていった。
* * *
高空。
白い雲の陰で、ナギはひとり浮かんでいた。
風の精霊――けれど、今日は彼女の出番ではないはずだった。
「なんだか、騒がしいね」
ナギの周囲を、細く、かすかに光が走る。
よくある“個人の願い”ではなかった。
誰かひとりが強く願っているのではなく、たくさんの小さな願いが、同じ方向を向いて揺れていた。
「へぇ……珍しいじゃん。誰のためでもない願いなんて」
ナギは少しだけ、目を細める。
風は気まぐれ。誰のものでもなく、誰かの命令で吹くわけじゃない。
けれど今、空気の底で――確かに、何かが揺れていた。
「……ちょっとだけなら、いいよね」
ナギが、指を鳴らした。
* * *
「……動いた?」
ユウトは、頬をかすめた空気の流れに気づいた。
それは最初、勘違いかと思うほどかすかな風だった。
けれど帆がふくらみ、ヨットがゆっくりと動き出したとき、確信に変わった。
「風だ……!」
声を上げたのはユウトだけじゃなかった。
港全体がざわめき、歓声がわき起こった。
町のスピーカーが「予定通りスタートします」と告げ、少年たちは一斉に舵を取り始めた。
海が、動いた。
空が、応えた。
ユウトは静かに、舵を握る手に力を込めた。
(ありがとう)
口には出さなかったけれど、その思いは帆を伝って、空へと昇っていった。
* * *
「……ったく、真面目じゃないんだから」
ナギは雲の影に身を戻しながら、少しだけ肩をすくめた。
誰か一人のためじゃない願いに、なぜ応えたのか。
わからない。
けれど、嫌な感じはしなかった。
「ま、たまには……ね」
そう言って、ナギは高空へと身を翻す。
海辺には、今日だけの風が吹いていた。
それは、誰のものでもない風だった。
けれど確かに――誰かの願いが、そこに咲いていた。