part9
とんだ赤っ恥をかいた。
あそこまでされておめおめ逃げ帰っていいとは教えられていない。
無論こちら側にも非はある。どうしたって仕掛けたのはこちら側であるのだから、やり返されたって文句は言えない。
玖音も理屈ではわかっている。理性はこちら側が悪いのだと訴えかけている。けれどそんなもので抑えられないほど、むかっ腹が立っているのだ。
常日頃から理屈でも物事を考える。腹ではなく頭で行動する玖音にとっては珍しいことだ。
玖音が怒っているのはほとんど八つ当たりである。
その怒りの理由は羞恥心であることは明白で、実際葵に対して怒っているわけではない。
葵の甘美な誘惑に持ち前の理屈が使い物にならず、生娘のように取り乱した自分自身と、葵にいいように負かされた事実と、そこで大した反撃も出来ずに逃げ帰ったことによる羞恥心や屈辱感、敗北感といったような感情がブレンドされたそれに支配されている。
だからこそ、その怒りをぶつける矛先が見当たらず、珍しく感情を支配できずにいるのだ。
両手で顔の原型をとどめられるように下へ追いやる。焦りのためかいつもの半分ほどの時間で体を拭き終わり、着替えてしまった。
女湯の暖簾を潜り抜ける。その足取りは地団太を踏んでいて乱雑なものだった。
持ってきた飲料の中にコーヒー牛乳があったはず、それでも飲んで心を落ち着けようと広間へと向かう。
その前に少し葵を待ってみようと五分ほど待ったが一向に出てこなかった。
それは葵が今ものうのうと湯に入っていることの証明であることから、今も狂ったように鳴り響く心臓を無理やり押さえつけ、灰色の脳細胞を先の失態の出来のいい言い訳を考えるためだけにフル稼働している自分自身と比べて玖音はなお一層みじめな気分になった。
玖音は腰に手を当て、ぐびっとコーヒー牛乳を飲み干す。
全くお手本のような飲みっぷりである。
途中伊藤に「いい飲みっぷり」といわれたが、なんら気にすることはない。
玖音はコーヒー牛乳というか牛乳が割と好きな方で、毎日とはいかなくてもそれなりに頻繁に飲む方である。ちなみに魚も好きである。これは関係ないかもしれないがマシュマロも好きである。
つまり何が言いたいかといいうと、玖音の中ではそれらを食べて背が伸びるなどまるっきりの都市伝説、嘘っぱちであるということだ。理屈至上主義の佐原玖音がどんな科学的根拠をしめされても頑として首を縦に振らないものの数少ない一つである。
もっとも、それらを選り好んで食べていなければもっと身長が低かったという説があるのだが、それは悪魔の証明である。
「ご機嫌なようで」
相変わらずの皮肉家で安心である。
「相変わらず皮肉が好きですね」
「別に皮肉ってわけじゃあないけどね」
真昼はふふと袖で口許を隠し上品に笑う。笑う動作一つとってみても品がある。
目の奥からせせら笑っている。これは玖音をどう料理してやろうかとよからぬ企みを考えている表情であることがわかるくらいには玖音は真昼との付き合い方がわかっていた。
「本当に見ていて飽きないわ」
「飽きない」その言葉は真昼にとっての最大の称賛である。いかにも上から目線の真昼らしい褒め言葉である。しかし、さすがにその真意がわかる程の深い付き合いでは玖音と真昼はまだない。
「真昼お嬢様に楽しんでいただけたようで何よりですよーと」
「悪かったからそう拗ねないでよ。何があったの。相談しなさいな」
「たとえ世界にあなた一人しかいなくてもあなたに相談することはないですね。面白おかしく馬鹿にされるのが分かっているのに誰が口を割りますか。真昼だって腹をすかせた虎が閉じ込められている檻に進んで入る真似はしないでしょう」
「よくわかっているじゃあない」
真昼も葵もそろって馬鹿にして。覚えておけよ。いつか絶対にやり返して見せる。
そう思って復讐計画をぼんやりと思い浮かべている時だった。瞬間視界が真っ白になる。肌触りからしてタオルか何かをかぶせられたようだ。
「全然髪が乾いてないじゃあないか」
声の主は葵であった。どうやら風呂からあがってきたらしい。
葵が半ば強引に玖音の髪の湿気をぬぐう。
「やめてください。子供じゃあないんですから」
玖音が不満の声を漏らす。
「そうはいっても濡れているんだから仕方ないじゃあないか。風邪でも引いたらせっかくの旅行が台無しだろ」
「そうだとしても自分で拭けます。子供じゃあないんだから」
玖音はそういい、葵からタオルを奪う。ついでに舌も出して見せた。
タオルから放たれる葵の香に包まれる。どこか安心させる香だった。
「さっきのことを怒ってるのか。悪ふざけが過ぎたと僕も反省してる。互いに手打ちにしようよ」
あっけなく、葵から謝罪の言葉を引き出すことに成功した玖音だったが、しかしそう簡単に謝られてますます苛立ちを覚える。何事もなかったようにされたらされたらでむかついただろうに、自身でも葵に何を求めているのか理解できない玖音だった。では理解できないなら理解できないなりに今後のメリットについて考えるのが当然だろう。
「いいえ、ダメです。ダメージが違います」
「ええ……。仕方ないな。じゃあ県境に新しくできる遊園地に行こう。もちろん入園料も食費も土産代まで何から何まで僕のおごりだ」
その代替案は実に魅力的だ。
「いいでしょう。それで水に流してあげます。それとお金は負担しなくていいですよ。ソフトクリーム一つでもおごっていただければ」
「オーケー。決まりだね。約束だ」
「ええ、約束です」
そういい、二人は昔の子供時代を思い出させるような指切りをした。
「私も行くわ。ちょうどその遊園地私が出資している場所なのよね」
全くどこに行っても望月家の息がかかっている場所なのか。真昼が「私」といったのだが、それは言葉の綾で望月家という意味なのか。それともそのままの意味なのか。
馬鹿らしくなった玖音は聞くことをしなかった。
それからしばらく団欒は続き、十二時も回ろうかという頃にはみんな示し合わせたように割り振られた部屋へと戻り就寝をした。
しかしその数時間後にはその安らかな眠りも壊されてしまうのだった。